現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

「現代児童文学」の終焉

2021-09-14 18:15:44 | 評論

「現代児童文学」は、2010年に終焉したと言われています。
その年の、「現代児童文学」終焉を象徴する事柄としては、大阪国際児童文学館の閉館、理論社の倒産、作家後藤竜二の死などが上げられています。
しかし、文学運動としての「現代児童文学」は、もっと早い時期に終焉したのではないかと思っています。
オーソドックスな成長物語を描いた「現代児童文学」は1990年代には出版点数が大きく減り、2000年代にはそこから派生したエンターテインメント類までもが売れなくなったのです(「ズッコケ三人組」シリーズは2005年に終了しています)。
その背景としては、出版バブルがはじけたことと、少子化などによる児童文学のマーケット・サイズの縮小があります。
また、子どもたちの読書に求める物の変化(知的欲求の満足から娯楽へ)や、読解力の低下(これは子どもたちだけでなく、大人も同様です)による軽薄短小な本への傾斜なども理由にあげられるでしょう。
( 「現代児童文学」のみならず、児童文学の終焉の可能性については、2000年には、本田和子「消滅か?復権か?その伴走の歴史」という論文の中で、次の項目の内容も含めて予見されていましたが、残念ながらその声は反映されませんでした。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エンターテインメントの復権

2021-09-13 13:26:37 | 評論

 

「誕生」ではなく、「復権」なのはなぜでしょうか?
実は、戦前、戦中には、「少年倶楽部」とその姉妹雑誌や模倣雑誌による、巨大な(「少年倶楽部」だけで月刊で百万部と言われています。当時の日本の人口は約7000万人でしたし、その大半は貧しい農民で本などを買う余裕はありませんでした)エンターテインメント・ビジネスが成立していたのです。
しかし、戦後は、マンガ雑誌(初期には絵物語が中心でした)に取って代わられてしまいました。
つまり、児童文学のエンターテインメントには、そもそもかなりのビジネス・ポテンシャルがあったということになります。

そうした状況において、1978年に出版され始めた那須正幹「ズッコケ三人組」シリーズをきっかけにして、児童文学界においてエンターテインメント・ビジネスが復権しました。
それまでの「ためになる」「何かを知ることができる」「感動できる」「刺激を受ける」といった主として知的好奇心を満足させる読書体験に、「楽しい」「気楽に読める」、「心地よい」そして時にはたんなる「ひまつぶし」といった娯楽的な読書体験が付け加わりました(それまでは、当時のマンガがその役割を果たしていました)。

その背景としては、80年代の出版バブルによる出版点数の増大と多様化があります。
このころの多様化の例としては、他に「タブーの崩壊」、「越境」などがあります。
(「タブーの崩壊」とは、それまで日本の児童文学でタブーとされてきた「死」、「離婚」、「性」、「家出」などの人生の負の部分を扱う作品が登場したことを指します。代表的な作品には、国松俊英「おかしな金曜日」や那須正幹「ぼくらは海へ」などがあります。
「越境」とは、心理描写などの小説的な技法が取り入れられた作品が登場して、児童文学と大人の文学の境目がはっきりしなくなったことを言います。代表的な作品には、江國香織「つめたいよるに」、森絵都「カラフル」などがあります。この現象は、児童文学の読者対象(特に女性)の年齢の上限を引き上げました。これはポスト「現代児童文学」の話と繋がります。)
また、マーケティング的な観点で言うと、団塊ジュニアという大きなマーケットが存在したこともその背景にあります。

(もうひとつのエンターテインメント・ビジネス誕生の消極的な理由に、児童文学ビジネスの固有な事情があります。
 それは、子どもたちと本との間に存在する介在者(両親、教師、司書などの大人たち)です。子どもたちが自分自身で本を購入することはまれで、こうした介在者を通して本に触れることが多いのです(子どもたちの目の前の本棚に、どんな本が並んでいるかも含めて)。
そうした人たちが、子どもたちに本を手渡す時に、「マンガよりはまし。こんな(?!)本でも読めば字を覚えるなど勉強の足しになるかもしれないし、もっとましな(?!)本を読むきっかけになるかもしれない」と、当時(今でも?)は考えたので、子どもたちはマンガの代わりに手を出しやすかったのでしょう。また、授業などで読書のノルマがあった時に、字の少ない薄いエンターテインメント作品(後で述べますが、「ズッコケ三人組」シリーズはぜんぜん違います)でも、一冊は一冊と主張できます。)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

児童文学とは何か

2021-09-11 11:24:46 | 評論

「児童文学とは、「児童」と「文学」という二つの中心を持った楕円形をしている」(石井直人)
 この意見に、異存のある人はおそらくいないでしょう。
 ただし、作家や作品によって、どのくらい「児童」よりなのか、あるいは「文学」よりなのかは違いがあります。
 合評会などにおいても、その発言が「児童」よりなのか、「文学」よりなのかを考慮して聞くと分かりやすいでしょう。
 (ちなみに、私は、書くときは相対的に「児童」よりで、読む時は「文学」よりです。)

ただし、ここでいう「児童」についてはいろいろな解釈があります。
「8歳から80歳までの子どものための本」(エーリヒ・ケストナー)
( つまり、「子ども」の心を持っていれば、年齢は問わないわけですね。)
「少年少女時期の終わりごろから、アドレッセンス中葉に対する一つの文学としての形式」(宮沢賢治)
( こちらは、小学校高学年から20歳ぐらいまでに絞っていますね。)
その一方で、
「「児童」ないし「子ども」は、近代(フランス革命以降、日本では明治維新以降)になって発見された一つの概念にすぎない」(柄谷行人やアリエス)
との主張もあります。
( ここまでくると、何が何だかわからないですね。)

それに対して、エンターテインメントでは、一般に対象となる「子ども」をもっと絞り込んで書かれていることが多いです。
そういった意味では、エンターテインメントは、「児童」よりの児童文学なのです。

一方で、児童文学が「「児童」と「文学」という二つの中心を持った楕円形をしている」とすれば、「文学」だけを中心にした円形の純粋な文章芸術ないしは自己表現ではないので、すべての児童文学は(程度の違いはあるとしても)一種のエンターテインメントであるという見方もできます。   
(もっとも、「児童」を「読者」に置き換えれば、ほとんどの「文学」が楕円形をしているとも言えます。) 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目黒強「多メディア時代におけるキャラクター表現にみる物語体験」日本児童文学2010年7-8月号所収

2021-09-10 14:19:41 | 参考文献

 児童文学において、那須正幹の「ズッコケ三人組」シリーズで、一面的で平板なキャラクター性が前川かずおのマンガ的な挿絵により図像化されて、マンガ的キャラクター小説を確立したとしています。
 キャラクター小説とは、大塚英志が提唱した「まんが・アニメ的リアリズム」(マンガやアニメなどの虚構を写生することで喚起され、現実を写生する近代小説のリアリズムとは位相を異にしています)によって書かれている小説をさします
 そして、最近の児童文庫では、さらに表紙に「アニメ塗り」を採用して、ライトノベル、アニメ、ゲーム、カードなどとの親和性の高い作品が多く読まれていることを豊富な実例とデータを用いて検証しています。
 この変化は、2004年ごろに始まり、従来のマンガ的キャラクター小説にとって代わっているようです(くしくも「ズッコケ三人組」シリーズは2004年に終了し、私の友人の児童向けエンターテインメント作家によるとオーソドックスなラブコメはパタッと売れなくなったそうです)。
 キャラクターがストーリーから自立することによって、「ストーリーを構成するエピソードの因果関係が弱体化し、キャラによって束ねられたエピソードの束が物語の対象となるのである」としています。
 これは、小説の読書体験というよりは、「ポケモン」や「遊戯王」といったキャラクターを描いたトレーディングカードゲームを遊ぶ体験に近いのではないでしょうか。
 また、キャラクターを読者が創造し応募する仕組みもシリーズによっては取り入れられており、双方向の読者参加型のエンターテインメントになっているようです。
 こうした、アニメ、ゲーム、マンガ、カードなどのマルチメディアの中での「キャラクター小説を読む」意義は、どういった点にあるのでしょうか。
 一つの可能性としては、自分自身でキャラクターを使った物語世界で遊ぶ際の、一種のモデルとしての働きをしているのかもしれません。
 また、別の可能性としては、様々なメディアで同じ「平面的」キャラクターに接することで、通常の意味とは違った新しい「立体的」なキャラクターを自分の内部に作り上げている可能性もあります。
 日本児童文学学会の研究大会で、作者とも少し話をしましたが、このあたりの研究はまだこれからの課題のようです。


日本児童文学 2010年 08月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
小峰書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目黒 強「児童文庫にみる児童文学の境界」日本児童文学学会第51回研究大会シンポジウム資料

2021-09-10 14:16:19 | 参考情報

 1955年から1979年までの小学校高学年の読書調査によると、偉人の伝記といわゆる世界名作とよばれている児童文学作品が上位を占めています。
 ところが、2011年の同様の調査ではそれはすっかり様変わりしています。
 伝記は相変わらず強いのですが、男子のリストにはゲームの影響(三国志や戦国時代の武将など)が色濃く感じられます。
 また、世界名作に代わっていわゆるエンターテインメント作品(昔ながらのルパンやホームズに交じってハリー・ポッターや日本のエンターテインメント作品)が現れています。
 この変化の理由としては、日本でのエンターテインメント作品の確立(那須正幹「ズッコケ三人組(1978年から2004年)や原ゆたか「かいけつゾロリ」(1987年から)などが代表作です)、児童文庫のエンターテインメント化(世界名作の岩波少年文庫(1950年から)から、現代児童文学のフォア文庫(1979年から)、現代児童文学とエンターテインメントのポプラ文庫を経て、書き下ろしエンターテインメントの講談社青い鳥文庫(1980年から)、角川つばさ文庫、集英社みらい文庫などに主流が移っています)などがあげられます。
 そして、その背景として、小学生が読書に求めるものが勉強的なもの(いわゆるゆる教養主義)から娯楽に変化していることがあげられると思います。
 それに伴い、児童文庫も漫画的なイラストやアニメ的なセリフや擬音の多用などが目立っています。
 これらを子どもに買い与えている媒介者(両親など)も、「漫画よりはまし」といった見方で児童文庫を捉えているとともに、ライトノベルやラブコメなど、ヤングアダルトや一般向けのエンターテインメントとのボーダーレス化も進んでいて、親世代も一緒に読んでいるようです。

教育文化を学ぶ人のために
クリエーター情報なし
世界思想社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目黒強「マルチメディアという居場所」日本児童文学2005年7-8月号所収

2021-09-10 14:14:24 | 参考文献

 「中景なき時代における児童文学の模索」という副題の付いた第2回日本児童文学者協会評論新人賞・入選論文です。
 著者は、社会学者の大澤真幸による戦後の時代区分(「理想の時代」(1945-1970)と虚構の時代(1970-1995)に従って、児童文学の変化を語ろうとしています。
 これは、児童文学者の砂田弘が1975年に書いた「変革の文学から自衛の文学へ」という論文(その記事を参照してください)において「理想の時代」における児童文学の終焉を指摘したことに対応するとしています。
 そして、1970年代の「虚構の時代」の児童文学について語るとしています。
 ところが、取り上げられたのは1995年(オウム真理教の地下鉄サリン事件がリミットとされています)以降の「虚構の時代」が終わってからの作品ばかり(森絵都「宇宙のみなしご」は1994年」)なので、むしろポスト「虚構の時代」の児童文学論というべきでしょう。
 著者はこの時期の児童文学の特徴的な作品として、「セカイ系」(主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく})の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと)を取り上げ、「セカイ系」が中景なき時代に最適だとしています。
 しかし、ここにおいて、「中景なき時代」というタームが社会学的説明抜きで唐突に使われているので読者にはわかりにくいと思われます。
 おそらく、それはポスト「虚構の時代」をあらわしているのだと思われますが、前述したように著者自身が「虚構の時代」とポスト「虚構の時代」を区分していないのであいまいになっています。
 児童文学における「セカイ系」の作品として、「宇宙のみなしご」以外には、さとうまきこ「こちら地球防衛軍」(2000)、笹生陽子「楽園のつくり方」(2002)、「バラ色の怪物」(2004)、「ぼくは悪党になりたい」(2004)、石橋洋司「カードゲーム」シリーズ(2002-)、「チェーン・メール」(2003)を取り上げています。
 著者が取り上げたテーマは非常に今日的で興味深いのですが、個々の作品論に入り込みすぎていて、マクロに「セカイ系」児童文学を捉えきれていないこと(例えば、ライトノベルとの関係など)と、前述したように社会学的な考察が中途半端なために、最後にこのような物語群が「中景なき時代を生きる子ども読者の居場所として機能することが期待される」と締めくくられても説得力に欠けているように思われます。
 また、著者は「マルチメディア」というタームを非常にあいまいに使っています(これらの作品で出てくるのは、パソコン通信、駅の伝言板、電子メール、トレーディングカードゲーム、インタラクティブな美少女育成ゲーム、メールを使ったRPGです)。
 本来の「マルチメディア」は、文字、音声、映像、動画などの複数の情報をディジタル化して一度に取り扱うことをさしているので、著者が取り上げた作品の中に出てくるのは、多くは「マルチメディア」ではなく、正しくは「コミュニケーションツール」と呼ぶべきでしょう。
 最初に書いたようにこの論文は第2回日本児童文学者協会評論新人賞・入選論文なのですが、選考者たちがどこまで内容を正しく理解して受賞を決めたかは疑問があります。
 現状の現代児童文学の研究ないし評論の分野では、以下のような問題点があります。
1.社会科学的な理解や考察が乏しい。
2.ライトノベルも含めてエンターテインメントの研究が、ほとんどなされていない。
3.マルチメディアやSNSなどの、現代の子どもたちを取り巻いている環境に対する理解度が低い。
 そういった意味では、著者以上にこの分野に詳しい人間は見当たらない(冒頭部分を除いては著者は先行論文を引用していませんが、実際この分野の論文は皆無なのです)ので、彼の今後の研究の進捗が期待されました。
 しかし、その後、彼の研究対象は主に古典的な児童文学へ移ってしまい、現在の児童文学の状況に関する発言はめっきり少なくなっています。
 彼だけでなく、現在の児童文学を研究する人間は払底しています。
 その理由として、時々刻々変化する状況を研究するのは非常に大変ですし、また対象の評価が定まっていないので、研究というよりは時評的になってしまい、まとまった研究論文に仕上げるのが困難なことがあげられます。
 また、現在では児童文学作品自体が消費財化していて、賞味期限が非常に短いので、じっくり研究するのにはそぐわなくなっていることも挙げられます。
 私自身は、1950年代から1990年代の狭義の「現代児童文学」には強い関心があるのですが、それ以降の児童文学作品には興味が持てなくなっています(最初にこの文章を書いた時にはその通りだったのですが、2019年ごろから「現代児童文学」への関心も次第に薄れ(それらの若い世代への影響が非常に限定的であることはっきりしてきたためかもしれません(もちろん、現在の児童文学は、子どもたちや若い世代にとってはほとんど影響力を持っていません))、その時代その時代に子どもたちや若い世代に影響を与えたと思われるシンボル的な作品(児童文学だけでなく、コミックスや映画やアニメも含めて)の社会学的な意味を考えて、それを現在の若い世代にどのような活かすかに関心が移っています。


日本児童文学 2013年 12月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
小峰書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジュラシック・パークⅢ

2021-09-09 14:55:00 | 映画

 2001年公開のアメリカ映画で、ジュラシック・パーク(その記事を参照してください)・シリーズの三作目です。

 前二作と違って、マイケル・クライトンの原作の映画化ではなく、オリジナルの脚本です。

 そのため、ドラマが著しく弱く(一応、離婚家庭の再生の形を取っています)、文明批評もほとんどなく、完全な娯楽映画になっています。

 監督もスピルバーグでなくなったため、サスペンスが薄れ、その分恐竜との戦い、恐竜同士の戦いの連続で、テーマパークのアトラクション感が強くなっています。

上映時間も93分と短く、小粒な感じが否めないので、このシリーズはいったん打ち切りになります。

 その後、ジュラシック・ワールド・シリーズ(それらの記事を参照してください)として復活します。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

七年目の浮気

2021-09-07 17:32:18 | 映画

 1955年公開のアメリカのコメディ映画です。
 結婚して七年目が浮気の危機で、特に夏季休暇に避暑地へ家族を送り込んだ夫が危ないという通説(?)に基づいて作られています。
 小心なくせに性的な妄想癖のある中年男が、若くて超絶美貌(金髪で可愛いお人形さんみたいな顔(しかもセクシーなほくろ付き)とそれとアンバランスな極限までセクシーな肉体。なにしろ二十代の一番魅力的だったころのマリリン・モンローですから)の女性と知り合って悶々とする姿を描いています。
 妄想男役のトム・イーウェルの達者な一人芝居も見もの(ゴールデングローブ賞の主演男優賞を受賞しました)ですが、この映画の最大の魅力はなんと言ってもマリリン・モンローでしょう。
 マリリン・モンローと言えば、50年代から60年代にかけてのセックスシンボルですが、今の基準で言えばセクシーなシーンは驚くほど少なく、彼女の可愛らしさや無邪気さの方が強調されているので、男性ファンだけなく一般的にも受け入れられたのでしょう。
 有名な地下鉄の通気口からの風でスカートがめくれるシーンもあるのですが、ぐっと抑えた演出になっています。


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マーケット・インとプロダクト・アウト

2021-09-05 09:48:02 | 考察

 マーケティング用語に、マーケット・インとプロダクト・アウトという言葉があります。
 前者は、市場のニーズ(需要)に合わせて製品を開発することです。
 後者は、先に製品のシーズ(種)があり、それに基づいて製品を開発することです。
 マーケティングの世界では、前者は肯定的な、後者は否定的な文脈で使われることが多いです。
 つまり後者は市場のニーズを無視して、独りよがりなものを作るという風にとらえられます。
 今、児童文学の世界でマーケット・インの作品を作るとしたら、小学校中学年以下の女の子を主人公にして肩の凝らないエンターテインメントを書くことでしょう。
 ラブコメや軽いミステリ、お手軽なファンタジー、シリアスでないスポーツ物などがむいています。
 形態は文庫あるいは新書で、値段はお小遣いで買えるように六百円以下にしなければなりません。
 会話と余白が多く、三十分で読み飛ばせるぐらいが適当です。
 こういった作品は売れるので、編集者たちが喜ぶでしょう。
 でも、私はへそ曲がりなので、貴重な時間を使ってそんな作品を書いて、どこが面白いのかなあと思ってしまいます。
 私は本業で、エンジニアのころは電子機器の新製品の企画を、マネージャーになってからはそれらを統合した事業部や会社全体のビジネス・プランの策定を、三十年近くやってきました。
 なんとかプロダクト・アウトな製品を作ろうとする技術部のエンジニアたちをコントロールして、より売れるマーケット・インな製品や分野を開拓してきました。
 もうマーケット・インの世界は飽き飽きです。
 せめて児童文学の世界では、プロダクト・アウトの斬新な作品に出会いたいし、自分でも創造していきたいと思っています。

三振をした日に読む本 (きょうはこの本読みたいな)
クリエーター情報なし
偕成社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長谷川潮「軍神と犠牲者のあいだ ―国家の戦争像と個人の戦争像」日本児童文学1984年8月号所収

2021-09-04 16:34:10 | 参考文献

「核時代と戦争児童文学」という特集の中の論文です。
 真珠湾攻撃の時に、五隻の二人乗り特殊潜航艇で奇襲攻撃をかけて戦死したいわゆる「九軍神」を例に挙げて、国家の戦争像と個人(特に子どもたち)の戦争像がいかに乖離していたか、そして、その原因の一翼を児童文学者たちが担ってきたかを指摘しています。
 なぜ五隻なのに九軍神なのかというと、乗組員のうちの一人は特殊潜航艇が沈没するときに脱出に成功して、アメリカ軍の捕虜になっていたからです。
 これは、太平洋戦争における日本の捕虜第一号だったので、その存在を知っていたにもかかわらず、国はその事実を隠蔽して、彼の存在すら抹殺したのです。
 また、残りの九人は最初の犠牲者であったので、「九軍神」として神格化され、攻撃は失敗したにもかかわらず、ありもしない戦果がでっちあげられました。
 これは、その後のいわゆる「大本営発表」による事実の隠ぺいと戦果のでっち上げの発端にもなっています。
 そして、「九軍神」及び彼らの少年時代は、繰り返し幼年倶楽部などの雑誌に「児童文学者」たちによって描かれ、「少国民」であった当時の子どもたちのヒーローに祭り上げられていったのです。
 著者は、国家が喧伝する「戦争や核」が、実際に個人(名もなき人々)が直面する「戦争や核」と乖離していることは現在も変わらないことを、レイモンド・ブリッグスが1982年に描いた絵本「風が吹くとき」(アニメにもなっています。その記事を参照してください)に描かれている、1976年にイギリス情報局が出した「防護して生き残れ」という「核シェルターを自分で作って生き残ろう」というパンフレットどおりに行動して国家の救援をむなしく待ちながら死んでいく老夫婦を例に挙げて指摘しています。
 このことは、福島第一原発事故で東京電力や国がいかに事実を隠蔽していたかを経験した我々にとっては、さらに重要な指摘になったと思われます。

日本児童文学 2013年 04月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
小峰書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フラガール

2021-09-03 17:15:42 | 映画

 2006年公開の日本映画です。

 閉山の危機をむかえた常磐炭鉱を舞台に、起死回生の策として打ち出された常磐ハワイアンセンター(現在のスパリゾート・ハワイアン)誕生の苦労を、そこに出演するフラガール(地元の女の子たちが特訓を受けました)を中心に描いています。

 実在するフラダンスの先生を松雪泰子が演じているのですが、このころこうした幸薄そうな美人を演じたらこの人がナンバーワンでした。

 フラガールを演じた、蒼井優やしずちゃんたちも、特訓の成果を発揮して、見事なフラダンスを演じています。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

かもめ食堂

2021-09-03 17:07:04 | 映画

 2006年公開の日本映画です。

 小林聡美、片桐はいり、もたいまさこのくせ者三人が、フィンランドのヘルシンキで繰り広げるコメディです。

 小林聡美が開いた日本家庭料理店を舞台に、ひょんなことから店を手伝うことになった二人を含めて、現地の人たちとの交流をまったりしたタッチで描いています。

 ヘルシンキの落ち着いた佇まいも魅力ですが、店で出すいろいろな料理(鮭のソテー、揚げ物、シナモンロールなど)がどれもおいしそうですし、たびたび出てくるコーヒーも素晴らしくおいしそうです。

 何度見ても、癒される映画です。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐藤宗子「一つの「終焉」、そのあとに」日本児童文学2013年5-6月号所収

2021-09-02 10:54:21 | 参考文献

 「子どもの文学この一年」という特集の「総論」として書かれた論文です。
 冒頭に2010年が「現代児童文学」の「終焉」であって、2012年は「ゼロ年以降」が強く実感された年であり、また出版文化に関わる電子化が本格化した年であり、<児童文学>の「共有化」傾向が見られた年であるとの認識が示されています。
 2010年が「現代児童文学」の「終焉」であるというのは著者のかねてからの持論で、他の記事にも紹介していますが、大阪国際児童文学館の閉館、理論社の倒産、作家後藤竜二の死、編集者伊藤英治の死などを、その象徴的な出来事としてあげています。
 電子化については、まっさきに国立国会図書館のディジタル化にふれているのはいかにも研究者らしく思われますが、肝心の児童書の電子書籍化の立ち遅れに言及していないのは片手落ちのように思われます。
 最後に、「<児童文学>は、大人と子どもにも共有される、広義のエンターテインメントの一ジャンルになりつつあるのではないか。」という著者の問題提起には、それが女性だけの閉じた世界においてであるという条件を付けるならば同意できます。
 ここで児童文学を<>の中に入れているのは、かつての児童文学と現在では、作者も読者も児童文学に求めるものが変質していることを意味しているのでしょう。
 それはその通りなのですが、たんなる、しかも女性オンリーのエンターテインメントになりはててしまった<児童文学>は、個人的にはまったく魅力も感じなければ興味もわかない分野になっています。

日本児童文学 2013年 06月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
小峰書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐藤宗子「<脱成長>時代の児童文学(第一回)「終焉」とその後をめぐる状況」

2021-09-02 10:43:09 | 参考文献

 日本児童文学者協会の機関誌「日本児童文学」に、三回にわたって連載される評論の一回目(2015年1・2月号掲載)です。
 ここで著者が論じようとしているテーマ自体は非常に興味深いのですが、その書き方が対象とする読者の実相と大きくかけ離れているといわざるを得ません。
 まずタイトルに掲げている「脱成長」という用語が、児童文学の世界のいわゆる成長物語における「成長」とは関係なく、フランスの経済学者セルジュ・ラトゥーシュの経済用語であることを、引用も含めてかなりの紙数を割いてくどいくらいに説明しています。
 この時点で、多くの読者は読むのをやめてしまったのではないかと危惧します。
 現在の「日本児童文学」誌は、かつての月刊誌として一般書店にも広く流通していた時代と違って、日本児童文学者協会の会員とその周辺の人たちに細々と読まれている隔月刊の日本児童文学者協会の機関誌にすぎません。
 その多くは、現役の児童文学作家や編集者及びその予備軍と推測されます。
 このような読者に向って、冒頭からアカデミックすぎる書き方(内容的には正しいのですが1970年ごろに途絶えたとされる教養主義のしっぽのようなものを引きずっています)をしては、大半の読者はついていけません。
 ためしに、私の周辺にいる日本児童文学者協会の会員の作家たちに聞いてみたところ、一様に読んでおらず、その理由として「佐藤さんのは難しすぎて」と口をそろえています。
 他の記事にも書きましたが、狭義の「現代児童文学」の不幸のひとつは、実作と評論の遊離にあります。
 私は、「現代児童文学」は1990年代に終焉したという立場を取っていますが、「児童文学評論」もまた同じころに終焉しています。
 著者はそのころの論客の一人でしたが、現在でもまじめに発言を続けているのは彼女ぐらいになってしまいました。
 また、著者は日本児童文学学会の会長を務めており、当時の他の論客、宮川健郎、石井直人、村中李衣(彼女は実作としては近年「チャーシューの月」(その記事を参照してください)を出して日本児童文学者協会賞を受賞しました)などがほとんど発言しなくなったことを考えると、彼女の継続した活動は尊敬に値するものです。
 しかし、彼らが「日本児童文学」誌上などでさかんに発言しているころでも、それらの評論は実作者たちにほとんど影響を与えませんでした。
 一例をあげると、彼ら「現代児童文学」の研究者や評論家が「現代児童文学」の変曲点とする1980年前後において、その理由のひとつにアリエスの「子どもの誕生」や柄谷行人の「児童の発見」の影響を一様にあげますが、寡聞にして児童文学の作家でそれらを読んだことがある人に未だに会ったことはありません。
 これから、児童文学の評論家が実作者たちに影響を与えたかったら、発信量を飛躍的に増やし(もちろん紙媒体だけにたよっていてはだめです)、教養主義を捨ててもっと分かりやすい評論を書くしかありません。
 なにしろ、この評論で「我田引水」的に述べている「2010年を現代児童文学の終焉とする」という著者の説(「「一つの終焉、そのあとに」日本児童文学2013年5―6月号所収」の記事を参照してください)でさえ、大半の「日本児童文学」の読者は知らないのですから。
 

table border=0 colspacing=0 cellpadding=0>

日本児童文学 2015年 02 月号 [雑誌]クリエーター情報なし小峰書店

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする