「現代日本児童文学論集5」にも収録されている幼年童話の問題点について指摘した論文で、ここで四十年近く前にならされた警鐘は、現在ますます市場に氾濫している安直な幼年童話によくあてはまります。
この論文で指摘された問題は、大きく分けて二つあります。
一つは、幼年童話の字の大きさ(ないしは枚数の少なさ)の問題です。
安藤は、当時の幼年童話の問題点として、活字が大きすぎて字数が少ないということをあげています。
安藤は、本来幼年童話は字を覚えるための教育的なものではなく、また枚数にも一定の長さが必要だと、「物語絵本」を例にあげて以下のように述べています。
「その時、まず考えられることは、長編の構想である。物語絵本は、そこに文字があろうとなかろうと、少なくとも二十場面前後の<絵になる場面>が必要なことはいうまでもない。そして、<絵になる場面>を二十近く、あるいはそれ以上用意できる物語といえば、いきおい、起承転結のはっきりした、ある種の山場を伴う物語にならざるを得ない。たとえそれが<行って帰る>といった一見単純な物語であっても、である。」
そして、安藤は、短編構想の「幼年童話」については以下のように否定的です。
「くっきりと一つの場面を鮮明に描ききる短編の手法は、幼年期の子ども読者には、おそらくあまりわかりのいいものとはならないであろう。」
この考え方は、児童文学全体における安藤の考え方に直結しているものです。
「さらに、児童文学がいわゆる文学と異なる大きな特徴の一つに、行動と対話がある。要するに、読み手あるいは聞き手が子どもである場合、登場人物の行動と対話がストーリ-を運ぶ基本的要件なのである。(これは安藤のかねてからの持論であり、この論文が発表された直後の1984年2月に熱海で行われた日本児童文学者協会の合宿研究会でも非常に強調していました。私はこの合宿後に児童文学の創作を始めたのですが、私の創作理論はこの安藤の発言に大きく影響を受けました。)相手の年齢が低ければ低いほど、そのことの意味は大きくなってくる。そして、物語る絵の助けなしに、ストーリーを完結しようとすれば、十分な準備とふさわしい枚数を用意しなければならないはずである。
今、一般に幼年童話と呼びならわせているもののほとんどは、そうした準備なしに書かれているように思われる。安直なファンタジーの氾濫は、そのことを示しているのではないか。だとすれば、それは退廃以外の何物でもない。」
安藤の論文が書かれてからすでに四十年近くがたっていますが、状況はますます悪化していて、子どもたちの読解力の低下にも伴って、幼年童話にとどまらず児童文学全体にこの「退廃」は広がっているといえます。
安藤が指摘した二つ目の問題は、「幼年文学」における欧米の言語にない日本語の特殊性についてです。
この特殊性は、たんに幼年向けの単語という問題だけでなく、「幼年童話」の幼い子どもの話し方を擬したような独特の語り口も含まれています。
これに関しては、安藤はその使用の是非には言及していません。
ただ、日本の「幼年童話」にはそれらの作品でしか使われない用語や語り口があると、指摘しているだけです。
しかし、この「幼年童話」の用語や語り口についてはさらに検討を加える必要があり、単に幼い子どもの話し方を摸すればいいわけではなく、文章としてどう表現するかをよく吟味しなければならないと思われます。
これは、日本の児童文学全体の用語や語り口の研究にまで広げて考える必要があります。
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