4)人間力とは
ここで唐突に話が変わりますが、いきなり「人間力」です(笑)。
政府が打ち出した「人間力戦略」というのは、次のようなものでした。
人間力戦略ビジョン新しい時代を切り拓くたくましい日本人の育成~画一から自立と創造へ~
かなり古い話ですけれども、教育関連施策で「こういう方向でやっていってはどうか」ということで、文部科学省が取りまとめていったのですね。
でも、話の発端というか、流れ的には経済財政諮問会議から出されたものでしたので、内閣府も噛んでいくことになったのですね。何かのスローガンでもなければ、文部科学省のまとめを見ても殆ど理解されにくい話で、そういう意味においては「人間力(戦略)」という単純なフレーズは効果的であったと思われます。
人間力の経過>「人間力」について
こちらが内閣府で進めた研究会>人間力戦略研究会報告書
要するに、人間力の根本的な話というのは、教育関連施策に「ワン・フレーズ」を与えたものなのであり、教育について行政が積極的に関与すべきではないという考え方であるならば、これら施策については「全て止めるべき」というご意見が出されてもいいでしょう。行政は金だけ配分しておけばよい、ということであれば、それはそれで一つの意見でしょうし。文部科学省の無駄な官僚の頭数を大幅に削減可能になるのですし、無駄な天下り先も大幅に殲滅できそうなので、検討に値しますね。天下ってこられる受け入れ側―例えば大学とか―では、大変な迷惑を蒙ってしまうかもしれませんが(笑)。
5)人間力批判
具体的な例として、ご紹介しておきたいと思います。
asahicom:朝日新聞就職・転職ニュース
全体として世の中が進んでいる方向は、ますます混沌(こんとん)としてきています。大人の意識に刷り込まれている「近代社会」とは、たとえば官僚制組織のように役割や指揮命令系統がきちんと決まっていて、標準的であることや集団への適応が重んじられる状況でしたが、現在はかつてよりもすべての物事の偶発性が高まり、自律性や柔軟性が求められ、かつ競争が激化した「ポスト近代」状況に突入しているのです。
世の中が不透明化し、煙が渦を巻きながら立ち込めているような状況で、個人はどうやって対処していけばいいのか。とても大変な課題です。その中で、教育界や財界、政府などがそれぞれ、「人間力」とか「社会人基礎力」とか「就職基礎力」を身に着けさえすれば何とかなるといった言説をせっせと生み出している。一般の若い人にとっては「そんなこと言われても」と戸惑うような漠とした無責任な要請を、権力や諸資源を手にした年長世代が投げかけている。
ほんの一握りの起業家を目指すような若者は、確かに主体的で創造的な個人でしょう。もちろんそういう人はいるけれど、そのイメージをすべての若者に当てはめて働く意欲を喚起・動員するという発想は、成功や失敗の責任を個人に転嫁しているだけで、何の解決策も提示していない。せめて、周囲から、完璧な強い人間になれと若者を追い立てることはやめて欲しいですね。

この続きも読んでみると、本田先生の言わんとしていることは判らないではないです。しかし、人間力と聞くだけで拒絶反応を示すというか、行政側の出す「人間力」や「社会人基礎力」や「就職基礎力」(これは聞いたことがなかった、笑)のようなフレーズが気に入らない、というだけで、即座に否定していいものなのかどうか、ということは思います。人間力を批判したところで、「就職できる若者が増える」わけではないです。年長者たちに若年層に対する誤解があるとしても、本人を目の前にした時に「この若者はこんな素晴らしいところがありますよ、立派に頑張っていますよ」ということくらいは感じ取れるし、現実に大半の若者を雇って仕事を学ばせているのは年長者なのですから。
何かのスキルを習得させるとしても、例えばRPGのスタート時点での装備みたいなもので、「布の服」とか「短剣」を装備させる程度でしかないように思えます。「甲冑」を装備していたなら採用されるが、「布の服」だと採用されない、という単純なものではないのではないのかな、と。
もっとキャラクター全体を見ると思うし、「鉄の胸当て」だと採用だけど、「粗末なローブ」じゃ不採用、ということにはならないでしょう。そういう意味では、人間力というのは、せめて何か装備するように、ということを最低限求めるものであると言えるかもしれませんね(笑)。
これはまた別な機会に書いてみたいと思います。
6)「life hack」としての基礎力
人間力や社会人基礎力といった言葉を拒絶したければ、別な用語でもいいと思います。とりあえず、「基礎力」とだけ呼ぶことにします。
採用側が見る指標の組み合わせの標準的なものが、この基礎力ということです。「life hack」としては、人事担当者における「新人採用に当たってチェックすべき(見るべき)○つのポイント」というようなことになりますでしょうか。立場を変えて、採用される側になれば「就職するに当たって達成するべき○つの心得」みたいなもの、ということになるでしょうか。これの何がマズイのか、どこが不満なのか、私にはよく判らないのですね。こうした標準化やlife hackそのものが許せないとか、達成するべき心得を達成できない人間を排除するものだとか、型にはめるのが良くないんだとか、全てを達成できているような完璧な人間なんて存在し得ないんだとか、そういうことなのでしょうか。
まあ、その気持ちは理解できますし、仮に私自身も多分「達成できない」と思えますので、やめて欲しいと願わないでもありません。しかし、これはあくまで評価のポイントを羅列したものに過ぎないのだから、最終的にはオレを見てくれ、ということでいいのではないでしょうか。そのように考えることさえも、苦痛を強いられるというのでしょうか。勿論、こんな当てにはならないlife hackを信じる必要もないし、もっと「市場全体の環境」さえ良くできるなら個別銘柄の心配などする必要がない、ということあるでしょう。
そうであっても、インデックス(=若年層の大きな集団)を買うわけではないので、採用側は個別銘柄を購入(=個々の若者を見て採用)せねばならないのですから、ハックを利用してみたいというのを止めさせるのも大きなお世話でしょう。インデックスが上昇する市場環境が整っていたとしても、誰も値下がり株を掴みたくはないわけですから。値上がりしていく成長株をどうにかして見つけ出したい、これだけを選びたいと採用側は願っているわけですから。
株式市場においても、基本的な部分では規制というものがあるわけです。全くの野放図でよい、ということにはなっていませんね。どんな企業の株でも上場できるわけではありません。少なくとも、「上場基準」は達成されていないと、上場できないのです。この上場基準とは、全て理論的に決定できるものなのでしょうか?ルールとして存在しているだけなのであれば、各ファンダメンタルズの指標が一定以上に到達している、という意味しか持っていないのではないかと思えます。
行政や財界が色々と言っているのは、「上場基準が十分達成されていないんじゃないか」とか、「上場基準が甘くなってきているんじゃないだろうか」といったことなんだろうと思うのですよ。別に「若者はみんなロクでもないので、お仕置きよ!」ということを言っているのではない、と思うのです。上場基準に達しない銘柄(個人)が多いようであるなら、もっとたくさんの銘柄で到達するように教育施策を考えた方がいい、と言っているのだろう思います。銘柄を各種指標(学力、ナントカ能力、ホニャララ能力、…)に沿って評価してみると、少なくない銘柄において「落ちている部分がある」と考えた、ということだろうと思います。
企業においても、売上高の増加率が倍々で増えてる会社もあれば、着実かもしれないが数%程度でしか増加していない会社もあるだろうし、借入金比率が高い会社と借入ゼロの会社とかがあります。そういう違いというものはごく普通にあるし、指標だけで見れば優劣がついてしまうのはしょうがないのです。でも、それが会社の評価の全てではないし、長い年月の中で予想以上に成長していく会社も出てくるし、それは完全に判るわけではないのです。誰にも判らないからこそ、何かの役立ちそうな指標を見てみましょう、とか、みんなの知恵を活かして有効な「life hack」を教えて欲しい、とか、その程度でしかできないのですから。
そういうわけで、人間力とか基礎力とかが「大きなお世話なんだよ!余計なことだ」とか、そんなに批判されるべきものとも思っていないです。何かの指標とか上場基準とかそういったものを絶対に利用しない、と宣言するような人々なのであれば、全てに反対することも理解できます。教育分野について行政が介入するべきではない、ということであれば、教育施策については放任主義的というか、行政の役割を縮小していくような仕組みを整えることを提案すべきでしょう。まずは、教育・労働関連行政に存在する無駄な官僚組織とそれに付随する寄生組織の抹消を推進していくことが第一歩かと思います。
ここで唐突に話が変わりますが、いきなり「人間力」です(笑)。
政府が打ち出した「人間力戦略」というのは、次のようなものでした。
人間力戦略ビジョン新しい時代を切り拓くたくましい日本人の育成~画一から自立と創造へ~
かなり古い話ですけれども、教育関連施策で「こういう方向でやっていってはどうか」ということで、文部科学省が取りまとめていったのですね。
でも、話の発端というか、流れ的には経済財政諮問会議から出されたものでしたので、内閣府も噛んでいくことになったのですね。何かのスローガンでもなければ、文部科学省のまとめを見ても殆ど理解されにくい話で、そういう意味においては「人間力(戦略)」という単純なフレーズは効果的であったと思われます。
人間力の経過>「人間力」について
こちらが内閣府で進めた研究会>人間力戦略研究会報告書
要するに、人間力の根本的な話というのは、教育関連施策に「ワン・フレーズ」を与えたものなのであり、教育について行政が積極的に関与すべきではないという考え方であるならば、これら施策については「全て止めるべき」というご意見が出されてもいいでしょう。行政は金だけ配分しておけばよい、ということであれば、それはそれで一つの意見でしょうし。文部科学省の無駄な官僚の頭数を大幅に削減可能になるのですし、無駄な天下り先も大幅に殲滅できそうなので、検討に値しますね。天下ってこられる受け入れ側―例えば大学とか―では、大変な迷惑を蒙ってしまうかもしれませんが(笑)。
5)人間力批判
具体的な例として、ご紹介しておきたいと思います。
asahicom:朝日新聞就職・転職ニュース
全体として世の中が進んでいる方向は、ますます混沌(こんとん)としてきています。大人の意識に刷り込まれている「近代社会」とは、たとえば官僚制組織のように役割や指揮命令系統がきちんと決まっていて、標準的であることや集団への適応が重んじられる状況でしたが、現在はかつてよりもすべての物事の偶発性が高まり、自律性や柔軟性が求められ、かつ競争が激化した「ポスト近代」状況に突入しているのです。
世の中が不透明化し、煙が渦を巻きながら立ち込めているような状況で、個人はどうやって対処していけばいいのか。とても大変な課題です。その中で、教育界や財界、政府などがそれぞれ、「人間力」とか「社会人基礎力」とか「就職基礎力」を身に着けさえすれば何とかなるといった言説をせっせと生み出している。一般の若い人にとっては「そんなこと言われても」と戸惑うような漠とした無責任な要請を、権力や諸資源を手にした年長世代が投げかけている。
ほんの一握りの起業家を目指すような若者は、確かに主体的で創造的な個人でしょう。もちろんそういう人はいるけれど、そのイメージをすべての若者に当てはめて働く意欲を喚起・動員するという発想は、成功や失敗の責任を個人に転嫁しているだけで、何の解決策も提示していない。せめて、周囲から、完璧な強い人間になれと若者を追い立てることはやめて欲しいですね。

この続きも読んでみると、本田先生の言わんとしていることは判らないではないです。しかし、人間力と聞くだけで拒絶反応を示すというか、行政側の出す「人間力」や「社会人基礎力」や「就職基礎力」(これは聞いたことがなかった、笑)のようなフレーズが気に入らない、というだけで、即座に否定していいものなのかどうか、ということは思います。人間力を批判したところで、「就職できる若者が増える」わけではないです。年長者たちに若年層に対する誤解があるとしても、本人を目の前にした時に「この若者はこんな素晴らしいところがありますよ、立派に頑張っていますよ」ということくらいは感じ取れるし、現実に大半の若者を雇って仕事を学ばせているのは年長者なのですから。
何かのスキルを習得させるとしても、例えばRPGのスタート時点での装備みたいなもので、「布の服」とか「短剣」を装備させる程度でしかないように思えます。「甲冑」を装備していたなら採用されるが、「布の服」だと採用されない、という単純なものではないのではないのかな、と。
もっとキャラクター全体を見ると思うし、「鉄の胸当て」だと採用だけど、「粗末なローブ」じゃ不採用、ということにはならないでしょう。そういう意味では、人間力というのは、せめて何か装備するように、ということを最低限求めるものであると言えるかもしれませんね(笑)。
これはまた別な機会に書いてみたいと思います。
6)「life hack」としての基礎力
人間力や社会人基礎力といった言葉を拒絶したければ、別な用語でもいいと思います。とりあえず、「基礎力」とだけ呼ぶことにします。
採用側が見る指標の組み合わせの標準的なものが、この基礎力ということです。「life hack」としては、人事担当者における「新人採用に当たってチェックすべき(見るべき)○つのポイント」というようなことになりますでしょうか。立場を変えて、採用される側になれば「就職するに当たって達成するべき○つの心得」みたいなもの、ということになるでしょうか。これの何がマズイのか、どこが不満なのか、私にはよく判らないのですね。こうした標準化やlife hackそのものが許せないとか、達成するべき心得を達成できない人間を排除するものだとか、型にはめるのが良くないんだとか、全てを達成できているような完璧な人間なんて存在し得ないんだとか、そういうことなのでしょうか。
まあ、その気持ちは理解できますし、仮に私自身も多分「達成できない」と思えますので、やめて欲しいと願わないでもありません。しかし、これはあくまで評価のポイントを羅列したものに過ぎないのだから、最終的にはオレを見てくれ、ということでいいのではないでしょうか。そのように考えることさえも、苦痛を強いられるというのでしょうか。勿論、こんな当てにはならないlife hackを信じる必要もないし、もっと「市場全体の環境」さえ良くできるなら個別銘柄の心配などする必要がない、ということあるでしょう。
そうであっても、インデックス(=若年層の大きな集団)を買うわけではないので、採用側は個別銘柄を購入(=個々の若者を見て採用)せねばならないのですから、ハックを利用してみたいというのを止めさせるのも大きなお世話でしょう。インデックスが上昇する市場環境が整っていたとしても、誰も値下がり株を掴みたくはないわけですから。値上がりしていく成長株をどうにかして見つけ出したい、これだけを選びたいと採用側は願っているわけですから。
株式市場においても、基本的な部分では規制というものがあるわけです。全くの野放図でよい、ということにはなっていませんね。どんな企業の株でも上場できるわけではありません。少なくとも、「上場基準」は達成されていないと、上場できないのです。この上場基準とは、全て理論的に決定できるものなのでしょうか?ルールとして存在しているだけなのであれば、各ファンダメンタルズの指標が一定以上に到達している、という意味しか持っていないのではないかと思えます。
行政や財界が色々と言っているのは、「上場基準が十分達成されていないんじゃないか」とか、「上場基準が甘くなってきているんじゃないだろうか」といったことなんだろうと思うのですよ。別に「若者はみんなロクでもないので、お仕置きよ!」ということを言っているのではない、と思うのです。上場基準に達しない銘柄(個人)が多いようであるなら、もっとたくさんの銘柄で到達するように教育施策を考えた方がいい、と言っているのだろう思います。銘柄を各種指標(学力、ナントカ能力、ホニャララ能力、…)に沿って評価してみると、少なくない銘柄において「落ちている部分がある」と考えた、ということだろうと思います。
企業においても、売上高の増加率が倍々で増えてる会社もあれば、着実かもしれないが数%程度でしか増加していない会社もあるだろうし、借入金比率が高い会社と借入ゼロの会社とかがあります。そういう違いというものはごく普通にあるし、指標だけで見れば優劣がついてしまうのはしょうがないのです。でも、それが会社の評価の全てではないし、長い年月の中で予想以上に成長していく会社も出てくるし、それは完全に判るわけではないのです。誰にも判らないからこそ、何かの役立ちそうな指標を見てみましょう、とか、みんなの知恵を活かして有効な「life hack」を教えて欲しい、とか、その程度でしかできないのですから。
そういうわけで、人間力とか基礎力とかが「大きなお世話なんだよ!余計なことだ」とか、そんなに批判されるべきものとも思っていないです。何かの指標とか上場基準とかそういったものを絶対に利用しない、と宣言するような人々なのであれば、全てに反対することも理解できます。教育分野について行政が介入するべきではない、ということであれば、教育施策については放任主義的というか、行政の役割を縮小していくような仕組みを整えることを提案すべきでしょう。まずは、教育・労働関連行政に存在する無駄な官僚組織とそれに付随する寄生組織の抹消を推進していくことが第一歩かと思います。