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命でコストを払う社会

2007年08月30日 21時02分25秒 | 社会全般
また奈良県の問題がマスメディアに取り上げられたようだ。

搬送中に死産 ニュース 医療と介護 YOMIURI ONLINE(読売新聞)

(一部引用)

昨年8月には、同県大淀町立大淀病院で分娩(ぶんべん)中に意識不明となった高崎実香さん(当時32歳)が計19病院に転院受け入れを拒否され、収容された同府内の病院で、出産から8日後に死亡したケースがあった。夫の晋輔さん(25)(奈良県三郷町)は、読売新聞の取材に「実香の死は何だったのか。この1年、何も改善されていなかったということだ」と憤った。晋輔さんは「緊急時のために医者も病院もあるはずなのに、受け入れ体制を作れないことが一番の問題」と述べた。




この事件の初めの頃の報道は、医療ミスがあったんじゃないか、ということだったように思う。産科の救急システムが云々という話ではなかった。

参考記事:
奈良の妊婦死亡事件について

続・奈良の妊婦死亡事件について


また変な例で申し訳ないが、考えてみることにする。
銀行などの窓口を思い浮かべて欲しい。仮に、対応可能な窓口があって、みんなは一列に並んでいるものとする。お客は空いた窓口から順次呼ばれる。
この方式の場合、窓口が多いと列が長くなり難いのは判りやすいであろう。窓口が2つしかないと直ぐに埋まってしまうが、5箇所の窓口があると空いている窓口から次々に呼ばれていくので処理速度が上がる。でも、自分が並んだ瞬間に全部の窓口が塞がっているなら、どこかに空きができない限り自分が呼ばれることはない。

窓口人員のコストを考えると、少ない方がいい。来客に波があるので、最大に混雑する場合に対応できる窓口ということにすれば、それほど混雑していない日などには暇な時間が長くなってしまうので、人員が無駄である。窓口が20箇所あれば、20人には同時対応可能となるし、2つしかない場合には2人しか同時対応できないが、前者では常時20人の職員を貼り付けておかねばならず人件費はたくさんかかってしまう。全体の効率ということを考えると、平均的な来客時に対応可能な窓口数が設置されることになるであろう。例えば、窓口数は3箇所で職員を3人貼り付けておき、平均的な来客時には若干の列は発生するものの、それほど多い待ち時間とならず対応できる、というようなことになるのである。これを10箇所10人とすると、混雑は大幅に緩和されるが、来客が少ない時には待機しているだけの人員が多くなってしまう。

これと同じような感じで救急とか産科救急の受け入れということを考えてみると、受け入れを断るのは「今、窓口は塞がっていて対応できません」という回答をする、ということである。受け入れ先の数を増やせば「塞がっている」という状態を減らすことができ、受け入れ確率は上がるであろう。しかし、必ずしも急患があるとも限らないので、受け入れ先を多くすると需要が少ない時には無駄に人員を配置することになってしまい、効率は悪くなる。ここに問題を生じることになるのである。


まず、窓口設置と人員配置にはコストがかかる。利用が少なければ、窓口や人員は廃止されてしまうのである。収益を生み出すのはあくまで窓口設置に対してではなく、どれくらい利用されたかによるからである。窓口1つ当たりの平均収益が損益分岐点を超えない限り、窓口設置はマイナスになってしまうのである。かつては医療機関の善意によって支えられていたこれら窓口というものが、次々と崩壊していったのだ。「空いている窓口」を許容しておけるほどの余裕がなくなったから、ということでもある。
以前には窓口が4つとか5つあったので、「飛び込み」で急に行ってもどれかが空いている確率はそれなりにあった。救急隊はそこを探して搬送すれば良かった。しかし、医療の経営環境は悪化の一途を辿り、損益分岐点を下回る窓口は次々と閉鎖になった、ということだ。「空いている窓口」はなくなっていくことになるであろう。5つから2つに減少すれば、「塞がっている確率」は高くなるに決まっているのだ。

次に、医療への期待が高まることで救急医療も含めた要求水準が高くなり、結果責任を問われてしまうようになった。普通は、救急搬送されて自分の所で対処できないとなれば他に転送ということになるのだが、加古川事件のようにその遅れが過失認定されるとなれば、下手に引き受けてしまって転送遅延の過失を問われてしまうくらいなら、初めから受けないという選択は出てくることになるであろう。引き受けた場合の利得というのが「微々たる収入」だけであり、万が一、遅延や過失を理由として訴訟提起され「微々たる収入」の数百倍か数千倍の賠償とか、それでは済まずに許認可の取消とか評判低下で病院存続が不可能となるなどの、あまりにも大きな不利益を補って余りある利益などないと判断されうるのである。

かつては収益は僅かであろうとも、患者やその家族が涙ながらに「先生、本当にありがとう」という感謝があって、そうした「無形の利益」だけが医師たちの支えになっていたかもしれない。「かつては助けられなかったであろう100人のうち、1人でもいいから助けたい」ということで必死にやってきたら、「100人とも全員助けなければならない、助けられなければ過失と非難される」ということになってしまったようなものだ。そこには、「金を払っているから当然だ」という歪んだ権利意識のようなものがある。昔なら「当然だ」ではなくて、「ありがとうございます」という心からの感謝であったのにという思いがどこかにあったりする。こうして医療従事者側にも患者側にも、ともに「感謝の念」が失われてきてしまったのである。病院がそこかしこに(物理的には)存在しているのに患者を受け入れられない理由とは、行き過ぎた「結果責任追及主義」と過剰なまでの「権利の拡張・期待水準の暴騰」である。医療機関側が「ウチでは期待には応えられません、できないものはできません」と正直に応じた結果にすぎないのである。


最後に、極端な話をしてみる。
以前に、命の値段を付けられるか?というようなことを記事に書いたのであるが、それと似たような話である。社会の決めることであって、何かの理論とかでは決めようのない話なのではないかな、と。

昔みたいに、救急車がなければ戸板に乗せて近隣の医者まで運ぶ(本当にそうだったかどうかは不明であるが、物語なんかではそう描かれていたりする)ということをやってみる、ということだ。救急車は常時出動しているわけではないので空き時間があるし、維持運営費もたくさんかかる、という理由で止めることはできる。仮に年間10億円かかるとして、止めればそれが浮くわけだが、蒙る不利益というのは現実損となってみなければ判らないものなのである。10億円を救急車には使わず他に使う方が得なんじゃないか、という意見に論理では対抗できない、ということ。社会的な合意みたいなもので選択するしかない、ということだ。

救急車を廃止した結果、どこかの誰かが運び込むまでの時間がかかってしまい、その結果死亡してしまうとして、10億円も損失となるのだろうか?こうした問いに答えない限り、救急車の配備には正当性が与えられない、ということだ。誰かの「失われる命」とか「失われる人生(時間)」の価値を金額に置き換えない限り、救急車と戸板で搬送の比較はできないだろう。そこに触れることなく、ただ単純に「人の生命が失われることには賛成できない」とするような感情的・感覚的意見とか、倫理的に許容できないというような主張は少なくないだろう。

世の中には、例えば「倫理」というような「極めて曖昧な非論理的思考」を毛嫌いしている人もいるだろう。それはそれで問題があるわけではない。そういう人は、自分や自分にとって大切な人が救急車が存在しないことで死亡することがあっても、戸板で十分満足できうるであろう。論理的に命の値段を算出できない限り、彼らには納得できないからである。そういう人々は自分の命や家族の命の値踏みを好きなだけやって、自らの命でコストを負担すればいいでしょう。言うなれば、「10億円かけて救急車を配備するよりも、命で払う方が得である」というような結論を導き出してくれることであろう。彼らにとっては、世の中には倫理など存在せずとも何かの論理さえあればいいだろうし、信じられるものとしてもそれで十分であろう。是非とも他人の倫理に依存しない生活を実践して頂けると有難い。それとも、論理的人物だけを集めて(今よりも)理想的社会を作り上げ、この社会から分離されることが双方にとって幸福なのではないか(笑)。


受け入れ可能な医療機関を増やすというのもこれに近くて、結局効率性は落ちることになるが受け入れ窓口を増やすかどうか、という問題になってくる。上述したように、窓口が100あるのと、2つしかないのでは、空きのある可能性というのが異なるからである。ならば、無限に多く設置した方がいいことになってしまう、というような極論もあるかもしれないが、現実にそんなことはできないことは誰しも判りきっている。なので、どこかで線引きをしなければならないのである。それは何処か?この論理的結論というものは、恐らく存在しないであろう。誰かが線を引くしかないのである。

ここでいう「誰か」とは、社会全体の人々のことであり、線引きは気分的に許容できうる限度というような極めていい加減で曖昧な基準でしか決定できないだろう。もしも正確な論理とかがあって、「受け入れ可能な医療機関の設置基準は○○」みたいに答えを出せるのであれば、是非ともご教示願いたい。受け入れ可能な医療機関を増やせば、その分多額のコストがかかってくる。設置しなければコストは減らせるかもしれないが、不幸にして命でそれを払うことになる人もでてくるかもしれない。その比較考量ということになってしまうだろう。

仮に、
①1時間以内に到着すると救命率は50%
②2時間以内に到着すると救命率は30%
という時、どちらを選択するかは「そういう社会」ということでしかない。
もしも②を選ぶのであれば、残念だけど70%の人々は「諦めてくれ」ということであり、「たった20%の人々を救う(改善する)為に多額の費用は負担できない」ということである。そういう社会を希望するならば、②の基準に従って受け入れ可能な医療機関を2時間圏内で区分して設置すればよい、ということになる。そういう意味である。この①と②の選択には、論理的な正しさなど存在しないのではないか、ということだ。


自分たちはどのような合意を目指すのか?
奈良県の問題というのは、そうしたことを厳しく問いかけていると思うのである。



「努力」は「才能」や「センス」にあっさりと打ち砕かれる

2007年08月30日 13時05分22秒 | 俺のそれ
こんなに大仰な見出しを付けなくてもいいんですが(笑)。
時々現実に起こってしまうのですよね、本当に。

時事ドットコム:新星トマス、驚きの才能=1年半あまりで世界王者に-世界陸上

(一部引用)

バスケットボールに熱中していたトマスのジャンプ力に目を奪われた友人がいた。その誘いを受けてこの道を選んだのが昨年1月というから驚くしかない。昨年は専用のスパイクもなく、スニーカーを履いて2メートル24を跳んだ。今回、銀メダルになったルイバコフは「去年、彼がスニーカーで2メートル23を跳んだのを見た。何てクレージーなやつだと思ったよ」と、あきれる。銅メダルのイオアヌも「ぼくは18年間もこれをやってきているのに」と感嘆した。




どうでしょうか。これが現実なんですね。

結局のところ、才能があるヤツには勝てない、ということは起こりうるのです。彗星の如く現れて、金メダルをさらっていくんですよ。勿論、運もあるでしょう。それでも、どれほど頑張って練習しても、こうした才能溢れる人に勝てないということはありがちなのです。数学とか科学などの偉大な成果も同じような面があって、「煌く才能」の前には平伏すしかなく、「凡人の努力」など無力であることを思い知らされるのです。

参考記事:「適応力」という能力


「所詮努力しても無駄なんだよ」
「どうせ勝てないんだ」
実際そういうことはあるかもしれません。
でも、落胆するのはまだ早い。
きっと、才能だけでは努力の全てを追い越すことができないでしょう。

世の中の殆ど多くの事柄は、才能だけによって生み出されたものではなく、多分凡人の血の滲むような努力の中から生み出されたものだろうと思います。まさしく、血と汗と涙の入り混じった努力の結晶なのです。

ハイジャンプでメダルを得ることは凡人にはできません。メダルは数に限りがあります。
けれども、努力のプロセスを得ることは凡人にもできるのです。
誰しも真似ることは可能だからです。プロセスを体験するということには、数に限りはないからです。折角努力したのにメダルを取れなかったとか、才能のある人やセンスのいい人には勝てなかったとか、恨めしく思う必要もありません。自分には努力したという体験が手に入ったのですから。

人生は長いのです。
才能が人間を幸せにしてくれるわけではないのです。
自分を幸せにできるのは、幸せを感じることのできる自分自身なのです。