ぼくはね、織田作さんにしても安吾さんにしても、みんなすてきな純情派だったと思いますよ。
世の中の人間というのは、つまらないいろいろなことを思っているけれども、あの人たちはほんとに純潔な魂の持ち主だった。けっしてぐうたらなことじゃ終わらずに、自分の主義、主張、志というのか、そういうものに忠実でね。
それで結局、純潔に生きるということは、破滅を意味するわけですよ。ところが一途に純潔を通した、徹底的に。
それに、日本が敗戦を経験するまえに、戦前にあの人たちは、何べんも敗戦に会っているんですよ。もうまったくの敗戦に会ったと同じように、価値の転換がおこなわれ、自殺しようと思えばいつだって自殺できるような状態に、何べんも落ち込んでいるのだから、日本が負けたぐらいのことではビクともするもんじゃない。だから、みんなが敗戦後の虚脱状態にあったときだって、かれらは不変の価値あるものを知っていたから、つまり自分たちの純潔を信じていたんですね。その点ですぐれた大先輩だと思ってます。
(檀一雄 「日本の文学63」付録 夏の夜の打明け話)
坂口安吾も織田作も、その行動も作品も世のモラルからはほど遠いのに、檀さんにかかれば”すてきな純情派”(笑)。
でも、ほんとそのとおりなのだ。
かれらの作品の一番の魅力もまさにそこにある。
不変の価値あるものを知っていたひとたち。
檀さん、さすが作家で、太宰や坂口安吾の友人だっただけあるなぁ。