2010年に現代日本児童文学が終焉したという発言が、何人かの研究者からされました。
例えば、佐藤宗子は、2012年1月の日本児童文学者協会評論研究会の特別例会のレポートの中で、現代児童文学の終焉を象徴する現象として、後藤竜二の死、伊藤英治の死、理論社の「倒産」、大阪府立国際児童文学館の廃館をあげています。
また、現在の児童文学の傾向として、「作家」主体意識の薄れ、「変革の意志」の変質・変容、「書籍」に対する期待の変化を指摘しています。
宮川健郎も、「日本児童文学」2011年1・2月号の「追悼・後藤竜二」に、「後藤竜二、あるいは現代児童文学のうしろ姿」という作品論を寄せて、その中で、「後藤竜二の文学は現代児童文学の理想形だったのではないか」と述べています。
「後藤竜二の作品は、子どもの視点で、子どもの言葉で描かれる(注:「子ども」への関心(児童文学が描き、読者とする「子ども」を生き生きとしたものとして、つかまえ直す))。そして、独自の魅力あふれる散文によって(注:「散文性」の獲得(童話の詩的性格を克服する))、歴史や現在の状況のなかで、「変革」の可能性をさぐろうとしつづけた(注:「変革」への意思(社会変革につながる児童文学をめざす))。それなら、私たちが見送ろうとしているのは、現代児童文学のうしろ姿なのではないか。」
引用が長くなりましたが、宮川もまた2010年を現代日本児童文学の完全な終焉ととらえているようです。
両者に共通しているのは、「現代児童文学」というタームを、「現代日本児童文学」という意味で使っていることです。
海外ではどうなのでしょうか。それについては何も述べられていません。
両者に限らず、現在の日本児童文学には、グローバルな視点が欠けているように思えてなりません(「ハリー・ポッター」のような売れ筋の作品は、商品として盛んに出版されていますが)。
かつての石井桃子や安藤美紀夫のような、研究者で翻訳家で実作者(石井の場合はさらに編集者で児童文庫運動の活動家でもありましたし、安藤は後進の児童文学者たちの教育者でもありました)といった複眼的に児童文学をながめることのできる人材は、仕事の専門性が細分化されだ現代に求めるのは無理なのでしょうか。
「現代日本児童文学の終焉」というテーマは、私の大きな関心事のひとつです。
ただ、皮膚感覚としては、1973年4月から1976年9月ごろまで、集中的に内外の現代児童文学や児童文学論を読んでいた時期には、まったく終焉の予感はありませんでした。
それが、就職、結婚を経て、1984年2月の日本児童文学者協会の合宿研究会に参加して児童文学活動を再開するために、課題図書として提示された80年代前半の数十冊の日本児童文学の作品群を、1984年の1月から集中的に読んだ時にはかなり違和感を感じたことを覚えています。
合宿研究会で再会した児童文学評論家の大岡秀明に「7年のブランクがありますが何か変わりましたか?」とたずねたら、彼は「何も変わらないよ」と言っていましたが、実際にはその間に大きな変曲点があったのでしょう。
合宿でたまたま同室だった安藤美紀夫と古田足日に相談して、当面は児童文学の研究ではなく創作と作品評をすることに決めて、安藤に紹介してもらった同人誌に参加するようになってからも、その違和感は続いていました。
それは、自分の作品を、同人誌だけでなく、「日本児童文学」に発表したり、単行本で出版するようになって、編集者などと話すようになってからますます大きくなっていきました。
この違和感(現代児童文学の変質あるいはすでに終焉していた)は、たぶん日本社会のバブル化や「現代日本児童文学」の商品化と関係があるように今は考えています。
小熊英二編の「平成史」によると、戦後の日本における大きな変曲点は1955年(55年度体制の始まりと高度成長の始まり)と1991年(バブルの崩壊と55年体制の終焉)とのことです。
間の1973年からオイルショックやドルショックなどの小さな変曲点がいくつかありましたが、日本経済はそれらを克服し80年代のバブル期を迎えます。
狭義の現代児童文学(広義の意味はもちろん「今現在の児童文学」ですが、以下では狭義の意味で使っています)は、別の記事に書いたように1953年ごろからそれまでの近代童話を批判する形で議論が進められ、1959年に佐藤さとるの「だれも知らない小さな国」やいぬいとみこの「木かげの家の小人たち」といった長編ファンタジーに結実しました。
そして、1970年代の終わりごろに変曲点があって、今までの定義(散文性の獲得、子ども(読者でもあり登場人物でもある)の獲得、変革の意志(いわゆる成長物語も含めて)、おもしろくはっきりわかりやすいなど)に当てはまらない現代児童文学が登場します。
それらを経済的に支えたのが1980年代には児童文学でも迎えた出版バブルで、実に多様な作品群を生みだしました。
しかし、これも一般社会と同様に1991年のバブル崩壊とともに、終焉を迎えます。
私は、バブル期の終わりごろの1989年と1990年に単行本を出版していますが、それらのような普通の男の子を主人公にしたマイナーな作品は、バブル崩壊後であったならばとても出版されなかったでしょう。
現に、私の属していた同人誌の同人の一人が、バブル崩壊後の1992年に発表した少年小説は非常に優れていましたが、中学生の剣道部の少年群像を描いたもの(今出版されているようなお手軽スポーツものではありません)だったので、いくつかの出版社から引き合いがあったものの、結局出版されませんでした。
これがバブル崩壊以前だった二年前だったら確実に出版されていたであろうことは、自分の本との出来の比較からいって、確実だったと思います。
今後も1959年から1991年ごろの日本の社会状況をもっと検討することによって、児童文学を取り巻く経済状況などを視野に入れて、現代児童文学の、誕生、繁栄、衰退について、考察を重ねていきたいと思っています。
日本児童文学 2011年 02月号 [雑誌] | |
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小峰書店 |
児童文学に興味関心を持つ一人です。
現代児童文学の「終焉」とはとても重く、ペシミスティックな響きを感じる言葉です。
現代日本児童文学って「最後のユニコーン」だったのか…なんて思ってしまいました。佐藤宗子さん、宮川健郎さんには先日お目にかかる機会があったので、これを事前に知っていれば真意をお聞きしたんですが…
後藤竜二の死、伊藤英治の死、理論社の「倒産」、大阪府立国際児童文学館の廃館…たしかにこれらは象徴的な出来事かもしれません。が、これら外的要因をもって「終焉」と呼ぶのは、ちょっと違和感があります。
1959年を持って現代児童文学が「スタート」したとか、1980年、「ぼくらは海へ」をもって変質したとか…「日本児童文学」の論調は、昔から「時代を区切る」ことと、イデオロギーに当てはめて(「子どもの論理・変革の意思」という鋼鉄の物差し)作品を「斬る」傾向が強く、私は違和感を持っていました。
その一方で「可能性」や「発見」「表現そのものの面白さ・新しさ」をあまり語らず、検討してこなかった。
福島原発事故「収束」宣言のように、速すぎる「区切り」は、忘却の加速を呼び込むだけのような気がします。まさか、関係者自身が終焉を願っているわけでもあるまいし、なぜこういう言い方をするのかな。「文学」という営みがそうも簡単に終焉すると考えること自体、寂しい考えのような気もするのですが…
児童文学に興味関心を持つ一人です。
現代児童文学の「終焉」とはとても重く、ペシミスティックな響きを感じる言葉です。
現代日本児童文学って「最後のユニコーン」だったのか…なんて思ってしまいました。佐藤宗子さん、宮川健郎さんには先日お目にかかる機会があったので、これを事前に知っていれば真意をお聞きしたんですが…
後藤竜二の死、伊藤英治の死、理論社の「倒産」、大阪府立国際児童文学館の廃館…たしかにこれらは象徴的な出来事かもしれません。が、これら外的要因をもって「終焉」と呼ぶのは、ちょっと違和感があります。
1959年を持って現代児童文学が「スタート」したとか、1980年、「ぼくらは海へ」をもって変質したとか…「日本児童文学」の論調は、昔から「時代を区切る」ことと、イデオロギーに当てはめて(「子どもの論理・変革の意思」という鋼鉄の物差し)作品を「斬る」傾向が強く、私は違和感を持っていました。
その一方で「可能性」や「発見」「表現そのものの面白さ・新しさ」をあまり語らず、検討してこなかった。
福島原発事故「収束」宣言のように、速すぎる「区切り」は、忘却の加速を呼び込むだけのような気がします。まさか、関係者自身が終焉を願っているわけでもあるまいし、なぜこういう言い方をするのかな。「文学」という営みがそうも簡単に終焉すると考えること自体、寂しい考えのような気もするのですが…