現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

マーメイド・イン・パリ

2024-11-13 15:30:20 | 映画

 2020年公開のフランス映画です。

 子供の心を持った男性(40才ぐらいですが、仕事場にローラースケートで通い、自宅はおもちゃや人形や飛び出す絵本にあふれています。猫も一匹います)と、傷ついた人魚が、セーヌ河畔で運命的に出会います。

 人魚は歌声で男性を恋に陥らせて命を奪う能力を持ちますが、なぜか主人公には通じません。

 彼女を治療した二日間に、二人は恋に落ちます(男性だけでなく人魚も)。

 ストーリー自体は、絵に描いたようなハッピーエンドのロマンチック・コメディですが、ファンタジックな味付けが効いています。

 全編、レトロな映像と音楽に溢れていて、すごくオシャレな映画です。

 そういった雰囲気は好みの分かれるところだと思いますので、万人向きの映画ではないかも知れません。

 

 

 

 

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石井桃子「山のトムさん」

2024-11-12 11:37:32 | 作品論

 別の記事で紹介した「児童文学の魅力 いま読む100冊 日本編」に載っている作品で一番古いのは、編集委員たちの定義による現代日本児童文学の始まりである1959年より前の1957年10月に出た石井桃子の「山のトムさん」です。
 他の記事で書いたように、私は現代日本児童文学の出発は1953年だと主張しています。
 編集委員たちがなぜこの本を取り上げたのかは不明ですが、読んでみると私の1953年説を裏づけてくれる作品でした。
 この作品が書かれていたころは、すでに1955年から「子どもと文学」のための討議が開始されていたので、彼らが目指した新しい児童文学(現代日本児童文学と置き換えてもよいと思います)を意識して、創作がなされたことと思います。
 この作品は、作者が戦争直後の食糧難の時代に、東北の村で作者の言葉を借りると素人百姓をしていた時の経験に基づいて書かれています。
 ともすれば、苦労話になりそうな題材を、トムという名の猫を通して明るい筆致で描いています。
 トムは、100パーセント愛玩のために飼われていて家の中に閉じ込められている現代の猫たちとは、まったく違います。
 もともとネズミの被害に苦しんでいた作者たちの家族が、最後の頼みとしてもらってきた猫の子なのです。
 トムは家の中だけでなく、周囲の自然や時には少し離れた集落まで遠征して自由に暮らしています。
 作者の鋭い観察眼を通して、トムの生き生きした姿、そしてそれと関連して周囲に何とか溶け込んで暮らしていこうとしている東京から来た家族(トシちゃん、おかあさん、おかあさんの友だちのハナおばさん(たぶんこれが作者)、おばさんの甥のアキラさん)の様子が明るく描かれています。
 東北の山奥の開墾地で暮らしながら、英米児童文学に造詣の深い作者ならではのモダンな様子(トム・キャット(雄猫)という名前、クリスマスのプレゼント交換など)も随所に現れます。
「児童文学の魅力 いま読む100冊 日本編」で、作家の中川李枝子はこの作品について、
「食べることが容易でなく、日本中が飢えていた戦後のこの混乱期、おばさんたちのような女・子どもだけの寄り合い所帯で、しかも全くの素人百姓が、開墾したり、牛や山羊を飼ったり、田植をしたり、薪あつめをしたりの肉体労働を、万事、村のお百姓と対等にやっていくというのは、並大抵ではなかったはずだ。が、おばさんもお母さんも弱音を吐かず、ユーモアを失わず、助け合ってやっていく。そして山の家の人たちは自然の美しさに目を見張り、感嘆し、いろいろな楽しみを発見する。トムは、その人たちの生活の中心におさまったのだった。」
と、書いていますが、私もまったく同感です。
 この作品は1959年よりも前に書かれていますが、それまでに書かれていた生活童話などとは明らかに一線を画した「現代日本児童文学」です。
 平明で読みやすい豊かな「散文性を獲得」し、戦後の混乱期を生きるために労働する「子どもたちの様子を捉えながらもユーモアを忘れずに描いて子どもの読者も獲得」し、苦しくとも明るさを失わずに新しい時代を拓いていこうという「変革の意志」を備えています。
 上記の文で「」で囲った点は、児童文学研究者の宮川健郎によってまとめられた「現代児童文学」の特徴です。
 もう70年近くも前に書かれた作品ですが、今でも古びずに読み継がれるだけの普遍的な価値を持っています。

 

山のトムさん (福音館創作童話シリーズ)
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大野裕「こころが晴れるノート うつと不安の認知療法自習帳」

2024-11-11 10:59:52 | 参考文献

 同じ著者の「はじめての認知療法」の記事でも紹介しましたが、うつや不安に対する療法として、薬物療法と同等以上の効果があり、薬物療法と併用することによってさらに効果が得られる「認知療法(認知行動療法)」を、医療機関やカウンセリング施設にかからずに、自分でマスターできる自習帳です。
 現在では、認知療法は日本でも広く知られるようになり、同種の本もいろいろと出版されていますが、この本はそれ以前(2003年刊行)に出版された初めての自習帳です。
 この本の各モジュール、ストレスに気づこう(ストレスチェック)、問題をはっきりさせよう(問題リスト)、バランスのよい考え方をしよう(コラム法)、問題を解決しよう(問題解決技法)、人間関係を改善しよう(アサーション)、スキーマに挑戦しよう(スキーマの改善)を順に自習してマスターできれば、読者の生活はかなり改善されます。
 特に、コラム法と問題解決技法は、「うつや不安」に悩んでいない人にも有益で、仕事、家庭生活、勉強などに幅広く応用できます。
 私自身も、これらの方法をマスターすることにより、問題解決能力を高められましたし、こうした問題を抱えた人の状況の改善を手助けすることもできました。
 ただし、この分野は日進月歩なので、新しい本(同じ著者ならば「はじめての認知療法」(その記事を参照してください)など)も合わせて読むことをお勧めします。
 特に、コラム法のシートは、問題解決技法と結びつけるために改善されています。

こころが晴れるノート―うつと不安の認知療法自習帳
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はじめての認知療法 (講談社現代新書)
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小沢正「ファンタジーの死滅」日本児童文学1966年5月号所収

2024-11-10 09:18:35 | 参考文献

「目をさませトラゴロウ」で有名なナンセンスファンタジーの名手の著者が、児童文学研究者の石井直人が「戦後児童文学の批評における最大の書物」と評する石井桃子たちの「子どもと文学」(私自身も、高校時代にこの本を読んで児童文学を志すきっかけになりました)のファンタジー論を批判した論文です。
 「現代児童文学論集3 深化と見直しのなかで」にも収められていますので、バックナンバーを探さずに読むことができます。
 著者は、冒頭でファンタジーについて以下のように仮に規定しています。
「童話の中では、現実には起こりえない事象、または自然の法則反する事象、たとえば、トラがバターに変わるといった事象(注:「「子どもと文学」で普遍的な価値を持つ作品の例としてあげた「ちびくろサンボ」のことをさしています)が、しばしば起る。そのような事象をひとまず<ファンタジー>と名附け、そのような事象の起こり得る世界を<ファンタジー世界>と呼ぶとして、<後略>」>
 そして、「子どもと文学」でのファンタジーの発生の文章を引用した上で、著者は<子ども>について以下のように定義しています。
「<前略>子どもは、たとえば形而下的には<学校>に象徴され、形而上的には<童心の世界>として表現されるような、子ども独自の空間と時間の中に、いわば閉じ込められ、一切の物質的手段をおとなたちから与えられ、また貸し与えられて生きる存在となる。」
 そして、「子どもと文学」の主張は、以下のような技術論に限定されていると批判しています。
「「子どもと文学」の功績とは、結局のところ、ファンタジーの中からそのような<貸与物>としての痕跡を消し去る技法についての考察をめぐらした点にあるのではないだろうか。」
 著者は、子どもたちの目を、現実的な状況に向かって開かせるべきときが来ているように思われると述べています。
 そのためには、ファンタジー作品が「自からのファンタジー性について告白するための方法を考え始めなければならないのだ。」と主張しています。
 自作の「一つが二つ」(「目をさませトラゴロウ」所収、その記事を参照してください)を例にあげて、増やすべきものを持っていないトラがいる限りにおいては、「<一つのものを二つにする機械>のファンタジー性は、ついに<二つのものを一つにする機械>というファンタジー以外の何物でもない存在を生みださずにおかないのだ。」と、述べています。
 ここでは、我々の世界に持つ者と持たざる者が存在する限りにおいては、<一つのものを二つにする機械>のような「ファンタジー世界」は、自らの「ファンタジー性」を告白しなければならないという以下のような著者の主張が込められています。
 「機械のファンタジー性をあばくことによって、トラ(注:子どもたちも含めた我々を象徴していると思われます)の不完全性なり、トラの生きる世界の未完成性なりをよりいっそう証かすことも可能な筈なのだ。」
 最後に、やや長くなりますが、この論文の結論を引用します。
「そして今のところ、ぼくたちがそれらについて書き得ないとしても、少なくともこれらを書き得ないということについては、表現できるのではないだろうか。
 言うまでもなくそれは、堅牢に組立てられたファンタジー世界の土台をゆるがさずにはおかないだろう。だが、それをゆるがすものは、<外の世界からのすきま風>などではなく、ファンタジー世界の中に不意とふき起る烈風によってであろう。
 そして、その烈風は何よりもファンタジー世界の住民たちによって起こされなければならないのであり、そのためにぼくたちは、彼らの目を、<ファンタジー存在>として自からの不完全性に、そしてまた、自からを<ファンタジー存在>たらしめている世界の未完成な姿に向って開かせ、その両者を死滅させる方法について思いめぐらせはじめなければならないのだ。」
 著者のこの「子どもと文学」への批判は、背景に「少年文学宣言」(その記事を参照してください)のグループ(著者も早稲田大学在学時に少年文学会のメンバーでした)の創作理論があります。
 特に、その中でも「変革の意志(世の中を変えていこうという思い)」は、この論文が書かれた1960年代半ばには70年安保の挫折の前なのでまだ破たんしていませんでした。
 著者の主張は、「子どもと文学」が技術論(「おもしろく、はっきりわかりやすく」)に傾きすぎていて、作家の主体性や思想性が欠けていることへの批判です。
 タイトルの「ファンタジーの死滅」という反語的表現には、この「子どもと文学」のファンタジー論を乗り越えてパターン化しないファンタジーを創造していこうという著者の願いが託されています。
 同様の批判は、「子どもと文学」が出てすぐの1960年に、同じく「少年文学宣言」グループの神宮輝夫からも「新しいステロタイプになる恐れがある」となされていました。
 それから六十年以上が経過した現在、小沢や神宮の危惧はまさに的中し、作家性や思想性のない「おもしろく、はっきりわかりやすい」安直なファンタジー(リアリズム作品さえも)が、児童文学界にはあふれています。

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いつも心に太陽を(TO SIR, WITH LOVE)

2024-11-09 13:24:48 | 映画

 1966年公開のシドニー・ポアチエ主演のイギリス映画で、日本でもヒットしました。
 ロンドンのダウンタウンの学校に赴任してきた黒人の教師と、卒業してもうすぐ社会に出る生徒たち(イギリスの義務教育は11年制で、その最終学年なので16歳)との交流を描いています。
 初めは技師の仕事が得られるまでのつなぎの仕事だと思っていた主人公が、だんだん教師の仕事に熱中していって、ラストシーンではせっかく決まった技師としての採用通知を破り棄てます。
 荒れた不良少年少女のたまり場のようだったクラスを、愛情と情熱、そして何よりも彼らを一人前の大人として扱うことによって心を開かせていきます。
 背景として、貧困、人種差別、教育の荒廃などを描いている点も優れていると思います。
 主演のシドニー・ポアチエは、1955年のアメリカ映画「暴力教室」に生徒役で出演していますから、同種の映画に教師役と生徒役の両方で出演したことになります。
 日本でもヒットしたのは、当時の日本と英国の社会に共通点(階級闘争、反米感情、教育の荒廃、高度成長による格差の増大など)があったからでしょう。
 この映画には、以下のように「現代児童文学」と共通しています(カギカッコ内はいわゆる狭義の現代児童文学の理念です。詳しくは、関連する記事を参照してください)。
「散文性の獲得」ロンドンのダウンタウンの様子を写実的に描写しています。
「子どもへの関心」ダウンタウンの子どもたち(16歳なのでグレードとしてはヤングアダルトになります)の風俗を的確にとらえています。
「変革の意志」ひとつのクラスを生き返らせただけでなく、ラストシーンで来年受け持つであろう男女の不良生徒たちを登場させ、それでも教師を続けることを選ばせて、主人公の変革の意志がこれからも続いていくことを暗示しています。
「おもしろく、はっきりわかりやすく」主題歌をはじめとしたポピュラーミュージックやダンスシーンを多用して、ともすればかたくなりがちなテーマを明るい娯楽作に仕立てています。
 ところで、今回は出演者の一人であるルルの歌う主題歌(映画以上に大ヒットしました)を60年代のヒット曲集の中で聞いて、むしょうに映画も観たくなったのですが、実際に見るまでに結構苦労しました。
 原因は、映画がディジタル化されていなくて(ハリウッド映画はかなりディジタル化の作業が進んでいるのですが、ヨーロッパ映画は立ち遅れているようです)DVDやブルーレイがないので、どこの宅配レンタルにも、レンタルショップにも在庫がなかったからです。
 また、CSやBSの映画チャンネルでも放送予定はありませんでした。
 けっきょく灯台元暗しで、いつも利用している図書館でVHSテープを借りることができました。
 せっかくメモリやいろいろな記憶媒体の大容量化が進んでいるのですから、過去のアナログの映像はどんどんディジタル化してほしいものです。
 このあたりにも商業主義がはびこっていて、ビジネスにならなければ民間ではディジタル化の作業をやらないのでしょう。
 そのため、国家レベルでこうした文化財の保護をしてもらいたいと思います。
 これは児童文学も同様で、今はまだ図書館でほとんどの本を借りることができますが、過去の作品の電子書籍化をもっと推進しないと、そのうちに散逸してしまうことでしょう。

いつも心に太陽を [VHS]
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増田俊也「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」

2024-11-08 14:31:57 | 参考文献

 題名でおわかりのように、現代児童文学とは何の関係もない本です。
 ただ、この本を読んで、児童文学の研究などに様々な示唆があったので、それについて述べたいと思います。
 この本は、「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」とまで言われた柔道史上最強(山下泰裕よりも、小川直也よりも、アントン・ヘーシンクよりも強いと言われる)の戦前(彼の全盛期で今とは比べ物にならないほど柔道が盛んだった)の柔道王木村政彦の生涯を、「昭和の巌流島」対決と言われたプロレスのスーパースター力道山との試合(昭和29年)でなぜ敗れ去ったかを中心に描いた長編ノンフィクションです。
 はっきり言って、私のような格闘技ファンでなければ、まるで興味が持てない本でしょう。
 また、書き方もかなりマニアックな枝葉に入り込み、いたずらに長くなって(二段組み、700ページ以上、原稿用紙1600枚以上)読みにくいですし、かなり通俗的な文献(木村や力道山には、玉石混交の関連本が山ほどあります)をそのまま引用している部分も多く、ノンフィクションとしての出来はそれほどほめられたものではありせん。
 しかし、この普通の人にはどうでもいいと思えるようなテーマやモチーフに、これだけ情熱を傾けられるのは感動的ですらあります。
 増田は、18年の歳月をかけて膨大な資料(新発見も多いようです)にあたり、たくさんのインタビュー(当時のことを知る存命の人たちだけでなく現役の格闘家にも)をしています。
 彼の情熱は、児童文学の研究者たちにも共通しています。
 児童文学関連の学会についての記事でも書きましたが、ある者は戦前の幼女の「ちょうだい」のポーズからジェンダー論や戦争の影響を読み取り、また別の研究者は宮沢賢治の「風の又三郎」の「誤記」問題を原稿用紙の使い方にまで言及して謎に迫ります。
 それらの発表の時の彼らのうれしそうな顔といったら、見ていてこちらがうらやましくなります。
 私の好きな言葉に、「文学は徹底的に実用にならないから研究している」というものがあります。
 残念ながら、私はまだその境地には達していず、何とか文学を現実社会の改革に生かそうと思ってしまいますが。
 また、増田の調査方法は、前述したように文献の渉猟だけに頼らずに、できるだけ関係者へのインタビューで裏を取ろうとしています。
 これは小熊英二の「1968」の記事にも書きましたように、存命者がまだいる時代を描く場合には必須のことと思われます。
 私の専門の現代児童文学の研究でも、これは重要なことだと考えています。
 最後に、私はこの本をキンドル(その記事を参照してください)で読みましたが、紙の本は分厚くて重く二段組みで活字も小さいこのような本は、軽くて字が大きくできる(目のいい若い人は活字を小さくして1ページ当たりの情報量を増やせます)電子書籍リーダーで読むのに最適だと思いました(私が買った時の値段は、紙の本が2740円でキンドル本は2080円でした)。

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか
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高峰秀子「わたしの渡世日記」

2024-11-07 09:25:01 | 参考文献

 1975年に週刊朝日に連載された、日本映画史上最大の女優の自筆による半生記です。
 5歳だった1929年に、ひょんなことから「母」という映画のオーディションに参加して抜擢されて以来、天才子役、アイドル少女、清純派の娘役、そしてどんな役でもこなす名女優と、1979年に引退するまで、ちょうど五十年にわたって大活躍しました。
 彼女は、映画でデビューして、映画で引退し、舞台やテレビの仕事はほとんどしなかった、真の映画スターです。
 文章や構成はあまりうまくないのですが、驚異的な記憶力で、彼女の家族関係や当時の風俗だけでなく、往年の大スターや映画関係者、それに彼女のファンだった有名人たちが、実名で鮮明に描かれていて興味深い内容です。
 彼女は子役時代から大人気で、何本もの掛け持ちで映画出演していたために、小学校さえ満足に通えませんでした。
 しかし、七歳の時に出演した舞台で三時間もの大作の脚本を丸暗記してしまい、主役の大人たちのプロンプターをしたというほどの抜群の記憶力の持ち主なので、四十年以上前のことでもまるで昨日のことのように再現されています。
 この資質は、優れた児童文学作家(例えば、エーリヒ・ケストナーや神沢利子など)と共通する才能で、この自伝の子役時代も一種の児童文学として味わうことができました。
 児童文学といえば、彼女の代表作の一つに、「二十四の瞳」の先生役があります。
 壺井栄の原作は読んだことがなくても、彼女が主演した映画は見たという人も多いでしょう。
 物語の受容という点では、早くからメディアミックスは進んでいましたが、当時は文学から映画という順です。
 今では、最初にキャラクターの企画があって、そこからゲーム、トレーディングカード、おもちゃ、お菓子、アニメ、マンガ、宣伝、SNSなどのいろいろな種類のメディアへの展開があって、文学という形態はその一部にすぎないことが多いです。
 ただし、文字情報の製作コストは低いので、世の中に言葉がなくならない限り、文学が完全に姿を消すことはないでしょう。

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グーニーズ

2024-11-06 08:09:31 | 映画

 1985年に公開された子ども向け冒険映画で、その頃大人気だったシンディー・ローパーが主題歌を歌っていたこともあり、日本でもヒットしました。
 当時夥しい数あったスピルバーグ印(この映画では製作総指揮)の映画だったことも人気の原因ですが、演出力は彼が監督した作品には遠く及びません。
 子どもたちの海賊の宝物さがしを、脱獄中の偽札作り犯人グループとの対決や、ゴルフ場開発のために町がなくなる話などに絡めて、いいもの役と悪人役がはっきりしていて、最後にはいい方がすべて勝つという単純明快なハッピーエンドストーリーです。
 見どころは、スピルバーグの「インディー・ジョーンズ」を子ども版にした冒険活劇シーン(CGではないのでそれなりにスリルが味わえます)と、「インディー・ジョーンズ」や「スタンド・バイ・ミー」(この映画より一年後の公開ですが)で活躍した子役たちも含めた少年たちの達者な演技でしょう。
 そう、この映画は「インディ・ジョーンズ」の子ども版であるとともに、「スタンド・バイ・ミー」のエンターテインメント版なのかもしれません。
 そういう意味では、児童文学のエンターテインメントを書こうとしている人にはお勧めできます。

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遠い空の向こうに

2024-11-05 08:33:53 | 映画

 1950年代の宇宙開発競争時代に、ソ連の人工衛星スプートニクスの成功に刺激を受けて科学に目覚め、ロケット開発に夢中になっていく少年たちを描いています。
 まさに、児童文学の王道の成長物語を絵にかいたような作品です。
 閉塞した田舎の炭坑町(そこを抜け出すには、主人公の兄のようにフットボールの奨学金を手に入れて大学に進学するしか方法がありません)、炭坑に人生のすべてをささげている父との葛藤、父の事故、科学コンテストに出場するよう励ましてくれる恩師の病気、度重なる失敗など、さまざまな障害を乗り越えて科学コンテストの全国大会で優勝して、仲間たち(ロケットボーイズと呼ばれています)と共に大学進学の奨学金を獲得します。
 実在するNASAの技術者の自伝に基づいた、典型的なアメリカンドリームのサクセスストーリーなのですが、俳優陣の堅実な演技が素直な感動を与えてくれます。
 あらゆる意味で1950年代はアメリカの黄金時代だったのですが、現在はトランプ大統領が誕生した背景にある格差問題(特に若年層)が深刻化しています。
 アメリカでは大学の学費の高さとそのための学生ローンが問題になっていますが、日本でも奨学金の名を借りた高利の学生ローンは若い世代の大きな負担になっています。
 これらの解決の消極的な行政や政治家たちに、強い怒りを覚えます。


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ブルース・ブラザース

2024-11-04 11:32:27 | 映画

 1980年公開のアメリカ映画です。
 アメリカの人気テレビ番組「サタデー・ナイト・ライブ」の同名コーナーの出演者を中心に、ストーリーを膨らましてアクション映画とミュージカルの要素をごたまぜにしたスラップスティック・コメディです。
 当時人気絶頂だった芸達者のジョン・ベルーシとダン・エイクロイドを中心にした、豪華メンバーによる演奏とダンスが途方もなく楽しいです。
 特に、大御所のジェームス・ブラウン、アレサ・フランクリン、レイ・チャールズたちが、結構重要な役を楽しそうにこなしながら、歌やダンスを見せてくれるのはゴージャスです。
 カーチェイス、クラッシュ、爆破、銃撃戦などの派手なシーンも、現在と違ってCGを使わずに実写で描かれているので迫力満点です。
 けっこう建物や多数のパトカーがめちゃくちゃになるのですが、誰一人死なないどころか怪我もしないので心から楽しめます(ただし、カー・スタントの人たちは怪我をしたかもしれません)。
 スター・ウォーズのレイア姫役で当時人気者だったキャリー・フィッシャーが、ベルーシの命を付け狙う元恋人役で出ていて、その暗殺方法がロケット砲、時限爆弾、火炎放射器、マシンガンとハチャメチャで大げさなのですが、もちろんベルーシはかすり傷一つ負いません。
 とにかくばかばかしいストーリーなのですが、彼らの大暴れの理由がベルーシとエイクロイドが育った孤児院の立ち退きを救うためなので、どんなに無茶をしてもどこかホロリとさせられます(やっと児童文学につながりました)。
 また、ベルーシとエイクロイドの黒づくめの衣装にサングラスのスタイルは大流行して、その後、「マトリックス」や「メン・イン・ザ・ブラック」でも踏襲されています。

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モーリス・センダック「かいじゅうたちのいるところ」

2024-11-03 07:24:59 | 作品論

 映画にもなった世界中で読まれている人気絵本です。
 1963年に出版されましたが、日本に紹介されたのは1975年です。
 私の読んだのは1998年4月28日69刷ですから、日本でもロングセラーになっています。
 主人公の少年マックスが家で大あばれして、おかあさんに怒られて部屋に閉じ込められてから、彼の不思議な大冒険が始まります。
 マックスが怪獣の王さまになるストーリー自体はそれほど波乱に富んだものではありませんが、センダックの描く怪獣たちの絵が迫力があり、画面構成の変化にも非常に工夫を凝らしてあって、主人公と読者の、意識と無意識の領域の変化を巧みに表していて、最後までページごとの主人公および読者の意識と無意識の変化を楽しめるつくりになっています。
 児童文学研究者の本田和子は、「境界にたって その3 「自己」の文学 ―― 無意識と意識のはざまに生まれるもの」(「子どもの館」18号所収、その記事を参照してください)という論文の中で、「この物語は、一人の少年の無意識への退行と、新たな統合を成就した上での意識への回帰を、あまりにも典型的に描き出していて説明の要もなく思えるほどである。」と評しています。
 この論文は1974年11月に発表されたもので、日本版が出る前なのでこの本の日本語の題名が違っていますが、すでに海外では評判になっていたようです。
 長文になるので細かい解説は引用しませんが、本田の心理学に基づいたこの絵本の解析は見事ですので、興味のある方は是非雑誌を図書館で取り寄せて読んでみてください。
 ご存知のように、この本は世界中で2000万部以上も売れたベストセラーになりました。
 本田が指摘しているように、意識と無意識が大人より不分明である子どもたちにとっては、両方の世界を象徴的に描いたこの本はすんなり受け入れられる作品なのでしょう。

かいじゅうたちのいるところ
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冨山房
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E.T.

2024-11-02 08:06:11 | 映画

  1982年公開のスピルバーグ監督の映画で、世界中で空前のヒットをしました。

 E.T.と子どもたち、特に主人公のエリオット少年の心の触れ合いは、何度見ても心温まるものがあります。

 今のCG全盛の映画と比べると、宇宙船や特撮は手作り感満載なのですが、そんなことはどうでもいいのです。

 要は、ドラマが描けているかどうかなのです。

 大人たちの権力に対する子どもたちの完璧な勝利。

 そう、この作品は、児童文学の王道をいく作品なのです(映画ですが)。

 しかも、子どものころの心を失わない大人たちも登場し、児童文学作品が子どもだけでなく大人のためにもあることも証明してくれています。

 それは、スピルバーグ自身が子どもの心を失わない真の児童文学者(映画監督ですが)だからなのでしょう。

 

 

 

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七人の侍

2024-11-01 15:40:34 | 映画

 1954年(私が生まれた年です)に公開された、言わずと知れた黒澤明監督の代表作の一つです。
 手に汗握るアクション時代劇でありながら、人生とは何か、生きるとは何か、死とは何か、野武士たちに搾取されている百姓たちの悲しみ、負け戦を転々とする浪人たちの悲しみなどを余すところなく描き出した傑作中の傑作です。
 志村喬演じる軍略に通じいつも冷静沈着なリーダー役を初めとして、三船敏郎の百姓上がりの野性児、木村功の育ちの良い若侍、稲葉義男の温厚なリーダーの補佐役、加藤大介のほがらかなリーダーの女房役、千秋実のひょうひょうとしてとぼけたムードメーカー、宮口精二の寡黙な剣の達人と、七人の個性が際立っていて、後のいろいろな映画を初めとしたエンターテインメントで、リメイクされたり(一番有名なのは「荒野の七人」)、模倣されたりしています(フランシス・フォード・コッポラやスティーブン・スピルバーグやジョージ・ルーカスといった面々にも、この映画は多大な影響を与えました)。
 見る人によって七人のうちの誰が好きかは意見が分かれるでしょうが、四十年以上も前に初めて見た時以来、私にとっては、作品中で木村功演ずる勝四郎が心酔したように、宮口精二演ずる久蔵が一番魅力的でした。
 味方が窮地に立たされた時は常に平然と一人で死地にも赴き、抜群の功績を残しても決して驕らず、「男の中の男」という言葉は、この男のためにあるのじゃないかと今でも思っています。
 全編、男臭い映画なのですが、津島恵子演ずる美しい百姓の娘しのと、勝四郎の、身分を超えた激しい恋愛が色を添えています。

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東宝
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