昨夜WBSを観たら、偶然日本の「しごと考」というコーナーが放送されていました。今の若い世代の仕事に対する考え方や、「サイバーエージェント」とか「はてな」の職場も紹介されていました。成果主義に対する疑問も出てきているようで、本当の答えはどうなっているのでしょうか。
恐らく今の時点では、「成果主義」一辺倒は良くない、昔のやり方に戻す方がよい、というような風潮も出て来たようなのです。
これは現在の経営学・経済学の中では一般的考え方なのでしょうか?もしも、そうであるならば成果主義の導入企業の多くは、方法を改めるべきということになりますね。日本はどうなっているんでしょうか?(成果主義という)このやり方が正しい、と言われて、皆そうやってみたが、それは壮大な失敗であったということなのでしょうか?その為に、多くのリストラや自殺といった悲劇を生んできたのでしょうか?
よく分りません。私には普段縁のない話なのですけれども。
どうせ、私にはボーナスもないですし(笑)。
でも世の中の不幸なことや、良くないことがあるならば、改められた方がよいですね。
農家や漁師の人は、おおよそ「業績主義」のような気もします。台風被害とか不作で収入が落ち込んだり、逆に市場価格の値崩れが起こったり、色々な要素で大きく変動しますね。これはある意味、「業績」に比例した報酬ということになりますが、サラリーマンと違って、組織内の他人との競争ではないですね。これはどういう意味があるのか、ちょっと分りませんけれども。本マグロ漁師も、一本当てれば儲けが大きいですが(「一本釣り」みたいなやつですね)、獲れなければ儲けはないですね。これも同じように自分の業績に応じた報酬ですが、サラリーマンのような場合とどういう違いがあるか、よく分りません。
変なたとえをして申し訳ありませんが、株式投資家の例で考えてみましょう。
農家の人や漁師さんは、言ってみれば個人投資家です。個人で頑張って、一発当てれば大金が入りますし、独特の手法とか個人の努力とかそういうことで差が生まれます。ですが、自分の世界であり、他人との能力・結果を比較をしたり、それに悩んだりは余りしないのでしょうか。結果はまさにダイレクトです。自分が一番よく分るはずです。誰も恨めません。成功も失敗も全部自分に降りかかってきます。それ故、天候が悪いとか台風にあってしまうとか、そういう仕事環境の変動要因については、「仕方がないな」という納得が出来、次への意欲を失うことには繋がりにくい、ということでしょうか。
一方、サラリーマンは例えるならば機関投資家であり、組織に雇われた投資家ということになります。今年の長者番付で有名になった方のように、成功報酬がもの凄く多い人も現実には存在しますね。多くの機関投資家は成果主義導入によって報酬が異なる、ということになります。そうなると、個人の能力にも勿論関係あるかもしれないですが、市場環境の悪い年にたまたま担当になってしまって、インデックスが大幅に下落したら、よっぽど勝負強く且つうまく運用しなければ成績は下がるのが普通ですが、それが個人の能力評価として全て還元されてしまい、報酬も減らされる。これは確かに辛いかもしれないですね(顧客から集めたお金を運用するファンドマネージャーであれば、どんな投資環境でもよい成績を残すのは当然の義務ですが、今は単なるサラリーマンの例えですので)。
ところが、誰が運用しても上がるような時もあって、そういう運用環境ならばどうやっても成績評価がいいに決まっている。そういう時に担当になっている人は、報酬も成績も上がってしまい、さっきの人から見れば、「なんだよ、ケッ」という気分になるということでしょうか。これが全部自分1人の個人ならば、うまく行く時にも、ダメな時にも自分の業績として一貫して評価出来るのに、組織だとその時々で当たりハズレもあったりする、ということかな。それと、現実には株式運用のような明確な数字が表れにくい仕事もたくさんあったりするので、評価が難しかったり、納得出来ない面もあるのかも。
成果主義によって、何が良くなったのでしょうね。それと、農家の人や漁師さん達は大丈夫なのはどういう理由なのでしょう?これも謎ですね。
滅多にないけれど、一応資料を探してみました。私なんぞよりもはるかに信頼性の高いと思われる、東京大学経済学部の高橋伸夫教授がインタビューで次のように答えています。
bpspecial ITマネジメント:インタビュー
文中に面白いことが書かれてました。ユダヤ人のお話です。さすがユダヤ商人、商売上手、と思いました(先入観の典型ですかね。ゴメンナサイ、決め付けてしまって)。
第一次世界大戦後、ユダヤ人排斥の空気が強い米国南部の小さな町で、一人のユダヤ人が洋服店を開いた。すると、地元の子供達がいやがらせのために店の前で「ユダヤ人!ユダヤ人!」と叫ぶようになった。そこである日、店主は子供達に「ユダヤ人と叫んだら1ダイム(10セント)あげよう」と言う。大喜びした子供達はますます「ユダヤ人!」と叫ぶようになった。ところが次の日に、「今日は1ニッケル(5セント)しかあげられない」と言い、さらに翌日「1ペニー(1セント)が限界だ」と言う。すると、子供達は「あんまりだ」と言って叫ぶのをやめた。
動機として金を用いると、難なく子供達を黙らせられるというのは、凄いです。これは普通思いつきませんね。なるほど、と思います。人間の心理、行動原理の核心を衝いています。
それから、次のことも気になります。
よく、「成果主義を導入すれば、成果が向上し、総人件費が削減できます」という人がいますが、この成果向上と総人件費削減の2つは両立しません。なぜなら、成果主義にして総人件費が削減できたということは、成果主義の下では成果が低下したということを意味するからです。コンサルタントがこんな矛盾したことを平然と言うのに、説得される経営者もおかしい。思考が停止しているとしか言いようがありません。
確かに高橋教授が指摘する通り、と思いますね。多くの経営者達はこうして誤った認識の下に「成果主義」を推し進め、その結果は多くの弊害を生み出したということになるのでしょうか。
経済学は役立つはずなのに、こうした知識は活かされず、誤った方向へ人々が進んで行くことを止められないということなのでしょうか?多くの人々が、東大教授の言うことが信じられない(笑)のかな?それとも明らかな間違いを高橋教授が言っているから?(ああ、そうか、経済財政諮問会議にも東大の吉川教授が入っているから、まさかそれで信頼性が失われたと?有り得そうで怖い・・・笑)
答えを知っていたのなら、どうしてもっと早く世の中の人々に教えたりしなかったのだろうか。有用な知識を強く主張したり、広めたりすることは、かなり難しかったということでしょうか。
経済学って、本当に不思議です。これも、「成果主義」vs「年功序列主義」みたいな、経済論争の一種なのでしょうか?もしも実証的にしか結果が分らないとするなら、経験則とかと大して違いなどなさそう、ってことにもなりかねないと思うんだけれどな。
恐らく今の時点では、「成果主義」一辺倒は良くない、昔のやり方に戻す方がよい、というような風潮も出て来たようなのです。
これは現在の経営学・経済学の中では一般的考え方なのでしょうか?もしも、そうであるならば成果主義の導入企業の多くは、方法を改めるべきということになりますね。日本はどうなっているんでしょうか?(成果主義という)このやり方が正しい、と言われて、皆そうやってみたが、それは壮大な失敗であったということなのでしょうか?その為に、多くのリストラや自殺といった悲劇を生んできたのでしょうか?
よく分りません。私には普段縁のない話なのですけれども。
どうせ、私にはボーナスもないですし(笑)。
でも世の中の不幸なことや、良くないことがあるならば、改められた方がよいですね。
農家や漁師の人は、おおよそ「業績主義」のような気もします。台風被害とか不作で収入が落ち込んだり、逆に市場価格の値崩れが起こったり、色々な要素で大きく変動しますね。これはある意味、「業績」に比例した報酬ということになりますが、サラリーマンと違って、組織内の他人との競争ではないですね。これはどういう意味があるのか、ちょっと分りませんけれども。本マグロ漁師も、一本当てれば儲けが大きいですが(「一本釣り」みたいなやつですね)、獲れなければ儲けはないですね。これも同じように自分の業績に応じた報酬ですが、サラリーマンのような場合とどういう違いがあるか、よく分りません。
変なたとえをして申し訳ありませんが、株式投資家の例で考えてみましょう。
農家の人や漁師さんは、言ってみれば個人投資家です。個人で頑張って、一発当てれば大金が入りますし、独特の手法とか個人の努力とかそういうことで差が生まれます。ですが、自分の世界であり、他人との能力・結果を比較をしたり、それに悩んだりは余りしないのでしょうか。結果はまさにダイレクトです。自分が一番よく分るはずです。誰も恨めません。成功も失敗も全部自分に降りかかってきます。それ故、天候が悪いとか台風にあってしまうとか、そういう仕事環境の変動要因については、「仕方がないな」という納得が出来、次への意欲を失うことには繋がりにくい、ということでしょうか。
一方、サラリーマンは例えるならば機関投資家であり、組織に雇われた投資家ということになります。今年の長者番付で有名になった方のように、成功報酬がもの凄く多い人も現実には存在しますね。多くの機関投資家は成果主義導入によって報酬が異なる、ということになります。そうなると、個人の能力にも勿論関係あるかもしれないですが、市場環境の悪い年にたまたま担当になってしまって、インデックスが大幅に下落したら、よっぽど勝負強く且つうまく運用しなければ成績は下がるのが普通ですが、それが個人の能力評価として全て還元されてしまい、報酬も減らされる。これは確かに辛いかもしれないですね(顧客から集めたお金を運用するファンドマネージャーであれば、どんな投資環境でもよい成績を残すのは当然の義務ですが、今は単なるサラリーマンの例えですので)。
ところが、誰が運用しても上がるような時もあって、そういう運用環境ならばどうやっても成績評価がいいに決まっている。そういう時に担当になっている人は、報酬も成績も上がってしまい、さっきの人から見れば、「なんだよ、ケッ」という気分になるということでしょうか。これが全部自分1人の個人ならば、うまく行く時にも、ダメな時にも自分の業績として一貫して評価出来るのに、組織だとその時々で当たりハズレもあったりする、ということかな。それと、現実には株式運用のような明確な数字が表れにくい仕事もたくさんあったりするので、評価が難しかったり、納得出来ない面もあるのかも。
成果主義によって、何が良くなったのでしょうね。それと、農家の人や漁師さん達は大丈夫なのはどういう理由なのでしょう?これも謎ですね。
滅多にないけれど、一応資料を探してみました。私なんぞよりもはるかに信頼性の高いと思われる、東京大学経済学部の高橋伸夫教授がインタビューで次のように答えています。
bpspecial ITマネジメント:インタビュー
文中に面白いことが書かれてました。ユダヤ人のお話です。さすがユダヤ商人、商売上手、と思いました(先入観の典型ですかね。ゴメンナサイ、決め付けてしまって)。
第一次世界大戦後、ユダヤ人排斥の空気が強い米国南部の小さな町で、一人のユダヤ人が洋服店を開いた。すると、地元の子供達がいやがらせのために店の前で「ユダヤ人!ユダヤ人!」と叫ぶようになった。そこである日、店主は子供達に「ユダヤ人と叫んだら1ダイム(10セント)あげよう」と言う。大喜びした子供達はますます「ユダヤ人!」と叫ぶようになった。ところが次の日に、「今日は1ニッケル(5セント)しかあげられない」と言い、さらに翌日「1ペニー(1セント)が限界だ」と言う。すると、子供達は「あんまりだ」と言って叫ぶのをやめた。
動機として金を用いると、難なく子供達を黙らせられるというのは、凄いです。これは普通思いつきませんね。なるほど、と思います。人間の心理、行動原理の核心を衝いています。
それから、次のことも気になります。
よく、「成果主義を導入すれば、成果が向上し、総人件費が削減できます」という人がいますが、この成果向上と総人件費削減の2つは両立しません。なぜなら、成果主義にして総人件費が削減できたということは、成果主義の下では成果が低下したということを意味するからです。コンサルタントがこんな矛盾したことを平然と言うのに、説得される経営者もおかしい。思考が停止しているとしか言いようがありません。
確かに高橋教授が指摘する通り、と思いますね。多くの経営者達はこうして誤った認識の下に「成果主義」を推し進め、その結果は多くの弊害を生み出したということになるのでしょうか。
経済学は役立つはずなのに、こうした知識は活かされず、誤った方向へ人々が進んで行くことを止められないということなのでしょうか?多くの人々が、東大教授の言うことが信じられない(笑)のかな?それとも明らかな間違いを高橋教授が言っているから?(ああ、そうか、経済財政諮問会議にも東大の吉川教授が入っているから、まさかそれで信頼性が失われたと?有り得そうで怖い・・・笑)
答えを知っていたのなら、どうしてもっと早く世の中の人々に教えたりしなかったのだろうか。有用な知識を強く主張したり、広めたりすることは、かなり難しかったということでしょうか。
経済学って、本当に不思議です。これも、「成果主義」vs「年功序列主義」みたいな、経済論争の一種なのでしょうか?もしも実証的にしか結果が分らないとするなら、経験則とかと大して違いなどなさそう、ってことにもなりかねないと思うんだけれどな。