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「円高シンドローム」に初めて触れる

2005年08月07日 21時55分10秒 | 経済関連
田中秀臣先生から大変ご丁寧な回答(円高シンドローム仮説の検証)を頂き誠に有難いのですが、非常に難しいです(笑)。経済素人の私には、理解が困難ではありますが、思うところについて少し述べたいと思います。以前に米国の陰謀による円高圧力というフィクションを書いた(中国の米企業買収意欲と為替のこと(追記あり))のですが、あれは空想であるとしても、89~98年前後の為替の謎は「マッキノン・大野仮説」によって説明可能なのでしょうか。私はこの仮説がよく分らないのですけれども・・・。

論文を読んでから書けと言われそうですが、少し疑問点を挙げてみたいと思います(笑)。経済指標や日米の金利などは調べるのが大変なので、そういったところは専門家の方々に頑張って頂くとして、おおよその印象に基づいて書いてみたいと思います。思い違いとか明らかな誤認等もあるかもしれませんので、それらについてはご容赦下さいませ。


プラザ合意後に「円高容認」は先進国の共通認識となり、日本のバブル遠因と言えるということらしいです(当時私は学生で経済への関心もなかったので、あまり記憶にないです)。88年まで大幅な円高が演出されてきたのに、89年一年間は円安基調でした。89年1月には1ドル125円程度(以後、全て1ドル当たりで書きます、面倒なので円表示のみ致します)であったのが、日経平均最高値をつける89年末までに為替はひたすら円安へと動いていき、90年4月頃には160円まで円安となります。日米経済摩擦が本格化していた頃に、このような大幅な円安が起こるというのもやや不思議です。

考えられる理由としては、
①バブル崩壊の予兆を察した海外投資家が円資産からドル資産へとシフトする為円売りドル買いが多く行われた(土地や株へ投入されていた投機資金を引き上げる?)
②日本の金利が6%を超える程度だったと思いますが、米国金利が8%とかの高金利ならば(調べてないので分りません)、ローリスク商品へとシフトするため米国国債などが買われ、結果的に円売りドル買い
③湾岸戦争前夜という国際緊張の高まりのため、「強いドル」期待でドル買い?
④国内で投資先を見つけられず溢れた円資産で海外資産を買う為に、海外に直接投資が大幅に増加して、ドル買い
⑤原油?や金などの商品相場の影響??(これも価格を調べてないですが、一般に「有事の金やドル」の法則はある程度当たっているかなと思うからです)


もしも、米国側の政治的圧力による円高圧力が存在したのなら、89~90年の為替は35円も円安に動かないのではないかと思うのですけれども・・・当時日本企業は海外資産や米国企業を買い漁っておりましたし・・・。「NOと言える日本」の頃(笑)ですし・・・石原氏が強弁していたんじゃないでしょうかね・・・。


ところが、90年4月の160円ラインから10月の125円まで一気に円高が進みました。89年1月水準に戻った訳ですね。その後、湾岸戦争の影響で円安局面もあり(単に調整局面という意味合いかもしれないですが)、90年10月~92年12月まではそうした調整期間であったかもしれないですね。この時期は125~140円くらいのレンジで推移しました。為替の小康状態です。

日本はバブル崩壊後ですから金融緩和政策が取られていて、金利水準はどんどん下がっていった時期と思います。通常は円安が起こりそうなのですが、円高トレンドの修正は殆どありませんでした。ウルグアイラウンド~日米包括経済協議へと繋がっていく時期と思います。公定歩合は90年の6%から93年の1.75%まで、低下の一途を辿りました。


そして、例の「95年円高ショック」が襲います。為替は93年の125円ラインから95年初頭には100円を挟む攻防となっていました。これを受けて日銀の公定歩合引下げが行われ、93年以来変えていなかった1.75%から一気に1%まで下げます。しかし、円高圧力は止まらず、3月には80円割れが起こってしまいます(公定歩合引き下げが先か、80円割れが先か分りません)。その為、日銀は9月には0.5%まで金利引下げを行いました。この頃には円高は一服し、100円程度に戻っていました。景気悪化は続いていきました。


為替は90年のドル高値である160円から95年の80円までほぼ下降トレンドは変わらず、半分まで下がり続けたことになります。ことろが、この80円割れを境にして、その後は一貫して上昇トレンドとなり、98年8月の148円くらいまで上がり続けるのです。この間には、アジア各国の通貨危機があったり、米国経済は力強く回復していきますね。「停滞なき成長」神話さえ登場し、ITバブルを迎える下地が作られていきました。「ニューエコノミー」とか、何とかがあったように思います。


クリントン政権が誕生した93年1月からは、円高圧力が強まりました。これは米国側の経済政策に対する市場の期待とか、財政赤字・貿易赤字に対する政治思想が評価されたものも含まれるのかもしれません。93年2月から半年後の8月には約25円の円高(125円→100円)でした。かなりはやいピッチで進んだという印象で、これが民主党政権であるクリントンの経済政策への市場コンセンサスという風にも捉えることが出来ます。これもグリーンスパンの戦略とも言えるのかもしれませんけれども。


98年8月には147円程度であったのが僅か2ヵ月後の10月には一気に112円程度まで円が急騰しました。この時には、一体何があったのか?この年、8月にはロシア金融危機があり、多くのロシア債券(ジャンクボンドですね)や通貨運用で暴落が起こりました。世界的信用収縮が起こっていくのです。これに端を発したヘッジファンドの破綻危機が起こります。エリート集団のヘッジファンド、LTCMの危機でした。LTCMの経営陣には、97年のノーベル経済学賞受賞者であったスタンフォード大教授のM・ショールズとハーバード大教授のR・マートンがいたのです。そう、「ブラック・ショールズ理論」で余りにも有名ですね。そして、もう1人、FRBのNo.2であったD・マリンズを首脳に据えていたのです。これは、当時のオールスターメンバーと言っても過言ではなかったでしょう。しかし、この集団が運用していたファンドが破綻しそうになるのです。

約13兆円という巨額損失であったのですが、さらにレバレッジによって運用額は10倍程度となっており、140兆円にも達する額であったのです。この為NY連銀を中心に15社の銀行から35億ドル融資という、緊急救済措置をグリーンスパンが主導したのです。LTCMにはUBS銀行などいくつかの名門からの多額の貸付があったようです。誰も彼らの失敗など予想できませんでした。


この事態を受けて、LTCMの含み損の解消が行われるのですが、その額が余りに巨額であったため、結果として円高ドル安を招いてしまったと言われています。僅か48時間で30円もの円高(148円→118円)になったようです。LTCMでは、円キャリートレードがとられていて、円売りドル買いポジションが積みあがっていたと見られています。


このように、89~98年を振り返ると、為替に政治的影響力が強く働いたと思われるのは、湾岸戦争以降の93年頃から95年初旬くらいまでで、それ以後の為替変動にはあまり影響していないような気もします。コメ開放を迫られた時と、金融市場開放を迫られた(大規模店舗法改正はどうだか分りません。決まったのは98年頃だと思いますが・・・でも、実際に基本合意が出来ていたのはもっと前のはず、と考えています)時、くらいではないかと思いますけれども・・・。その後は日米の景気循環やLTCM危機のような突発的事件による影響が大きいようにも思います。


これがマッキノンにとってどういう解釈となっているのか、それはよく判りませんが。そういえば、マッキノンもスタンフォードですね。

少なくとも80年代の米国国債利回りは異常に高く、プラザ合意以前に10年物国債で10%以上の金利であるのは普通で、それ以後は確かに金利は下降トレンドであると思います。一方、日本の円高はプラザ合意以後に加速し、金利はバブル直前までは下降しましたがその後は上昇局面でした。米国金利低下が必ずしも日本の金利低下とはならないようにも思います。また、90年前後の円安局面もよく理解できないのです。


日本の経済構造では経常収支が長期間継続してプラスとなる以上、本来的には外貨準備高の増減による(結局は円安介入ですか)調節よりも、資本収支によってバランスされるのが妥当ですが、その調節機能は麻痺している(長期間に及ぶ経常収支黒字の恒常化)と考えられるのでは?同様に多額の対外債務国である米国も経常収支が恒常的に赤字である為、そうした調節機能は麻痺しており、麻痺したもの同士の日米間の為替というのは、一体全体どうなるのかよく分りません(笑)。

日米間の金利差はかなり昔から存在しており、過去15年間の米国金利はほぼ一貫して低下傾向であったことから、世界的な資産利回りの低下(デフレ傾向ということでしょうか)が普通なのだと思います。今後は投資先を求めて、BRICsや途上国への投資によって利回りを期待するということになるのではないでしょうか。これは主要通貨を持つ先進国では、ほぼ共通の現象なのではないかと思いますけれども。今利回りの高い、例えばオーストラリアとかニュージーランドもいずれは金利が低下していくようなものです。92年にイギリス・ポンドがソロスの標的とされた時に、公定歩合を一日で10%から12%そして15%とかいう驚異的水準でしたけれども(これでイギリスはEMS脱退となってしまいました)、今のイギリスでの金利は4%前後と低くなっています。


段々と経済が成熟していけば、資産利回りのプラトー化が進むんだろうと感じています。それは酵素の働きと似ていて、経済効率化をとことん追及していく(資本主義市場の働き・機能?によって)と、律速段階に限りなく近づいていき、遂には定常状態が登場するというものです。普通は無駄が存在するし、人間なので間違えたり気分のムラがあったりして、効率化の極限には至らないのですけれども。それに全員均等な人間ではないですし。ですが、最良の効率化が起これば、きっと定常状態となってしまうと思います。これを普通は停滞と考えるのでしょうけれども(成長ではない、という意味で)。この状態を変えられるのは、産業革命のような出来事が起こることで、それはあたかも新種の酵素が登場して、全く別の反応系を作り出すようなものです。別な種類の酵素が一つ生まれるだけで、反応速度は劇的に変わります。触媒でもいいですよ。例えて言えば、今まで混ざっていなかった、たった一つのマグネシウム原子が入るだけで、反応速度は数倍となったりしますから。そういう触媒や酵素の登場というのが、全く新たな産業や手法や人物の登場といった意味と似ているな、と感じています。


おかしな方向へと進んでしまいましたが、為替は、特にドル-円は不可解なこともあると思います。

ああ、すっかり忘れてましたが、「ミスター円」はどこで登場か判りませんが、80円になってからならば、誰が担当でも円安になりますよ、きっと。それ以前に担当になっていたのなら、力不足ということでしょうか(笑)。

タイトルを最初につけたのと変えました。
一回消えた。


「女王の教室」第6回

2005年08月07日 13時24分50秒 | 俺のそれ
「自分さえ良ければいいの。みーんな、そう」
「子供は子供同士の中で成長するんです」


大体こんな感じの台詞だったと思います。アクツマヤ先生の、深い言葉。


泣けました。今回も。
このドラマは非常に示唆に富んでおり、普通の小中学生が観ても理解出来ない部分が多くあると思います。今までのコメントにも紹介されていたように、非難の声が結構あるというのは、アクツマヤ先生の真意が読み取れないからなのだろうと思います。でも、子供達に理解しろ、というのも結構難しいと思う。与えられる課題が厳しいし、乗り越えても次のハードルが更に高くされていくから。このドラマは、子供達向けと言うよりも、寧ろ親世代や世の中の大人たちへの強烈な批判的メッセージが込められたドラマなんじゃないか、と思います。


賢いヒカルちゃんだが、心を閉ざしてしまった理由が明らかにされました。友達を作ることを恐れる、という気持ち。そして、子供達の互いのコミュニケーションの難しさ。アナログな「手紙」という古い手法を持ち出すことで、今のケイタイ世代への痛烈なメッセージとなっていたと思います。そして、「他人の心の中に土足で入り込む」とか、「表面上は仲良くしてても、友達なんかじゃない」とか、そういった子供達の人間関係やコミュニケーションの問題をどうやって解決していくか、その一つの形が示されていたように思います。現代の、互いが傷つかず、干渉せず、深入りしない、という人間関係の象徴として、ヒカルちゃんの心が取り上げられていたんだろうと思います。実際は、親友としての関係を築く時、時には喧嘩をするかもしれないし、踏み込んだ発言を投げかけることもあるかもしれない。互いが傷ついたりしてしまう可能性だってあるかもしれない。だけれども、共に思いやり大切に思う気持ちがあるなら、上辺だけの仲良しなんかじゃない関係を築くことが出来るかもしれない。そんな示唆が感じ取れました。


マヤ先生は直接答えを教えずに、いつもカズミちゃんに反語的に問いかけます(直接答えを教えたのは、イジメに遭った時に「自分の力で解決するしかない、自分だけの力で何とかするしかないの」と言った時だけかな)。ヒカルちゃんの心を開かせるという、カズミちゃんへの課題が与えられたのです。ユウスケの不登校、辛いことや現実からの逃避傾向を改める課題も、回りくどく「あなたの彼氏に卒業証書を渡してきたの」という、とても判りにくい形でしたし。


ヒカルちゃんは、ユウスケの両親についてマヤが酷いことを言っていた時に、席を立とうとして止めてしまった。あれは、まだ勇気がなかったからだ。マヤに睨まれた時、自分の不利益を省みず友を助けるという勇気を試されたが、それが出来なかった(カズミちゃんだけが出来たのだけれども)。それでマヤは「あなたはもういいわ」と、ヒカルちゃんを代表委員から外した。最終的にはクラス全員が代表委員になれるかどうかが試されているんだろうと思う。代表委員を外されるということは、権力や特定の自分の利益に心が負けてしまい、「長いものには巻かれろ」的な行動をするツマラナイ人間になってしまうことを意味しているんじゃないかな、と。


カズミちゃんが怪我をした時にも、マヤ先生は「クラスの人の顔なんて見たくないでしょう」と敢えて言い、カズミちゃんに「帰りたい」とは言わせないように誘導しました。教室に戻ったカズミちゃんとユウスケに、「ガラスを片付けなさい」という厳しい処遇を与え、クラスの児童たちの反応を確かめたのでしょう。あの状況を見て、2人の手助けをしようと思わなければ、最低の人間だからだ。今まではクラスの殆どがマヤを恐れて行動に移せなかったが、遂に多くの児童が立ち上がった。しかし、まだ一部の人間は、マヤに同調することを捨て切れなかった。多分全員が立ち上がっていたら、マヤの課題は別な形になっていただろうと思います。けれども、数人の人達はまだ気づいていないのです。


そこで個人面談ということになったが、財布を盗んだ犯人である児童の心の弱さを克服させる課題を設けるんだろうと思います。やっぱり、マヤは犯人が判っていたのですね。


本題とはちょっと離れますが、頑張ったら「シールを与える」という方法は、所謂「成果主義」と通じるものであるように感じました。児童たちが学ぶという本来の目的を忘れて、いかにマヤから良い評価を得てシールを貰うか、ということに目的が変わってしまっている愚かさを描いていたように思います。近年企業で多く取り入れられた「成果主義」が、果たして意味のあるものとなっているか問われている気がしました。仕組み自体もそうですし、それに踊らされ同調していく人間の愚かさも同時に思い浮かびました。また、成績評価として、通常の算数とか国語などといった教科はドラマ中には出てこなくて、運動・体操や料理(家庭科?だという設定かな)の評価をしているというのも、示唆的でした。勉強が得意な子ばかりに有利になる評価ではなくて、他の実技的部分も等しく評価するというマヤ先生の姿勢が描かれたのだろうと思いました。これも、なるほどな、と思いました。