1990年に行われた「日中児童文学シンポジウム」で、1959年にスタートしたといわれる現代児童文学の三十年を概観するという課題で講演した内容を、その後の補記も含めて翌年発行された報告書に収められた論文です。
大きなテーマで時間も限られているため、講演の題材は理念にしぼられていますが、なぜか「戦争児童文学」についてはわざわざ長い時間を割いています。
おそらく「日中児童文学シンポジウム」なので、「戦争児童文学」について触れることが要請されていたのでしょう。
そのため、論文の構成としては、かなりいびつなものになっています。
全体は四部構成になっています。
(一)では、現代児童文学の出発期の理念について述べています。
ここでは、「少年文学宣言」と「子どもと文学」を中心に、先行論文を引用しつつ手際よくまとめています。
ここで引用をまとめた部分は、著者自身も述べているように大筋において共通理解になっているので特に目新しい点はありません。
以下に、著者の言い方でまとめているので引用します。
「私は、この時期に、<成長>への期待と、<伝達>への信頼とが確立した、と考える。」
ここで、著者は<成長>という言葉に、作品内の主人公の成長、子ども読者の成長、そして、さらに社会の成長まで含めた意味を持たしています。
また、<伝達>の信頼とは、本が物理的に子ども読者に手渡されるだけでなく、作者の意図のもとに書かれた作品を読者が受けとめるものという方向で捉え、さらに、「個人」が集まり、何らかの主張をしていくとき、「社会」をつきうごかせるものだと想定されていたと、著者は述べています。
さらに、「こうしたいくつかの関係がむすばれる前提として、「主体性」が重視されていた」と、付け加えています。
この論文の注でこの時期の主な作品にあげられた作品リストを見てみると、おおむね著者の意見は肯定できます。
しかし、その後で、いつも冷静な著者には珍しくやや気負いを見せながら、以下のように断定しています。
「<伝達>に重要なことばは、「童話」伝統批判にみられるように、曖昧さを払底されるべきものとみなされ、だからこそ「筋」をつたえうる道具となった。そして、ことばをもって、「筋」をもってつたえられるべき意味や価値は、誰にとっても同じように伝わる、と信じられた。一つの作品を読めば誰もが皆、同じ感想を持ち、同じ意味をそこに見出すとともに、その作品への評価も同じになる ― 端的にいうなら、そういった幻想が<伝達>に寄せられたのである。」
この引用部分の前半部分は肯定できるものの、後半部分は一部の社会主義的リアリズムの作品にしかあてはまらないと思います。
例えば、著者があげた作品リストの中に入っている「誰も知らない小さな国」の著者の佐藤さとるは、いろいろなところで、「自分の作品はわかる人だけにわかればいい」と断言しています。
つまり、1970年代に私が仲間内で使っていた言葉でいえば、「読者が作品を選ぶのでなく、作品が読者を選ぶ」作品(代表例は、ケネス・グレアムの「楽しい川辺」)なのです。
(二)では、「現代児童文学」の変遷について、(一)で作者が定義したパラダイム(<成長>への期待と、<伝達>への信頼)の崩壊について述べています。
ここで、著者は、その崩壊の原因として、「大人」と「子ども」の関係が崩壊したからだと真っ先に述べ、その理由として、1980年ごろにフィリップ・アリエスの「<子供>の誕生」が邦訳され、柄谷行人の「児童の発見」が発表され、「子ども」をめぐる論議の発端が、いわゆる児童文学・児童文化の外で、ひらかれたからであると主張しています。
これは明らかな間違いだと思います。
アリエスと柄谷の主張を一言でいうと、「子どもあるいは児童」という概念は、人類にとって生得の物ではなく、近代(フランスの場合は1789年のフランス革命後、日本では明治以降)になって発見されたものだということです。
それはそれで否定するものでありませんが、それと児童文学作家の創作活動とはほとんど無縁だと思います。
私は1970年代から現在に至るまで多くの児童文学作家と交流がありますが、彼らのうちでアリエスや柄谷の著作を読んでいると思える人がほとんどいないことは、自信を持って言えます。
それでは、著者の定義したパラダイムの崩壊は、どうして起こったのでしょうか。
理由として私が考えているものは、大きく分けて二つあります。
一つは、六十年安保と七十年安保の挫折や、資本主義体制下での高度経済成長と共産主義国家の行き詰まりにより、現代児童文学が目指した社会の変革後のあるべき姿の提示が困難になったことがあげられます。
これは、先ほど述べた社会主義的リアリズムの作品群を生み出していた作家たちに、特にあてはまります。
もう一つは、児童文学の作品が商業主義に取り込まれたことがあげられます。
現代児童文学がビジネスとして成り立つことが明らかになり、現代児童文学にも職業作家(最初の職業作家としての成功者は、皮肉にも社会主義的リアリズムの記念碑的作品とされている「赤毛のポチ」を書いた山中恒でしょう)が誕生します。
この児童文学のビジネスとしての成功は、一時的(1970年代から1980年代まで)には、著者があげているような多様な作品を生み出す原動力にもなりました。
例えば、著者があげている皿海達哉や森忠明のようなマイナーな登場人物を主人公にした作品でも、そのころはビジネスとして成り立っていたのです(私自身も1980年代の終わりごろに、彼らの末流のような作品を商業出版した経験があるので、そのころの児童文学の出版状況のダイナミックレンジの広さは実感としてわかります)。
1990年代に入ってバブルが崩壊すると、彼らのような作品が出版されることはだんだん困難になっていきました(これ以降の内容は著者の講演の後のことですが、この論文集は1997年発行なのでその時にはすでに起こリ始めていたと思います)。
現在では、皿海達哉や丘修三のような優れた作家の作品ですら本にしようという出版社がなく、彼らが身銭を切って自費出版するような状況にまで悪化しています。
ますます売れ線の本ばかり出版されるようになり、特に男の子を読者対象とした本はほとんどビジネスとしては成立しなくなりました(読者はほとんど女の子なので、「本を読まない男の子なんか相手にをしている暇はない」と豪語していた著名な女性編集者もいました)。
また、少子化が進むと、若い女性(最近はアラサーやアラフォー、アラフィフ、アラカンなど高年齢の女性も)を読者対象とした「児童文学」が多く出版されるようになっていきます。
なぜ、著者は、こういった大きな流れを指摘しないのでしょうか?
もちろん、「日中児童文学シンポジウム」という制約は大きいでしょう。
でも、私は、現在の児童文学界の構造的な問題も起因しているように思います。
現代児童文学がスタートした時には、石井桃子、いぬいとみこ、古田足日、上野瞭、今江祥智、安藤美紀夫、砂田弘たちのように、創作、評論、研究、翻訳のすべてをやっている人たち(創作だけでは食べられなかったのが大きな原因でしょう)が多かったのですが、児童文学がビジネス(作家だけでなく児童文学を教える大学や専門学校の教員を含めて)として成り立ってからは、専門が細分化されてしまったようです(村中李衣のような例外はありますが)。
そのため、児童文学の評論が、ともすると創作の後追いになってしまうことが多くなっていると思います(これは、1960年代の初めから危惧されていたことですが)。
また、優れた評論が生み出されても、それがなかなか実作にいかされなくなっていると思います(端的に言うと、評論家の言うことでなく編集者の言うことを聞いて書きたいと思っている作家やその予備軍がほとんどだということです)。
(三)では、「「現代児童文学」において、<伝達>性が特に重視されたジャンル」と著者が規定している、「戦争児童文学」について論じています。
まず、「戦争児童文学」の定義について、「「反戦平和」を目的として、特にアジア太平洋戦争について描く」という狭い意味よりも、「長谷川潮が主張する「戦争」が描かれているもの全般を、戦時下の少年小説など好戦的な作品を含めていく」広義なものの方がよいとしています。
従来の現代児童文学では、戦争児童文学と言えば、「二度と戦争をおこしてはならない」、「戦争は悲惨だ」という趣旨のものが、一般的に書かれてきたとしています。
それは、現状の国語教育の弊害である「作者は何を言いたいのでしょう」という問いかけとともに、「戦争は嫌だ」とか、「二度とおこしてはならない」という子どもたちの答えを引き出し、「なぜ戦争は起こったのか」「そもそも戦争状態とはどういうことか」といった根源的な問題を考えさせない状態を作り出していると述べています。
そして、このように「戦争」を伝達するのにとどまっている「戦争児童文学」よりも、田中芳樹「銀河英雄伝説」などのようなエンターテインメントの方が、「民主主義の腐敗、経済、宗教など現実世界の紛争や問題を考えさせるきっかけになるのではないかと指摘しています。
(四)においては、「「現代児童文学」の進行と、「読書」が<中略>子どもにとって不可欠なものになったことが連動しているといってよかろう」とした上で、「読書」の教育性が強められすぎて強制も起こっている現状を指摘しています。
「パラダイムの崩壊期にある今、<中略>「読書」をしなくても生きてゆけることの中で、「読書」を選ぶ。」
最後に、こういった「読書」本来の楽しみや位置づけの見直しと、大人が果たす「媒介者」の役割のとらえ直しを提案しています。
(補記)においては、戦争児童文学が「こわい」という反応をしばしば子どもたち(特に年少の)に与えてしまい、戦争児童文学を避けるようになってしまう問題に触れています。
子どもの文学を明るいものと規定していた「現代児童文学」において、「戦争児童文学」というジャンルのありようと子ども読者の反応を総合的に検討していくことが、「現代児童文学」の根幹を問い直していくことにつながるだろうと、著者は提案しています。
全体を通して、著者が掲げた「「現代児童文学」をふり返る」というテーマは、私の最大の関心事だったので、非常に勉強になりました(著者が注にあげてくれた先行論文もすべて目を通し、アリエスや柄谷の本もこの機会に読み返しました)。
最初に述べたように、「日中児童文学シンポジウム」の報告書という制約の中での論文なので、かなりいびつなものになっているのが、返す返すも残念です。
「現代児童文学」をふりかえる (日本児童文化史叢書) | |
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