今回、自分が候補者公募に実際に応募してみて、色々感じたことがあった。それは、私も「人の子」(笑)であり、普通の人間であるということである。心のどこかに弱さがある。テレビドラマ「女王の教室」に登場する「馬場ちゃん」と同じように、「リーダーにさせてもらえる」「先生と仲良くしたら、特典が得られる」といった、自己利益を優先してしまう可能性があるということである。そうした、自分の弱さがあった。それ故、いつもバッサリ切るのに、何となく切れ味が鈍ってしまい、迎合しようとする傾向となったかもしれない。
「ひょっとしたら、候補者に選ばれるかもしれない」と思えば、どうしたってそういう権力には靡いてしまいがちになるだろう。私の志の重さは、その程度であったということかもしれない。本当に政治を変えたい、自分にも何か出来ることはやっていきたい、と思っていたが、実際には自民党のマニフェストと自分の政策意見が完全に一致などしていない。これも、自分に都合が悪いから隠していた。郵政民営化には賛成だが、本当は、「年金一元化」を目指してる(これじゃ、民主党案だ)とか言えないと思ったし、医療費の機械的抑制策は許容できないと考えているし、「小さな政府」の解釈にも隔たりがある(郵政民営化に反対する議員の気持ちが少し理解できたような気もする)。でも、こういったことを達成しようと思えば、自分が独裁者にならない限り不可能である。私の考えに一致した政党も存在しない。ならば、「近いもの」「似てるもの」とか、「最も実現できる可能性のあるところ」という風に考えるしかないのである。自分の中にも矛盾を抱えたままになってしまう。政党とは、そういうものなのだろうと思う。
政治の仕組みを考える時、何かを変えようと思ったり、どうにかしようと考えるならば、こちら側と向こう側の大きな隔たりを飛び越えなければならない。それが実現出来ないなら、いくら叫んでも、ブログに書いても、やっぱり変わらないような気がしたからだ。向こう側とは、当然の如く政治中枢であり、政治家、高級官僚、有力財界人、権威的学界人等によって構成される。彼らが日本のルールを作るが、一般人よりも多少優れた人(例えば、適度な知識人・評論家・マスコミ人、大学教授達・・・・)がいくら何を言っても、多くはかき消されるか、知られないままか、無視される。それは「ルールを作る側」にいるか、いないかの大きな違いがあるからだ。向こう側に力を持たなければ、大して意味がない。
国民の声も、それと似ている。但し、本格的な怒りや反発が起これば、向こう側に影響を及ぼすことが出来る。投票権は、あることで多少の意味があるが、例えば地方選挙区で国会議員を選出したところで、その人が何か変えられるかというと、そうでもない。大体は変わらないことが多い。貧しい地域は、ずっと貧しい地域のままだし、道路が良くなって一時的に土建屋が潤ったりすることもあるが、長続きはしない。今までの政治のやり方は、ほんの極僅かな人間の利益を優先して、粗方決められてきた。そういう連中は、地元に何かの手土産を持って帰ることを期待され、日本全国、津々浦々で、国からの手土産獲得合戦に血道を上げ、自己利益の為に政治を利用しようとしたのだ。それは、国民もその片棒を担いだに違いない。それに気付けないその他の国民にも責任があるし、放置したことも同様である。そうした、自分達の利益に浴することばかり考えているから、そういう議員を次々と生み出してきたのだろうと思う。そして、そういう政治システムが作り上げられた。
今回の郵政解散は、こうした過去の清算には多少役立つと思うし、これからの日本の進むべき道を占う意味で非常に大切なことは確かである。国民の為になる政治・行政が求められるのは勿論だが、これがどういう形で実現されていくのかは、注意深さが必要である。単なるお祭り騒ぎで終わるのか、国民が思慮深くなれるのか、どのような要求を国民のエージェントとなる行政府の政治家や官僚達に求めていくのか、そこら辺が重要である。
政党規律を非常に厳格に保ち、それに賛成を義務付けて、その方針に従う候補者を適当に有名人から集め、人気投票みたいにするというのも、政治的方法としては決していいとは言えない。だが、公募候補も似たり寄ったりで、大して実績がないところは同じだ。世襲とかコネとかそういう議員ばかりも困るが、実績のない人達ばかりになったら、官僚達に騙される(笑)か丸め込まれるかで、行政分野で太刀打ちできないだろう。とてもじゃないが、国民の代わりに代表者として行政の監視をしたり、不正・不備を追及したり、政策要求をしたりは出来ないのではないか、との危惧もある。なので、やはりある程度のバランスが必要で、平凡な庶民の議員もいれば、タレント議員も少しいて(これも一種の職域代表?かもしれないですし)、世襲とか議員秘書とか官僚出身者といった政治・行政に強い人もいて、ということも必要なのだろう。自分が公募に応募したからと言って正当化する訳ではないが、自民も民主も公募制度によって、昔に比べれば政治家を身近なものにしたことは評価できると思う。
問題の候補者選びだが、何故衆議院と参議院があり、選挙区が細かく分かれているか、その意味合いについて考えた方がいいかもしれない。選挙区を移ったり、遠くに行くのを完全に否定する訳ではないが、敢えて「話題作り」だけでそういった手法をとるのは、如何なものか、とも思ったりする。これも自分が選から漏れたから言う訳ではないですが(笑)、地域の人々の気持ちの代弁者として相応しいかどうか、といった視点も必要であり、そこの人々とある程度気持ちを共有できる人が必要だろうと思う。例えて言えば、今まで一度も機械油や土で手を汚したこともないような「勝ち組」の人間が、泥水を飲むような思いで農業や酪農を営んでいる人々の気持ちを果たして共有できるのだろうか?
真に優秀な人々の集団である政治家が間違ったりしなければ、今の日本のような惨状はなかったはずである。みんな立派な学歴や経歴を持ち、頭も良く、色んなことを知っている人達が大半なのに、何故政治は多くの誤りを繰り返してきたのでしょう?東大卒だけ集めても、相当数いるだろう。これは官僚も同じ。個人で見れば、賢く、立派な学歴で、普通の人々よりもはるかに優秀だ。なのに、何故か組織となると、多くの間違いを犯し続ける。
結論的には、こういう賢いと思われた連中が実は馬鹿で、愚行の先導を続けたから、ということになる。もっと愚かで騙しやすい国民を、間違った方向へと進ませ、後戻り出来ない借金地獄の袋小路に追い込んだようなものだ。その荷車の両輪は、政治家と官僚だったのだ、多分。国民は愚かにも、荷車から零れ落ちるごく僅かな砂糖に釣られて(これはわざとそういう仕組みにされていたのさ、まんまと政治家や官僚達の策略に引っ掛かったのだ、笑)、まるでアリのようにその後を律儀にも付いて来てしまったのだ。そんなことが長年続けられてきたんだろうと思う。変革の必要性に気付くのが、エラク遅かったんだろう。バブル崩壊で経済・産業界はある程度の整理がつけられのだが、政界にはそれが15年遅れてきたという訳だ。
今は、袋小路に突き当たって、戻ろうにも余りに狭い袋小路の為、荷車自体が邪魔になって前後回転が出来ず、もう前を向いたまま壁を突き破って進むしかない、というような状況だ。国民は後ろからどんどんやってきて、荷車付近にいる連中が必死に後ろに向かって「戻れー、前に来るなー、バックしろー、退けー」と叫んでも、「えー、よく聞えなーい。前に進めばいいんでしょ?」とか言いながら、何も考えずどんどん前に詰めてしまった。この集団も詰まりすぎて身動きとれず、戻れない。そんな状況が目に浮かぶようです。
構造改革は、その正当性や方法論も含めて色んな意見があると思うし、それが全員一致することなどないと思うが、途中で政権に軌道修正をさせられる可能性があるのは、国民側からの圧力しかないだろうと思う。だって、今後は政党のマニフェストに同意署名したり、一切反対しないということを約束させられる為、今回のマニフェストが実質的に決定事項となりますからだ。国民が選ぶ時だって、郵政民営化賛成ということに同意できても、憲法改正には同意出来ないとか、組み合わせが色々で、何も自民党議員を選んだからといって民営化賛成かつイラク派遣賛成かつ憲法改正賛成、ということに信認したことを意味する訳ではない。でも、誰かの名前、或いは何処かの政党名を書かねばならないのですから、仮に民主党議員と民主党と書いてあったとしても、年金改革と道路公団廃止には賛成できるが、郵政改革と東アジア構想・国連軍には反対、という場合だって有り得るということです。なので、たとえ選挙で勝利した政党があったとしても、それは国民の同意の「総取り」を意味するものではない、ということですね。その公約の決定過程で、国民は重要な議題については、一件ごとに明確な意思表示が必要となるはずです。それを伝えるのは、メディアの役割です。
「ひょっとしたら、候補者に選ばれるかもしれない」と思えば、どうしたってそういう権力には靡いてしまいがちになるだろう。私の志の重さは、その程度であったということかもしれない。本当に政治を変えたい、自分にも何か出来ることはやっていきたい、と思っていたが、実際には自民党のマニフェストと自分の政策意見が完全に一致などしていない。これも、自分に都合が悪いから隠していた。郵政民営化には賛成だが、本当は、「年金一元化」を目指してる(これじゃ、民主党案だ)とか言えないと思ったし、医療費の機械的抑制策は許容できないと考えているし、「小さな政府」の解釈にも隔たりがある(郵政民営化に反対する議員の気持ちが少し理解できたような気もする)。でも、こういったことを達成しようと思えば、自分が独裁者にならない限り不可能である。私の考えに一致した政党も存在しない。ならば、「近いもの」「似てるもの」とか、「最も実現できる可能性のあるところ」という風に考えるしかないのである。自分の中にも矛盾を抱えたままになってしまう。政党とは、そういうものなのだろうと思う。
政治の仕組みを考える時、何かを変えようと思ったり、どうにかしようと考えるならば、こちら側と向こう側の大きな隔たりを飛び越えなければならない。それが実現出来ないなら、いくら叫んでも、ブログに書いても、やっぱり変わらないような気がしたからだ。向こう側とは、当然の如く政治中枢であり、政治家、高級官僚、有力財界人、権威的学界人等によって構成される。彼らが日本のルールを作るが、一般人よりも多少優れた人(例えば、適度な知識人・評論家・マスコミ人、大学教授達・・・・)がいくら何を言っても、多くはかき消されるか、知られないままか、無視される。それは「ルールを作る側」にいるか、いないかの大きな違いがあるからだ。向こう側に力を持たなければ、大して意味がない。
国民の声も、それと似ている。但し、本格的な怒りや反発が起これば、向こう側に影響を及ぼすことが出来る。投票権は、あることで多少の意味があるが、例えば地方選挙区で国会議員を選出したところで、その人が何か変えられるかというと、そうでもない。大体は変わらないことが多い。貧しい地域は、ずっと貧しい地域のままだし、道路が良くなって一時的に土建屋が潤ったりすることもあるが、長続きはしない。今までの政治のやり方は、ほんの極僅かな人間の利益を優先して、粗方決められてきた。そういう連中は、地元に何かの手土産を持って帰ることを期待され、日本全国、津々浦々で、国からの手土産獲得合戦に血道を上げ、自己利益の為に政治を利用しようとしたのだ。それは、国民もその片棒を担いだに違いない。それに気付けないその他の国民にも責任があるし、放置したことも同様である。そうした、自分達の利益に浴することばかり考えているから、そういう議員を次々と生み出してきたのだろうと思う。そして、そういう政治システムが作り上げられた。
今回の郵政解散は、こうした過去の清算には多少役立つと思うし、これからの日本の進むべき道を占う意味で非常に大切なことは確かである。国民の為になる政治・行政が求められるのは勿論だが、これがどういう形で実現されていくのかは、注意深さが必要である。単なるお祭り騒ぎで終わるのか、国民が思慮深くなれるのか、どのような要求を国民のエージェントとなる行政府の政治家や官僚達に求めていくのか、そこら辺が重要である。
政党規律を非常に厳格に保ち、それに賛成を義務付けて、その方針に従う候補者を適当に有名人から集め、人気投票みたいにするというのも、政治的方法としては決していいとは言えない。だが、公募候補も似たり寄ったりで、大して実績がないところは同じだ。世襲とかコネとかそういう議員ばかりも困るが、実績のない人達ばかりになったら、官僚達に騙される(笑)か丸め込まれるかで、行政分野で太刀打ちできないだろう。とてもじゃないが、国民の代わりに代表者として行政の監視をしたり、不正・不備を追及したり、政策要求をしたりは出来ないのではないか、との危惧もある。なので、やはりある程度のバランスが必要で、平凡な庶民の議員もいれば、タレント議員も少しいて(これも一種の職域代表?かもしれないですし)、世襲とか議員秘書とか官僚出身者といった政治・行政に強い人もいて、ということも必要なのだろう。自分が公募に応募したからと言って正当化する訳ではないが、自民も民主も公募制度によって、昔に比べれば政治家を身近なものにしたことは評価できると思う。
問題の候補者選びだが、何故衆議院と参議院があり、選挙区が細かく分かれているか、その意味合いについて考えた方がいいかもしれない。選挙区を移ったり、遠くに行くのを完全に否定する訳ではないが、敢えて「話題作り」だけでそういった手法をとるのは、如何なものか、とも思ったりする。これも自分が選から漏れたから言う訳ではないですが(笑)、地域の人々の気持ちの代弁者として相応しいかどうか、といった視点も必要であり、そこの人々とある程度気持ちを共有できる人が必要だろうと思う。例えて言えば、今まで一度も機械油や土で手を汚したこともないような「勝ち組」の人間が、泥水を飲むような思いで農業や酪農を営んでいる人々の気持ちを果たして共有できるのだろうか?
真に優秀な人々の集団である政治家が間違ったりしなければ、今の日本のような惨状はなかったはずである。みんな立派な学歴や経歴を持ち、頭も良く、色んなことを知っている人達が大半なのに、何故政治は多くの誤りを繰り返してきたのでしょう?東大卒だけ集めても、相当数いるだろう。これは官僚も同じ。個人で見れば、賢く、立派な学歴で、普通の人々よりもはるかに優秀だ。なのに、何故か組織となると、多くの間違いを犯し続ける。
結論的には、こういう賢いと思われた連中が実は馬鹿で、愚行の先導を続けたから、ということになる。もっと愚かで騙しやすい国民を、間違った方向へと進ませ、後戻り出来ない借金地獄の袋小路に追い込んだようなものだ。その荷車の両輪は、政治家と官僚だったのだ、多分。国民は愚かにも、荷車から零れ落ちるごく僅かな砂糖に釣られて(これはわざとそういう仕組みにされていたのさ、まんまと政治家や官僚達の策略に引っ掛かったのだ、笑)、まるでアリのようにその後を律儀にも付いて来てしまったのだ。そんなことが長年続けられてきたんだろうと思う。変革の必要性に気付くのが、エラク遅かったんだろう。バブル崩壊で経済・産業界はある程度の整理がつけられのだが、政界にはそれが15年遅れてきたという訳だ。
今は、袋小路に突き当たって、戻ろうにも余りに狭い袋小路の為、荷車自体が邪魔になって前後回転が出来ず、もう前を向いたまま壁を突き破って進むしかない、というような状況だ。国民は後ろからどんどんやってきて、荷車付近にいる連中が必死に後ろに向かって「戻れー、前に来るなー、バックしろー、退けー」と叫んでも、「えー、よく聞えなーい。前に進めばいいんでしょ?」とか言いながら、何も考えずどんどん前に詰めてしまった。この集団も詰まりすぎて身動きとれず、戻れない。そんな状況が目に浮かぶようです。
構造改革は、その正当性や方法論も含めて色んな意見があると思うし、それが全員一致することなどないと思うが、途中で政権に軌道修正をさせられる可能性があるのは、国民側からの圧力しかないだろうと思う。だって、今後は政党のマニフェストに同意署名したり、一切反対しないということを約束させられる為、今回のマニフェストが実質的に決定事項となりますからだ。国民が選ぶ時だって、郵政民営化賛成ということに同意できても、憲法改正には同意出来ないとか、組み合わせが色々で、何も自民党議員を選んだからといって民営化賛成かつイラク派遣賛成かつ憲法改正賛成、ということに信認したことを意味する訳ではない。でも、誰かの名前、或いは何処かの政党名を書かねばならないのですから、仮に民主党議員と民主党と書いてあったとしても、年金改革と道路公団廃止には賛成できるが、郵政改革と東アジア構想・国連軍には反対、という場合だって有り得るということです。なので、たとえ選挙で勝利した政党があったとしても、それは国民の同意の「総取り」を意味するものではない、ということですね。その公約の決定過程で、国民は重要な議題については、一件ごとに明確な意思表示が必要となるはずです。それを伝えるのは、メディアの役割です。