いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

しばしの休息・・・でした

2005年08月16日 22時30分11秒 | 俺のそれ
お寺参りなど(笑)色々ありましてブログの方は滞っておりましたが、ネット環境に復活しました。皆様から頂戴したコメントなどは全て読ませて頂きましたが、大変遅れてお返事も何だか申し訳ないと思いますので、この度は特に書き込みをしないことに致します。失礼とは存じますが、ご容赦下さいませ。


お盆なのでお寺に行くと、私より若い家族は少なく、多くがお年寄りでした。お寺は、きっと地域コミュニティの一部だったのだろうと感じましたが、今の時代にはそうした感覚は減ってきているのかもしれない、と思いました。


昔には、お寺とか今話題の郵便局などは、そうしたコミュニティの中核だったのだろうと思いますが、そういう人間関係が消失した都市に多くの人々が普段集まっているということで、何の集団にも所属できない人々や、誰からも評価されない人々を生み出しているのかもしれません。そんなことをふと感じました。


学校の成績がそれ程よくなくても、屈強な肉体の持ち主がお祭りで中心人物になれるとか、お寺行事の(例えば境内掃除とか、・・・etc、あんまり思いつきません、ごめんなさい。私も殆ど参加したことないので)実働部隊として重宝されるとか、そういう面があっただろうし、地域のお年寄りが多数集合するので、若い連中や子供たちは普段よりもたくさん褒められたりして(或いは、年長者に教えられたりして)、自分の存在を肯定的に捉える機会があったのかもしれない。


年寄りが集まれば、下らない噂話やどうでもよい世間話や地域の人間ドラマ(何とかさん家の嫁さんと姑さんがどうしただの、東京に行った息子はどうなっただの、・・・まあ色々かな?)などを聞かされたりして、「ふーん」「しょうがないな」などと子供ながらに知恵をつけたり、異世代とのコミュニケーションを知る(学ぶのとは違うのかもしれないけれど)ことが出来たりしたのかもしれない、とか思う。


現代を生きる時に、誰かに頼るとか気を抜くとか他人の知恵を活かすとか、そういうことが特に都市生活では出来にくくなってきているんじゃないのかな、なんて思ったりもした。それ故、自分に全てを背負い、辛くなりすぎれば逃避したり、ストレスとして強く働いたり、うまくいかなければ精神的な病となるとか、引きこもったりとか、そういう方向に進んでしまったりするんだろうな、と。何処かに或いは誰かに救いの手が残されていれば、解決のきっかけとか糸口が見つけられるのだろうけれども、周りに多数の人々が存在しているのに、誰とも繋がってなくて何にも自分の所属(同じ寺の組織、町内会、商店会等かな)が見つけられないと、自分の存在が実感できないとか肯定的に考えられないということになってしまうのかもしれない。

案外、お盆のお寺参りというのは、感傷的になりやすい場所だったのかもしれません(笑)。