弱者の問題として格差が捉えられ過ぎるのですが、そうではなくて「そういう人間は努力しないから悪いんだ」というような非常に非情な空気、とげとげしい空気がこの国に生まれていること、私はそのことの方が大きな問題だろうと思います。
そうやってお互いが険しい形で生きていく国を作るのであろうか、もう少し情のある国を作るのかどうか、これは今後の大きな課題であります。
(2006.9.19 筑紫哲也 News23 多事争論 「非情の国」)
例えば、私が今年最大の出来事だと思っておりますサブプライムローンの話も癌と似ております。癌は元々は局部で起きた、自分の体の中で起きた事が全身に広がっていくわけでありますが、アメリカの低所得者向け住宅ローンという局部で発病したことが世界中に広がっていきました。
この出来事の最大の意味、教訓はこのところ日本を含めて世界中に支配的に呪文のように広がった1つの言葉。それが実は虚構=フィクションの上に成り立っていたという事を劇的に証明した事だと私は思っております。その言葉とは「自己責任」という言葉であります。
頭の良い人たちが金融工学の最先端のテクニックを用いて、それはサブプライムローンの債務担保の証券化というんですけれども、そうして起こした事が世界中に癌をいわば、ばらまいております。しかしながら、その責任を誰も取ろうとしないし、誰も取りようもありません。神様でしか責任の取りようもない事を含めて、何でもかんでも「自己責任」という事が世界中にすさまじい格差社会をつくりだしました。自分の能力がないから、あるいは努力が足りないから落伍するんだという形でそういう社会が正当化され、しかももっと悪い事には自分が原因でない事で起きた苦しい状況や弱者に対しても、大変情け容赦のない非常に冷酷な社会をつくりだしてしまいました。
私たちはこんな言葉の使い方から一刻も早く決別すべきです。そして、新しい年になって、私たちが目指すべきはもっと人間らしい、人間の血のかよった、そして人間の尊厳が守られる社会。そういうものをどうやってつくるかということをこれから考え始めるべきだと私は思います。
(同 2007.12.24 「自己責任」)
今の世紀がはじまった頃、21世紀は「心の時代」になるだろうと言われていました。
「物の時代」だった20世紀と対比した言葉です。
うつ病患者も自殺者数も減る気配はなく。
ヴァーチャルな世界はどんどん広がっているのに、生身の人間同士のつながりは希薄になってゆくばかり。
まさしく「心の時代」です。
人と人との関係がいやでも密だった昔ならいざ知らず、今の時代、心は、放っておいたら枯れてしまいます。
枯れてからじゃ、遅いんです。
よほど強く生まれついていれば別でしょうが、はたしてこの世界にそんな人がいるんでしょうか。
このブログのサブタイトルにも通じますが、そんな人、私はいないと思っています。
人と人とのつながりも、心と心のつながりですから、同じです。
水をあげないと、枯れてしまう。
人と人とのつながりが作るのが、社会です。
まえに命の別名を心だと歌った中島みゆきさんの歌をご紹介したことがありましたが、その歌が主題歌だったドラマが野島伸司さん脚本の『聖者の行進』です。
ちなみに私、ドラマは全編は観ていません。何回かは観ましたが、その際どすぎる描写は観るに堪えなかったのです(なので小説で読みました)。
ですが、これは、現実です。ほとんどの人が興味を示さない分野の現実です。
依然として彼らのような人間の受け皿が圧倒的に不足している現実。(障害者に限らず)弱者に無関心な、弱いことに責任があるかのような考えが蔓延している社会。
ご都合主義に見える非現実的なラストは一連の野島作品に共通していることで、この作品に関していえば、野島さんのメッセージだと思います(他の作品についてはなんともいえないものもある。。。)。「パンドラの箱の底には希望が残っている」と、私も信じたいです。
ただ、これも野島作品に共通することですが、学生の集団心理の描写は極端すぎました。エリート校か否かにかかわらず、実際にいじめがこれだけ蔓延しているんですから誰一人救いの手を差し出さない現実は理解できますが、それでもそこに残る良心は、一律では言えないはず。
でも、それでもなお、意義あるドラマだったと思います。この頃の野島作品、すきだったんだけどなぁ。。。以下にご紹介するのは、ある老弁護士のことば。
ちなみにこの老弁護士、ドラマではいかりや長介さんが演じていました(長さん、、、;;)。
「強くなることはないです。弱い自分に苦しむことが大事なことです。人間は元々弱い生き物なんです。それなのに、心の苦しみから逃れたくて強くなろうとする。誰か自分より強いものにすがろうとする。言葉を真似し、ファッションを真似する。自分をなくすんです。強くなるというのは鈍くなるということです。痛みに鈍感になるということです。自分の痛みに鈍感になると人の痛みにも鈍感になる。所詮は錯覚なのですが……。強くなったと錯覚した人間は他人を攻撃する。痛みに鈍感で優しさや思いやりを失う。いいんですよ、弱いままで。自分の弱さと向き合い、それを大事になさい。人間は弱いままでいいんです。いつまでも……。弱い者が手を取り合い、生きていく社会こそが素晴らしい」
(野島伸司 『聖者の行進』)