私は「釣り」には全く興味がないのだが(子供の頃、ちょこっとやってみただけ)、多くの大人たちの心を掴んでいたりする不思議な趣味である。この楽しみが私には判らないので、悲しむべきことなんだろうけど、好きな人にとっては「どうしてなのかな?」と思うに違いない。釣りがいいとか悪いとかそういうことではなくて、熱中している人たちはきっと色々な工夫をしたり、本を読んだりして研究したり、実践的な経験を積んだりしていることだろう。それは強要されるものでもなく、自ら進んでそういうことをやるだろう。
とある釣りの好きな人がいるとして、その人は一度も釣りに行ったことがなく、本とかの知識だけしかなく、実際の竿を扱ったこともないが、「釣り」に関する知識だけは凄く詳しいとしよう。どれほど他の人よりも知識が優れていたとしても、この人は果たして「釣り」を人に教えたり出来るのだろうか?この人は、全くの実体験がないけれども、新たな擬餌を考え付いたり、うまい誘き寄せ方法を思いついたり出来るのだろうか?このような仮定は果たして意味があるのかどうか、判らないのであるが。
私は教育とかの専門的な考えや理論を知っている訳ではありません。ですが、著名な大学教授などの言う教育理論というのは、どの程度信頼性のあるものなのか、謎なのです。上の「釣り」の例で言うと、全く「釣り」をやったことがないのに、人に教えられるほど理解出来るものなのだろうか、と。どのくらい一般人のことを理解しているのか、よく判らないのです。
自分が色々な仕事とか作業を実際にやってみると、それまで知らなかったことがたくさんあったりします。先の「釣り」の話でいうところの、頭の中での知識だけ知っていても、実際には役立たないことも多かったりします。いや、知識を知っているかどうか、というレベルではなくて、もっとそれ以前の問題であったりすることが多い、ってことかな。なので、知識を得ることと実際の経験とを組み合わせる方が、上達したり上手くいく方法を考え付いたり出来そうな気がします。子供達に仕事や作業をやらせる、というのは、そういう過程を経験させることで、どういう勉強の仕方がいいのか、どんな知識を得るべきか、今自分の知っている知識を総動員してどのように対処するか、などといった実際的な体験ができるということだと思っています。テストの成績が良いとか悪いとかの話ではなくて、現実の生活に密着した「頭の使い方」だろうな、と思います。仕事をやると、そういう能力獲得に繋がるのではないかと思います。
自分が実際に何かの職業についてから、「学校でもっとこういう勉強をしておけば良かった」などと思うこともたくさん出てきます。自分が学生の時には、そういうことが中々判らないのです。「どうして~を勉強しておかなかったのか」「昔、授業で言ってたような気がするけど、すっかり忘れた」とか、そういう後悔が起こってしまいがちです。なので、自分の若かりし頃の勤勉とは対極にあった姿勢とか、不真面目さを呪うこととなります(笑)。でもこれは、自分が実際に仕事などをしたり、社会的な経験を積んでいくうちに判ることであり、自分で気付かないと勉強する動機とはならないのです。そういう結果になることを予め判っている人が、如何に「若いうちに勉強しておいた方がいいよ」とか、「~~は後々大事だから、よく勉強しなさい」というような暖かいアドバイスをしてくれても、その時の自分にはそれが理解出来ない為に、小言に聞えたり、単に耳が痛かったりするだけで、「どうやったら勉強しなくて済むか」という別な方向に知恵を働かせようとすることになるのです(笑)。でも、ずーっと後になってから、「ああ、こんなのも面白いんだな」ということが実際の体験に裏打ちされた状態で出てきたりするので、特別に他人から「~~を勉強しなさい」などと求められなくても自分で勝手にやろうとするのではないかと思います。「釣り」の話で言うと、学生の頃は「生物」という学問など何の興味も無かったのに、趣味というキッカケで自然に勉強してみたいと思えるようになることもある、ということです。
ですから、学校での職業的な教育というのは、それをやることで特別な職業能力が身について社会に出た時に直ぐに役立つ、とか、そういう即効性のあるものでもないと思いますし、万人が同じようなレベルで職業的な能力を獲得出来る、ということではないと思っています。仮に料理に関する技術を学校で教わったとしても、全員が料理人になる訳ではないのですから。パソコンだとか、経営やらマーケティング等を学習したとしても、みんながそういう分野の仕事に就く訳ではないのですし。そうではなくて、何でもいいと思いますが、現実の「仕事」とか「作業」を通じて、実際に自分の頭と体と少ないなりの知恵を使ったりして、ちょっと苦労しながらやってみることで、「なるほど」とか思えたり、後に自己の発見に繋がることがあるかもしれないし、自分では気付いていなかった意外な向き・不向きが認識出来るかもしれないし、何かの自信形成のキッカケに繋がるかもしれない。そういうことを期待して、職業的な学習というものをやることには意味があるのではないかな、と思っています。
今は学校を卒業してから、そういうことを各個人レベルで行っているような感じで、もう少し準備を早く行う方がいいと思います。仕事は人間を成長させてくれると思います。人間を鍛えてくれたり、育ててくれると思います。
またしても変な言い方かもしれませんが、御容赦を。
学校での勉強というのは、ゴルフで言うと、まずは「公式ルール」を全て頭に叩き込め、というところから始まるのです(笑)。やってみないと面白さも分らないのではないかと思うんですけれど、まず「ルールブック」をマスターしなさいとか言う訳です。仕方なくルールブックをひたすら覚え込もうとする訳ですが、「ウォーターハザード」なんて言われても、すぐに忘れる訳です(因みに私はゴルフを一度もやったことがありません)。それは実感がないからですね。多くの素人ゴルファーを奈落の底に落としているであろう、「池ポチャ」という現実の体験を有していれば二度と忘れることはないでしょう(笑)。そういうものです。でも、学校の勉強の多くは、こうした「ルールブックを読め、覚えろ」ということが殆どであり、体験に基づくことが少ないのですね。なので、ゴルフの楽しさも知らないうちに、「オレは嫌いだ」という風なことになりがちではないかと思いますね。大人だって実際にプレーさせてもらえず、ひたすら「ルールブック」の試験ばかりあったら、多くの人がゴルフを毛嫌いするようになってしまうと思います。大体がそういうようなことなのです。ただひたすら、ルールを覚えることが重視され、せいぜいが頭の中で「仮想プレー」をするくらいのものでしょう。誰もコースには立たずに、先生も一度もプレーしたことがないかもしれないが、それでも生徒には「こうやって打つのが基本だ」などと教えたりするんですから(笑)。
しかもこれには続きがあります。ようやく何とかゴルフの「ルールブック」を覚えたら、次は野球の「ルールブック」が用意されているのです。その次はサッカー、次はテニス・・・と継続される訳ですね。ですので、延々と頭の中だけでの「仮想プレー」ばかりが続くのですね。現実の体験を含むということは、ゴルフを自分でプレーしてみて初めてその楽しさも分るし、逆に難しさとか自分の足りないことも分るし、もっと上手くなりたいと思う人も出てくるかもしれないですよね。思いのほかパッティングが上手な子もいるかもしれません。ルールの筆記テストではよく間違えていた子であっても、凄まじいドライバーショットが打てるかもしれないですよね。そういう単純なことで、何かの自信をつけられるかもしれませんね。でも、学校教育の多くは、そうした体験に基づかない勉強を教えられて、ルールブックのテストの点数が重視されがちだと思うのです。
どんな仕事や作業でもいいので、それらを通じて、「ルールブック」(教科書)には載っていない楽しさとか、実際のプレーに興味を持ってもらえるのであれば、それが望ましいと思いますね。ゴルフは嫌いだけれど、野球は興味が持てる、という人がいたっていいし、別な人はサッカーの方がいい、という人がいるかもしれないですし。いずれは社会に出ると、何かのプレーヤーにならねばならないのですから。で、大抵は「そういえば誤球の場合の罰則ってどうだったかな?打ってしまった相手ボールは打つ前の地点に戻されるんだったか?」などと、昔習ったことも忘れていることがあったりして、「もうちょっと勉強しておけば良かった」などと思ったりする訳ですね(笑)。自分自身で実際にプレーしてみると、「やっぱり、必要だな」と感じるので、誰にも言われなくとも「ルールブック」の勉強をもう一回してみよう、と考えるのではないでしょうか。それも、ゴルフの楽しさに惹かれて、実際にプレーするようになれたからですね。学校での「ルールブック」授業だけであったら、二度と勉強してみようなどとは思わなかったかもしれないですね。
ルールブック以上の楽しさということを学校教育の中で体感できたり、興味のキッカケでもなんでもいいので、そういうことが獲得出来るのであれば、やはりそれが望ましいと考えています。実際に何かの体験を通じて「料理人になりたい」と思う人がいるとして、その人がどういう道を歩むは誰にも分りませんね。でも、そういうキッカケがあればいいのです。すし屋の弟子入りをするかもしれないし、ラーメン屋にフリーターとして勤めるかもしれないし、中華街の店に就職するかもしれない、或いはチェーン店の料理人になるかもしれない。どういう選択をするのかは分らないですが、「料理人」の仲間入りは出来るようになると思いますね。
そういう幾つもの選択肢の中から、「フレンチを極めたい」と思うかもしれないですよね。そうであれば、有名なホテルの厨房に勤め口を探すかもしれないし、そういう所で修行をして将来は料理長になるかもしれません。帝国ホテルの料理長のような立派な人になるかもしれないですしね。そういう料理人となるには、恐らく言語(主にフランス語かな?)も、各国の歴史、文化や宗教に至るまで勉強したりせねばならないでしょう。そうでなければ、レシピが書けないからですね。学生時代にはそんなこととは露知らずに過したかもしれないが、料理という仕事を通じて、再び自分の為に―必要に迫られてということの方が正解かもしれないが―勉強することになるかもしれません。勿論、料理人全部がそうだとは申しませんが、仕事とは、多分そういうものであろうと思います。それを求めていく人、自分で考えて決められる人、そういう人は新たな仕事を作り出せるだろうし、常にチャレンジや勉強が必要になってくるでしょう。これは業種というか、職種にはよらないことだろうと思っています。
ですから、仕事というのはどんな職種であっても、中々奥が深いのです。そういうものを若いうちに多少なりとも体験できて、何かの道筋をちょっと感じ取ることが出来れば、きっと新たな自分の発見に役立つでしょう。そして、将来自らの仕事への「誇り」を持てるようになれるなら、真のプロフェッショナルとして育っていくでしょう。
とある釣りの好きな人がいるとして、その人は一度も釣りに行ったことがなく、本とかの知識だけしかなく、実際の竿を扱ったこともないが、「釣り」に関する知識だけは凄く詳しいとしよう。どれほど他の人よりも知識が優れていたとしても、この人は果たして「釣り」を人に教えたり出来るのだろうか?この人は、全くの実体験がないけれども、新たな擬餌を考え付いたり、うまい誘き寄せ方法を思いついたり出来るのだろうか?このような仮定は果たして意味があるのかどうか、判らないのであるが。
私は教育とかの専門的な考えや理論を知っている訳ではありません。ですが、著名な大学教授などの言う教育理論というのは、どの程度信頼性のあるものなのか、謎なのです。上の「釣り」の例で言うと、全く「釣り」をやったことがないのに、人に教えられるほど理解出来るものなのだろうか、と。どのくらい一般人のことを理解しているのか、よく判らないのです。
自分が色々な仕事とか作業を実際にやってみると、それまで知らなかったことがたくさんあったりします。先の「釣り」の話でいうところの、頭の中での知識だけ知っていても、実際には役立たないことも多かったりします。いや、知識を知っているかどうか、というレベルではなくて、もっとそれ以前の問題であったりすることが多い、ってことかな。なので、知識を得ることと実際の経験とを組み合わせる方が、上達したり上手くいく方法を考え付いたり出来そうな気がします。子供達に仕事や作業をやらせる、というのは、そういう過程を経験させることで、どういう勉強の仕方がいいのか、どんな知識を得るべきか、今自分の知っている知識を総動員してどのように対処するか、などといった実際的な体験ができるということだと思っています。テストの成績が良いとか悪いとかの話ではなくて、現実の生活に密着した「頭の使い方」だろうな、と思います。仕事をやると、そういう能力獲得に繋がるのではないかと思います。
自分が実際に何かの職業についてから、「学校でもっとこういう勉強をしておけば良かった」などと思うこともたくさん出てきます。自分が学生の時には、そういうことが中々判らないのです。「どうして~を勉強しておかなかったのか」「昔、授業で言ってたような気がするけど、すっかり忘れた」とか、そういう後悔が起こってしまいがちです。なので、自分の若かりし頃の勤勉とは対極にあった姿勢とか、不真面目さを呪うこととなります(笑)。でもこれは、自分が実際に仕事などをしたり、社会的な経験を積んでいくうちに判ることであり、自分で気付かないと勉強する動機とはならないのです。そういう結果になることを予め判っている人が、如何に「若いうちに勉強しておいた方がいいよ」とか、「~~は後々大事だから、よく勉強しなさい」というような暖かいアドバイスをしてくれても、その時の自分にはそれが理解出来ない為に、小言に聞えたり、単に耳が痛かったりするだけで、「どうやったら勉強しなくて済むか」という別な方向に知恵を働かせようとすることになるのです(笑)。でも、ずーっと後になってから、「ああ、こんなのも面白いんだな」ということが実際の体験に裏打ちされた状態で出てきたりするので、特別に他人から「~~を勉強しなさい」などと求められなくても自分で勝手にやろうとするのではないかと思います。「釣り」の話で言うと、学生の頃は「生物」という学問など何の興味も無かったのに、趣味というキッカケで自然に勉強してみたいと思えるようになることもある、ということです。
ですから、学校での職業的な教育というのは、それをやることで特別な職業能力が身について社会に出た時に直ぐに役立つ、とか、そういう即効性のあるものでもないと思いますし、万人が同じようなレベルで職業的な能力を獲得出来る、ということではないと思っています。仮に料理に関する技術を学校で教わったとしても、全員が料理人になる訳ではないのですから。パソコンだとか、経営やらマーケティング等を学習したとしても、みんながそういう分野の仕事に就く訳ではないのですし。そうではなくて、何でもいいと思いますが、現実の「仕事」とか「作業」を通じて、実際に自分の頭と体と少ないなりの知恵を使ったりして、ちょっと苦労しながらやってみることで、「なるほど」とか思えたり、後に自己の発見に繋がることがあるかもしれないし、自分では気付いていなかった意外な向き・不向きが認識出来るかもしれないし、何かの自信形成のキッカケに繋がるかもしれない。そういうことを期待して、職業的な学習というものをやることには意味があるのではないかな、と思っています。
今は学校を卒業してから、そういうことを各個人レベルで行っているような感じで、もう少し準備を早く行う方がいいと思います。仕事は人間を成長させてくれると思います。人間を鍛えてくれたり、育ててくれると思います。
またしても変な言い方かもしれませんが、御容赦を。
学校での勉強というのは、ゴルフで言うと、まずは「公式ルール」を全て頭に叩き込め、というところから始まるのです(笑)。やってみないと面白さも分らないのではないかと思うんですけれど、まず「ルールブック」をマスターしなさいとか言う訳です。仕方なくルールブックをひたすら覚え込もうとする訳ですが、「ウォーターハザード」なんて言われても、すぐに忘れる訳です(因みに私はゴルフを一度もやったことがありません)。それは実感がないからですね。多くの素人ゴルファーを奈落の底に落としているであろう、「池ポチャ」という現実の体験を有していれば二度と忘れることはないでしょう(笑)。そういうものです。でも、学校の勉強の多くは、こうした「ルールブックを読め、覚えろ」ということが殆どであり、体験に基づくことが少ないのですね。なので、ゴルフの楽しさも知らないうちに、「オレは嫌いだ」という風なことになりがちではないかと思いますね。大人だって実際にプレーさせてもらえず、ひたすら「ルールブック」の試験ばかりあったら、多くの人がゴルフを毛嫌いするようになってしまうと思います。大体がそういうようなことなのです。ただひたすら、ルールを覚えることが重視され、せいぜいが頭の中で「仮想プレー」をするくらいのものでしょう。誰もコースには立たずに、先生も一度もプレーしたことがないかもしれないが、それでも生徒には「こうやって打つのが基本だ」などと教えたりするんですから(笑)。
しかもこれには続きがあります。ようやく何とかゴルフの「ルールブック」を覚えたら、次は野球の「ルールブック」が用意されているのです。その次はサッカー、次はテニス・・・と継続される訳ですね。ですので、延々と頭の中だけでの「仮想プレー」ばかりが続くのですね。現実の体験を含むということは、ゴルフを自分でプレーしてみて初めてその楽しさも分るし、逆に難しさとか自分の足りないことも分るし、もっと上手くなりたいと思う人も出てくるかもしれないですよね。思いのほかパッティングが上手な子もいるかもしれません。ルールの筆記テストではよく間違えていた子であっても、凄まじいドライバーショットが打てるかもしれないですよね。そういう単純なことで、何かの自信をつけられるかもしれませんね。でも、学校教育の多くは、そうした体験に基づかない勉強を教えられて、ルールブックのテストの点数が重視されがちだと思うのです。
どんな仕事や作業でもいいので、それらを通じて、「ルールブック」(教科書)には載っていない楽しさとか、実際のプレーに興味を持ってもらえるのであれば、それが望ましいと思いますね。ゴルフは嫌いだけれど、野球は興味が持てる、という人がいたっていいし、別な人はサッカーの方がいい、という人がいるかもしれないですし。いずれは社会に出ると、何かのプレーヤーにならねばならないのですから。で、大抵は「そういえば誤球の場合の罰則ってどうだったかな?打ってしまった相手ボールは打つ前の地点に戻されるんだったか?」などと、昔習ったことも忘れていることがあったりして、「もうちょっと勉強しておけば良かった」などと思ったりする訳ですね(笑)。自分自身で実際にプレーしてみると、「やっぱり、必要だな」と感じるので、誰にも言われなくとも「ルールブック」の勉強をもう一回してみよう、と考えるのではないでしょうか。それも、ゴルフの楽しさに惹かれて、実際にプレーするようになれたからですね。学校での「ルールブック」授業だけであったら、二度と勉強してみようなどとは思わなかったかもしれないですね。
ルールブック以上の楽しさということを学校教育の中で体感できたり、興味のキッカケでもなんでもいいので、そういうことが獲得出来るのであれば、やはりそれが望ましいと考えています。実際に何かの体験を通じて「料理人になりたい」と思う人がいるとして、その人がどういう道を歩むは誰にも分りませんね。でも、そういうキッカケがあればいいのです。すし屋の弟子入りをするかもしれないし、ラーメン屋にフリーターとして勤めるかもしれないし、中華街の店に就職するかもしれない、或いはチェーン店の料理人になるかもしれない。どういう選択をするのかは分らないですが、「料理人」の仲間入りは出来るようになると思いますね。
そういう幾つもの選択肢の中から、「フレンチを極めたい」と思うかもしれないですよね。そうであれば、有名なホテルの厨房に勤め口を探すかもしれないし、そういう所で修行をして将来は料理長になるかもしれません。帝国ホテルの料理長のような立派な人になるかもしれないですしね。そういう料理人となるには、恐らく言語(主にフランス語かな?)も、各国の歴史、文化や宗教に至るまで勉強したりせねばならないでしょう。そうでなければ、レシピが書けないからですね。学生時代にはそんなこととは露知らずに過したかもしれないが、料理という仕事を通じて、再び自分の為に―必要に迫られてということの方が正解かもしれないが―勉強することになるかもしれません。勿論、料理人全部がそうだとは申しませんが、仕事とは、多分そういうものであろうと思います。それを求めていく人、自分で考えて決められる人、そういう人は新たな仕事を作り出せるだろうし、常にチャレンジや勉強が必要になってくるでしょう。これは業種というか、職種にはよらないことだろうと思っています。
ですから、仕事というのはどんな職種であっても、中々奥が深いのです。そういうものを若いうちに多少なりとも体験できて、何かの道筋をちょっと感じ取ることが出来れば、きっと新たな自分の発見に役立つでしょう。そして、将来自らの仕事への「誇り」を持てるようになれるなら、真のプロフェッショナルとして育っていくでしょう。