前に書いた記事(に、datさん、kechackさん、nao_c/wさんからコメントを頂きまして、またちょっと考えてみました。また、「みそひともじの夢」さんからTB頂いたので、それにもお答えしたいと思います。
まず初めに、「格差」とか「不平等」なんていうものはそもそも存在するのであって、ご指摘を受けたようにそれを完全に無くすことなどできないんじゃないのか、それを殊更無くす必要性もないんじゃないのかな、というのが私の印象です。それに、地方と大都会に違いがあるのは普通で、それも受け入れられないということもないと思いますね。もしも格差が耐え難いものであるならば、人々が出て行ってしまい村や町が消滅していくだけですね。敢えてそこに住むということは、そこに自分達の生活基盤があり、何らかの幸せを見出しているからではなかろうかな、と。都会の人々を強制的に連れてきてまで、田舎に住めということも必要がないと思っています。住みたいところに自由に住めばいいと思いますね。
雇用問題から見てみると、仕事に就けない若者がたくさんいることは事実です。フリーターが企業側の都合によって使われているというのもそうでしょう。でも、企業側には一定の義務(社会保障負担や福利厚生などですね)を果たしてもらうべきですが、まさか全員を義務的に雇えとも言えないですよね。現状では「イス取りゲーム」のイスは限られているわけで、イスの数を増やせる方法を選択しない限り座れない人々が存在することは仕方がありませんね。一方では、イスがあったとしても不人気な仕事であれば敬遠されるし、「自分のやりたい仕事と違う」「給料が安すぎる」とか言うのであれば、他の人達や外国人労働者などにそのイスを奪われても仕方がありませんね。地方には全然仕事のないようなところも実際にあるだろうし、高卒に対する求人というのが全然来ないとかっていうこともあるかもしれません。これは解消が難しい問題であり、本人には責任はないわけですが、もしも家族の働き手が自分しかいない場合には、どんなに遠くであっても、昔の出稼ぎ労働者(今も存在するのかもしれませんが)のように働くしかないでしょう。自分の望まない仕事であろうが何だろうが、一家を食べさせる為には自分が働かねばならない、という気になると思いますね。必死になって「空いているイス」を探すのではないでしょうか。
教育・学歴の格差が色々言われたりしますが、仮に全員大卒まで義務教育にしたとして、その後に今と同じように就職を考えると、学歴なんて無関係に仕事に就けない人々が多分出てくると思いますね。全員が大卒なんですから。結局今と同じようなものなのではないかな、と。そこでの選別は同じ大卒であっても、「行った大学(ブランド)の違いだ」とか「親の職業の違いだ」とか(笑)、また新たな別の「格差」が考えられたりして、就職出来なかった理由として持ち出されるのではないでしょうか。高卒と大卒の違いで仕事に就けなかった、という理由がたとえ消滅したところで、他の不平等が浮上してくるだけでしょうね。
またいつもの変な空想で申し訳ないのですが、ある年の新卒の大学生がいるとしましょう。全国で全く均一に大学教育を受けて、職業教育も受けて、全員の能力が均等であるとしましょう。同じ学年の人々はみんな同じ学歴、能力です。すると、誰が就職して、誰が失業しても同じですね。つまり機械的に個々に仕事を割り当てていき、余った人達に失業とかニートとかの役割を与えるのです。クジでも何でもいいです。すると、「余らない」という方法を実行しない限り、誰かが必ずイスから滑り落ちてしまいます。仕事に就くことが出来た人達でも、大企業勤務とか、銀行員、官僚、弁護士とかの高給取りがいる一方で、その何倍かの中小企業勤務とか安い給料の仕事の人たちも当然存在しますね。全員、機会も教育も全て平等ですよね?でも、こういう結果は生まれてしまいます。教育が不平等だからとか、機会が不平等だからではありませんね。ある程度は仕方がないことなのではないでしょうか。
結局、一般に多くの人達がなりたいと考えている仕事は競争率が高いかもしれず、誰かがそのイスを獲って座ってしまえば、他の人達がそこに座れないのです。溢れた人達は、たとえ座りたくないかもしれないが別なイスに座るしかなく、それでも「座れる人はまだいい」とかってイスに座れない人達からは言われたりするんですね。女子アナのような人気の仕事であれば、2千人だか数千人に1人とかっていうレベルでの激しい競争ですし、他にも人気企業の就職には何十倍か何百倍か知りませんが、そういうレベルでイス取りゲームが繰り広げられるわけですね。そこに漏れてしまうのは、しょうがないんですよ。大多数が漏れるんですから。で、人気の高いイスから埋まっていき、段々残りのイスは減っていくし、人気がないイスとか自分の好みではないイスしか空いてない、ということになります。そこで「座れるから座ってみよう」と考えるか、信念を貫いて「自分の好みのイスを獲るまで待つ」かを選択することになります。立ったままでは足にもいずれ限界が訪れるかもしれないけれど。
フリーターになってしまうと、その後の就業に支障を来たす可能性も有り得ますが、これを不利とする企業ばかりではありません。フリーターから正規社員になっている人達も、割合は多いとは言えませんが存在します。「クジ運」のような違いなのでしょうか?実際のところがよく判らないのです。非正規雇用の問題というのは確かにありますが、不平等や格差のせいなのかというと、そうでもないようにも思えます。
以前から述べているように、個人の様々な違いがあることが、丁度うまくいくのではないかとしか思えず、それは多様性ということに裏打ちされると思います。それは価値観の違いなのではないのかな、とも言えます。不平等や格差に原因を求め続ける限り、それをたとえ解消できても次の不平等を生み出すということの繰り返しに過ぎないのであり、それらの完全解消などに大きな意味を見出すことにも疑問しか浮かんでこないのです。
まず初めに、「格差」とか「不平等」なんていうものはそもそも存在するのであって、ご指摘を受けたようにそれを完全に無くすことなどできないんじゃないのか、それを殊更無くす必要性もないんじゃないのかな、というのが私の印象です。それに、地方と大都会に違いがあるのは普通で、それも受け入れられないということもないと思いますね。もしも格差が耐え難いものであるならば、人々が出て行ってしまい村や町が消滅していくだけですね。敢えてそこに住むということは、そこに自分達の生活基盤があり、何らかの幸せを見出しているからではなかろうかな、と。都会の人々を強制的に連れてきてまで、田舎に住めということも必要がないと思っています。住みたいところに自由に住めばいいと思いますね。
雇用問題から見てみると、仕事に就けない若者がたくさんいることは事実です。フリーターが企業側の都合によって使われているというのもそうでしょう。でも、企業側には一定の義務(社会保障負担や福利厚生などですね)を果たしてもらうべきですが、まさか全員を義務的に雇えとも言えないですよね。現状では「イス取りゲーム」のイスは限られているわけで、イスの数を増やせる方法を選択しない限り座れない人々が存在することは仕方がありませんね。一方では、イスがあったとしても不人気な仕事であれば敬遠されるし、「自分のやりたい仕事と違う」「給料が安すぎる」とか言うのであれば、他の人達や外国人労働者などにそのイスを奪われても仕方がありませんね。地方には全然仕事のないようなところも実際にあるだろうし、高卒に対する求人というのが全然来ないとかっていうこともあるかもしれません。これは解消が難しい問題であり、本人には責任はないわけですが、もしも家族の働き手が自分しかいない場合には、どんなに遠くであっても、昔の出稼ぎ労働者(今も存在するのかもしれませんが)のように働くしかないでしょう。自分の望まない仕事であろうが何だろうが、一家を食べさせる為には自分が働かねばならない、という気になると思いますね。必死になって「空いているイス」を探すのではないでしょうか。
教育・学歴の格差が色々言われたりしますが、仮に全員大卒まで義務教育にしたとして、その後に今と同じように就職を考えると、学歴なんて無関係に仕事に就けない人々が多分出てくると思いますね。全員が大卒なんですから。結局今と同じようなものなのではないかな、と。そこでの選別は同じ大卒であっても、「行った大学(ブランド)の違いだ」とか「親の職業の違いだ」とか(笑)、また新たな別の「格差」が考えられたりして、就職出来なかった理由として持ち出されるのではないでしょうか。高卒と大卒の違いで仕事に就けなかった、という理由がたとえ消滅したところで、他の不平等が浮上してくるだけでしょうね。
またいつもの変な空想で申し訳ないのですが、ある年の新卒の大学生がいるとしましょう。全国で全く均一に大学教育を受けて、職業教育も受けて、全員の能力が均等であるとしましょう。同じ学年の人々はみんな同じ学歴、能力です。すると、誰が就職して、誰が失業しても同じですね。つまり機械的に個々に仕事を割り当てていき、余った人達に失業とかニートとかの役割を与えるのです。クジでも何でもいいです。すると、「余らない」という方法を実行しない限り、誰かが必ずイスから滑り落ちてしまいます。仕事に就くことが出来た人達でも、大企業勤務とか、銀行員、官僚、弁護士とかの高給取りがいる一方で、その何倍かの中小企業勤務とか安い給料の仕事の人たちも当然存在しますね。全員、機会も教育も全て平等ですよね?でも、こういう結果は生まれてしまいます。教育が不平等だからとか、機会が不平等だからではありませんね。ある程度は仕方がないことなのではないでしょうか。
結局、一般に多くの人達がなりたいと考えている仕事は競争率が高いかもしれず、誰かがそのイスを獲って座ってしまえば、他の人達がそこに座れないのです。溢れた人達は、たとえ座りたくないかもしれないが別なイスに座るしかなく、それでも「座れる人はまだいい」とかってイスに座れない人達からは言われたりするんですね。女子アナのような人気の仕事であれば、2千人だか数千人に1人とかっていうレベルでの激しい競争ですし、他にも人気企業の就職には何十倍か何百倍か知りませんが、そういうレベルでイス取りゲームが繰り広げられるわけですね。そこに漏れてしまうのは、しょうがないんですよ。大多数が漏れるんですから。で、人気の高いイスから埋まっていき、段々残りのイスは減っていくし、人気がないイスとか自分の好みではないイスしか空いてない、ということになります。そこで「座れるから座ってみよう」と考えるか、信念を貫いて「自分の好みのイスを獲るまで待つ」かを選択することになります。立ったままでは足にもいずれ限界が訪れるかもしれないけれど。
フリーターになってしまうと、その後の就業に支障を来たす可能性も有り得ますが、これを不利とする企業ばかりではありません。フリーターから正規社員になっている人達も、割合は多いとは言えませんが存在します。「クジ運」のような違いなのでしょうか?実際のところがよく判らないのです。非正規雇用の問題というのは確かにありますが、不平等や格差のせいなのかというと、そうでもないようにも思えます。
以前から述べているように、個人の様々な違いがあることが、丁度うまくいくのではないかとしか思えず、それは多様性ということに裏打ちされると思います。それは価値観の違いなのではないのかな、とも言えます。不平等や格差に原因を求め続ける限り、それをたとえ解消できても次の不平等を生み出すということの繰り返しに過ぎないのであり、それらの完全解消などに大きな意味を見出すことにも疑問しか浮かんでこないのです。