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福島産科死亡事件の裁判・その7(続)

2008年08月24日 16時53分22秒 | 法と医療
4 司法(裁判所)への不信

これまで、医療側から司法側に痛烈な批判というものが出され、トンデモ判決とかトンデモ裁判官とかについても同じく批判の対象とされていたと思います。

以前に「判決文というのは研究論文のようなもの」と書いたことがあります。
司法の「品質管理」を問う

こうした論文の結果については、ごく一部に評釈等があるものもありますが、多くが「スルー」されてきたのではないかと思っておりました。そうであるなら、どうやって検証されているのか、ということが判らなかったのです。医療側が司法への不信感を抱くのは、患者側に医療不信があるのとあまり変わりがないのではないかと思います。法学素人ゆえの知識や理解の不足もありますし、誤解を生じたりしていることもあろうかと思います。ある程度理解力が高いであろうと予想される医師たちをもってしても、専門外の分野のことになれば、一般国民が医療についてよく知らないのと同じく「知らない、判らない、よく理解できない」ということが起こってしまうものなのだ、ということです。

恐らく大多数の裁判では「問題なく行われている」のかもしれませんが、いくつかの不可解な(納得できない?)判決が医療裁判にはあるということから、厳しい批判が出されるものと思います。そういう判決が出されることの是正方法が、医療側からしてみると全く見出せないということも、余計に「特定裁判官への非難、人格批判」とか「司法全体への不信」という形で現れてしまうのかもしれません。

しかしながら、いくつかの行き違いなどはありましたが、法曹の方々のご尽力(モトケン先生のところをはじめ、法曹・法学関係の方々)とか、医療側が一体何を言いたいのかということの対話の積み重ね等により、何かが伝わっていったのではなかろうかと思っております。

やはり一番大切だと思ったのは、まず相手側主張を理解していこうとすることではないかと思います。それは「判決文」という形で司法側の見解(判断)が示されているわけですから、これを自ら知るようにすることと理解に努める以外ににはない、ということです。出発点は、ここにあるのです。その上で、指摘すべき点をきちんと「相手側にも判るように」提示し、その論点について討議を重ねていくとか、もっと判りやすく説明できるように試みるとか、そういう努力を必要とするのではないかな、ということです。それをせずに、ただ単に「○○判事はトンデモだ」とか「資質に問題がある」だのといった非難を浴びせても、有意義とも思われません。少なくとも、「相手側の土俵」で勝負するということが必要であり、割と有効なのではないかな、と思います。医療側が「医学の常識」だけを持ち出しても、司法の土俵ではないので、相手には通じないとか理解してもらいにくい、ということだろうと思います。
まあ中には、よく知りもしないのに、経済関連の人が最高裁判事に的外れな文句を並べたり、逆に法学関連の人が経済分野に論破を挑むことはあるようなので、医療に限ったことではないかもしれません(笑)。なので、医師たちが司法に文句を言うのは、それ程特別なことではない、ということでしょうか。

いずれにせよ、司法側が理解してくれるようになってきたのではないか、と思っていいのではないでしょうか。そうであるなら、必要以上に不信感を募らせる必要性はないのではないか、と思います。「以前とは違うんだ」と、肯定的に受け止めていくことが双方の利益になると考えます。


5 福島地裁判決

新聞報道の要旨から前の記事を書きましたが、詳細版があったようです。
大野病院事件判決要旨詳細版 - 元検弁護士のつぶやき

細かい内容の前に、立論のやり方という点について。

以前のやり取りは無駄ではなかった、と内心思っています。
司法の品質管理を問う~3の補足編

本件での「検察側立証」というのも同じで、「主張するなら、根拠を提示せよ」という、ごく当たり前のことが判決でも生きています。どの裁判であってもそれが守られているのかもしれませんけれども。議論の時でも同じで、何かの主張(仮説なり命題なり)を提示するのであれば、その立論を自らが行うべきだということです。この記事にも書いた通りです。

根拠を提示せよ、というのは、「悪意の受益者」と推定されうる貸金業者で取り上げた「合理的根拠」の提示、ということと同じような意味でしょう。「文献的なもの」(学説、論文等)とか、「複数例(判例、症例、…)」といった、ある程度合理的とみなされる根拠ということです。本件判決において、それが検察側に求められたのです。


判決要旨を読めば裁判所の言わんとしていることが、よく判ると思います。

予見可能性と結果回避可能性については、裁判で出された「事実認定」に基づいて判断されています。主張内容として、弁護側とか検察側とか、そういう偏りはなく、きちんと積み上げられていると思います。

例示としては適切ではなかったかもしれませんが、以前に書いた記事がコレです>医療過誤と責任・賠償問題についての私案~その1

判示されたのが予見可能性、(結果)回避可能性ともに肯定、ということであるのは、上記参考記事の例で考えてもよく理解できる。予見できた可能性を考えるのであるから、予見可能であったということになるし、回避可能性についても「現実に回避している実例がある」ということなのだから、回避可能性はあった、ということになろう。ただ、これまで回避できた人もいた(=結果回避可能性あり)、ということと、本件で「回避できたハズ」ということは違う、ということだ。

課せられる義務(=行うべき回避技術)の水準としては、多くの船頭が行う回避技術をもってすればできるものでなければならず、神業的な回避技術ではない、ということ。このことは、この中で触れたように、一般性及び通有性を満たす水準でなければならない、ということ。それが医学的準則なのだ、ということです。

一部医療側には、この医学的準則から外れた医療行為が違法認定されるんじゃないか、というような誤解が生じているようですけれども、そういうことを判決で示しているわけではありません。医療行為について、裁判所が決められるわけではないからです。どのような治療法であろうとも、「医師が行おうとする行為」は原則的には違法とはなりません。具体的な禁止行為は決まっていないでしょう。ただし、どんな治療法を採用してもよいが、その為にはクリアするべき義務があるのであり、例えば「患者の同意を得る」(説明義務)とか「治療法に熟知・熟達している(それが無理ならアクシデントに備えてリカバリー体制を十分確保しておく)」というようなことです。その他大勢の医師にとっては「難しすぎる」というような手術法であるとか、日本ではまだ一般的には広まっていない方法であるとか、そういう医療行為を行うことに何らの禁止規定はないが、行うに当たり注意すべき点はしっかり守ってやって下さいね、ということです。


最後に、医療側の人たちこそ、本件判決文を繰り返し読んでおくべきかと思います。中身を吟味すれば、裁判所がどのように考えて判決を書いたのか、ということが伝わってきますし、何をどのように説明すると司法側に判ってもらえるか、ということのヒントがつかめるかもしれません。