現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

砂田弘「子どもの論理・変革の意志・理想主義について」1984年4月号所収

2021-09-14 18:43:19 | 参考文献

 「現代児童文学の方法」という特集の中の論文です。
 1950年代に始まった「現代児童文学(ここでは狭義の意味で使っています)」で、約二十年にわたって共通の理念として確立されてきた「子どもの論理・変革の意志・理想主義」が、1980年代に入って曲がり角を迎えたことを指摘しています。
 砂田の定義では、「子どもの論理・変革の意志・理想主義」は以下のようになります。
「”子どもの論理”については「トムソーヤーの冒険」や「ちびくろさんぼ」(留保つきでだが)や『くまの子ウーフ」を例に引くことで、”変革の意志”については「子どもの現実を正さなければならぬ」と主張することで、”理想主義”については「子どもは無限の可能性をひめる存在」と規定することで、ぼくらは証明ずみの公式を解き明かすように、それらを論じることができるし、事実、ぼく自身それをくり返してきた。ぼくらが獲得したその共通理解は、普遍性を持っており、その意味では、児童文学をつくりだす上においての原理・原則であるといってよい」
 砂田は、それぞれの理念の確立の過程を説明した上で、それらが1960年代半ばから次第に色あせたものになりはじめたとしています。
 そして、1980年代を迎えて、以下のように述べています。
「八〇年代のいま、ぼくらにとってこの三つの理念は、劁作方法の上で不可欠なものとなっている。だがぼく自身を含めて多くの書き手の場合、それらは六〇年代半ばまでに獲得されたものの踏襲か、変形ないし応用にとどまっている。
 辛辣な言い方をすれば、受験や崩壊家庭や環境破壊などの現実の問題に挑んだ作品に、“変革の意志”の残り火を見ることができる。もはや未来を確信することが困難な時代となったにもかかわらず、その問題との対決は避けて、子どもへの信頼にもとづく幻想のユートビアを現実に対置させ、階級対立のいわば変形である大人対子ども、管理・支配する者とされる者という図式の中で”変革”を描こうとするパターンがそれである。そして、耆き手が大人のひとりとして、管理・支配される側に組みこまれている事実に気づくことは稀である。
 いっぼう”子どもの論理”は、もっぱら『子どもと文学』が主張した子どもの特質にその根拠を求めるようになり、隔離された”子どもの時間”の中で、創作技術の追求に傾斜していく。ただし、それは『子どもと文学』の貴任ではない。ぼくらが”子どもの論理”そのものの追求を放棄したまま、児意文学の商品化の流れに身を任せたことの結果である。そしてここでも、大半の害き手たちは、”子どもの時間”が圧縮されつつあることに気づいていない。
 ”理想主義”に関しては、ぼく自身がまさにそうなのだが、ぼくらはいまなお、マーク・トーウェインに固執しつづけているといってよい。これからも固執しつづけたいのだが、しかし、ケストナーにシラけ、『トム・ソーヤーの冒険」でさえ、遠きよき日の物語としか感じない子どもの少なくない現実を前にするとき、ぼくらは深いため息をつくほかない。」
 以上のように、「子どもの論理・変革の意志・理想主義」が1980年代にはすでに完全に破たんしていることを砂田は認識しているにもかかわらず、以下のように新しい理念の創出に向わずに、モラトリアム(猶予期間)を続けることに甘んじています。
「こうして見ると、”変革の意志””子どもの論理””理想主義”の理念は、六十年代半ばを境に、長いモラトリアムにはいったような気がする。三つの理念がぼくらにとって不可欠なものであることを前提にするとき、今日の児童文学の混迷や停滞は、このモラトリアムに起因しているとぼくには思われる。
 さいごに、いまいちど先の設問にもどる。では、三つの理念をよみがえらせることは可能であろうか。
 三つの理念は孤立したものではなく、相互に深い関連を持っているとぼくは考える。その中核に”変革の意志”があり、”子どもの論理”と”理想主義”がそれを補完しているととらえたい。なぜなら、”変革の意志”はぼくらが作家である以前の、ひとりの人間としての主体性にもとづく理念だからである。”子どもの論理”と”理想主義”は、それを踏まえた上での理念でなくてはならないだろう。
 とすれば、ぼくらの”変革の意志”がなぜ挫折したかを検討することで、先の設問への答が見出せるということになる。その要因としては、六〇年代におけるいわゆる革新思想の四分五裂があげられるし、科学技術の進歩への信頼がゆらいだことも、ぼくらをたじろがせた。しかし、それらは要因の一つにすぎない。
 その最大の要因は、ぼくらの主体性にかかわるものである。多少の差はあれ、六〇年代半ばから高度成長を享受することになったぼくらに、”変革の意志”は、状況に応じながら持続したのかどうか。ぼくには、持続したと言い切る自信はない。二十年一日の如く、ぼくらは「子どもの現実を正さねばならぬ」とくり返すにとどまり、変革されるべき対象として、自分自身をも視野におさめることを拒みつづけている。うれうべきモラトリアムの時代はなおもつづくのであろうか。」
 このような八十年代の砂田の認識は、おそらく正しかったと思われます。
 しかし、それからさらに三十年以上が経過し、すでに「子どもの論理・変革の意志・理想主義」といった理念さえ、児童文学から失われて久しくなっています。
 その期間、「現代児童文学者」たちは古い理念に固執して、新しい理念を創造することを怠ってきました。
 それは、かつて既存の権威であった「近代童話」を攻撃した「現代児童文学者」たちが、それぞれ新しい権威(有名作家、大学教授、日本児童文学者協会や日本児童文学学会の幹部など)になり、その既得権益にしがみついたからだと思われます。
 また、他の記事に書きましたが、この論文が書かれたころ、現状を憂えてスタートした同人誌がいくつかありましたが、多くの書き手を輩出したものの、評論の弱さもあって、彼らも新しい理念を生み出すことができずに、商業主義の波に飲み込まれました。
 理念なき現代の(ここでは広義の意味で使っています)児童文学の世界に、新しい理念は生まれるのでしょうか?
 現状では、そういった議論は、日本児童文学者協会でも、日本児童文学学会でも、各同人誌でも、全く行われていませんし、これから生みだされることには私は懐疑的です。
 と言って、嘆いていても始まらないので、試みに以下に私論を述べたいと思います。
「子どもの論理・変革の意志・理想主義」にならって、三つ挙げてみると、「弱者の救済・若い世代への支持・現実主義」となります。
 まず、「弱者の救済」は、世代間格差、さらに同世代の中でも格差が広がりが固定化されている現状(朝井リョウの小説で描かれているような教室カースト制度など)では、かつて1980年代の森忠明の作品などで描かれていた「弱者への視線」や「弱者への共感」では不十分で、直接的に弱者が救済されるような文学の創出が望まれます。
 次に、「若い世代への支持」は、18、19世紀に庇護される存在として発見された「子ども(若者も含めて)」が、再び大人たちによって搾取されるようになった現状(政府により人為的につくられた世代間格差、若年層を食い物にするブラック企業、教育機関など)を打破するためには、若い世代の立場を代弁して彼らを強く支持する文学が生まれることが必要です。
 最後に、「現実主義」は、過酷な現実に目を逸らさずそれを糾弾する文学の確立を一歩一歩進めるためには、「理想主義」の名を借りた安易な現実逃避的な作品を廃し、現実に生きる子どもたち(若者も含め)の姿を描いた作品が求められています。
 また、このような文学は既存の児童文学の流通経路では子どもの手に届かないので、ネットを中心とした新しい媒体を開拓していかねばならないでしょう。

日本児童文学 2013年 04月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
小峰書店

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 砂田弘「変革の文学から自衛... | トップ | 続・夕陽のガンマン 地獄の決闘 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

参考文献」カテゴリの最新記事