現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

まだ結婚できない男

2020-06-14 10:08:59 | テレビドラマ
 53歳の独身の建築士を主人公にした恋愛コメディです。
 主人公を演じる阿部寛のコミカルな演技(「テルマエ・ロマエ」(その記事を参照してください)と、吉田羊や稲盛いずみといったこれも独身(一人はバツイチですが)の美女たちとの軽妙な掛け合いが売りなのですが、現在の非婚化(特に男性)の状況をある意味的確に描いていて興味深いです。
 このドラマは、2006年に放送された「結婚できない男」の続編なのですが、13年たって、その時は40歳の非婚男性が問題視されていたのに、現在では53歳でもリアリティが感じられる点にこの問題の深刻さがあります。
 確かに、主人公は、高収入、高学歴、高身長という、かつての結婚相手としての理想の男性像(いわゆる「三高」)ですが、理屈っぽくてひねくれていて、現在では結婚相手としてはもっとも敬遠されるタイプでしょう。
 しかし、その一方で、自宅は自分の設計事務所に近い都内の広いマンションで、趣味のクラシック音楽を自分で指揮のまねをしながら大音量で楽しみ、仕事帰りにはスポーツクラブに通い、休みの日には映画を見に行き、日常品はいつでもコンビニで簡単に買え、たまにはいろいろな高級料理を自作したりして、独身生活をエンジョイしている姿を見ると、わざわざ結婚する理由は全く見当たりません。
 まあ、こうした恵まれた五十代や四十代の独身男性はまれでしょうが、一方でこうした趣味生活にあこがれている三十代や二十代の予備軍はいっぱいいることでしょう。

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トレインスポッティング

2020-06-13 20:43:05 | 映画
 1996年制作のイギリス映画です。
 スコットランドの地方都市を舞台に、ヘロイン中毒の若者と、彼以上にいかれた仲間たちを、斬新な映像と音楽で描いた作品です。
 全編を通して、麻薬中毒、アルコール中毒、窃盗、セックス、喧嘩、麻薬取り引き、薬物中毒死、ネグレクトによる赤ん坊の死など、ショッキングなシーンの連続なのですが、深刻ぶらずにユーモラスに描いているので、客観的には悲惨極まりない状況なのですが、最後まで興味深く見ることができます。
 主人公は何度か麻薬を止めようとしますが、禁断症状だけでなく、仲間との腐れ縁のために、なかなか抜け出せません。
 ラストシーンで、とうとう仲間を裏切る(麻薬取り引きのお金を持ち逃げする)ことによって、麻薬生活を断ち切ろうとしますが、はたしてうまくいくでしょうか(2017年に続編が作られたのですが、未見のためコメントできません)。
 「シング・ストリート」(その記事を参照してください)は1980年代のアイルランドの不況下の状況を描いていましたが、この映画では90年代のイングランドに抑圧されているという認識を常に持つスコットランドの閉塞感がよく現されています。
 ふたつの映画の主人公たちに共通するのは、閉塞した状況を打開するためには、皮肉にも彼らを抑圧しているイングランドの首都ロンドンへ向かうことでした。
 現代の日本でも、地方の閉塞感は年々ひどくなっていて、そこに住む若い世代の人々もまた、その状況を打破するためには東京に向かわざるを得ません。
 そうした人たちを、映画でも文学でも、もっともっと描かなければならないでしょう。

トレインスポッティング(字幕版)
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ローマの休日

2020-06-13 09:07:28 | 映画
 1953年公開のアメリカ映画です。
 オードリー・ヘップバーンのデビュー作で、まさに彼女の魅力をアピールするための映画と言っても過言ではありません。
 一流の監督(ウィリアム・ワイラー)、一流の相手役(グレゴリー・ペック)、ローマでのロケーションと、彼女を売り出すためのお膳立ては全て整えられて、思惑通り(あるいは以上)に世界中で大ヒットして、映画史に残る名画として今でも度々テレビで放送されています。
 ヨーロッパのどこかの国の王女様が公務に嫌気が差して大使館を抜け出して、一日だけの文字通りの「ローマの休日」を楽しむという、まさに大人のおとぎ話です。
 相手役の新聞記者は、最初はスクープ目当て(5000ドル、今のお金の価値で言えば500万円ぐらいか)で近づいたのですが、彼女の美しさ(ヘアスタイルをロングにしてもショートにしても抜群にきれい)と無邪気な可愛らしさに惹かれて、記事にすることを辞めます。
 この映画のもう一つの特長が、ローマの観光名所(コロッセオ、スペイン階段、トレビの泉、真実の口など)案内になっていることです。
 公開されてから、すでに70年近くがたっていますが、今でも世界中からこれらの場所は観光客で溢れています。
 スペイン階段ではオードリーのようにアイスを食べて、真実の口(三越ローマにはレプリカもあります)では、グレゴリー・ペックがやったように手を食べられてしまったふりをします。
 それにしても、この映画のオードリー・ヘップバーンのなんと魅力的なこと。
 白黒映画なのに、文字通り輝いて見えます。


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最上一平「夏の写真」銀のうさぎ所収

2020-06-11 16:33:58 | 作品論
 1985年の日本児童文学者協会新人賞を受賞した短編集「銀のうさぎ」に収録されています。
 農家の人たちが、出かせぎで都会の工事現場で働き、日本の高度経済成長期を支えていたころの話です。
 主人公の小学三年生の男の子の両親も、三才の妹を連れて出かせぎに行っています。
 雪に閉ざされた留守宅を守るのは、じいちゃんとばあちゃんです。
 主人公も五才の弟の面倒をよく見ています。
 正月が近づき、両親(少なくともかあちゃんと妹)が一時帰省してくるのを、主人公と弟は文字通り指折り数えて待っています。
 そこに、主人公あてにかあちゃんから手紙が届きます。
 いつ帰ってくるのかが書かれていると思って、喜び勇んで読み始めた主人公に、手紙は意外な知らせを伝えます。
 仕事の都合で、とうちゃんだけでなく、かあちゃんも帰れなくなったのいうです。
 ショックを受けて家を飛び出した主人公を、ばあちゃんがやさしくむかえてくれます。
 その晩、並んだふとんの中で泣き出した弟を慰めようとして、主人公は一枚の写真を取り出します。
 それは、家族全員(とうちゃん、かあちゃん、じいちゃん、ばあちゃん、主人公、弟、妹の七人)が写った「夏の写真」でした。
 そして、主人公は弟を喜ばせようとして、いろいろな楽しそうなこと(そり遊び、かまくらなど)を語ります。
 ようやく泣き止んで寝入った弟の横で、自分も泣き出しそうになるのをしかりつけながら、今度こそ両親が帰ってくる春までの四か月を指折り数え始めます。
 当時(それよりも少し前かもしれません)の農村の子どもたちの置かれている状況を、作者持ち前の詩情(特に雪やそり遊びのシーン)を込めて鮮やかに描いています。
 かあちゃんからの手紙を読むシーンは、ケストナーの名作「飛ぶ教室」で主人公のマルチン・ターラーが母からの手紙(クリスマスに帰省するためのお金が工面できなかったので、そのまま寄宿舎ですごしてほしいと書いてありました)を読むシーンを彷彿とさせます。
 このような社会性を持った作品を含む無名の新人のデビュー作を短編集で出版できる当時の児童文学の出版状況は、本当に豊かだったんだなあと改めて思わせられます。
 この本を作者にもらったのは、表紙の裏の署名を見ると1984年12月23日だったので、当時一緒に参加していた同人誌の忘年会の席だったでしょう。
 帰りの電車の中でこの短編を読んで、あたりをはばからずに泣きだしてしまった(特に弟が「夏の写真」をぺろぺろなめるシーンでは声をあげて泣いてしまったかもしれません)ことを今でもはっきりと覚えています。
 今回、久しぶりに読んでみても、やっぱり涙を抑えることができませんでした。

銀のうさぎ (新日本少年少女の文学 23)
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新日本出版社
 
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槇本楠郎「花電車」講談社版少年少女世界文学全集49巻現代日本童話集所収

2020-06-11 15:11:06 | 作品論
 作者は、戦前のプロレタリア児童文学運動で、理論的にも実作的にも中心的な役割をはたした人です。
 プロレタリア児童文学は、階級闘争の一環として進められたものでであり、教化的な面があって文章芸術としての価値は相対的に重要視されていませんでした。
 しかし、それまで中産階級以上の子供たちだけを読者対象としていた児童文学を、労働者階級の子供たちにも解放した功績は、日本の児童文学史においてもっと評価されてもいいものと思っています。
この作品は、戦後に発表されたもので、教化的な面や階級闘争的なところはほとんどなく、戦前の貧しい長屋暮らしの子供たちの姿を、表通りや祝賀の花電車の華やかな様子と対比させつつも、生き生きと描き出しています。
 私は、1960年頃に足立区の千住(当時は下町というよりは、場末という言葉がぴったりの土地柄でした)で育ちましたので、当時の他の児童文学作品に出てくる子供たちよりも、この作品に出てくる子供たちの方に親近感がありました。
 当時の近所の友達の親の職業は、左官屋、大工、靴の町工場、酒屋、下駄屋などでした。
 彼らはまだ恵まれていた方で、古いアパートにすんでいた子供たちは入れ代わりが激しくてあまり親しくなれませんでした。
 私の父は教員でしたが、母方の祖父は町工場をやっていてそこで母も働いていました。
 祖父の両手は、傷だらけで機械油が黒く染み込んでいる「働き者の手」でした。
 成人しても、少しも「働き者」にならなかった自分の手を、祖父を思い出す度に恥ずかしく思っています。
 この作品で特筆すべきは、ガキ大将を中心にした数十人の子供たちが、弱い子や障害のある子や女の子たちも含めて、助け合い団結している姿が等身大で描かれていることです。
 こうした子供たちの集団は、私が幼かった1960年頃までは、少なくとも千住には存在していました。
 しかし、ちょうど私が高学年になるころに、残念ながら消滅してしまいました。
 それは、団塊の世代の時代を過ぎて子供集団が小さくなってしまったことと、教育熱が高まって学習塾が出現したことによって子供集団のリーダーになるべき世代が分断されたことが大きな理由だと思われます(私自身も小学五年生から塾へ通わせられました)。

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宮川健郎「「叙事」の方へ―ー斉藤隆介に関する18章」日本児童文学1979年2月号所収

2020-06-11 08:51:26 | 参考文献
 日本児童文学1979年2月号の「特集=斉藤隆介の世界」の中で発表された論文です。
 著者は1955年生まれなので、まだおそらく大学院生だったころの若々しい文章で書かれています。
 著者は、斉藤隆介の作品の持つ優れた抒情性に強くひかれながらも、そこに留まっていてはいけないのではないかと、以下のように指摘しています。
「「論理」を切りすてていくなかで、「情緒」なり「情念」なりをきわだたせていく、<中略>そういう作品のあり方は、かつての「近代童話(注:小川未明などに代表される抒情的な作品群のことで、現代児童文学はこれらを批判するところから出発しました。現代児童文学の始まりについてはそれらの記事を参照してください)」のあり方とほとんどへだたりをもたないのではないか。」
 そして、「「抒情」を「叙事」の方へ切りかえしていかなければならないのではないか。」と主張しています。
 ここで著者のいう「叙事」とは、古田足日が「六十年代をふりかえり七十年代を考えるおぼえ書」(「児童文学の旗」所収、その記事を参照してください)という論文の「どのようにして変革が可能になるか、というプロセスなのだ。」という主張に基づいています。
 1970年に出版された(おそらく1960年代に書かれたと思われます)古田の論文は、まだ社会主義リアリズムが破たんしていなかった時代に書かれたもので、その考え方に1970年代の終わりに著者がまだ影響を受けているのは、児童文学の世界がいつも世の中から少し遅れている傾向にあることを示しているように思えます。
 私は著者とほぼ同世代(学生時代に日本児童文学者協会の評論研究会で何度か顔を会わせています)で、1970年代半ばに学生時代をおくりましたが、そのころには、学生運動の破たんによる内ゲバを含めた新左翼のセクト間の対立に失望するとともに、日本共産党や日本社会党などの既存の左翼の考え方にも限界を感じていました。
 古田たちが主張していた現代児童文学の特徴のひとつである「変革の意志」はすでに行き詰まりを見せていて、現代児童文学の終焉はすぐそこまで来ていたのですが、そのころの著者はまだまったく気づいていなかったようです(後に、著者は現代児童文学の変曲点は1980年(児童文学研究者の石井直人の説は1978年)だとしています)。
 この論文の著者の主張とは裏腹に、1980年代になると、皿海達哉や森忠明のような新しいタイプの抒情性豊かな優れた作家たちが登場してきます。

現代児童文学の語るもの (NHKブックス)
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日本放送出版協会
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恋人たちの予感

2020-06-10 09:54:04 | 映画
 1989年公開のアメリカのロマンチック・コメディです。
 原題(When Harry Met Sally...)どおりに、ほとんど全編が、主役の男女を演じるビリー・クリスタルとメグ・ライアンの会話だけで構成されている映画です。
 ストーリーは、学生時代に互いに不快感を持って出会った二人が、12年以上もの長い紆余曲折を経て結ばれる他愛のないものですが、二人の会話がしゃれていて飽きさせません。
 1970年代後半から1980年代後半にかけての、アメリカの若い知識層の風俗や考え方を二人に凝縮して、うまく表現しています。
 こういった映画を成り立たせているのは、ビリー・クリスタルの知的な曲者ぶりと、メグ・ライアンの小生意気と無邪気が同居したような不思議な魅力のおかげでしょう。
 

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エーリヒ・ケストナー「だれがいったい子どもの本を書くか」子どもと子どもの本のために所収

2020-06-09 09:09:14 | 参考文献
 この文章が書かれた1957年のドイツにおける、児童書の作者について述べています。
 それによると、一番多いのが主婦(30パーセント以上)、次いで、教師(30パーセント以上)、残りは、医者、技術家、技師、探検家、その他に分けられ、「修業を積んだ」著述家による児童書は10パーセントだけだとしています。
 そして、プロの著述家が児童書を書かない状況をなげています。
 この状況は、かつての日本でもほとんど同じだったでしょう。
 現在では、おそらく主婦の割合がより高くなっていて、教師の割合が減っているでしょう(岡田淳や皿海達哉など、かつては教師の優れた児童書の書き手がたくさんいましたが、今は養護学校などの教師を除くと激減しています)。
 プロの著述家の割合も、現在はかなり減っているので、10パーセントを切っているかもしれません(私が属している同人誌には、休会中も含めると約三十人の会員がいますが、一応プロと呼べるのは三人しかいません)。
 なぜプロの著述家が少ないかの理由は簡単です。
 児童書の出版だけでは、食べていけないからです(詳しくは「現代児童文学者の経済学」という記事を参照してください)。
 そのため、物語作りの優れた才能を持った人材(特に男性)は、ゲーム、アニメ、マンガなどのもっとお金になる業界に流れているのです。
 この状況を打破するためには、編集者に頼らない出版、印税の見直しなどの児童書業界内での富の分配比率を見直すしか方法はありません。

子どもと子どもの本のために (同時代ライブラリー (305))
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岩波書店
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宮川健郎「「児童文学」という概念消滅保険の売り出し」現代児童文学の語るもの所収

2020-06-07 10:24:00 | 参考文献
 「ゆらぐ「成長物語」の枠組」という副題を持つ文章で、「戦後児童文学の五十年」(1996年)に掲載された「転機をむかえる児童文学」という論文をもとにしているので、この本(1996年出版)に掲載されている論文の中では、もっとも新しい文章です。
 従来の「児童文学」(著者は狭義の「現代児童文学」(定義などは他の記事を参照してください)とほぼ等価に使っています)という概念には当てはまらない作品(特に「現代児童文学」の大きな特徴であった「成長物語」ではない作品)が増えていることを、いろいろなパターンでそれぞれ代表的な作品をあげて説明しています。
1.「反=成長物語」
 森忠明「楽しい頃」「少年時代の画集」少年時代の画集(1985年)所収(その記事を参照してください)
 那須正幹「六年目のクラス会」六年目のクラス会(1984年)所収(その記事を参照してください)
 これに対して「成長物語」の例としてあげているのは、
 タウンゼント「アーノルドのはげしい夏」(1969年)
 山中恒「ぼくがぼくであること」(1969年)
 松谷みよ子「龍の子太郎」(1960年)
 今江祥智「山のむこうは青い海だった」(1960年)
 筒井頼子「はじめてのおつかい」(1976年)(その記事を参照してください)
 「反」とまでは言えないが、従来の成長物語ではない作品としてあげているのは、
 那須正幹「ぼくらは海へ」(1980年)(その記事を参照してください)
 安藤美紀夫「風の十字路」(1982年)(その記事を参照してください) 
2.遍歴物語(定義などは、児童文学研究者の石井直人の論文に関する記事を参照してください)
 寺村輝夫「ぼくは王様」(1961年)
 いとうひろし「おさるのまいにち」(1991年)(その記事を参照してください)
 他に題名だけがあげられていたのは、
 ルイス・キャロル「ふしぎの国のアリス」(1865年)
3.言葉遊びやナンセンス児童文学
 谷川俊太郎「ことばあそびうた」(1973年)
 矢玉四郎「はれときどきぶた」(1980年)
 作家としてあげられていたのは、
 小沢正
 舟崎克彦
 三田村信行
4.単線的なストーリー(「子どもと文学」に関する記事を参照してください)から逸脱するような物語
 岩瀬成子「あたしをさがして」(1987年)(その記事を参照してください)
 長谷川集平「日曜日の歌」(1981年)
5.一般文学との境界があいまい化している作品
 江國香織「デューク」つめたいよるに(1989年)所収(その記事を参照してください)
 他に題名があげられていたのは、
 灰谷健次郎「兎の眼」
 今江祥智「ぼんぼん」
 作家としてあげられていたのは、
 岩瀬成子
 川島誠
 石井睦美
6.散文性のない幼年童話
 題名をあげているだけですが、
 木村裕一・あべ弘士「あらしのよるに」(1994年)
 長崎夏海「ぴらぴら」(1994年)
 正道かほる「チカちゃん」(1994年)

 以上のような例をあげて、著者が「現代児童文学」を成立させた問題意識としている(その記事を参照してください)、以下の三つの概念がすべて失われている(カッコ内は関連する上記の分類の番号を示しています)として、「1959年にはじまった、子どもの文学のひとつの時代(「現代児童文学」のことです)が、おわろうとしているのかもしれない。」としています
1.「子ども」への関心(4、5)
2.「散文性」の獲得(6)
3.「変革」への意志(1、2、3)
 現象(作品)の説明としてはおおむねその通りだと思うのですが、例によってなぜそのような変化が生じたのかの説明がほとんどなされていません
 いつものように、アリエスや柄谷行人を持ち出して、「子ども」と言う概念の歴史性をあげていますが、他の記事で繰り返し述べたようにまったく説得力はありません。
 私見を述べれば、児童文学がビジネスとして成り立つようになった1970年代に始まった児童文学作品への商業主義の影響(那須正幹「ズッコケ三人組」シリーズに代表されるエンターテインメント系の作品の台頭など)、1980年代の児童書出版バブルによる児童文学作品の多様化(小説的な手法を取り入れた作品、一般文学への越境による読者の多様化(大人読者、特に女性読者の取り込み)と、それに伴う「児童文学」の中心読者(小学生)向け作品の空洞化による創作児童文学離れ、団塊ジュニア世代以降の少子化と1990年代の児童書出版バブルの崩壊による売れ線(エンターテインメント系の作品が中心)の作品への絞り込み、1980年代に出現した電子ゲームやカードゲームなどの子どもの読書への影響などが、「現代児童文学」終焉の理由として考えられます。
 これらの仮説を立証して、「児童文学」(「現代」という言葉はもう不要です)を立てなおすためには、いずれもマーケティング的な手法を取り入れた定量的な解析が必要なのですが、そうしたことができる人材が児童文学業界(研究者、出版社、関連団体など)には払底しているので、残念ながらまったく手付かずです。
 著者は、最後に児童文学あるいは現代児童文学自体が大人の考えた概念にすぎないのだから、子どもにはあまり関係なく、「いま、必要なのは、子どもの読書によりそって、子どもがさまざまな物語とどうつきあうか、ということを見つめていくかもしれない」として、「ただ、子どもが物語をうけとる、その現場へ近づいていこうと思うのだ」と述べて、「「児童文学」の再生にかかわる提案」をすることを先送りにしています。
 この本が出版されてから二十年以上たちますが、残念ながら著者による「「児童文学」の再生にかかわる提案」はまだ拝見していません。

  
現代児童文学の語るもの (NHKブックス)
クリエーター情報なし
日本放送出版協会


 



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トマス・ハリス「ハンニバル」

2020-06-05 15:03:23 | 参考文献
 1999年に発表された、かの有名な「人食い」ハンニバル・レクター博士を主人公にしたホラー・サスペンスです。
 作者は寡作で有名で、一作一作に非常に時間をかけて執筆しています。
 デビュー作の「ブラック・マンデー」が1975年、ハンニバル・レクター博士が初めて登場する「レッド・ドラゴン」が1981年、代表作の「羊たちの沈黙」が1988年、そして、おそらく最後の作品になると思われる「ハンニバル・ライジング」が2006年と、31年間に5作しか出版していません。
 どの作品もじっくりと調査して、精密に構成された作品なので、それだけの年数が必要なのだと思われます。
 また、すべての作品がベストセラーで映画化もされているので、経済的にも作品を量産して質を下げる愚を犯さないで済んでいるのでしょう。
 作品の出来としては「羊たちの沈黙」をピークとしてだんだん下がっているので、1940年生まれの作者の年齢を考えると、今後傑作が生みだされる期待はあまりできません。
 この作品では、「レッド・ドラゴン」で生み出され、「羊たちの沈黙」で完成した「サイコホラー」というジャンルと「プロファイリング」という捜査方法は影をひそめ、ハンニバル・レクター博士の嗜好や生活、なぜこの「人食い」の怪物が出現したかに多くの紙数がさかれ、ややもすると冗長な感じさえ受けます。
 また、アクションシーンや残酷なシーンが頻出して、心理的に怖い「サイコホラー」というよりは、スプラッター的なホラーといった趣が強くなっていて、「羊たちの沈黙」のファンとしては物足りませんでした。

ハンニバル〈上〉 (新潮文庫)
トマス ハリス
新潮社


ハンニバル〈下〉 (新潮文庫)
トマス ハリス
新潮社
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ビリー・レッツ「ビート・オブ・ハート」

2020-06-05 09:40:36 | 参考文献
 1995年に出版された著者のデビュー作です。
 といっても、すでに多くの短編を発表し、映画の脚本も手がけ、大学で創作科の教授もしているので、並の新人ではありません。
 一緒にテネシーからカリフォルニアへ向かっていた恋人に、オクラホマの片田舎の小さな町で捨てられた、妊娠七ヶ月の十七歳の少女が、そこにあったウォルマート(巨大スーパー)で出産して、いろいろな人の助けを借りて成長していく話です。
 著者の「ハートブレイク・カフェ」の記事にも書きましたが、児童文学の王道を行くようなハッピーエンドの大人のおとぎ話です。
 彼女のまわりには、彼女の成長を助け、それと同時に彼女の無邪気な明るさに癒やされていく、様々な人たちが集まってきます。
 姦淫の罪に悩む髪を青く染めたシスター、昔ながらの撮影を続けている黒人の写真屋、女の子と付き合ったことがないことを悩むネイティブ・アメリカンの少年、未婚の母親(父親の違う五人の子持ち)の看護助手、アルコール中毒の姉を世話している風変わりな図書館の司書の青年など、それぞれのキャラが十分にたっています。
 彼らの助けを得ながら、主人公の少女は、出産、子育て、仕事(ウォルマートです!)、勉強(大学で写真を学びます)、ライフワーク(写真の賞を獲得して、セミプロになります)を通じて、魅力的な若い女性に成長して、夢だった一戸建てのマイホーム(生まれてからずっとトレイラーハウスにしか住んでいませんでした)、そして生涯の伴侶まで獲得します)
 そして、彼女の不思議な魅力は、最後にはかつて彼女を捨てていった男の魂さえ救済します。

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ビリー・レッツ「ハートブレイク・カフェ」

2020-06-05 08:58:45 | 作品論
ハートブレイク・カフェ (文春文庫)
Billie Letts,松本 剛史
文藝春秋


 1998年に出版されたアメリカの作品です。
 オクラホマ州の片田舎のロードサイドにあるさびれたカフェ。
 名前は、本当は「ホンク&ホラー」なのですが、手違いで、ネオンサインにはその後に「近日開店」までくっついています。
 時代は、まだアメリカがヴェトナム戦争の傷を引きづっていた1985年。
 このカフェを舞台に、ヴェトナムでヘリコプターから落ちて下半身付随になったカフェのオーナー兼コック、家出娘に手を焼く独り暮らしでオーナーの母親代わりのウェイトレス、流れ者のネイティブ・アメリカンのカーホップ(映画「アメリカン・グラフィティ」に出てくるような、駐車場で車に乗ったまま食事をする人たちの注文を取ったり食事を運んだりする若い女性のことです)、違法移民のヴェトナム人のコック見習いといった、アメリカの抱える様々な問題に翻弄されている登場人物が、傷をなめあうようにして立ち直っていく姿を描いています。
 文字通りのハッピーエンドで、児童文学者が軽々しく使ってはいけない言葉ですが、大人のお伽噺です。
 しかし、作者のこうした暮らしの人々への愛情に満ちた眼差しと、それと表裏一体になっている社会問題への鋭い観察眼が行き届いていて、読み心地のいい作品になっています。
 作者は、「ビート・オブ・ハート」(その記事を参照してください)という56才の時に書いた作品がベストセラーになった遅咲きの書き手ですが、そのせいもあって浮わついたところがなく、じっくりと時間をかけて作品を書いているようです。
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ランペイジ 巨獣大乱闘

2020-06-04 09:23:23 | 映画
 2018年公開のアメリカの怪獣映画です。
 遺伝子操作で巨大化したゴリラ、オオカミ、ワニ(実際はいろいろな動物が合体した怪獣)が、シカゴの高層ビル群で大暴れします。
 怪獣によるビル街の派手な破壊シーンの予告編やCMで話題になりましたが、本編はそれ以上でもそれ以下でもありません。
 アーケードゲームを元に作られたせいか、人間ドラマは完全にいい加減なB級(C級?)映画です。
 こうした予告編がすごくいいのに本編はさっぱりという映画はよくあって、有名なのは「フットルース」でしょう。
 この映画からは、全米ナンバーワンのヒット曲が何曲も出て、それらのPVもすべてすごくかっこいいのですが、本編はそれらに遠く及ばないできでした。
 なお、「ランペイジ」の主役は、「ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル」(その記事を参照してください)でも活躍した、プロレスラーのザ・ロックだった俳優が演じています。
 どうやら、「気は優しくて力持ち」なマッチョとして、ハリウッドで確固たる地位を確立しているようです。

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椿三十郎

2020-06-01 15:43:55 | 映画
 1962年公開の黒澤明監督の時代劇映画です。
 前年の「用心棒」(その記事を参照してください)と同じ、三船俊郎演じる凄腕の浪人を主役にした続編です。
 黒沢作品の中ではもっとも娯楽的な映画で、お家騒動を糾弾する九人の若侍たち(加山雄三、田中邦衞、平田昭彦など)は当時の軽佻浮薄な若者そのもの(いつの時代も若者たちは年長者にそのように思われるのです)の様子ですし、悪人たちのに囚われた城代家老の奥方(当時の大女優、入江たか子)と娘(当時の若手美人女優、団令子)は信じられないほど浮世離れしていて、彼らや彼女たちが椿三十郎を困らせる様子がユーモアたっぷりに描かれています。
 主人公が三十人斬りをする有名なシーンも、まるで見事な演舞のようで血が一滴もでない健全さです。
 しかし、一転して、ラストで主人公が敵役の仲代達矢と、居合いで一騎討ちするシーンでは、ポンプを使った有名な大出血シーン(模倣作が続出しました)で、この作品が単なるユーモラスな娯楽作ではない苦い後味を残しています。

椿三十郎
黒澤明,菊島隆三,菊島隆三,小国英雄,田中友幸
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さよなら、シュウチ

2020-06-01 09:44:25 | 作品
 両手でパッパッと砂を払うと、ぼくはアスファルトの道路に耳を押し当てて横になった。
 向こうから自動車が走ってくる。4WDのバギー、オフロード専用のやつだ。
 バギーは、ぐんぐんスピードを上げて近づいてくる。
「わーっ!」
 そばにいた男の子たちが、叫び声をあげる。
 ぶつかると思った瞬間、ぼくは思わず目をつぶってしまった。
でも、バギーは鋭く左にカーブして、ぼくの頭すれすれをかすめて走り去っていく。幅広のタイヤが巻き上げた砂埃が、鼻をツーンと刺激した。
「ほーっ!」
 みんなの声が、今度は感心したようなため息に変わった。
「ミッタン、だいじょうぶかあ!」
 向こうから、修司が大声を出しながら走ってきた。手には、RC(ラジコン)のコントローラーを握りしめている。
そう、さっきのバギーはRCの模型だったのだ。
「ああ。でも、ギリギリだったぜ」
 ぼくは道路から跳ね起きると、ニッコリしながら答えた。

今度は、ぼくの番だ。愛車のサンドホッパーⅡを手に、二十メートル先のスタート地点に向かった。
 RCによる腕試し。これは、ぼくと修司がみんなの前でよくやるデモンストレーションだ。うまくいけば観衆をアッと言わせることができる。
 スタート地点に立った時、ぼくの心臓はドキドキしてきた。もし、失敗して、修司の顔や頭に激突させたら、いくら模型とはいえけがをさせてしまうかもしれない。
そう思うと、何度やってもスタート前は緊張してしまう。
 それに引き替え、目標になっている時はまったく平気だった。修司のRCの腕前に、絶対の信頼をおいているからだ。
「シュウチ、いくぞ」
 さっきの地点に横になった修司に、声をかけた。
シュウチというのは、修司の呼び名だ。ぼくたちは、お互いを「シュウチ」、「ミッタン(ぼくの名前が道隆だからだ)」と、呼び合っている。
 ぼくは、コントローラーを操作して、サンドホッパーⅡをスタートさせた。
 すぐに全速力になった。ぐんぐん修司に近づいていく。
「わあーっ!」
 また観衆から歓声があがった。
 次の瞬間、サンドホッパーⅡは、修司のだいぶ手前でカーブしてしまっていた。

 かあさんによると、修司に初めて出会ったのは、二人とも一才になる前のことだという。
 近くの公園の砂場に、双方のおかあさんにバギーに乗せられてやってきていたのだ。
 それ以来、修司とはずっと一緒だった。
 居間の壁に、ベタベタとはってあるぼくのいろいろな写真。そのほとんどに、修司も写っている。
 若葉幼稚園の入園式、運動会、遠足、雪ん子発表会、……。
 いつも、修司と一緒だった。
 年中のナデシコ組でも、年長のバラ組でも同じクラスだったから、たっぷり二年分の写真がある。
 それから、そろって若葉小学校へ。ここでも、一年の時からずっと同じクラスだった。
 入学式。運動会。遠足、学芸会、……。
 もううんざりするほど一緒の写真がある。
 スイミングスクールに入ったのも一緒。1級になって辞めたのさえ同じ時だった。
 今、ぼくたちは小学校六年生になったところだから、もう十年以上の付き合いになる。
 RCにのめり込むようになったのは、ぼくの方が一週間ほど早かった。二年前に、従兄の健太にいちゃんから、二台のRCをもらったのだ。
「ミッタン、これあげるよ。もう使わないから」
 健太にいちゃんは、照れくさそうに笑いながら言った。
「えっ?」
 ぼくは、びっくりしてしまった。これらのRCを、健太にいちゃんがどんなに大事にしていたか、よく知っていたからだ。勝手に触って、プロレス技をかけられてこっぴどく痛めつけられたこともある。
「どうして? もう使わないの?」
 ぼくは、健太にいちゃんにたずねた。
「うん。中学に入ったら、本格的にサッカーをやるんだ。毎日、夕方遅くまで練習があるし、土日も試合なんだ」
「ふーん」
 サッカーをやるからって、どうしてRCをやめてしまうのかよくわからなかった。
でも、とりあえず納得したような顔をしておいた。だって、RCをもらったのが、うれしくてたまらなかったんだもの。
 その時、ぼくもRCを持っていた。だけど、それは、健太にいちゃんのやつに比べれば、まったくチャチなオモチャみたいのだった。家の中でならなんとかなるけれど、外で走らせると、砂や障害物なんかですぐに止まってしまう。だから、今まではあまりRCに熱中していなかった。
「おにいちゃん、ありがとう」
 ぼくがいうと、健太にいちゃんはまた照れくさそうに笑っていた。
(あっ!) 
ぼくは初めて気がついた。いつもはくりくり坊主頭だった健太にいちゃんが、前髪を少し伸ばしていることに。ひたいの上のところが、ひさしのように少しとがっている。スポーツ刈りってやつだろう。それにいつのまにか、背もすごく高くなっている。もしかすると、うちのかあさんよりも大きいかもしれない。ぼくには、なんだか健太にいちゃんが見知らぬ大人になってしまったかのように、まぶしく感じられた。

 もらった二台のRCのうち一台は、一週間後に修司にあげた。ただし、古い方のやつだけど。
こういうことは、一人で遊ぶより仲間がいた方がだんぜん面白い。
「ほんとにもらっちゃって、いいの?」
 修司は、こういった時にいつも浮かべる、はにかんだような笑顔になった。こうして、ぼくも修司も本格的なRCを手に入れたってわけだ。
 すぐに、ぼくはRCに熱中するようになった。
毎月のこずかい、クリスマスプレゼント、お年玉などを、すべてRCにつぎこんだ。本体以外にも、バッテリー、チューンアップ(改造して性能を上げること)部品など、けっこうお金がかかるのだ。それに、RCの知識をつけるために雑誌や専門書も買わなければならない。そのために、コミックスやゲームソフトなどは、すべて友だちから借りるだけでがまんすることにした。
 修司も、ぼくと同様にRCに熱中するようになった。
 でも、違っていたのは、ぼくが二年間に四回も新しいRCを買ったのに、修司は二回だけだったことだ。
 高性能の新製品が出るたびに、ぼくはついついそれを買ってしまう。ところが、修司の方は、いちど手にしたRCを、徹底的にチューンアップして使い込むのだ。
 今、修司が使っているグラスブラスターは、ぼくのサンドホッパーⅡより一世代古いマシンだ。
でも、公園などで競走させてみると、どうもぼくの方が、少し分が悪かった。

 ルルルー、ルルルー、……。
「はい」
 修司のおかあさんが電話にでた。
「あの、石川ですが、シュウチいますか?」
 今週のRCの大会について、相談するつもりだった。
「あら、ミッタン。今、修司はいないのよ。今日は塾の日だから」
「えっ、塾?」
 思わずびっくりして、修司のおかあさんに聞き返してしまった。ぼくも修司も、今まで塾なんかに通ったことはなかった。
「あら、修司から聞いてない? 急に塾に通いたいって言い出して、今週から行ってるのよ。そういえば、珍しくミッタンとは一緒じゃないって、言ってたけど」
 修司のおかあさんも、意外そうな感じだった。
 でも、もっと驚かされたのはこっちの方だ。そんなこと、ぜんぜん聞いていなかった。
「そうですか、わかりました」
受話器を置いてからも、ぼくはなんだかモヤモヤした気持ちだった。
(シュウチの奴、塾へ通うなんて、どういう風の吹きまわしだろう。それに、ぼくに内緒だなんて)

 翌日、学校で会った時に、ぼくはすぐに修司にたずねた。
「シュウチ、塾に通っているんだって?」
「えっ、ああ、ちょっとね」
 修司は、少しあわてたように答えた。
「どうして、急にそんな気になったんだい?」
「うん、私立を受けようかと思っているんだ」
 修司は、さりげなさそうに答えた。
「えっ、私立だって!」
 ぼくの方は、またびっくりさせられてしまった。
ぼくたちの学校では、女子にはけっこう私立中学を受ける子もいたけれど、男子で受験するのは少数派だった。修司も、ぼくと同じように地元の公立中学にすすむのだと思っていた。
「どうしたんだよ。親に受けろって、言われたのか?」
「いや、そうじゃないんだけど」
 修司は、ちょっと困ったような表情を浮かべていた。
「じゃあ、どうしてなんだよ」
 ぼくが重ねてたずねても、とうとう最後まで、修司ははっきりした理由は答えなかった。

 それから、数日後のことだった。
その日、ぼくは自転車を飛ばして、駅前の模型店へRCのパーツを買いに行っていた。
 店を出たとき、ロータリーの向こう側の公園に修司がいることに気がついた。
(シュウチ!)
 すんでのところで、声をかけるのを思いとどまった。誰かと一緒だったからだ。
よく見ると、3組の村越香奈枝さんだった。二人は、楽しそうに何かを話している。
 ぼくは、離れたところからじっと二人をながめていた。
 しばらくして、二人は並んで公園から出てきた。
(あっ!)
 そのとき、ぼくは気づいてしまったのだ。二人が手をつないでいることを。
 その時、前から犬を連れた女の人がやって来た。二人は、パッと手を離して少し距離をおいた。
 でも、女の人が通り過ぎると、二人はまた寄り添いながら手をつないだ。
 ぼくは思わずコソコソと、また模型店の中に戻ってしまった。とても修司に声なんかかけられない。関係ないのに、なんだかぼくの方が照れてしまう。
 二人はこちらに向かって歩いてきて、駅のそばのビルまでくると、またつないでいた手を離した。そして、そのままビルの中に入っていた。
その時になって初めて、そのビルに修司が行っているという進学塾があることに気づいた。

(シュウチに彼女がいたなんて!)
 自転車をゆっくり走らせながら、ぼくはまだ驚いていた。そういえば、修司はいつもバレンタインチョコもたくさんもらっていた。クラスの男子でも、もてるほうだと思う。その点は、せいぜい隣の席の女の子から義理チョコをもらうだけのぼくとはぜんぜん違う。
 でも、付き合っている彼女がいるなんて、今までぜんぜん気がつかなかった。もしかしたら、塾に入ったのも彼女がいたからかもしれない。
(チェッ、女の子とでれでれしやがって)
 なんだか、無性に腹が立ってきた。
 家に戻ると、すぐに情報通のケンちゃんに電話した。
「なんだ、ミッタン、知らなかったのか。3組の女子の間では、もう有名な話だぜ」
 やっぱり、バレンタインデーのチョコがきっかけだったようだ。そのときに、香奈枝さんの方から告白されて、修司もOKしたらしい。
「もてる奴は、いいよなあ」
 ケンちゃんは、うらやましそうな声を出していた。
さらに、ケンちゃんの情報では、修司は彼女と同じ私立を受けるのだという。そのために、塾へ通いだしたに違いない。
(それならそうと、なんでぼくに話してくれないんだろう)
 ぼくは、まだモヤモヤした気分のまま電話をきった。

「よおっ」
 バス停のところで、先にきていた修司にいつものように声をかけた。
「やあっ」
 修司もすぐに返事をかえした。こちらもいつもと変わりはない。昨日、香奈枝さんと一緒だったところを見られたとは思っていないのだろう。ぼくの方も、二人を見たことは、修司に黙っていようと思っていた。
 修司も、ぼくと同じようなナップザックをせおっている。中には、RCやコントローラー、それに調整用の工具などがぎっしりとつまっていた。これから、二人でRCの大会に出場しにいくのだ。
 今日の大会は、あちこちで開かれている草レースとはわけがちがう。大手模型メーカーが主催している全国大会の予選だった。今日の県大会で上位に入れば、関東ブロックへ。そして、そこでも上位に入れば、東京で開かれる全国大会に出場できる。
すでに始まっている各地の大会での入賞者は、まんが雑誌に写真入りで紹介されていた。全国大会は、テレビ中継までおこなわれる予定になっている。
 会場は、ターミナル駅にあるデパートだ。家からは、バスと電車を乗り継いで一時間近くもかかる。こんな本格的な大会に参加するのは、二人とも初めてだった。
「わくわくするなあ」
 ぼくは、いささか興奮気味だった。昨日の夜は遅くまで寝付けなかった。
「うん」
 それにひきかえ、修司の様子はいつもと変わらないようだった。

 大会の会場になったデパートの屋上には、すでにたくさんの小学生たちが集まっていた。みんな、それぞれチューンアップをかさねた、じまんの愛車を手にしている。
 会場のまんなかには、すでに今日のレースの舞台になる特設コースが作られていた。
直線とカーブを組み合わせた一周五十メートルのコース。レースは、このコースを五周してあらそわれる。コースのところどころには、木やタイヤで作った障害物がおかれている。ベニヤ板のジャンプ台も二か所あった。
 ぼくと修司は、たんねんにコースを下見した。
「どうだ?」
 ぼくは、修司にきいてみた。
「ジャンプのあとに、すぐ右カーブするところがあるだろ。あそこが要注意だな」
「うん。それと、木でデコボコになってるところが、けっこうむずかしいんじゃないか?」
「そうだな。ギアはローに落としたほうがいいよ」
 ぼくたちは、会場のはじに荷物をおろすと、ウォーミングアップをはじめた。
それぞれの愛車にバッテリーを装着して、軽く走らせてみる。裏返しにして、サスペンションやハンドル、ブレーキなどをチェックする。
そうやって準備をしていると、だんだん大会への興奮が高まってきた。
 今日の大会には、ぜんぶで二百人以上も出場するらしい。一レースは四台ずつ。予選、準々決勝、準決勝、決勝と、優勝するまでには、四レースも戦わなければならない。優勝できなくても、決勝戦まですすんだ四人は、全員が関東大会に出場できる。
 しかし、決勝まで残るためには、それまでの三レースを、すべて一位でクリアしなければならないのだ。
 本部になっているテントの前には、上位入賞者に贈られるトロフィーや盾などがならべられていた。そのそばには、予選出場者の組み合わせ表もはられている。それによると、ぼくと修司は決勝まですすまないと、レースで顔をあわせることはないようだ。
「シュウチ、決勝であおうぜ」
 ぼくは、修司にVサインを送った。
「ああ、ミッタンもがんばれよ」
 修司も、にっこりしてそう答えた。

 バーン。
スターターのピストルで、四台のRCがいっせいにスタートした。ぼくのサンドホッパーⅡは、ちょっと出遅れて三番手になっている。
はじめのカーブで少しふくらんで、コースの外壁にぶつかった。
 でも、すぐにバックできりかえして、先行する二台を追っかける。ヘアピン、S字は、なんなく突破した。
 問題の木で作られたデコボコ道にさしかかる。ここも、修司のアドバイスどおりにギアをローにして、しんちょうにクリアした。
 いよいよ最初のジャンプ。サンドホッパーⅡを、いきおいよくジャンプ台へつっこませた。
着地して、すぐに右カーブ。
(しまった!)
 完全に着地する前にハンドルを切ってしまったのか、サンドホッパーⅡははげしく横転してしまった。一回転半して裏返しに。後輪だけがむなしくまわっている。
 コースぞいに立っていた係りのおにいさんが、すぐに車体をおこしてくれた。急いで再スタートさせる。さいわい、故障はしていないようだ。
 しかし、その間にもう一台ぬかれて、とうとう最下位になってしまっている。
(くそーっ!)
 ぼくはくちびるを強くかみしめると、必死に先行する三台を追いかけはじめた。

 修司のレースが始まった。
ぼくはコースの横の最前列に立って、修司の愛車、グラスブラスターを応援していた。
 けっきょく、ぼくのサンドホッパーⅡは、後半の追い上げで一台抜いたものの、残念ながら三位で予選落ちしてしまっていた。
(シュウチ、がんばれよ)
 せめて修司には、予選だけでも突破してほしかった。
 グラスブラスターは好スタートをきると、快調に二位をキープしていた。先行するグリーンのシャドーランナーとも、わずか1、2メートル差だ。
 修司はいつものように、おちついてコントロールしていた。カーブやデコボコ道では、あせらずにスピードダウンして確実にクリア。ストレートコースやジャンプ台では、一気に加速している。
 二周目のコーナーで、とうとうチャンスがきた。先行していたシャドーランナーが、カーブでふくらんで外壁に接触しスピンしてしまったのだ。
グラスブラスターは、すばやくその横をすりぬけて先頭にたった。
「やったあ、シュウチ」
 ぼくは、おもわず大声を出してしまった。
 でも、修司はニコリともせずに、グラスブラスターをコントロールしていた。

 レースは四周目に入った。いぜんとしてグラスブラスターが先頭。二位の車とは、1/4周近く差がついている。
 ジャンプ台のところで、グラスブラスターは最下位の周回おくれの車に追いついた。黄色のロードビートだ。
外にふくらんだこの車をさけて、修司はインコースからぬこうとしている。
 ほとんど同時にジャンプ。
「あーっ!」
 観客からどよめきがおこった。
 ロードビートが着地と同時にスピンして、内側へつっこんだのだ。グラスブラスターは、ロードビートと内壁の間にサンドイッチになってしまった。
 バーン。
グラスブラスターが、大きくはねあがった。そしておしりからもろに地面へ激突してしまった。
 バリーン。
大きな音がしてリアウイングがわれて、遠くにふっとんだ。
「あーああっ」
 観客の声がためいきにかわる。
 ぼくはあわてて、そのそばにかけよっていった。
すぐに係りのおにいさんが、グラスブラスターをおこしてくれた。
 ところが、なかなか再スタートできない。
 スタート地点にいる修司を見ると、必死にコントローラーを操作している。
 でも、グラスブラスターはピクリとも動かなかった。どうやらモーターのあたりで、断線でもしてしまったらしい。
 とうとう係りのおにいさんが、両腕でバッテンを作った。リタイヤのサインだ。
修司は、残念そうにうなずいている。
ぼくは係りのおにいさんから、修司のかわりにグラスブラスターを受け取った。リアウイングがかけただけでなく、シャーシにも大きくひびがはいっている。地面にぶつかったときの衝撃が、いかに大きかったかわかる。
 コントローラーを手に、すぐに修司がやってきた。表情がすっかりこわばっている。思わぬ敗戦と愛車の大破で、さすがの修司もショックをうけているらしい。
 バーン。
うしろでピストルがなった。どうやら一位の車がゴールインしたらしい。
「わーっ!」
 観客からあがった大きな歓声を背に、ぼくは修司と一緒にその場を立ち去った。

「ふーっ」
 Lサイズのコーラを半分ぐらい一気にのみほすと、ぼくは大きなためいきをついた。修司はハンバーガーを手にして、まだぼんやりしているようだった。ぼくたちは会場をはなれて、屋上のはずれにあったハンバーガーショップに入っていた。
「わーっ!」
 ここからでも、レース場の歓声がはっきりときこえる。
「ちえっ、あのロードビートのやつ、シュウチにあやまったかあ?」
「ううん」
「あとでとっつかまえて、ぶんなぐってやろうか?」
「よせよ、あいつだって、わざとやったんじゃないし」
 修司は、急に真顔になってとめた。ぼくが手の早いことは、よく知っているのだ。
「そりゃ、そうだけど、おもしろくねえなあ」
 ぼくはやけくそ気味に、ダブルバーガーにかぶりついた。
「あーあ、ついてねえなあ。まあ、おれの予選落ちは実力かもしれないけど、シュウチの方は絶対に勝てたのに」
 ダブルバーガーを食べ終わったとき、ぼくはもういちどためいきをついた。
「いや、ちがうよ」
 思いがけず、修司がハッキリした声で言った。
「えっ?」
 ぼくはおどろいて、修司の顔を見た。
「ああいう事故にあうのは、やっぱり実力がないからだよ。二位とは充分に差があったんだから、あそこで無理して周回遅れのロードビートをぬくことはなかったんだよ」
 修司はきっぱりと言った。
「うん、まあ、そうかもしれないけどさ」
 ぼくはコップに残っていた氷を口にほうりこんで、いすから立ち上がった。

「わーっ!」
 コースの方では、あいかわらず熱戦が続いている。
 でも、こちらから見ていると、もう別世界のようだ。五月の風が、汗ばんだ額に気もちがよかった。
 ずっと楽しみにしてきたRCの大会。それが、あっというまに終わってしまったのだ。なんだか、すっかり気がぬけていた。
「シュウチ、来月さあ、マミヤの大会があるけど、出てみないか」
 なんとか気をふるいおこして、修司にいってみた。
「……」
 返事がなかった。
「だからさあ、もういちど練習して、マミヤの大会に出てみようよ」
 ぼくはテーブルにもどって、もういちどいった。
「いや、おれはもうやめるよ」
 いきなり修司がポツリといった。
「えっ?」
「もうRCのレースに出るのを、やめようとおもうんだ」
「どうして、あのくらいの故障なら、シャーシをぜんぶかえなくてもなおせるよ」
「……」
「もし金がないんなら、修理代を貸してもいいぜ。こないだ、おじいちゃんのところで芝刈りのバイトをやったから」
「ううん、そんなことじゃないんだ」
「じゃあ、どうしてだよ」
 ぼくがいきおいこんでたずねても、修司はそれ以上はっきりとした理由を答えようとしなかった。

 帰りの電車の中で、ぼくたちはほとんど口をきかなかった。つり皮につかまりながら、ぼくはチラチラッと修司の横顔をながめていた。
(こいつ、みんなの前ではじをかいたからって、いやになったんじゃねえだろうな)
 もしそうなら、そんないくじなしとはこっちから絶交だ。ぼくは目玉に力をこめて、修司の横顔をにらんでやった。
 でも、修司はそんなことには少しも気づかないかのように、すずしい顔をして立っている。どう見ても、あんなことでまいってしまうような、ヤワなやつには見えない。
 と、その時、ふいにぼくは、修司がいつのまにか背がすごくのびていることに気づいた。
 つり皮につかまったぼくの腕よりも、修司の方がたっぷりと余裕があるのだ。どうやら二、三センチは、ぼくより身長が高くなっている。
 ぼくは軽いショックを受けてしまった。小さいときからずっと、ぼくの方が体は大きかったのだ。ぼくは六月生れで修司は一月生れだから、赤んぼの時にぼくが大きいのはあたりまえだ。
でも、その後もずっと少しだけリードしていた。
  ぼくの家の居間の壁には、古くなった身長計がある。ぼくの二才の誕生日に、とうさんが買ってきてくれたらしい。そして、毎年、誕生日に、ひとりむすこのぼくの身長を記入するのが、わが家の習慣になっている。
 二才の時のぼくの身長は、たった八十四センチしかなかった。去年、十一才の誕生日の時は、百五十三センチ。九年間で倍近くになったわけだ。
 五才の時からは、ぼくだけでなく同じ日の修司の身長も記録されている。修司がいつも一緒にはかりたがったからだ。その記録は、いつも二、三センチぼくより低かった。
 来月の十八日に、またぼくの誕生日がやってくる。
でも、その身長計はもう使えない。だって、目もりが百六十センチまでしかないからだ。ぼくたちの身長は、もうそれをこえてしまっていた。
 修司の横顔をもういちどながめながら、二年前に健太にいちゃんがいったことばを思い出していた。
(これ、あげるよ。もう使わないから)
 RCで遊ばなくなる日が来る。今のぼくには、まだそんなことはとても考えられなかった。
あの時、健太にいちゃんがいっていた「サッカー」のような何かを、ぼくはまだ見つけていなかった。
もしかすると、修司はぼくより一歩先に、その「何か」を見つけてしまったのかもしれない。

 駅前から、「若葉町住宅」行きのバスにのった。昼すぎの車内は、ガラガラだった。
ぼくたちは通路をはさんで、はなれた席にすわっていた。
修司は、ずっと窓の外をながめている。そんな姿を、ぼくは横目でチラチラ見ながら考えていた。
(修司の「何か」って、私立受験なのか、香奈枝さんなのか。それとも、別の「何か」を見つけたのか)
 ぼくには、まだよくわからなかった。
でも、とにかく修司が、「何か」を見つけたことだけは確かなようだった。
 そして、きっとぼくにも、「何か」を見つける日が来るのだろうなと思った。なんだか、それはそんなに遠い日ではないような気がしてきていた。
 バスが、ぼくたちの停留所についた。
「じゃあな」
 バスからおりると、修司はかるく手をあげてぼくにあいさつした。
「うん、じゃあな」
 ぼくも手をあげて返事をした。
 修司は、反対方向へすぐに大またで歩いていった。
 ぼくも肩のバッグをゆすりあげると、家へむかって歩き出した。
 でも、すぐに立ちどまってふり返った。
修司のうしろすがたは、ぐんぐん遠ざかっていく。なんだか、いつもの見慣れた修司とは別人のように見えた。
「さよなら、シュウチ」
 ぼくは、口の中で小さくつぶやいてみた。

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