先日の「女王の教室」に関する記事(「女王の教室」第6回)の中で、成果主義について少し触れました。一時期盛んに語られた日本型経営の失敗・行き詰まりというのが、グローバル競争時代には勝てない要因であるかのように喧伝されていたような印象を受ける。当時、トヨタの奥田会長は「ウチはリストラはしない。従業員を幸せに出来ないような経営者は、真の経営者じゃない」(正確には覚えていませんが、大体こんなような趣旨でした)と批判していたが、世界に名ただる日本の企業群は積極的なリストラと成果主義導入に転換していった。
代表的には、ソニーを見れば分るであろう。連結グループ内で12000人(4年間で)を人員整理したのだ。だが、経営的に利益が大きく伸びたとか企業価値や株価が高まったのかと言えば、現状を見てもそうでもない。果たしてそれは現実的効果があったのだろうか。一方のトヨタは経常利益が1兆円突破の世界的企業へと着実に成長した。これは、「日本型経営」が勝ったのか?これだけをもって比較など出来ないだろうが、必ずしも日本型経営が劣っているとも言えないのではないか。
多くの経営者達は、実は「グローバル・スタンダード幻想の罠」に陥っていただけではないのか?98年以降進められていったリストラの嵐が日本にもたらしたものは、一部の拝金主義者の台頭、勝ち組・負け組という差別化、就業意欲のバラツキや低下、失業者の増加、ニートやフリーターの増加、精神疾患患者や自殺者の増加・・・というような悲しい結果だったのではないのか?グローバル化の波に飲まれたのは、実は多くの企業経営者達であり、日本の長所も一緒に捨ててしまったのではないだろうか。
私には経営学的な基礎知識もないし、勿論MBAなどの資格もないです。ですから、経営に関しても(他の色々なことと同様に)素人ですので、論理的に正しいのか分りませんけれども、一応もう少し書いてみます。
成果主義を導入してグローバル・スタンダードな経営を目指したら、結果的には企業収益にも勝ち組と負け組が生じてしまい、雇用形態が勝ち負けに直結したとも考えられないですね。単純に経営陣の質の問題なのではないか、とも感じる。資産(それとも資本?)の最大効率化を目指したのは良いが、結果的には人的資源を活かす道を見つけられずに余剰人員をリストラし、不動産を売ったり持合株式を売ったりして必死に集めた金を、有効に利用することも出来なかったということだ。選択と集中とか言いながら、企業資源(金も人も設備なども)を有効に使って利益を生み出す知恵が不足していたということなんだろう。「グローバル・スタンダード幻想」に一斉に取り付かれた企業経営者達が、突如として日本型経営を捨て去る方向に走り出してしまったということなんだろう。
日本には日本に合った企業組織文化というのか、仕事の仕方や人間関係があって、それが全て悪い訳でもなく、日本にグローバル・スタンダードを全て取り入れたところで、結果が良くなるかどうかは判らないのではないだろうか。日本の優れた所を同時に失ってしまい、逆効果ということもあるのかもしれないな、と思います。それに、外国企業がやっているのと同じ方法をとるだけならば、先行する企業群には追いつけないということになってしまう。むしろ、「長所を活かす」という視点から考えて、独自の方法をとる部分があってもいいのではないかと思うし、あとは工夫する知恵や向上を目指す意欲が重要で、それが重視されることの方が組織としては力を発揮出来そうな気がするのです。
結局のところ、人的資源が最も大切であり、いい人材を育成できるかどうかが、組織の強さにも繋がると思っています。ただ、折角途中まで育てても、良い具合に育ったところで他の企業に金で釣られてしまって人材が流出するということもありますし、一概には言えない面も存在するのでしょうけれども。初めから名医が存在するわけではないし、新人の鮨職人が一流ということもありません。誰かが、どこかでしっかりと育てていかなければ、優れた人材とはなりません。恐らく企業の中でもそうなんだろうと思います。それには、エネルギーも人的資源も金もかかります。子供の教育と一緒ですね。今の時代には効率化を考えて、人材を育成するよりも、アウトソーシングや短期雇用者などで賄ったりすることが多くなったのではないでしょうか。
まるで「料理をつくるのが非効率的なので、「出来合い」ものを買う」のと似ています。確かにそうですね。味噌汁をわざわざ作らなくても、お湯を入れるだけで「味噌汁」が手に入るわけですから、実際にかかる金額は別として、効率的にやろうと思えば味噌汁を作る意味などない、ということですね。自社で人材育成しなくても「出来合い」で済ませばいい、というのが多くの企業経営者達の考えなんだろうと思います。先頃税調の小委員会かどこかで(正確には忘れました)、手抜き専業主婦を槍玉に挙げ、コンビニ弁当を食事として与えることがえらく非難されていた(「発泡スチロール主婦」みたいな・・・)ように思いますが、企業経営者の考え方、社会全体の風潮そのものが、「出来合い」主義(そんな主義はないでしょうけれども)に染まっているんじゃないか、それが単に家庭内にも反映された結果なんじゃないかと、疑いたくなります。
「女王の教室」に見られた成果主義は、マヤ先生が下す評価が重要であり、本来の「学ぶ」という目的を忘れて、ご褒美(言ってみれば自分の得点)を貰うことが目的化してしまった児童達として愚かしく描かれていました(と私は感じました)。今の企業やそこで働く多くの大人たちの姿が、ダブりました。何かを忘れているんじゃないか、何かを失ったんじゃないか、と。
経済学的、或いは経営学的な正当性については、専門の方々が研究して頂ければよいと思いますが、あまり時間がかかると雇用の面では好影響となるのが遅れますね(なので、早く学者内での結論が欲しいところです)。日本企業の優れた企業文化を棄てたのは、果たして正しかったのでしょうか?
代表的には、ソニーを見れば分るであろう。連結グループ内で12000人(4年間で)を人員整理したのだ。だが、経営的に利益が大きく伸びたとか企業価値や株価が高まったのかと言えば、現状を見てもそうでもない。果たしてそれは現実的効果があったのだろうか。一方のトヨタは経常利益が1兆円突破の世界的企業へと着実に成長した。これは、「日本型経営」が勝ったのか?これだけをもって比較など出来ないだろうが、必ずしも日本型経営が劣っているとも言えないのではないか。
多くの経営者達は、実は「グローバル・スタンダード幻想の罠」に陥っていただけではないのか?98年以降進められていったリストラの嵐が日本にもたらしたものは、一部の拝金主義者の台頭、勝ち組・負け組という差別化、就業意欲のバラツキや低下、失業者の増加、ニートやフリーターの増加、精神疾患患者や自殺者の増加・・・というような悲しい結果だったのではないのか?グローバル化の波に飲まれたのは、実は多くの企業経営者達であり、日本の長所も一緒に捨ててしまったのではないだろうか。
私には経営学的な基礎知識もないし、勿論MBAなどの資格もないです。ですから、経営に関しても(他の色々なことと同様に)素人ですので、論理的に正しいのか分りませんけれども、一応もう少し書いてみます。
成果主義を導入してグローバル・スタンダードな経営を目指したら、結果的には企業収益にも勝ち組と負け組が生じてしまい、雇用形態が勝ち負けに直結したとも考えられないですね。単純に経営陣の質の問題なのではないか、とも感じる。資産(それとも資本?)の最大効率化を目指したのは良いが、結果的には人的資源を活かす道を見つけられずに余剰人員をリストラし、不動産を売ったり持合株式を売ったりして必死に集めた金を、有効に利用することも出来なかったということだ。選択と集中とか言いながら、企業資源(金も人も設備なども)を有効に使って利益を生み出す知恵が不足していたということなんだろう。「グローバル・スタンダード幻想」に一斉に取り付かれた企業経営者達が、突如として日本型経営を捨て去る方向に走り出してしまったということなんだろう。
日本には日本に合った企業組織文化というのか、仕事の仕方や人間関係があって、それが全て悪い訳でもなく、日本にグローバル・スタンダードを全て取り入れたところで、結果が良くなるかどうかは判らないのではないだろうか。日本の優れた所を同時に失ってしまい、逆効果ということもあるのかもしれないな、と思います。それに、外国企業がやっているのと同じ方法をとるだけならば、先行する企業群には追いつけないということになってしまう。むしろ、「長所を活かす」という視点から考えて、独自の方法をとる部分があってもいいのではないかと思うし、あとは工夫する知恵や向上を目指す意欲が重要で、それが重視されることの方が組織としては力を発揮出来そうな気がするのです。
結局のところ、人的資源が最も大切であり、いい人材を育成できるかどうかが、組織の強さにも繋がると思っています。ただ、折角途中まで育てても、良い具合に育ったところで他の企業に金で釣られてしまって人材が流出するということもありますし、一概には言えない面も存在するのでしょうけれども。初めから名医が存在するわけではないし、新人の鮨職人が一流ということもありません。誰かが、どこかでしっかりと育てていかなければ、優れた人材とはなりません。恐らく企業の中でもそうなんだろうと思います。それには、エネルギーも人的資源も金もかかります。子供の教育と一緒ですね。今の時代には効率化を考えて、人材を育成するよりも、アウトソーシングや短期雇用者などで賄ったりすることが多くなったのではないでしょうか。
まるで「料理をつくるのが非効率的なので、「出来合い」ものを買う」のと似ています。確かにそうですね。味噌汁をわざわざ作らなくても、お湯を入れるだけで「味噌汁」が手に入るわけですから、実際にかかる金額は別として、効率的にやろうと思えば味噌汁を作る意味などない、ということですね。自社で人材育成しなくても「出来合い」で済ませばいい、というのが多くの企業経営者達の考えなんだろうと思います。先頃税調の小委員会かどこかで(正確には忘れました)、手抜き専業主婦を槍玉に挙げ、コンビニ弁当を食事として与えることがえらく非難されていた(「発泡スチロール主婦」みたいな・・・)ように思いますが、企業経営者の考え方、社会全体の風潮そのものが、「出来合い」主義(そんな主義はないでしょうけれども)に染まっているんじゃないか、それが単に家庭内にも反映された結果なんじゃないかと、疑いたくなります。
「女王の教室」に見られた成果主義は、マヤ先生が下す評価が重要であり、本来の「学ぶ」という目的を忘れて、ご褒美(言ってみれば自分の得点)を貰うことが目的化してしまった児童達として愚かしく描かれていました(と私は感じました)。今の企業やそこで働く多くの大人たちの姿が、ダブりました。何かを忘れているんじゃないか、何かを失ったんじゃないか、と。
経済学的、或いは経営学的な正当性については、専門の方々が研究して頂ければよいと思いますが、あまり時間がかかると雇用の面では好影響となるのが遅れますね(なので、早く学者内での結論が欲しいところです)。日本企業の優れた企業文化を棄てたのは、果たして正しかったのでしょうか?