以前の記事にコメントを頂いていまして、この問題については色々な人の関心が高く、また社会全体としても重要な問題であると思います。
ですので、今までにも随分と書いてきましたが、もう一度自分の考えを整理してみようと思う。
1)よく見られるニート批判、若年層への批判のこと
まず、前提となる認識としては、大半の若者は従来通り就職して、働き生活している、ということ。しかしながら、他の年代の人たちに比べると、フリーターなどの正規雇用ではない割合の人たちが相対的に多く、このままいくと将来時点で社会的に多大なコストを払う結果となるだろう。問題が存在するということは、社会的に共通の認識であると思われる。これに対しては、行政も取り組みを開始しており、施策という面でも不要とは考えられていない。
ニートという括りで批判するな、という意見に対しては理解できる。若年層の就労意欲などの面でも、「今の若いヤツラは・・・」という定型的なレッテルというものへの反発も理解できる。しかし、一般の人々にとっては、「正規に就業している若者」と「ひきこもり」(と従来呼ばれる人々)、「無業者」や「フリーター」の差が生まれた要因の区別はつきにくい、ということはある。これは当事者にしかその個々の事情というものが見えないからだと思われる。「この人は何故働いていないのか」という素朴な疑問について、クリアな答えはない。それは、批判する側の「ひと括り」と同じく、当事者たちにも「ひと括り」の反論というものが存在しないからであろう。「若年無業者=やる気のない若者」と単純には言えない、というのと同じように、「若年無業者=やる気はあるが残念ながら格差社会の悪システムの結果によって虐げられし若者」と単純には言えないと思われる。
「何故働いていないのか」の問いに対して、一様に「本人は何も悪くはないのに、悪しき社会システムのせいだ」という理由で説明することは困難である。では、そこには「どんな違いがあったのか?」という部分が出てくるはずである。それが個々のレベルでの教育であったり、それまでの生き方・過し方であったりするのだと思う。社会システムが違っていた訳でもないにも関わらず、ある人は就職して親に仕送りをしているのに、別な人は部屋に閉じこもったままで何年も過しているとなれば、後者に対して「一生自力で生きて行ってくれ」と多くの人は考えるのではなかろうか。そのような状況の人が存在する理由として、全て「社会システムのせいだ」と断ずることはできるだろうか?
私が「人間力」を肯定する大きな理由としては、教育の影響力が大きいと考えていることと、どのような環境に置かれても自分で考え適応したり行動できたりすることが重要だと考えているからである。また、資源小国としての日本は、人材がなにものにも換え難い最も貴重な資源であると思うからである。当然エリートも必要だと思っている。そのエリートに課せられるのは、「他の人々よりもさらに重い責務」である。
先日のWBCで日本は優勝できたが、これだって一種の「野球エリート」が選抜されてきたからである。長い時間と努力の積み重ねでしか世界に通用する人材を育てることはできない。野球での成功者たち(一般にはメジャーリーガーとかプロ野球選手)は、ほんのごく一部の人たちしかなれない。少年野球から始まって、中学・高校・大学などの野球で鍛えられ、特に選ばれた人だけがプロに進める。もしも野球人口が30人くらいしかいなかったら、小さいころからずーっと専門に練習していけばそこそこの選手にはなれるかもしれないが、今のような何万人という人材の中から競争で選抜されたトップクラスの選手のようにはなれないかもしれない(勿論、稀には天才的な人材も出てくるだろうと思うが)。こうした競争で日本球界全体のレベルアップが図られていなければ、真のエリートは誕生しないのである。そういう選抜システムが長い時間をかけて出来上がってきたからこそ、世界に通用するような選手が育ったのである。これは野球に限らず、他のことも同じだろうと思う。そういう人材を育成していけるような教育は必要であると考えている。このような選抜方式(プロになれる人となれない人がいる=勝ち組・負け組、途中には過酷な競争がある)が悪い、一部の者だけが成功するのはズルイんだ、という考え方の人々は「格差だ」「不平等だ」などと言うかもしれないが。
「定型的なニート批判はするな」というのは正しいかもしれないが、一方では「定型的な擁護はするな」というのも同じではないかと思う。従って、「失業・ニート・フリーター」等を、何でもかんでも「格差のせいだ」「社会システムのせいだ」などと自分以外に理由を求めることには強い違和感を覚える。マクロで見れば結果的にはそうかもしれない。だが、各個人レベルで「今はデフレだから、オレはニートなんだ」なんて、判別可能なのだろうか?
例えばフリーターを200万人集めてきたら、経済環境によって100万人が不本意ながらフリーターとなってしまったかもしれないから、景気が好転すればフリーターから正規の仕事に就けるようになれるとしても、他の100万人は環境が改善してもやっぱりフリーターのまま変わらないのだ。その区分をすることは、個人レベルで見れば容易ではないと思う。自分がどちらの100万人に入るのかさえ不明なことが多いのではないか。当事者たちの多くは「いい会社に入りたい」と願い、「仕方なくフリーターなのだ」と考えていると思う。フリーターを続ける人と正規雇用になる人の違いは、結局何なのか?「何に原因を求める」のだろう?
運?住んでる地域?親の仕事や収入?学歴?
それとも、「人間力」デスカ?(笑)
こういう問いに何かの答えを求めようと思っても、最終的には無意味な論争になるだけかもしれない。
そもそも、生き方の問題なのだから、他人がとやかく言えるものではないだろう。当然、本人の自由だ。しかし、それには制限がある。自由とは、基本的に自分のことには自分で責任を取ってもらう、というのが本当の自由だ。「働かないので貧乏だ」ということも、将来「貯金がなくて、年金もないので貧乏だ」ということも、本来は自分で責任を取れ、ということ。それが受け入れられないならば、働くべきだということ。厳しいことを言うようだが、そうでなければニート対策に予算が何十億円も貼り付けられている一方で、安い賃金でも真面目に働いている大勢の若者たちには予算が与えられていないとなれば、働いている人々から不満が出てくるのは当然であろう。
決め付け的な批判をする側に文句を言うことは無駄ではないが、反論自体がナマヌルイ擁護論でしかない部分もあると思う。「無業者になっているのにはワケがあるんだ!」といくら力説されてみても、社会全体としては「そーでしたか。じゃあ、あとは頑張ってくれ」としか言いようがない。「オレの家が貧乏だったから、私立に行く金が無かったんだ。満足な教育も受けられなかったんだ。それでいい仕事にもありつけないのさ」と事情を聞いたところで、聞かされた方はどうしたらよいか?仕事を提供してあげるのか?行きたい学校に行かせてあげるのか?この辺に難しさがあると思う。「事情はよく分りました。残念でしたね。それで?」という反応だと、どうなのだろう?
勝手な推測になってしまうが、「恵まれない境遇」に何かの支援を求めているということなのではないだろうか。そうでなければ、不遇を問題視する意味があまりないからだ。逆に、事情を聞かされた人間が、「こうやりゃ、仕事にありつけるぞ」とか、「甘えてんだろ」とかのお説教(笑)をしたりすることは、「その批判が間違っているんだよ」と言われるのだから無意味である。であれば、批判する側は「放置」しておけばそれで済むはずであり、別に批判してもしなくても当事者たちは変わることなくそれぞれが「自力で頑張る」だけだろうから、批判するのを止めればそれで済む問題なのではないだろうか。
2)教育について
これは、失業、ニートやフリーター対策ということからは、ある程度距離を置いて考えておく方がよいと思われる。なぜならば、本来教育問題であるものが、格差問題やニート批判問題などに発展していくだけであり、しかもそこには個別の価値観や事例がそれこそ星の数ほど出てきてしまうためだ。そうなると、問題がより複雑化する、ということになってしまう。
教育の問題は単に就業問題ということばかりではないが、将来の職業的な能力にも関連するので誰もが重要性については認識しているだろう。現状では教育制度に多くの不安があると思われ、企業側にも不満に思っていることは少なくないだろう。ただ、実用的な能力ばかりを重視する傾向には注意が必要だろう。実用的な知識というのは、実践の場では思ったほど「役に立たない」ことも多いのである。
実践的・実技的な教育というのは、個人の志向を探ったりするとか、意外な適応性や何かの自信を持たせられるといったことには、意味があるかもしれない。教育学の専門的な評価ではないので、あくまで個人的な思いつきの域を出ないものではあるが。
いずれにしても、現在の教育制度の改革が必要、ということは多くの指摘があるので、今後どのような方法が良いのか具体的な方法が提示されるだろう。
3)社会保障制度
これについても何度も書いてきた。なので、しつこい感じがするかもしれないが。
第一に、現在の労働者の大きな問題は、非正規雇用の労働者は殆どが労働者の権利を守られることがない、ということだ。これは若年労働者に限らない大きな問題である。ここには明らかに「格差」が存在している。パートやフリーターなどの労働者では、長時間勤務も稀ではない。週40時間以上の勤務となっている人も実際に存在している。正規雇用者が40時間で、非正規雇用者も同じくらい勤務しているのに、社会保障も有給休暇も福利厚生も全く違うものとなっているならば、こうした格差は是正されるべきである。企業側はこうした非正規雇用を都合よく利用しているに過ぎないという面がある。年金・健康保険・介護保険・労働保険を意図的に逃れているということでもある。その結果、パート・フリーター等においては年金もなければ雇用保険もない、という状況となっている。まさに「無駄働き」のようなものだ。正規雇用者であれば、どちらの権利も享受できるのに、だ。
こうした企業の「責任逃れ」については、政策的に変えていくべきで、個人個人への支払い義務ではなく、「給与総額」に対して応分の負担を求める、ということが必要と考える。それによって、社会保障負担の上で、企業側は「正規・非正規」の区別の必要がなくなり、労働者の待遇格差は縮小される。勤務時間と給与水準の違い、ということで、「働き方」に幅が出てくるだろうと推測している。つまり、例えば「子育てをしたいから週10時間程度の勤務としたい」という人もいれば、「ダンナの給料が安いので30時間以上働きたい」という人もいるかもしれないし(笑)。一元化された社会保障制度が確立されていることが必要であり、それによって働き方による不平等感はかなり解消されると思う。
4)経済政策
失業率の問題というのは、主に97年以降の変化によってもたらされた。特に若年層へのしわ寄せというのが相当の圧力となってしまった。若年層では10%超にも及ぶ失業率となった。これは経済失政による結果であると言える。殊に「デフレ」という失業を生み出す経済環境においては、若年層に多くの犠牲を強いることとなった。上では若年層には厳しいことを書いたのだが、経済政策に関しては個人でどうこうできる問題ではないのである。犠牲者が誰になるかは不明だが、「犠牲者を大量に出す」ということだけは判っているのである。それが、長く続いたデフレによってもたらされた、強いダメージなのだ。
今後はデフレを脱却して、インフレ傾向になるかもしれないが、低いインフレ率であれば失業率は大きくは改善しない。逆に、物価が上昇することで、仕事に就ける人の数は増やせるのだ。多くのフリーターも救済される可能性が出てくる。ただ、そこで自分が希望する通りに抜け出せるかどうかは、個人レベルの問題となる。何十万人かの求人需要は生まれるかもしれないが、どの人がその「イス」に座れるかは不明なのだ。そこでは競争もあれば、厳しい選別もあるかもしれない。格差の存在がそれを決めるとも言えないのではないだろうか。
5)最後に
こうした背景があるのであるから、日銀や政府は「失業率で~%を目標に改善する」という決意表明くらい必要だろうと思っている。それに日銀は協力するべきなのである。一定水準の物価上昇の効果によって、金融政策の調節性は高まるはずなのだが。利上げによって早期に失業率改善効果の芽を摘み取ろうとしているならば、断固として反対の意を唱えるべきである。非正規雇用の労働者たちが労組を組織して、既得権者である正規雇用者たちとの対決姿勢(いうなれば仕事や賃金の奪い合い)となれば、喜ぶのは企業や日銀である。真に対決するべきは「政策決定者たち」と、制度に便乗して負担を回避している「企業」であることをもう一度確認するべきであろう。
しかしながら、対決といっても、昔のような左翼的運動の延長みたいに、「資本家を糾弾せよ」というような安易な対決姿勢では問題解決からは遠のくだけである。スト突入といった労働争議も、実は自らの首を絞めるだけなのだ。休業等によって失われる利益の分は、回りまわって必ず自らの賃金に跳ね返ってくるからである。無用な紛争コストを減らすように、労使双方が協力することが結果的に得策なのだ、ということに早く気づくべきだろう。
「権利を獲得せよ・権利を守れ」という妥協のない強硬な主張を繰り広げれば、結果として他の労働者たちを排除することになる可能性はある。できるだけ企業は社会全体に対してプラスになるように負担をしていき(従来の正規・非正規に関わらず社会保障負担を行うことで財政貢献に資する)、一方労働者たちの権利を最低限守るべきところは確保し、労働者たちは仕事の質や会社への貢献によって応えることを目指すべきだろう。賃金増加は自分の仕事の内容が良ければ、自ずと増えるはずであろう(と思うけど?どうなんでしょうか・・・)。
ですので、今までにも随分と書いてきましたが、もう一度自分の考えを整理してみようと思う。
1)よく見られるニート批判、若年層への批判のこと
まず、前提となる認識としては、大半の若者は従来通り就職して、働き生活している、ということ。しかしながら、他の年代の人たちに比べると、フリーターなどの正規雇用ではない割合の人たちが相対的に多く、このままいくと将来時点で社会的に多大なコストを払う結果となるだろう。問題が存在するということは、社会的に共通の認識であると思われる。これに対しては、行政も取り組みを開始しており、施策という面でも不要とは考えられていない。
ニートという括りで批判するな、という意見に対しては理解できる。若年層の就労意欲などの面でも、「今の若いヤツラは・・・」という定型的なレッテルというものへの反発も理解できる。しかし、一般の人々にとっては、「正規に就業している若者」と「ひきこもり」(と従来呼ばれる人々)、「無業者」や「フリーター」の差が生まれた要因の区別はつきにくい、ということはある。これは当事者にしかその個々の事情というものが見えないからだと思われる。「この人は何故働いていないのか」という素朴な疑問について、クリアな答えはない。それは、批判する側の「ひと括り」と同じく、当事者たちにも「ひと括り」の反論というものが存在しないからであろう。「若年無業者=やる気のない若者」と単純には言えない、というのと同じように、「若年無業者=やる気はあるが残念ながら格差社会の悪システムの結果によって虐げられし若者」と単純には言えないと思われる。
「何故働いていないのか」の問いに対して、一様に「本人は何も悪くはないのに、悪しき社会システムのせいだ」という理由で説明することは困難である。では、そこには「どんな違いがあったのか?」という部分が出てくるはずである。それが個々のレベルでの教育であったり、それまでの生き方・過し方であったりするのだと思う。社会システムが違っていた訳でもないにも関わらず、ある人は就職して親に仕送りをしているのに、別な人は部屋に閉じこもったままで何年も過しているとなれば、後者に対して「一生自力で生きて行ってくれ」と多くの人は考えるのではなかろうか。そのような状況の人が存在する理由として、全て「社会システムのせいだ」と断ずることはできるだろうか?
私が「人間力」を肯定する大きな理由としては、教育の影響力が大きいと考えていることと、どのような環境に置かれても自分で考え適応したり行動できたりすることが重要だと考えているからである。また、資源小国としての日本は、人材がなにものにも換え難い最も貴重な資源であると思うからである。当然エリートも必要だと思っている。そのエリートに課せられるのは、「他の人々よりもさらに重い責務」である。
先日のWBCで日本は優勝できたが、これだって一種の「野球エリート」が選抜されてきたからである。長い時間と努力の積み重ねでしか世界に通用する人材を育てることはできない。野球での成功者たち(一般にはメジャーリーガーとかプロ野球選手)は、ほんのごく一部の人たちしかなれない。少年野球から始まって、中学・高校・大学などの野球で鍛えられ、特に選ばれた人だけがプロに進める。もしも野球人口が30人くらいしかいなかったら、小さいころからずーっと専門に練習していけばそこそこの選手にはなれるかもしれないが、今のような何万人という人材の中から競争で選抜されたトップクラスの選手のようにはなれないかもしれない(勿論、稀には天才的な人材も出てくるだろうと思うが)。こうした競争で日本球界全体のレベルアップが図られていなければ、真のエリートは誕生しないのである。そういう選抜システムが長い時間をかけて出来上がってきたからこそ、世界に通用するような選手が育ったのである。これは野球に限らず、他のことも同じだろうと思う。そういう人材を育成していけるような教育は必要であると考えている。このような選抜方式(プロになれる人となれない人がいる=勝ち組・負け組、途中には過酷な競争がある)が悪い、一部の者だけが成功するのはズルイんだ、という考え方の人々は「格差だ」「不平等だ」などと言うかもしれないが。
「定型的なニート批判はするな」というのは正しいかもしれないが、一方では「定型的な擁護はするな」というのも同じではないかと思う。従って、「失業・ニート・フリーター」等を、何でもかんでも「格差のせいだ」「社会システムのせいだ」などと自分以外に理由を求めることには強い違和感を覚える。マクロで見れば結果的にはそうかもしれない。だが、各個人レベルで「今はデフレだから、オレはニートなんだ」なんて、判別可能なのだろうか?
例えばフリーターを200万人集めてきたら、経済環境によって100万人が不本意ながらフリーターとなってしまったかもしれないから、景気が好転すればフリーターから正規の仕事に就けるようになれるとしても、他の100万人は環境が改善してもやっぱりフリーターのまま変わらないのだ。その区分をすることは、個人レベルで見れば容易ではないと思う。自分がどちらの100万人に入るのかさえ不明なことが多いのではないか。当事者たちの多くは「いい会社に入りたい」と願い、「仕方なくフリーターなのだ」と考えていると思う。フリーターを続ける人と正規雇用になる人の違いは、結局何なのか?「何に原因を求める」のだろう?
運?住んでる地域?親の仕事や収入?学歴?
それとも、「人間力」デスカ?(笑)
こういう問いに何かの答えを求めようと思っても、最終的には無意味な論争になるだけかもしれない。
そもそも、生き方の問題なのだから、他人がとやかく言えるものではないだろう。当然、本人の自由だ。しかし、それには制限がある。自由とは、基本的に自分のことには自分で責任を取ってもらう、というのが本当の自由だ。「働かないので貧乏だ」ということも、将来「貯金がなくて、年金もないので貧乏だ」ということも、本来は自分で責任を取れ、ということ。それが受け入れられないならば、働くべきだということ。厳しいことを言うようだが、そうでなければニート対策に予算が何十億円も貼り付けられている一方で、安い賃金でも真面目に働いている大勢の若者たちには予算が与えられていないとなれば、働いている人々から不満が出てくるのは当然であろう。
決め付け的な批判をする側に文句を言うことは無駄ではないが、反論自体がナマヌルイ擁護論でしかない部分もあると思う。「無業者になっているのにはワケがあるんだ!」といくら力説されてみても、社会全体としては「そーでしたか。じゃあ、あとは頑張ってくれ」としか言いようがない。「オレの家が貧乏だったから、私立に行く金が無かったんだ。満足な教育も受けられなかったんだ。それでいい仕事にもありつけないのさ」と事情を聞いたところで、聞かされた方はどうしたらよいか?仕事を提供してあげるのか?行きたい学校に行かせてあげるのか?この辺に難しさがあると思う。「事情はよく分りました。残念でしたね。それで?」という反応だと、どうなのだろう?
勝手な推測になってしまうが、「恵まれない境遇」に何かの支援を求めているということなのではないだろうか。そうでなければ、不遇を問題視する意味があまりないからだ。逆に、事情を聞かされた人間が、「こうやりゃ、仕事にありつけるぞ」とか、「甘えてんだろ」とかのお説教(笑)をしたりすることは、「その批判が間違っているんだよ」と言われるのだから無意味である。であれば、批判する側は「放置」しておけばそれで済むはずであり、別に批判してもしなくても当事者たちは変わることなくそれぞれが「自力で頑張る」だけだろうから、批判するのを止めればそれで済む問題なのではないだろうか。
2)教育について
これは、失業、ニートやフリーター対策ということからは、ある程度距離を置いて考えておく方がよいと思われる。なぜならば、本来教育問題であるものが、格差問題やニート批判問題などに発展していくだけであり、しかもそこには個別の価値観や事例がそれこそ星の数ほど出てきてしまうためだ。そうなると、問題がより複雑化する、ということになってしまう。
教育の問題は単に就業問題ということばかりではないが、将来の職業的な能力にも関連するので誰もが重要性については認識しているだろう。現状では教育制度に多くの不安があると思われ、企業側にも不満に思っていることは少なくないだろう。ただ、実用的な能力ばかりを重視する傾向には注意が必要だろう。実用的な知識というのは、実践の場では思ったほど「役に立たない」ことも多いのである。
実践的・実技的な教育というのは、個人の志向を探ったりするとか、意外な適応性や何かの自信を持たせられるといったことには、意味があるかもしれない。教育学の専門的な評価ではないので、あくまで個人的な思いつきの域を出ないものではあるが。
いずれにしても、現在の教育制度の改革が必要、ということは多くの指摘があるので、今後どのような方法が良いのか具体的な方法が提示されるだろう。
3)社会保障制度
これについても何度も書いてきた。なので、しつこい感じがするかもしれないが。
第一に、現在の労働者の大きな問題は、非正規雇用の労働者は殆どが労働者の権利を守られることがない、ということだ。これは若年労働者に限らない大きな問題である。ここには明らかに「格差」が存在している。パートやフリーターなどの労働者では、長時間勤務も稀ではない。週40時間以上の勤務となっている人も実際に存在している。正規雇用者が40時間で、非正規雇用者も同じくらい勤務しているのに、社会保障も有給休暇も福利厚生も全く違うものとなっているならば、こうした格差は是正されるべきである。企業側はこうした非正規雇用を都合よく利用しているに過ぎないという面がある。年金・健康保険・介護保険・労働保険を意図的に逃れているということでもある。その結果、パート・フリーター等においては年金もなければ雇用保険もない、という状況となっている。まさに「無駄働き」のようなものだ。正規雇用者であれば、どちらの権利も享受できるのに、だ。
こうした企業の「責任逃れ」については、政策的に変えていくべきで、個人個人への支払い義務ではなく、「給与総額」に対して応分の負担を求める、ということが必要と考える。それによって、社会保障負担の上で、企業側は「正規・非正規」の区別の必要がなくなり、労働者の待遇格差は縮小される。勤務時間と給与水準の違い、ということで、「働き方」に幅が出てくるだろうと推測している。つまり、例えば「子育てをしたいから週10時間程度の勤務としたい」という人もいれば、「ダンナの給料が安いので30時間以上働きたい」という人もいるかもしれないし(笑)。一元化された社会保障制度が確立されていることが必要であり、それによって働き方による不平等感はかなり解消されると思う。
4)経済政策
失業率の問題というのは、主に97年以降の変化によってもたらされた。特に若年層へのしわ寄せというのが相当の圧力となってしまった。若年層では10%超にも及ぶ失業率となった。これは経済失政による結果であると言える。殊に「デフレ」という失業を生み出す経済環境においては、若年層に多くの犠牲を強いることとなった。上では若年層には厳しいことを書いたのだが、経済政策に関しては個人でどうこうできる問題ではないのである。犠牲者が誰になるかは不明だが、「犠牲者を大量に出す」ということだけは判っているのである。それが、長く続いたデフレによってもたらされた、強いダメージなのだ。
今後はデフレを脱却して、インフレ傾向になるかもしれないが、低いインフレ率であれば失業率は大きくは改善しない。逆に、物価が上昇することで、仕事に就ける人の数は増やせるのだ。多くのフリーターも救済される可能性が出てくる。ただ、そこで自分が希望する通りに抜け出せるかどうかは、個人レベルの問題となる。何十万人かの求人需要は生まれるかもしれないが、どの人がその「イス」に座れるかは不明なのだ。そこでは競争もあれば、厳しい選別もあるかもしれない。格差の存在がそれを決めるとも言えないのではないだろうか。
5)最後に
こうした背景があるのであるから、日銀や政府は「失業率で~%を目標に改善する」という決意表明くらい必要だろうと思っている。それに日銀は協力するべきなのである。一定水準の物価上昇の効果によって、金融政策の調節性は高まるはずなのだが。利上げによって早期に失業率改善効果の芽を摘み取ろうとしているならば、断固として反対の意を唱えるべきである。非正規雇用の労働者たちが労組を組織して、既得権者である正規雇用者たちとの対決姿勢(いうなれば仕事や賃金の奪い合い)となれば、喜ぶのは企業や日銀である。真に対決するべきは「政策決定者たち」と、制度に便乗して負担を回避している「企業」であることをもう一度確認するべきであろう。
しかしながら、対決といっても、昔のような左翼的運動の延長みたいに、「資本家を糾弾せよ」というような安易な対決姿勢では問題解決からは遠のくだけである。スト突入といった労働争議も、実は自らの首を絞めるだけなのだ。休業等によって失われる利益の分は、回りまわって必ず自らの賃金に跳ね返ってくるからである。無用な紛争コストを減らすように、労使双方が協力することが結果的に得策なのだ、ということに早く気づくべきだろう。
「権利を獲得せよ・権利を守れ」という妥協のない強硬な主張を繰り広げれば、結果として他の労働者たちを排除することになる可能性はある。できるだけ企業は社会全体に対してプラスになるように負担をしていき(従来の正規・非正規に関わらず社会保障負担を行うことで財政貢献に資する)、一方労働者たちの権利を最低限守るべきところは確保し、労働者たちは仕事の質や会社への貢献によって応えることを目指すべきだろう。賃金増加は自分の仕事の内容が良ければ、自ずと増えるはずであろう(と思うけど?どうなんでしょうか・・・)。