以下は私信です。お心当たりの方に私の思いをお伝えしたかったのですが、長すぎて(笑)コメント欄には収まらないと思いここに書きました。
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祖母が何かおかしいと最初に父が思ったのが、何十年と利用しているデパートの地下食品売り場から出られなくなった事でした。
親戚の家を訪問する常として、祖母は砂糖をお土産として買っていたのですが(大正生まれの人ですから、砂糖は貴重で高価な物という認識が祖母にはあったのです)その日も砂糖を買いに行ったものの、デパートから出られず困って自宅に電話して来たそうです。父が迎えに行って事なきを得ましたが、それ以降少しずつ変化が目に見えるようになって来ました。
洗濯の仕上げに入れる柔軟材を入れ忘れる。アイロンが使えない。ご飯を食べたばかりなのに、すぐ忘れてまた食べようとする。無くなった祖父を迎えに行こうとする。夜中に寝間着のまま外へ出て行く。ふとしたことで激昂して父を殴る。
それまでも年齢に応じた物忘れはありましたが、祖父が亡くなったことがやはり大きかったのでしょう。祖父は長年の糖尿病とその合併症からくる多臓器不全で、昏睡状態の末亡くなりましたが、それまではしっかりとした意識を持っていたので、私にとって祖母の異変はショックでした。初めてまじかに感じる「老いと病の恐さ」でした。生まれた時からずっと一緒に暮らしていた人が、少しずつ変わってしまい、元に戻ることはないのです。
その後10年もの間、両親と兄の三人で祖母が亡くなるまで、介護が続きました。最初六十半ばだった父は、依願退職後系列会社の役員になり、ずっと専業主婦である母と二人で祖母の面倒をみました。症状が悪化するにつれ、自分では排尿できなくなった祖母のおむつを取替え食事をさせ、夜中に大声で騒ぎだせば起きて相手をし、カギのかかった玄関や廊下の窓をこじあけて外へ出た祖母を追いかけ、ショートスティに送り出し、様々な書類を書いては手続きをしました。兄は独立して近所に住んでいたのですが、両親の負担を見るに見かねて家に戻りました。
その間、私に何が出来たかと言えば、両親に心配をかけない事のみでした。夜中に何度も起こされ、四六時中気を張っていた両親は、みるみる体調も精神もやつれて行くのが判りました。孫たちの成長を楽しみにしている両親に、写真を送り電話をし、時々訪問する以外何も出来ませんでした。義父母から私が何か言われるのを案じて、祖母の介護を交代しようと言うのも断られたのです。
介護が始まってから五年近くたって、月に二回ほど一週間のショートスティが出来るようになってからは、それでも随分と両親と兄は精神的に楽になったようでした。赤ちゃんが夜泣きするのに付き合ったり授乳したりで睡眠不足になるのは、どんなにしんどくても先が見えます。ですが、介護は終わりが見えないのです。それが何よりも介護する側の精神的負担なのです。これから何年続くのだろう?自分の体や心が先にダメになってしまうのでは?残された家族はどうなる?様々な不安を抱えるようになります。
今の両親と兄は、少しづつ祖母の居なくなった生活に慣れて、本来の年齢に合った老いを過ごしています。適切な表現じゃないとは思いますが、エネルギーの全てが祖母の介護に向かっていた頃は、自分の不調でさえ後回しでしたから。
目下の両親の悩みは、兄のことです。(兄は独身なので)両親は独りで生きる行く末案じ、兄は両親と自分の面倒を案じて、これ以上責任を増やしたくないと考えているのです。三人が祖母の介護に使った十年間分のエネルギーは、もう取り戻す術がありません。
そして私は、義父母の介護に直面しています。二人共、祖母の最後の頃に比べればまったくの初期段階ですが、家を開けることはままなりません。それが自分を追い詰めているとは感じています。毎日色んなことを考えすぎて、胃を悪くしているのは判っています。バッサリを関係を斬ってしまうことをよく考えますが、老いた両親が耐えてきた事を耐えられないとは、自分の心に恥ずかしくて出来ません。
そちらに「すれすれのところに居る自覚があります」と書きましたが、バランスを取るのに必死というのが本当です。娘であり妹であり、妻であり母であり、嫁である自分を必死に支えています。傾いたり、止められなくなったりしたら、その時はどうぞお力添え下さい。
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祖母が何かおかしいと最初に父が思ったのが、何十年と利用しているデパートの地下食品売り場から出られなくなった事でした。
親戚の家を訪問する常として、祖母は砂糖をお土産として買っていたのですが(大正生まれの人ですから、砂糖は貴重で高価な物という認識が祖母にはあったのです)その日も砂糖を買いに行ったものの、デパートから出られず困って自宅に電話して来たそうです。父が迎えに行って事なきを得ましたが、それ以降少しずつ変化が目に見えるようになって来ました。
洗濯の仕上げに入れる柔軟材を入れ忘れる。アイロンが使えない。ご飯を食べたばかりなのに、すぐ忘れてまた食べようとする。無くなった祖父を迎えに行こうとする。夜中に寝間着のまま外へ出て行く。ふとしたことで激昂して父を殴る。
それまでも年齢に応じた物忘れはありましたが、祖父が亡くなったことがやはり大きかったのでしょう。祖父は長年の糖尿病とその合併症からくる多臓器不全で、昏睡状態の末亡くなりましたが、それまではしっかりとした意識を持っていたので、私にとって祖母の異変はショックでした。初めてまじかに感じる「老いと病の恐さ」でした。生まれた時からずっと一緒に暮らしていた人が、少しずつ変わってしまい、元に戻ることはないのです。
その後10年もの間、両親と兄の三人で祖母が亡くなるまで、介護が続きました。最初六十半ばだった父は、依願退職後系列会社の役員になり、ずっと専業主婦である母と二人で祖母の面倒をみました。症状が悪化するにつれ、自分では排尿できなくなった祖母のおむつを取替え食事をさせ、夜中に大声で騒ぎだせば起きて相手をし、カギのかかった玄関や廊下の窓をこじあけて外へ出た祖母を追いかけ、ショートスティに送り出し、様々な書類を書いては手続きをしました。兄は独立して近所に住んでいたのですが、両親の負担を見るに見かねて家に戻りました。
その間、私に何が出来たかと言えば、両親に心配をかけない事のみでした。夜中に何度も起こされ、四六時中気を張っていた両親は、みるみる体調も精神もやつれて行くのが判りました。孫たちの成長を楽しみにしている両親に、写真を送り電話をし、時々訪問する以外何も出来ませんでした。義父母から私が何か言われるのを案じて、祖母の介護を交代しようと言うのも断られたのです。
介護が始まってから五年近くたって、月に二回ほど一週間のショートスティが出来るようになってからは、それでも随分と両親と兄は精神的に楽になったようでした。赤ちゃんが夜泣きするのに付き合ったり授乳したりで睡眠不足になるのは、どんなにしんどくても先が見えます。ですが、介護は終わりが見えないのです。それが何よりも介護する側の精神的負担なのです。これから何年続くのだろう?自分の体や心が先にダメになってしまうのでは?残された家族はどうなる?様々な不安を抱えるようになります。
今の両親と兄は、少しづつ祖母の居なくなった生活に慣れて、本来の年齢に合った老いを過ごしています。適切な表現じゃないとは思いますが、エネルギーの全てが祖母の介護に向かっていた頃は、自分の不調でさえ後回しでしたから。
目下の両親の悩みは、兄のことです。(兄は独身なので)両親は独りで生きる行く末案じ、兄は両親と自分の面倒を案じて、これ以上責任を増やしたくないと考えているのです。三人が祖母の介護に使った十年間分のエネルギーは、もう取り戻す術がありません。
そして私は、義父母の介護に直面しています。二人共、祖母の最後の頃に比べればまったくの初期段階ですが、家を開けることはままなりません。それが自分を追い詰めているとは感じています。毎日色んなことを考えすぎて、胃を悪くしているのは判っています。バッサリを関係を斬ってしまうことをよく考えますが、老いた両親が耐えてきた事を耐えられないとは、自分の心に恥ずかしくて出来ません。
そちらに「すれすれのところに居る自覚があります」と書きましたが、バランスを取るのに必死というのが本当です。娘であり妹であり、妻であり母であり、嫁である自分を必死に支えています。傾いたり、止められなくなったりしたら、その時はどうぞお力添え下さい。