「そんな裁判はないぜ。狸は大方腹鼓を叩き過ぎて、胃の位置が顛倒したんだ。君とおれは、いっしょに、祝勝会へ出てさ、いっしょに高知のぴかぴか踴りを見てさ、いっしょに喧嘩をとめにはいったんじゃないか。辞表を出せというなら公平に両方へ出せと云うがいい。なんで田舎の学校はそう理窟が分らないんだろう。焦慮(じれった)いな」
「それが赤シャツの指金だよ。おれと赤シャツとは今までの行懸り上到底両立しない人間だが、君の方は今の通り置いても害にならないと思ってるんだ」
「おれだって赤シャツと両立するものか。害にならないと思うなんて生意気だ」
「君はあまり単純過ぎるから、置いたって、どうでも胡魔化されると考えてるのさ」
「なお悪いや。誰が両立してやるものか」
(夏目漱石 『坊っちゃん』)
いいな~。ジャイアンだな~、坊っちゃん。
笑えて泣けて元気が出る日本文学の代表格ですよね。
これで100年前だものなあ。
天才。
一種痛快な結末の後に、付け加えるように「清の事を話すのを忘れていた。」と静かに書くあのタイミングがまたいいのよね。
でもけっして感傷的にしすぎないで、「だから清の墓は小日向の養源寺にある。」でさらりと終わり。
さり気無いからこそより感じ取れる二人の繋がりの強さ、温かさ、そして微かな切なさ。
私なんかが感想を書くよりも1000倍うまい文章があるので、そちらを2つご紹介します。
坊っちゃんの倫理観は単純明快、その行動は直情径行で、インテリ特有の計算や反省などは薬にしたくもない。いうまでもないことながら、英国帰りの大インテリである漱石がこのような主人公を創り出した意味は決して小さくはない。漱石は暗に主張しているのである。外国語も近代思想も、いわんや近代小説理論も、それらはすべて附け焼刃にすぎない。人は決して、そんなものによって生きてはいない。生得の言葉によって、生得の倫理観によって、生きている。少なくとも彼自身を生かしているものは、近代があたえた価値観ではない。
(江藤淳 新潮文庫巻末解説)
……
二元論で語るのは浅薄だが、そうした、いわゆる常識的な大人たちよりも、自分で自分をだませない「坊っちゃん」は遥かに痛快で美しい。その正直なやり方に呆れながらも強く憧れずにはおれない。
神経症で苦しみ、胃潰瘍を患い、繊細な神経で世に棲んだ作者・夏目漱石にとってもそれは、理想の姿だったのではないか。
(中略)
結局正直者は馬鹿をみたのかもしれない。でも、それでもいいではないか、とこの小説を読むたびいつも思う。信じる者がいて、信じてくれる人があって、楽しさも悲しみも自分がしっかり引き受けて生きている。それ以外のことは、常識という範疇で語られる他人から見た幸不幸でしかないような気がするからだ。
(木内昇 『ブンガクの言葉』)