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B型肝炎訴訟最高裁判決について~精度に疑問あり(一部修正)

2007年10月21日 23時59分34秒 | 法関係
先日に書くと言っていた宿題でしたけれども、別な論点にかまけていて伸びてしまいました。

以前に司法の品質はどうなっているか、ということを暫く書いていたことがありましたが、再びそのことを思い起しました。医療においては、その安全性についてどこまでの水準で達成されなければならないか、ということであります。司法の世界では、「通常人」なる設定がありますよね。要するに、普通のレベルの人が考えられる程度でよい、ということであります。そういう水準で判断してみた時に、過失があったかなかったか、というようなことが医療以外の中では争われているのであろうと思います。以前の記事で争点になった、司法の判断は9割が一致しているか否か、みたいな話もありましたけれども、司法判断というのは、要するに「安全性が9割くらいあればいい」ということなのでしょうか。残り1割は間違っちゃうかもしれんけど、それは誤差みたいなものだからしょうがない、許してくれ、ということなんでしょうか?

医療においては、必ずしもそうでもないんですよ。医薬品の安全性について見ると、1%の世界であっても許容されない、ってことなんですよ。100万人が投与を受け、1%にadverse event が発生しようものなら、大変な問題となってしまいます。昨年騒がれたタミフル問題なんかについても同様ですよね。あれはもっと低い水準での話で、1000万人とかのオーダーで投与数があるうちの数十人~数百人という世界ですから、コンマ以下ゼロがいくつも並ぶ数字なのですよ。「大体9割で問題がなければいい」などというレベルの話ではないんですよ。司法は、果たしてそういう品質なんでしょうか?そもそも、司法では「大体9割」という大甘の水準すら達成されてもいない世界なのに、医療には1%以下の水準の達成を求めるのですね。まあ、裁判所がそれを求めるのはいいと思いますよ。であれば、裁判も同様にその水準を達成してくれなければ、専門で裁判所がやっている意味はないように思えますね。

取り上げる判決文はこちら。いつもの判例Watchさん経由。

平成16年(受)672号損害賠償請求事件


問題点について考えるのは後にして、最高裁判決だけに色々と評釈みたいなものがあったようです。ネット上で探せたのはこちらだけでした。

>名大准教授 仮屋篤子先生の評釈
集団予防接種によるB型肝炎ウイルス感染


判決文の概要についても出ておりますし、要点はこれで大体判るかと思います。参考文献等他の評釈として、青野博之、竹野下喜彦、奥泉尚洋、渡邊将史、田中宏治各氏のものが挙げられておりました。なるほど、と思いますけれども、日本全国の法曹関係者たちの中で本判決について、疑義を唱えた方々というのはどれほどおられたのか知りたいところです。裁判において推論の仕方がおかしいのではないか、という疑義を生じないとすれば、日本の司法界のレベルはそういうものなのであろうな、と考えるよりないと思われます。


本件での問題というのは、集団予防接種における感染可能性について検討するものであり(除斥期間問題は法学的な話なので、措いておきます)、その責任を行政が負うかどうかということでした。

判決にもある通り、
・注射針や注射筒を1人ごとで交換すべきであったか=yes
・集団接種時に感染可能性は考えられたか=yes
には同意できるものです。
しかし、「感染ルートの推定」ということに関して、司法が本当に「合理的推定」ということができているのかと問われれば、疑問が残されるし大問題であると考えています。因果関係を立証するものなのであるから、原則としては原告側にその立証責任があるものでしょう。しかし、専門的知識に乏しい原告側が全ての立証を負うのが困難だとして、原告側が集団予防接種時点において「感染可能性はあった」ということを主張できればよいとしましょう。その場合においても、被告側が原告に求めることができるのは、Aがあったのではありませんか、Bを行ったのではありませんか、といった反論を認め、その可能性が否定的であるということが十分な信頼性をもっていなければならないでありましょう。それは被告側にはできるものではないのです。「高度の蓋然性」ということを基本とするのであるから、推論そのものが合理的に組み立てられていなければならないはずだろう、ということです。


とりあえず、この前の記事に書いたHIV感染を例にして考えてみましょう。

感染ルートの要因を次のように区分します。

要因1:異性間性交渉
要因2:同性間性交渉
要因3:薬物濫用
要因4:母子感染
要因5:多要因(輸血等複数要因が判明)
要因6:不明

ここで、集団予防接種が要因5であるとして、「私が感染したのは予防接種を受けたからだ」という主張をするということを考えてみましょう。原告側主張が事実であることを示すには、予防接種のような「注射において複数人の使用で感染例が確認された」ということを提示できれば感染可能性を主張できます。それが事実であるということは、文献等で確認できますね。なので、この主張はウソではありません。しかし、本当にHIV感染成立が予防接種によるものであった、ということが本当に推認できるのでしょうか、というのが問題なのです。

たとえば、被告側からは要因1、要因2や3を立証することができません。原告側がこれらのうち、どれかの事実を隠しているとしても、それを被告側からは知ることができません。この立証を被告側が負わされるとすれば、多分誰にもできないでしょう。なので、他の要因を否定できうるだけの根拠の提示を各要因について原告側が言わないと、他要因が否定できていないにも関わらず「原因は要因5であった」ということが通用してしまうことになってしまいます。

実人数から各要因の割合(男性のみ)を示すと次のようになっています。
要因1 26.7%
要因2 61.6%
要因3 0.3%
要因4 0.2%
要因5 1.7%
要因6 9.4%

ここで、原告は要因2を否定できたとしましょう。それでも「要因5が原因だ」と主張できるでしょうか、ということです。最高裁判決に習えば、他の要因は「一般論に過ぎない」と簡単に片付けてしまうのでしょうけど。普通に考えれば、要因6の不明なものが10%近くあるのに、それを疑うよりも要因5が原因だ、と頑強に主張できそれが高度の蓋然性を持つとの判断に至る理由というものは一体何なのでしょうか?普通の人ならば、こうは考えないはずですよね?要因5を疑えるかもしれないけれど、要因2を否定したとしても残りの1、3、4、6は残されており、これが合計で36.7%なのです。要因5が1.7%ですから、どちらを感染源の可能性としてより疑わしいと考えますか、ということなんですよ。20倍以上多い要因の方を否定して、「要因5が原因である」と主張するんでしょうか?違いますよね。除外可能な要因を取り除いても、「否定できない要因」が残されるのであれば因果関係の特定には至らず、もし責任を認めるとしてもせいぜいが「按分」ではないでしょうか。


あくまで仮定に過ぎないHIV感染の場合を考えても本判決の疑義にはならないので、本件について見てみることにします。
判決において、B型肝炎の感染源として最も疑わしいと考えられるのは集団予防接種であること、他の要因というのが一般的、抽象的なものにすぎないこと、を合理的推定によって結論付けたものと思われる。けれども判決における推論は、本当に合理的なのであろうか?感染リスクについて、「判っていなもの」について高度な蓋然性が本当に達成でき得るものなのでしょうか?

感染リスクを考える時、例えば血液1mlと100mlの血管内投与であると、後者は前者よりも危険性は高いだろう。まず曝露される量的要因があるはずである。これは輸血と針刺し事故だと、どちらがより危険性が高いか、という問題を考える上で役立つだろう。同じように、血液100mlと静注用フィブリノゲン100mlではどちらが危険性が高いか、というような比較が行われなければならないのである(答えを知らないが普通に考えると血液の方が感染危険性は高いであろう、と思う)。

裁判官たちの他の要因は「一般的、抽象的なものにすぎない」と断定できる理由を聞かせてもらいたい。評釈している方々でも、他の法曹でもいいので、どうしてこういう発想に誰も疑問を感じないのかが知りたい。医療従事者とか薬品開発者とかは、重箱の隅をつつくような、僅か0.0…%という発生リスクのもので、日々苦しんだり努力しているのですよ。これをいかに小さくしていくかという努力を重ねてきているのですよ。何の努力もなしに、感染リスクが小さくなんてなっていかないのですよ。そうした努力の結晶を、「一般的、抽象的」と片付けられる精神を問題としたいし、無知からなる推定にも関わらず蓋然性が高いなどと言い、それが法学の世界では認められているということを疑問に思うのですよ。


かつて日本では輸血用血液は売血であった。60年代くらいまではそうだったらしい。当時、手術件数や輸血件数はかなり少なかったであろう。現代に近づくにつれて医療技術は高度化し、それに伴い手術や輸血は増加してきたであろう。60年代くらいでは、輸血症例の約半数以上が肝炎症状を発症していた。これらは売血した人々から得られた血液である。ならば、売血していた人々の肝炎ウイルスはどのように感染したのか?みんなが血液製剤を投与されていたか?みんなが手術を受けたり輸血されていたのか?違うでしょうよ。何かの感染源があったんですよ。輸血は「半分以上が肝炎になる」ということであっても、やるしかなかったのですよ。
当時の要因で考えてみると、
・売血者は大体貧困者=低栄養低免疫力=易感染
・売血者は薬物濫用者が多かった?
・ヒロポン?だの薬物濫用は汚染された注射器などを使用?
・採血する医療器具類がウイルスに汚染されていた?
みたいなことがあったのかもしれない。なので、売血者のウイルス保有の可能性は高かったのかもしれないが、誰かがウイルスを保有してない限り感染が拡散していくことはないのですよ。

でも売血がなくなり献血になってからは、輸血後肝炎発生率が低下した。かつての半分以上から、70年頃では約17%くらいになった。
72年からはB型肝炎ウイルスの電気泳動によるスクリーニングが導入され、輸血後肝炎は約14%に低下、78年には血球凝集法に変更され精度は向上し、86年頃では約8.6%になった。この頃でもC型肝炎検査はできなかったのですよ。だから、術後肝炎は今の水準から見ればずっと多く発生していたのですよ。血液製剤で集団感染が問題となった頃でも、輸血後には8%以上の感染があったんですよ。この状況下で感染源を「血液製剤だ」と確定できますか?できんのですよ。この時期からHIVスクリーニングも導入されたのです。更に89年にはHCVのスクリーニングが導入され(第一世代G1)、輸血後肝炎発症は劇的に低下し2.1%まで下がった。92年にはG2のHCV検査に切り替えられ1%を切る水準にまでようやくこぎ着けたのです。90年代後半にはNAT導入となり、ウインドウ期間(感染していても抗体が顕れてこない潜伏みたいな期間)の対策が講じられるようになった。スクリーニングをくぐり抜けた血液約1149万本中、確認されたウイルスはHBVで200本、HCVで40本、HIVで4本だった。%で言うとゼロばかり多くなるので、10万本中で言うと、順に17.41本、3.57本、0.35本、ということだ。優れたスクリーニング検査を実施していても、すり抜けるものがあるのであり、完璧な検査方法など未だ存在していない。こういう滅多に起こらないかもしれないことを「無くそう」と努力しているのです。


判決文中にはこう述べられていた。
『本件集団予防接種等のほかには感染の原因となる可能性の高い具体的な事実の存在はうかがわれず,他の原因による感染の可能性は,一般的,抽象的なものにすぎないこと(原告X らの家族の中には,過去にB型肝炎ウイルスに感染した3者が存在するけれども,家族から感染した可能性が高いことを示す具体的な事実の存在はうかがわれない。)などを総合すると,原告X らは,本件集団予防接種等3における注射器の連続使用によってB型肝炎ウイルスに感染した蓋然性が高い』

仮に、B型肝炎の感染源について要因を挙げてみる。
①輸血
②手術
③透析
④母子感染
⑤家族間接触
⑥性交渉
⑦薬物使用
⑧不明
⑨集団予防接種
これら要因について、どの程度の否定ができたのであろうか?一般的には少ない、滅多にない、と言っても、それが「どの程度なのか」というのは比較の問題なのであって、HIV感染で見たように薬物濫用や母子感染が少ないとしても0.5%はあり、多要因1.7%との比較では「不明例9.4%」との開きの方が圧倒的に大きい、ということも十分考慮されるのではないかと思えるが。


厚生労働省:健康:結核・感染症に関する情報

こちらの記事によれば、母親がHbe抗体陽性者であると、約10~15%でHBV感染が起こるがキャリア化は稀となっていますけれども、ないわけでもないようです。

本件において、家族の抗体陽性者と推測されるのは次の通り。
X1:父、妻、子
X2:父、妹、弟
X3:父、母
X4:父、母、弟
X8:なし

キャリアまたは肝炎発症者
X3:弟
X8:母

これら家族はどのように感染したのでありましょうか?ウイルスに曝露されているからこそ、抗体ができているわけで、これは体内にウイルスの侵入があったことを意味するものと思います。つまり家族は、感染機会があった可能性があるかもしれ
ません(勿論全く別の感染源かもしれませんが)。

X3とX4の母親は抗体陽性と思われますが、出産時HBe抗体陽性(=持続感染者ではない)であっても、子どもに感染する可能性が10%超程度はあるのですし、キャリアとなっていなかったことがどうやって推定できるのでしょうか?その可能性が極めて低くく、集団予防接種時の感染可能性と比較できると言えるのでしょうか?

あと、例えば元々父親がウイルス感染者であったとしましょう。
肝炎発症とならない(不顕性)確率は7割くらいあります。一過性の感染で終わってしまう、ということですね。けれど、不顕性感染であってもウイルスが排除される前であれば他の誰かに感染しないとも限らないのではないのでしょうか。更に、一過性感染で終わったとしても抗体陽性者においては微量ではあってもウイルスが残存し続けるので、誰にも感染しない、ということにはならないでありましょう。

X3の弟ではキャリアとなっておりますが、この方は感染源がどこにあると推定されるのでしょう?集団予防接種なのでしょうか?それとも、X3からの感染と考えられるのでありましょうか?それをどのように合理的推定といいますか、高度の蓋然性でもってX3から弟への水平感染(或いは逆)は否定でき、集団予防接種が原因であると考えられる、という結論を導けるのか、裁判官であればほぼ全員で説明可能なのでありましょう。

また、X8の母親はS57年12月8日時点で抗原抗体ともに陰性で、S59年4月13日に肝炎発症となっておりs抗原とe抗原ともに陽性となっておりました。もしもX8が集団予防接種で感染したものとして、母親は自分の子どもから感染したと考えられますか?すると、「免疫異常をもたらす疾患のない健常成人」でありながら、感染したのでありましょうか?
逆に、母親自身が57年12月8日以降のどこかの時点で感染が成立するとか、検査時点では偶然ウインドウ期間で検出されていなかっただけで本当は感染していたのに58年8月以前の出産時までには気付かなかったという可能性が否定できるのは何故なのかが判りません。高度な蓋然性をもってこの可能性が論理的に否定できるからこそ、集団予防接種が最も原因として疑われる、ということになったでありましょうから、その論理を知りたいのです。母親が先に感染していたとすれば、出産時か出生後まもなくの時点で「免疫機能の脆弱な乳児」であるX8が感染することになったとしても、不思議ではないようにも思えますがいかがでありましょうか。


HBVにはいくつかのgenotypeが存在し、日本ではC型が多く観察されてきましたが、欧米に多いA型であると持続感染に移行することが1割程度存在しているとのことです。近年、このタイプの肝炎が増加してきているようです。昔では1%も存在していなかったのですが、それでも皆無とも言えず、こうした遺伝子型であったなら、性交渉によって感染しキャリアとなったことを否定でき難いかもしれませんが、どうなのでしょうか。存在確率が0.4%であっても、肝炎患者1万人について40人は存在しています。

参考文献>dj3193.html

最高裁であるから、こうした可能性も当然検討した上で、合理的に推定しているはずです。これらを一般論に過ぎない、ということでまとめて否定するなら、どんな理屈でも可能になってしまいます。それは裁判官が独自の推定理論を全くの架空の中で作り上げられる、ということに他なりません。通常人に考えられる疑問であっても、合理的説明・解答などできなくともよい、ということです。