孫文さんの“多摩たまの隠れ部屋”ブログ編

「孫文さんの“北京の隠れ部屋”」を「孫文さんの“多摩たまの隠れ部屋”」に変更しました。

3・11から1年

2012年03月11日 23時21分09秒 | 日本雑感 (日本の話題何でも)
2012年3月11日の東日本大震災から1年がたった。
地震の発生は、ドラ息子からの電話で知ったのだが・・・

丁度そのとき、北京では重要な会議中だったので、「仕事中の時間なので後で…」と不機嫌な対応をしたことを覚えている。 しかし、お台場が燃えているという息子の言葉を思い出し、会議が終わるとインターネットで大地震発生を知り、恐怖の中でドラ息子が必死に電話してきたことに「ドラ息子よ、ゴメン!!」と心の中で謝った。 
普段写していないTVでNHKを探すと、ちょうど仙台あたりの平野を津波が襲っている映像が写った。
何じゃこりゃ!!
TVでは6mの津波と報道。 直感的に20mの大津波が来ていると感じ(リスクを専門に大学院で習っているので、授業の中で過去の三陸の津波での被害も習っていた。 そのため、約3倍の津波が来ると直感)、「三陸はどうなっている、きっと20~30mの津波が襲っている」と何度も周囲に口走ったのを覚えているが、TVはいつになっても三陸の画像は出てこなかった。

オフィス棟の他の会社の職員も東京との情報交換を始めているようで大変なことが起きていると廊下で短い会話を。 まだこの事態を知らない日本人もいると感じ、津波8mのTV報道が出ると、すぐに北京の約1600名に日本で大地震、津波発生の短いメールを送り情報を伝えた。

ドラ息子からは、e-mailで状況を伝えてくる。
 (大学院に通うドラ息子はバカ息子だと思っていたが、認識を改めた。) 
私も某社とコンタクトとるが、その会社の東北の工場とはコンタクトができないと。。
日本への電話も繋がらなくなった。

夜、某所36階に陣取り、数名と低周波音量交流をしながら各自日本とコンタクトするが、不在者の情報などが把握できずにいた。

あれから1年、復興は進んでいる(…と思うが)、まだまだ支援は必要だろう。
そして、心の傷のケアも大変だろう。

あれから1年、災害にあった皆様に改めて、「加油」と言いたい。