またキャンプに出かけた。
原油高のせいなのかどうかは知らないが、辺り一帯でテントを張っていたのはウチだけだった。好天に恵まれ、絶好のアウトドア日和だと思ったのに、日中に2~3組のグループが来ていただけで、夕暮れ前には帰っていった。ひょっとすると、車での移動を避ける為に、キャンプにさえ来なくなってしまったのかもしれない、と思った。キャンプは割と安い娯楽であると思うのだが、それすらも厳しいというのが世間一般の状況なのかもしれない。
昨年は雲があったので夜空の星は僅かしか見えなかったのだが、今年はよく見えた。多分、過去15年くらいで一番よく見えた星空だったのではないかと思う。周囲には街灯がとても少ないので空全体は結構暗く、都市からも離れているから星が見えやすいのだ。あっちが南の方だね、なんて言いながら数分か数十分か空をじっと眺めていたら、流れ星を見た。おおー、何年ぶりだろうか?最後に見たのはいつだったか?大学生の時に長野の山奥ん中で見たのが最後だったか?どうも思い出せない。
流れ星に願事をする暇がなかったよ、あーあ、勿体無かったな、残念、とか何とか言いながら、ビールを飲んだ。暫く後に次の缶ビールに取り掛かって、今度は北極星のあたりをぼーっと眺めていたら、再び流れ星が。うお!とか、変な声を上げて、子どもや妻に、流れ星、流れ星、今度は見た?ね、見た?、としつこく繰り返してしまった。だって、一生のうちで、一晩に2度も流れ星を見たことなんてないんだもの。滅多にない出来事にちょっと興奮気味といいますか、年甲斐もなくやたらとはしゃぐ父となってしまったのだった(笑)。また願事ができなかったよ。
そうだな、高校生とか大学生になってからは、夜空を見上げる機会は減っていった。多分、一番見上げていたのは、小学生の頃だったと思う。星の観察とか、そういう何かの目的とか意味とかは、一切ない。天体望遠鏡なんて持ってなかったし。ただ、見上げるだけ。そういうのが好きだったから、ということだけだろうと思う。何故自分がそうしたかったのかは、今から振り返ってもまるで判らない。星座に詳しかったわけでもないし。
<寄り道:
さっき書いた「長野の山奥ん中」というのはあったけど、星の観察をしていたわけじゃない。用事があって泊まっていただけだったから。でも田舎だった為、街灯とか全然ないから、「外の暗さ」というのがハンパじゃない。月明かりでもないと、何も見えない。墨汁の中を泳いでいるんじゃないか、と錯覚するくらい暗かった。「黒い空気」というものが存在しているかの如く、暗かった。はっきり言って怖かった。本能的な反応なのかもしれないが、夜の暗闇の中にいると本当に何も見えないので、自分の手をついつい前にかざしてしまうのだ。あれ以上の「自然の暗さ」を経験したことがない。昔の人たちは凄かったんだな、というかエラかったと思う。>
小学生頃に住んでいた辺りは田舎だったし、街灯とか家の明かりは少なく、空気が澄んでキレイだったのだろう。星はもの凄くよく見えた。天の川は本当に天の川で、光の絨毯みたいに見えていた。草むらには虫が鳴き、カエルが合唱を繰り返していた。毎晩、毎晩の大演奏会だった。それはあまりに自然なBGMで、急に音が消えると、それは何かの合図だった。雨が降ってくる少し前になると、何故かピタリと音が止まるのだった。そういう草むらにごろんと横になると、草がひんやりとして気持ちよかった。寝転がりながら夜空を見ていると、まるで空が落ちてきそうなほどに星が輝いていた。手を伸ばせばつかめるんじゃないか、というような錯覚にとらわれるくらいだった。空はそこに、手の先のあたりに、あった。経済的には貧乏だったかもしれないが(笑)、もっと贅沢な、自然のプラネタリウムだった。しかも、虫とカエルのコラボ合唱団付きだ。あの夜空を超える星空や、プラネタリウムを見たことはない。
「星が降る」とかって表現があるでしょ?あの感覚は、よくわかる。だって、本当に降ってきそうなくらいに見えるんだもの。現代の都市なんかと違って夜空が暗いから、「奥行き感覚」が麻痺するかのようなのだ。冬の雪夜にしても、ずっと空を見ていると、自分の体がどんどん天高く昇っていくように感じるのだ。駅で隣の列車が動き出すと、実際には自分の乗ってる列車が動いていないのに、まるで自分の列車が反対方向に動いていくかのように錯覚することがあると思うけど、まさにあれだ。どんどん落ちてくる雪を見上げていると、自分の体が真っ暗な夜空に昇っていき、暗さの先の先まで吸い込まれていくかのような感覚になるのだ。ああいう、夜空の暗さはもう忘れた。そういう場所に行ってないからなのかな。
原油高のせいなのかどうかは知らないが、辺り一帯でテントを張っていたのはウチだけだった。好天に恵まれ、絶好のアウトドア日和だと思ったのに、日中に2~3組のグループが来ていただけで、夕暮れ前には帰っていった。ひょっとすると、車での移動を避ける為に、キャンプにさえ来なくなってしまったのかもしれない、と思った。キャンプは割と安い娯楽であると思うのだが、それすらも厳しいというのが世間一般の状況なのかもしれない。
昨年は雲があったので夜空の星は僅かしか見えなかったのだが、今年はよく見えた。多分、過去15年くらいで一番よく見えた星空だったのではないかと思う。周囲には街灯がとても少ないので空全体は結構暗く、都市からも離れているから星が見えやすいのだ。あっちが南の方だね、なんて言いながら数分か数十分か空をじっと眺めていたら、流れ星を見た。おおー、何年ぶりだろうか?最後に見たのはいつだったか?大学生の時に長野の山奥ん中で見たのが最後だったか?どうも思い出せない。
流れ星に願事をする暇がなかったよ、あーあ、勿体無かったな、残念、とか何とか言いながら、ビールを飲んだ。暫く後に次の缶ビールに取り掛かって、今度は北極星のあたりをぼーっと眺めていたら、再び流れ星が。うお!とか、変な声を上げて、子どもや妻に、流れ星、流れ星、今度は見た?ね、見た?、としつこく繰り返してしまった。だって、一生のうちで、一晩に2度も流れ星を見たことなんてないんだもの。滅多にない出来事にちょっと興奮気味といいますか、年甲斐もなくやたらとはしゃぐ父となってしまったのだった(笑)。また願事ができなかったよ。
そうだな、高校生とか大学生になってからは、夜空を見上げる機会は減っていった。多分、一番見上げていたのは、小学生の頃だったと思う。星の観察とか、そういう何かの目的とか意味とかは、一切ない。天体望遠鏡なんて持ってなかったし。ただ、見上げるだけ。そういうのが好きだったから、ということだけだろうと思う。何故自分がそうしたかったのかは、今から振り返ってもまるで判らない。星座に詳しかったわけでもないし。
<寄り道:
さっき書いた「長野の山奥ん中」というのはあったけど、星の観察をしていたわけじゃない。用事があって泊まっていただけだったから。でも田舎だった為、街灯とか全然ないから、「外の暗さ」というのがハンパじゃない。月明かりでもないと、何も見えない。墨汁の中を泳いでいるんじゃないか、と錯覚するくらい暗かった。「黒い空気」というものが存在しているかの如く、暗かった。はっきり言って怖かった。本能的な反応なのかもしれないが、夜の暗闇の中にいると本当に何も見えないので、自分の手をついつい前にかざしてしまうのだ。あれ以上の「自然の暗さ」を経験したことがない。昔の人たちは凄かったんだな、というかエラかったと思う。>
小学生頃に住んでいた辺りは田舎だったし、街灯とか家の明かりは少なく、空気が澄んでキレイだったのだろう。星はもの凄くよく見えた。天の川は本当に天の川で、光の絨毯みたいに見えていた。草むらには虫が鳴き、カエルが合唱を繰り返していた。毎晩、毎晩の大演奏会だった。それはあまりに自然なBGMで、急に音が消えると、それは何かの合図だった。雨が降ってくる少し前になると、何故かピタリと音が止まるのだった。そういう草むらにごろんと横になると、草がひんやりとして気持ちよかった。寝転がりながら夜空を見ていると、まるで空が落ちてきそうなほどに星が輝いていた。手を伸ばせばつかめるんじゃないか、というような錯覚にとらわれるくらいだった。空はそこに、手の先のあたりに、あった。経済的には貧乏だったかもしれないが(笑)、もっと贅沢な、自然のプラネタリウムだった。しかも、虫とカエルのコラボ合唱団付きだ。あの夜空を超える星空や、プラネタリウムを見たことはない。
「星が降る」とかって表現があるでしょ?あの感覚は、よくわかる。だって、本当に降ってきそうなくらいに見えるんだもの。現代の都市なんかと違って夜空が暗いから、「奥行き感覚」が麻痺するかのようなのだ。冬の雪夜にしても、ずっと空を見ていると、自分の体がどんどん天高く昇っていくように感じるのだ。駅で隣の列車が動き出すと、実際には自分の乗ってる列車が動いていないのに、まるで自分の列車が反対方向に動いていくかのように錯覚することがあると思うけど、まさにあれだ。どんどん落ちてくる雪を見上げていると、自分の体が真っ暗な夜空に昇っていき、暗さの先の先まで吸い込まれていくかのような感覚になるのだ。ああいう、夜空の暗さはもう忘れた。そういう場所に行ってないからなのかな。