寒い!の一言に尽きます。
夏の暑さにしても、徐々にというのがなくなってきたせいでしょうか
身体がついていきません。
さて、小学生組みのわが子2人は、学校から毎日音読の宿題が言い渡されています。
2年生の息子のほうは、長い文章の場合は
ある程度の段落ですぐに終わるのと、内容もまあ、2年生らしい微笑ましいものです。
ところが。
6年生の娘の話は、今は、広島の原爆投下の話なので、聞いているうちに
涙が溢れ、胸が苦しくなります。
話の中身は
原爆投下間もない広島の街を、ある兵隊さんが救護活動の最中
赤ちゃんを抱え傷ついたお母さんを発見します。
残念ながらお母さんは亡くなっていましたが、赤ちゃんは助ける事ができました。
しかし、兵隊という立場で、この赤ちゃんを連れて歩く事ができないので
たまたま出合った人に、赤ちゃんを託しました。
暫くしてから、お母さんが胸につけていた名札を渡し忘れてことに気付きましたが
もう、託した人の姿を探すことはできませんでした。
それから何年か経ったある日。
新聞の尋ね人欄に、
あの日、赤ちゃんを託したと思われる人から、自分(兵隊)を探している記事を
目にします。
連絡すると、
あの時託された赤ちゃんは、結局救護所に預ける事ができなかったこと。
一緒だった夫が間もなく亡くなり、夫の実家に身を寄せていたが
いづらくなり、今、生活に困っているので、あの時の赤ちゃんの身元を
調べてもらって、ぜひ親戚に引き取ってもらいたい。
と言う話でした。
すぐに駆けつけることが出来なかったので、その年の夏に広島で会う約束をしました。
約束の夏。
6歳くらいの子に成長した女の子の姿を、感慨深く思う元兵隊さん。
これまでの暮らしを伝えるお母さん。
そのお母さんは、あの戦争で実の娘(あかちゃん)を亡くしていたこと。
そのすぐあとに、元兵隊さんから赤ちゃんを託され、亡くなった赤ちゃんが帰ってきたと
思って育てる決心をしたこと。
ご主人が原爆症ですぐに亡くなり、義実家に身を寄せていたが
姑から疎まれ邪険にされていること・・・などなど
辛い身の上を語りました。
しかし、元兵隊さんと話した後に、やっぱりこの子を手放したくないと
意を決して広島に出て母子で生活してみるということにしたそうです。
それからは、近況を伝える手紙のやりとりが続きます。
広島の洋裁学校で住み込みの仕事を見つけ、なんとかやっていること・・・
それも段々と歳月が経つうちに、やがて便りがなくなります。
そんなある日、久々に手紙が届きます。
あの時の赤ちゃんが、中学を卒業する年齢になり
あの子に本当のお母さんの話をしてやって欲しいということでした。
再び広島での夏。
すっかり大きくなった女の子は、今度、お母さんが働く洋裁学校に進学する事に
なったそうで、そんな話をしながら広島の街を歩きます。
しかし、なかなか本当のお母さんの話をする切欠がつかめないまま
喫茶店で休憩していると、窓から見える川から赤い灯篭が流れてきました。
そのとき初めて、女の子にお母さんの事を話すことが出来ました。
亡くなったお母さんから、赤ちゃんを引き離すのではと悩んだこと。
冷たくなったお母さんの手が、赤ちゃんを抱きしめて守っていたこと。
急いで名札をはがしたけど、それを渡しそびれてしまったこと・・・
女の子は、泣く事なく、ただじっとその話を聞いていました。
その夜、洋裁学校の空き部屋に泊まった元兵隊さん。
翌日帰り支度をしていると、お母さんが、こっそり
昨夜、女の子が一晩中起きていた事を教えてくれました。
元兵隊さんは、もしかしてと思ったのですが
女の子が一生懸命、元兵隊さんにとYシャツを縫っていたようなのです。
新幹線に乗る際に、女の子がそのYシャツを渡しました。
胸元には元兵隊さんのイニシャルと、キノコの形をしたようなものの刺繍が施されていました。
話はそこで終わるのですが・・・
ああもう、書いている今でさえ涙が溢れてきます。
折しも、昨日はミサイル発射のニュースが流れました。
どうしてこうも、人は過去から学ばないのだろうと
悔しさというか、怒りもこみ上げてきます。
この世の中で一番尊いものは平和であり、多くの方々の命の上に
それが築かれたことを忘れてはいけません。
憲法は変えてはいけないし、子供や愛する家族を戦地へ送るようなことは
二度とあってはいけないのです。
もうすぐ選挙が行われます。
綺麗ごと、ご馳走を並べるような事しか言わない人たちばかりなのが
本当に残念でなりません。
でも、諦めて選挙に行かないというのは、それらに加担する事だろうと思います。