現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

目黒強「多メディア時代におけるキャラクター表現にみる物語体験」日本児童文学2010年7-8月号所収

2021-09-10 14:19:41 | 参考文献

 児童文学において、那須正幹の「ズッコケ三人組」シリーズで、一面的で平板なキャラクター性が前川かずおのマンガ的な挿絵により図像化されて、マンガ的キャラクター小説を確立したとしています。
 キャラクター小説とは、大塚英志が提唱した「まんが・アニメ的リアリズム」(マンガやアニメなどの虚構を写生することで喚起され、現実を写生する近代小説のリアリズムとは位相を異にしています)によって書かれている小説をさします
 そして、最近の児童文庫では、さらに表紙に「アニメ塗り」を採用して、ライトノベル、アニメ、ゲーム、カードなどとの親和性の高い作品が多く読まれていることを豊富な実例とデータを用いて検証しています。
 この変化は、2004年ごろに始まり、従来のマンガ的キャラクター小説にとって代わっているようです(くしくも「ズッコケ三人組」シリーズは2004年に終了し、私の友人の児童向けエンターテインメント作家によるとオーソドックスなラブコメはパタッと売れなくなったそうです)。
 キャラクターがストーリーから自立することによって、「ストーリーを構成するエピソードの因果関係が弱体化し、キャラによって束ねられたエピソードの束が物語の対象となるのである」としています。
 これは、小説の読書体験というよりは、「ポケモン」や「遊戯王」といったキャラクターを描いたトレーディングカードゲームを遊ぶ体験に近いのではないでしょうか。
 また、キャラクターを読者が創造し応募する仕組みもシリーズによっては取り入れられており、双方向の読者参加型のエンターテインメントになっているようです。
 こうした、アニメ、ゲーム、マンガ、カードなどのマルチメディアの中での「キャラクター小説を読む」意義は、どういった点にあるのでしょうか。
 一つの可能性としては、自分自身でキャラクターを使った物語世界で遊ぶ際の、一種のモデルとしての働きをしているのかもしれません。
 また、別の可能性としては、様々なメディアで同じ「平面的」キャラクターに接することで、通常の意味とは違った新しい「立体的」なキャラクターを自分の内部に作り上げている可能性もあります。
 日本児童文学学会の研究大会で、作者とも少し話をしましたが、このあたりの研究はまだこれからの課題のようです。


日本児童文学 2010年 08月号 [雑誌]
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目黒 強「児童文庫にみる児童文学の境界」日本児童文学学会第51回研究大会シンポジウム資料

2021-09-10 14:16:19 | 参考情報

 1955年から1979年までの小学校高学年の読書調査によると、偉人の伝記といわゆる世界名作とよばれている児童文学作品が上位を占めています。
 ところが、2011年の同様の調査ではそれはすっかり様変わりしています。
 伝記は相変わらず強いのですが、男子のリストにはゲームの影響(三国志や戦国時代の武将など)が色濃く感じられます。
 また、世界名作に代わっていわゆるエンターテインメント作品(昔ながらのルパンやホームズに交じってハリー・ポッターや日本のエンターテインメント作品)が現れています。
 この変化の理由としては、日本でのエンターテインメント作品の確立(那須正幹「ズッコケ三人組(1978年から2004年)や原ゆたか「かいけつゾロリ」(1987年から)などが代表作です)、児童文庫のエンターテインメント化(世界名作の岩波少年文庫(1950年から)から、現代児童文学のフォア文庫(1979年から)、現代児童文学とエンターテインメントのポプラ文庫を経て、書き下ろしエンターテインメントの講談社青い鳥文庫(1980年から)、角川つばさ文庫、集英社みらい文庫などに主流が移っています)などがあげられます。
 そして、その背景として、小学生が読書に求めるものが勉強的なもの(いわゆるゆる教養主義)から娯楽に変化していることがあげられると思います。
 それに伴い、児童文庫も漫画的なイラストやアニメ的なセリフや擬音の多用などが目立っています。
 これらを子どもに買い与えている媒介者(両親など)も、「漫画よりはまし」といった見方で児童文庫を捉えているとともに、ライトノベルやラブコメなど、ヤングアダルトや一般向けのエンターテインメントとのボーダーレス化も進んでいて、親世代も一緒に読んでいるようです。

教育文化を学ぶ人のために
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目黒強「マルチメディアという居場所」日本児童文学2005年7-8月号所収

2021-09-10 14:14:24 | 参考文献

 「中景なき時代における児童文学の模索」という副題の付いた第2回日本児童文学者協会評論新人賞・入選論文です。
 著者は、社会学者の大澤真幸による戦後の時代区分(「理想の時代」(1945-1970)と虚構の時代(1970-1995)に従って、児童文学の変化を語ろうとしています。
 これは、児童文学者の砂田弘が1975年に書いた「変革の文学から自衛の文学へ」という論文(その記事を参照してください)において「理想の時代」における児童文学の終焉を指摘したことに対応するとしています。
 そして、1970年代の「虚構の時代」の児童文学について語るとしています。
 ところが、取り上げられたのは1995年(オウム真理教の地下鉄サリン事件がリミットとされています)以降の「虚構の時代」が終わってからの作品ばかり(森絵都「宇宙のみなしご」は1994年」)なので、むしろポスト「虚構の時代」の児童文学論というべきでしょう。
 著者はこの時期の児童文学の特徴的な作品として、「セカイ系」(主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく})の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと)を取り上げ、「セカイ系」が中景なき時代に最適だとしています。
 しかし、ここにおいて、「中景なき時代」というタームが社会学的説明抜きで唐突に使われているので読者にはわかりにくいと思われます。
 おそらく、それはポスト「虚構の時代」をあらわしているのだと思われますが、前述したように著者自身が「虚構の時代」とポスト「虚構の時代」を区分していないのであいまいになっています。
 児童文学における「セカイ系」の作品として、「宇宙のみなしご」以外には、さとうまきこ「こちら地球防衛軍」(2000)、笹生陽子「楽園のつくり方」(2002)、「バラ色の怪物」(2004)、「ぼくは悪党になりたい」(2004)、石橋洋司「カードゲーム」シリーズ(2002-)、「チェーン・メール」(2003)を取り上げています。
 著者が取り上げたテーマは非常に今日的で興味深いのですが、個々の作品論に入り込みすぎていて、マクロに「セカイ系」児童文学を捉えきれていないこと(例えば、ライトノベルとの関係など)と、前述したように社会学的な考察が中途半端なために、最後にこのような物語群が「中景なき時代を生きる子ども読者の居場所として機能することが期待される」と締めくくられても説得力に欠けているように思われます。
 また、著者は「マルチメディア」というタームを非常にあいまいに使っています(これらの作品で出てくるのは、パソコン通信、駅の伝言板、電子メール、トレーディングカードゲーム、インタラクティブな美少女育成ゲーム、メールを使ったRPGです)。
 本来の「マルチメディア」は、文字、音声、映像、動画などの複数の情報をディジタル化して一度に取り扱うことをさしているので、著者が取り上げた作品の中に出てくるのは、多くは「マルチメディア」ではなく、正しくは「コミュニケーションツール」と呼ぶべきでしょう。
 最初に書いたようにこの論文は第2回日本児童文学者協会評論新人賞・入選論文なのですが、選考者たちがどこまで内容を正しく理解して受賞を決めたかは疑問があります。
 現状の現代児童文学の研究ないし評論の分野では、以下のような問題点があります。
1.社会科学的な理解や考察が乏しい。
2.ライトノベルも含めてエンターテインメントの研究が、ほとんどなされていない。
3.マルチメディアやSNSなどの、現代の子どもたちを取り巻いている環境に対する理解度が低い。
 そういった意味では、著者以上にこの分野に詳しい人間は見当たらない(冒頭部分を除いては著者は先行論文を引用していませんが、実際この分野の論文は皆無なのです)ので、彼の今後の研究の進捗が期待されました。
 しかし、その後、彼の研究対象は主に古典的な児童文学へ移ってしまい、現在の児童文学の状況に関する発言はめっきり少なくなっています。
 彼だけでなく、現在の児童文学を研究する人間は払底しています。
 その理由として、時々刻々変化する状況を研究するのは非常に大変ですし、また対象の評価が定まっていないので、研究というよりは時評的になってしまい、まとまった研究論文に仕上げるのが困難なことがあげられます。
 また、現在では児童文学作品自体が消費財化していて、賞味期限が非常に短いので、じっくり研究するのにはそぐわなくなっていることも挙げられます。
 私自身は、1950年代から1990年代の狭義の「現代児童文学」には強い関心があるのですが、それ以降の児童文学作品には興味が持てなくなっています(最初にこの文章を書いた時にはその通りだったのですが、2019年ごろから「現代児童文学」への関心も次第に薄れ(それらの若い世代への影響が非常に限定的であることはっきりしてきたためかもしれません(もちろん、現在の児童文学は、子どもたちや若い世代にとってはほとんど影響力を持っていません))、その時代その時代に子どもたちや若い世代に影響を与えたと思われるシンボル的な作品(児童文学だけでなく、コミックスや映画やアニメも含めて)の社会学的な意味を考えて、それを現在の若い世代にどのような活かすかに関心が移っています。


日本児童文学 2013年 12月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
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