判決が出たこともあり、少し整理してみたい。
(あくまで個人的感想について縷々述べるだけですので、ご了承下さい。)
1 警察や検察への批判
これまでにも幾度か書いてきたと思うが、拘留するべき事件であったのかということについては疑問がある。
が、警察や検察は、医師に対して「特別な悪感情や処罰感情を抱いて」、本件逮捕や拘留を行ったというわけではないだろうと思われる。医療を目の敵にして、「こいつを檻にぶち込んでやるぜ」みたいな感情をもって逮捕したわけではないはずだ、ということ。
恐らくは、遺族側感情への配慮とか、マスメディアが動いている以上「野放し」にはできない(拘留しないでおく、という意味であり、犯罪者を放置しておくといった意味ではない)というような事情があったりもしたであろう、と想像される。
この事件を知ったキッカケを書いたことがある(プロフェッショナルと責任)が、警察や検察は何が何でもやりたくて「捜査着手、逮捕、拘留」したのではないだろう。そうであるなら、警察や検察への非難をいくら浴びせてみても分かり合えなくなるだけなので、「逮捕、拘留期間が長すぎる」「医療措置の理解が低劣である」(これは言い過ぎか、笑、「理解が不十分である」の方がいいかも)という具体的指摘に留めておくべきかと思う。
医療側が「警察(or検察or裁判所or司法)は日本の医療を崩壊させる気だ」みたいに、誰も言ってない・主張していないこと(そうした企みでもあれば別だが)を非難してもはじまらない(→オレか)。そういう大袈裟な意見は、悪影響はあっても、役には立つことはない。「裁判官は貸金業界を崩壊させる気か」(笑)みたいなものも同じ。
なので、ネット上で意見を述べている医療側(若しくは賛同側)の人たちに是非言っておきたいのは、必要以上に相手を責めるのは逆効果となるだけで、何ら得られることはないので程ほどにしておくべきということです。私から見た感じでは、一部の方々には人権擁護法案頃に見かけた「悪印象の方々」と近いものがあると思います。多くの場合には、誤った情報で大騒ぎする、誤った主張を繰り返してしまう、敵側(笑)を単なる決め付けで叩こうとする、みたいなことでしょうか。
もしも自分が検察官で今回の事件を担当していたとすれば、やはり起訴していたかもしれない。
何故なら、検察官の「手持ちのカード」には弁護側証人のような医師はおらず、病院の出した事故調査結果が残されていたのだから、非があるように見えたのは医師であり、過失があったと疑われるのであるから、起訴していたかもしれない、ということだ。もっと大きな要因としては、何らの落ち度もなく命が失われてしまった、ということを、強く感じるかどうかだと思う。恐らくこの検察官は、人間味のあるいい人なのではないかと思う(いい人だから起訴していい、とか言うのではありませんが)。だからこそ、起訴に踏み切ったんだろうな、と。
私はたまたま出産に伴う危険性というものについて、少しは判る部分があったから、これまで記事に書いてきたが、そういう情報や知識を持たずに事件を俯瞰してしまえば「起訴するのが妥当なのではないか」と考えたとしても不思議ではない、と思う。
ただ、検察官には僅かなチャンスがあった。
起訴する前に、「被告人が語る知識」や「証拠・鑑定結果」などから得る知識以外に、もっと医療や医学について知るべきであったし、知っておけば起訴には踏み切らなかったかもしれない。検察官が得られた情報というのは、断片的知識でしかなく、そのピースからは検察官が組み立てた論理構成となってしまうのかもしれないが、「現実」はもっと複雑で欠けているピースが多かった、ということだと思う。予想以上に欠けていたんです。それが「人体の複雑さ」、つまりは医療の複雑さを示しているのだろうと思う。そういう想像力が足りなかったか、「実は他にも隠されたピースが存在しているんじゃないだろうか」という慎重さが足りなかったのではないのかな、と。他の人間が組み立てた構成(例の事故調査報告みたいなの)を安易に採用すると、ハマる場合があるのだ、ということでは。
「ヒマワリか、アサガオか」ではなく、「本当は別な花なんじゃないか?」という素朴な疑問を見落としてはいけない、ということかと。本当はパンジーかもしれない、という疑いの目を忘れるべきではないと思う。
2 マスメディアへの批判
これは私も度々書いてきました。分野を問わず、酷評を繰り返してきました。なので、人のことは言える立場にないわけですが、敢えて申し上げるとすれば、やはり上の警察や検察への批判と同じでやり過ぎは良くない、ということではないかと思います。少なくとも、「自分の意見や考え」を誰に届けたいか、ということを考えておくべきではないかと思います。最終的に、大勢の国民に知ってもらいたいと考えているのであれば、「マスメディアを利用するかどうか」という点については考慮が必要かと思います。マスメディアになんて広めてもらう必要性なんかない、と考えているのであれば、徹底的に叩いておこうとゴミ呼ばわり(笑)しようと自由でいいと思いますが、ネット上の活動や現実にビラ撒きなどで大勢の国民に知ってもらうことは、現在でも割と難しいと思っています。
私の場合は「自分が極めて非力」であることを知っているので、マスメディアの方々に届くのであればそこからもっと大勢の方々に効率よく伝わると考えており、マスメディアの持つ役割についてはかなり肯定的です。そうは言っても、ありとあらゆる部分を批判してきましたので、「お前の言うことなんて誰が聞くかよ!」とお叱りを受けるだけかもしれず、実際にどうなのかというのは判らないのですけれども(笑)。
「医療崩壊」がマスメディアの中で広く取り上げられるようになったり、特集記事や番組が組まれたり、ドラマが作られたり、といったことは、全て「マスメディア」がやってくれていることです。厳しく「マスゴミ批判」はするけれども、そういうことへの評価をしない、というのも疑問に思うのですよ。医療側がいくらマスコミ叩きをやったところで、何が変わると考えているのでしょうか?悪辣な文句を言えば、「スミマセン、改めます」という風になることを期待しているのでしょうか?この図はどこかに見覚えがありませんでしょうか?まるで暴言を吐くモンスター何とかと、ほぼ同じようなものなのではありませんか?これでは、大勢の国民に理解が得られるようになるとは、とても思えないのです。「医者はウソばかり言いやがる!何とかしろ!」と凄まれ、医師が「申し訳ありません、改めます」ということですか?少数例の失敗を殊更取り上げられて、そのことを理由として「医者はウソばかり言う」と全員一緒に非難されるのは妥当なのでしょうか?
指摘すべき部分については、具体的に「これこれが間違いなんじゃないか」「ちょっと現実と違うよ」とか、記事や報道を批判した方がいいと思えます。全部が間違っているわけではないのなら、あまり抽象的にレッテルだけ貼って攻撃するのは止めておくべきかと思います。これは司法への不信とか、不満についても同じではないかと思います。ある医療裁判の事件だけをもって、「お前も同じ医者だから批判されるのは当然」と言われて反発するのであれば、同じくマスメディアにしろ司法にしろ反発はあるものなのだ、ということを念頭に批判を展開すべきかと思います。マスメディアの人が抱く程度の疑問に答えられないとか、彼らを説得できない(賛同を得られない)という意見であるなら、それは対象が多くの一般国民であったとしてもやはり難しいことなのかもしれない、ということは考えておくべきでしょう。
そもそもマスコミが、遺族の味方をしているんだ、医療叩きをやっているんだ、というのは、受け手の印象でしかないのであり、普通の人たちにとっては医療裁判や医療事故の記事ばかりを何本も読んだりしている人は少数派ではないかと思います。しかし、医療側の人間であると「とても気にしている」のでそこばかりに目が行くし、「またこんな記事が…、報道が…」という風に感じると思いますけれども、普通の人たちには同程度に知られていないということは少なくないでしょう。マスメディアにとって「医療が敵」なわけではありません。が、そういう勘違いのような感情を持つことの意味はないように思います。ただ、ニュースバリューという点では、関心の高さということからマスメディアにとっては「扱いたい分野」であると思います。
医療側の感情的意見ではなく、有識者のご意見をまず知ることをお勧めします。
権丈慶大教授の医療不信に関する論説を読んでみてください。
こちら>勿凝学問48
http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/korunakare48.pdf
<寄り道:
最近の医療ドラマで『tomorrow』の話を取り上げたのですが、フジ系の『コードブルー』というのもあったそうで、先日観てみました。芸能記者?あたりから、山ピーの表情が単調だのという完全な的外れのご意見があったやに聞き及んでいますが、あれは完璧に演出でしょう。そもそも「笑ってはいけない」という役作りでありましょう。それは何故かと言えば、救急ですので「心を凍らせた」のですよ、山ピーは。人が死ぬからです。命が消えてゆくことの辛さ・厳しさ・哀しさ、そういったものを心の底から感じてしまったからでしょう。だから、自分の心を押し潰されない為の「防衛反応」として、心を閉ざしたというか感情を捨てたというか鉄壁ガードで固めた結果なのです。そうでなければ、職務を遂行できないから、でしょう。そういう医師像を描いているのが山ピーで、常に淡々としていなくてはならない、迷いや苦悩の表情といったものを完全に消し去らねばならない、自分の感情を表に出してはならない、ということを忠実に演じているのだと思います。
なのに、これを「表現力が足りない、顔が平板」とか何とか言われたら、役作りにならんわな(笑)。記者さんの鑑賞能力に疑問を抱くね。一瞬の「微かな逡巡」のようなものを、顔つきや目の動きだけなどから演じなければならないので、一番難しいんだと思いますよ。女医が泣くとか、慌てるという方が(怒るでも、笑うでもいいんですが)、まだ演じ方がハッキリしている分だけ容易だと思うけど。
しかし、一緒に観ていたウチの妻は言っていたよ。「あんな美男美女の病院があったら、仕事にならん」と。大爆笑。確かに。可愛い女医さんや看護師多すぎ。医師もカッコ良すぎ。なので、キャーキャーしちゃったりして、用事もないのにやってくる患者とか「○○先生を指名で」とかの勘違いさんなんかも大勢現れそう。ああいう病院があったら、私も一度は行ってみたい(笑)。>
3 遺族のご意見
医療側の中には、遺族に対して厳しい意見や若干問題と思われる意見があるように見受けられます。ある面では正当なのかもしれませんが、「誰かが答えていない」からこそ、未だに解消されない疑問のようなものがあるのではないかと思います。ご遺族に批判しても、問題解決には繋がりません。むしろ、態度をより硬化させるだけかと思います。それよりも、「何を問題としているのか」ということを理解しようとする以外にはないのではないかと思います。
具体的に言えば、「他の凄く上手な医師がやっていたなら、助かっていたんじゃないか」というような疑問に答えることです。
仮にそう質問されたとしても、「判りません、答えようがありません」としか言えないだろうというのは、常識的に考えれば判るのですが、遺族にしてみるとそれが「納得できない」ということなのかもしれません。「実際にその場面になってやってみないと判りません、何ともいえません」ということの意味が、中々伝わり難いのかもしれません。
喩えとして変かもしれませんが、オリンピックの体操競技で鉄棒をやる場合、みたいなことでしょうか。
練習では9割以上成功する「ある技X」を、A選手が本番にやるという場合に、やる前から「失敗しないと言え」ということかな、と。同じ技をもっと上手な他のB選手がやったら、「必ず成功できる」と言ってくれ、とか。どちらも「本番になって、実際にやってみないと結果は判らない」ということなのですが、遺族にしてみれば何故か「いつも練習しているんだから、やる前から必ず成功できると判るはずだ」という意見になってしまうのではないかと思います。いつも出来ているんだから、オリンピックの時にだって出来るのは当然だ、と。つまり、遺族にとって「最善の医療」とは、「オリンピックで金メダルの選手」がある技Xをやればいい、ということなのです。ごく普通のA選手が技Xをやるのは「ケシカラン」と。これは最善ではないのだから、やるべきではない、と。
もしこうしたご意見に沿うのであれば、技Xをやっていい人というのはかなり限られてしまいます。金メダル選手であっても、失敗することは当然あります。競技を見ていれば判ると思いますが、有力選手であっても、思いもよらぬミスをしてしまい、メダルを逃すことは珍しくはありません。なので、いかに「金メダル選手にやって」とお願いしたとしても、百発百中で必ず成功できる、とは断言できないのです。更に、やっていいよ、という人を10人以下に絞ったとして、日本の産科を全部カバーできるのかといえば、それは無理です。つまり「メダル級以外の選手にもやってもらおう」ということにしない限り、日本の出産全部を賄いきれないのです。メダル級じゃなきゃ絶対ダメだ、というご意見なのであれば、それを同時に表明してもらうべきでしょう。
他には、「もしあの時、こうしておけば…」とか「こういう選択をしていたら…」とか、そういう後悔が残っているということなんだろうと思います。「もし別な病院へ行っていたら」とか「手術はやめますと言っていたら」とか、そういうことです。こうした後悔が大きいというのは、人間の特性でもあるでしょうから、中々解消は難しいのだと思います。自分の子を失ったことを思えば、その後悔がどれほどのものかというのは筆舌し難いでしょう。そういう後悔が、頭にこびりついて離れないんだろうと思います。しかも事件が終わるまでは、繰り返し繰り返し蘇ってくるのですから。もう少し突き詰めて行きますと、「自分は悪くなかった」という感情なのではないかと思います。自分の選択が悪かったせいではない、「他の誰かが悪かったんだ、他の原因があったんだ」ということです。そういうことでしか、自分を納得させられないのではないかな、と。
私が乗り物を予約したとします。家族の分も一緒に予約するのです。で、妻が「この日には~があるから時間の都合が悪いわ、他の時間に変えてくれないかしら」と言ったとして、私が「いや、この日は~~だから、どうしてもこの時間に乗らないと間に合わないんだ」と答えたと。その時間に乗ってしまったが為に乗り物は事故に巻き込まれ、自分の子どもが死んだとしましょう。私はどう思うだろうか?
あの日、「時間を変えておけばこんなことにはならなかった」と自分の選択結果を呪うでしょう。「何故あの時…」と、いつまでもいつまでも自分の予約した行為を責めるでしょう。妻の言うことを聞いておけばこんなことにはならなかった、と悔やみきれないけれども、後悔し続け、自分を責めるでしょう。けれども、「自分のせいじゃない、乗り物の運転手がミスしたからだ!」と、原因を他に求めることができるのであれば、「運転手のせいだ」と責めることで自分の救済となすしかないのではないか、ということです。実際のところ、そういう感情なのかどうか判りません。が、「娘が死んだのは○○のせいだ」と強い権威をもって「言って欲しい」ということなのではないかな、と。
「パイロットのせいだ、だからお前が悪い」ということが社会的にも明確になれば、「こうしておけばよかった」という後悔の念が若干でも軽減され、心が救われるのではないでしょうか。そういうようなことがあるのではないかな、と思います。
専門家である医師たちから見れば、遺族の意見が無理筋であるとか、医療への理解が不十分であると感じたとしても、それをなじるだけでは解決されないので、非難していることの意味が判らない。
遺族の疑問を解消する方向を考えない限り、対立が深刻化していくだけなのであり、「どうして判らないんだ」ということをいくら責めてみてもしょうがない。
なので、遺族の感情を逆撫でするような意見は慎むべきではないか。
長くなったので、とりあえず。
(あくまで個人的感想について縷々述べるだけですので、ご了承下さい。)
1 警察や検察への批判
これまでにも幾度か書いてきたと思うが、拘留するべき事件であったのかということについては疑問がある。
が、警察や検察は、医師に対して「特別な悪感情や処罰感情を抱いて」、本件逮捕や拘留を行ったというわけではないだろうと思われる。医療を目の敵にして、「こいつを檻にぶち込んでやるぜ」みたいな感情をもって逮捕したわけではないはずだ、ということ。
恐らくは、遺族側感情への配慮とか、マスメディアが動いている以上「野放し」にはできない(拘留しないでおく、という意味であり、犯罪者を放置しておくといった意味ではない)というような事情があったりもしたであろう、と想像される。
この事件を知ったキッカケを書いたことがある(プロフェッショナルと責任)が、警察や検察は何が何でもやりたくて「捜査着手、逮捕、拘留」したのではないだろう。そうであるなら、警察や検察への非難をいくら浴びせてみても分かり合えなくなるだけなので、「逮捕、拘留期間が長すぎる」「医療措置の理解が低劣である」(これは言い過ぎか、笑、「理解が不十分である」の方がいいかも)という具体的指摘に留めておくべきかと思う。
医療側が「警察(or検察or裁判所or司法)は日本の医療を崩壊させる気だ」みたいに、誰も言ってない・主張していないこと(そうした企みでもあれば別だが)を非難してもはじまらない(→オレか)。そういう大袈裟な意見は、悪影響はあっても、役には立つことはない。「裁判官は貸金業界を崩壊させる気か」(笑)みたいなものも同じ。
なので、ネット上で意見を述べている医療側(若しくは賛同側)の人たちに是非言っておきたいのは、必要以上に相手を責めるのは逆効果となるだけで、何ら得られることはないので程ほどにしておくべきということです。私から見た感じでは、一部の方々には人権擁護法案頃に見かけた「悪印象の方々」と近いものがあると思います。多くの場合には、誤った情報で大騒ぎする、誤った主張を繰り返してしまう、敵側(笑)を単なる決め付けで叩こうとする、みたいなことでしょうか。
もしも自分が検察官で今回の事件を担当していたとすれば、やはり起訴していたかもしれない。
何故なら、検察官の「手持ちのカード」には弁護側証人のような医師はおらず、病院の出した事故調査結果が残されていたのだから、非があるように見えたのは医師であり、過失があったと疑われるのであるから、起訴していたかもしれない、ということだ。もっと大きな要因としては、何らの落ち度もなく命が失われてしまった、ということを、強く感じるかどうかだと思う。恐らくこの検察官は、人間味のあるいい人なのではないかと思う(いい人だから起訴していい、とか言うのではありませんが)。だからこそ、起訴に踏み切ったんだろうな、と。
私はたまたま出産に伴う危険性というものについて、少しは判る部分があったから、これまで記事に書いてきたが、そういう情報や知識を持たずに事件を俯瞰してしまえば「起訴するのが妥当なのではないか」と考えたとしても不思議ではない、と思う。
ただ、検察官には僅かなチャンスがあった。
起訴する前に、「被告人が語る知識」や「証拠・鑑定結果」などから得る知識以外に、もっと医療や医学について知るべきであったし、知っておけば起訴には踏み切らなかったかもしれない。検察官が得られた情報というのは、断片的知識でしかなく、そのピースからは検察官が組み立てた論理構成となってしまうのかもしれないが、「現実」はもっと複雑で欠けているピースが多かった、ということだと思う。予想以上に欠けていたんです。それが「人体の複雑さ」、つまりは医療の複雑さを示しているのだろうと思う。そういう想像力が足りなかったか、「実は他にも隠されたピースが存在しているんじゃないだろうか」という慎重さが足りなかったのではないのかな、と。他の人間が組み立てた構成(例の事故調査報告みたいなの)を安易に採用すると、ハマる場合があるのだ、ということでは。
「ヒマワリか、アサガオか」ではなく、「本当は別な花なんじゃないか?」という素朴な疑問を見落としてはいけない、ということかと。本当はパンジーかもしれない、という疑いの目を忘れるべきではないと思う。
2 マスメディアへの批判
これは私も度々書いてきました。分野を問わず、酷評を繰り返してきました。なので、人のことは言える立場にないわけですが、敢えて申し上げるとすれば、やはり上の警察や検察への批判と同じでやり過ぎは良くない、ということではないかと思います。少なくとも、「自分の意見や考え」を誰に届けたいか、ということを考えておくべきではないかと思います。最終的に、大勢の国民に知ってもらいたいと考えているのであれば、「マスメディアを利用するかどうか」という点については考慮が必要かと思います。マスメディアになんて広めてもらう必要性なんかない、と考えているのであれば、徹底的に叩いておこうとゴミ呼ばわり(笑)しようと自由でいいと思いますが、ネット上の活動や現実にビラ撒きなどで大勢の国民に知ってもらうことは、現在でも割と難しいと思っています。
私の場合は「自分が極めて非力」であることを知っているので、マスメディアの方々に届くのであればそこからもっと大勢の方々に効率よく伝わると考えており、マスメディアの持つ役割についてはかなり肯定的です。そうは言っても、ありとあらゆる部分を批判してきましたので、「お前の言うことなんて誰が聞くかよ!」とお叱りを受けるだけかもしれず、実際にどうなのかというのは判らないのですけれども(笑)。
「医療崩壊」がマスメディアの中で広く取り上げられるようになったり、特集記事や番組が組まれたり、ドラマが作られたり、といったことは、全て「マスメディア」がやってくれていることです。厳しく「マスゴミ批判」はするけれども、そういうことへの評価をしない、というのも疑問に思うのですよ。医療側がいくらマスコミ叩きをやったところで、何が変わると考えているのでしょうか?悪辣な文句を言えば、「スミマセン、改めます」という風になることを期待しているのでしょうか?この図はどこかに見覚えがありませんでしょうか?まるで暴言を吐くモンスター何とかと、ほぼ同じようなものなのではありませんか?これでは、大勢の国民に理解が得られるようになるとは、とても思えないのです。「医者はウソばかり言いやがる!何とかしろ!」と凄まれ、医師が「申し訳ありません、改めます」ということですか?少数例の失敗を殊更取り上げられて、そのことを理由として「医者はウソばかり言う」と全員一緒に非難されるのは妥当なのでしょうか?
指摘すべき部分については、具体的に「これこれが間違いなんじゃないか」「ちょっと現実と違うよ」とか、記事や報道を批判した方がいいと思えます。全部が間違っているわけではないのなら、あまり抽象的にレッテルだけ貼って攻撃するのは止めておくべきかと思います。これは司法への不信とか、不満についても同じではないかと思います。ある医療裁判の事件だけをもって、「お前も同じ医者だから批判されるのは当然」と言われて反発するのであれば、同じくマスメディアにしろ司法にしろ反発はあるものなのだ、ということを念頭に批判を展開すべきかと思います。マスメディアの人が抱く程度の疑問に答えられないとか、彼らを説得できない(賛同を得られない)という意見であるなら、それは対象が多くの一般国民であったとしてもやはり難しいことなのかもしれない、ということは考えておくべきでしょう。
そもそもマスコミが、遺族の味方をしているんだ、医療叩きをやっているんだ、というのは、受け手の印象でしかないのであり、普通の人たちにとっては医療裁判や医療事故の記事ばかりを何本も読んだりしている人は少数派ではないかと思います。しかし、医療側の人間であると「とても気にしている」のでそこばかりに目が行くし、「またこんな記事が…、報道が…」という風に感じると思いますけれども、普通の人たちには同程度に知られていないということは少なくないでしょう。マスメディアにとって「医療が敵」なわけではありません。が、そういう勘違いのような感情を持つことの意味はないように思います。ただ、ニュースバリューという点では、関心の高さということからマスメディアにとっては「扱いたい分野」であると思います。
医療側の感情的意見ではなく、有識者のご意見をまず知ることをお勧めします。
権丈慶大教授の医療不信に関する論説を読んでみてください。
こちら>勿凝学問48
http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/korunakare48.pdf
<寄り道:
最近の医療ドラマで『tomorrow』の話を取り上げたのですが、フジ系の『コードブルー』というのもあったそうで、先日観てみました。芸能記者?あたりから、山ピーの表情が単調だのという完全な的外れのご意見があったやに聞き及んでいますが、あれは完璧に演出でしょう。そもそも「笑ってはいけない」という役作りでありましょう。それは何故かと言えば、救急ですので「心を凍らせた」のですよ、山ピーは。人が死ぬからです。命が消えてゆくことの辛さ・厳しさ・哀しさ、そういったものを心の底から感じてしまったからでしょう。だから、自分の心を押し潰されない為の「防衛反応」として、心を閉ざしたというか感情を捨てたというか鉄壁ガードで固めた結果なのです。そうでなければ、職務を遂行できないから、でしょう。そういう医師像を描いているのが山ピーで、常に淡々としていなくてはならない、迷いや苦悩の表情といったものを完全に消し去らねばならない、自分の感情を表に出してはならない、ということを忠実に演じているのだと思います。
なのに、これを「表現力が足りない、顔が平板」とか何とか言われたら、役作りにならんわな(笑)。記者さんの鑑賞能力に疑問を抱くね。一瞬の「微かな逡巡」のようなものを、顔つきや目の動きだけなどから演じなければならないので、一番難しいんだと思いますよ。女医が泣くとか、慌てるという方が(怒るでも、笑うでもいいんですが)、まだ演じ方がハッキリしている分だけ容易だと思うけど。
しかし、一緒に観ていたウチの妻は言っていたよ。「あんな美男美女の病院があったら、仕事にならん」と。大爆笑。確かに。可愛い女医さんや看護師多すぎ。医師もカッコ良すぎ。なので、キャーキャーしちゃったりして、用事もないのにやってくる患者とか「○○先生を指名で」とかの勘違いさんなんかも大勢現れそう。ああいう病院があったら、私も一度は行ってみたい(笑)。>
3 遺族のご意見
医療側の中には、遺族に対して厳しい意見や若干問題と思われる意見があるように見受けられます。ある面では正当なのかもしれませんが、「誰かが答えていない」からこそ、未だに解消されない疑問のようなものがあるのではないかと思います。ご遺族に批判しても、問題解決には繋がりません。むしろ、態度をより硬化させるだけかと思います。それよりも、「何を問題としているのか」ということを理解しようとする以外にはないのではないかと思います。
具体的に言えば、「他の凄く上手な医師がやっていたなら、助かっていたんじゃないか」というような疑問に答えることです。
仮にそう質問されたとしても、「判りません、答えようがありません」としか言えないだろうというのは、常識的に考えれば判るのですが、遺族にしてみるとそれが「納得できない」ということなのかもしれません。「実際にその場面になってやってみないと判りません、何ともいえません」ということの意味が、中々伝わり難いのかもしれません。
喩えとして変かもしれませんが、オリンピックの体操競技で鉄棒をやる場合、みたいなことでしょうか。
練習では9割以上成功する「ある技X」を、A選手が本番にやるという場合に、やる前から「失敗しないと言え」ということかな、と。同じ技をもっと上手な他のB選手がやったら、「必ず成功できる」と言ってくれ、とか。どちらも「本番になって、実際にやってみないと結果は判らない」ということなのですが、遺族にしてみれば何故か「いつも練習しているんだから、やる前から必ず成功できると判るはずだ」という意見になってしまうのではないかと思います。いつも出来ているんだから、オリンピックの時にだって出来るのは当然だ、と。つまり、遺族にとって「最善の医療」とは、「オリンピックで金メダルの選手」がある技Xをやればいい、ということなのです。ごく普通のA選手が技Xをやるのは「ケシカラン」と。これは最善ではないのだから、やるべきではない、と。
もしこうしたご意見に沿うのであれば、技Xをやっていい人というのはかなり限られてしまいます。金メダル選手であっても、失敗することは当然あります。競技を見ていれば判ると思いますが、有力選手であっても、思いもよらぬミスをしてしまい、メダルを逃すことは珍しくはありません。なので、いかに「金メダル選手にやって」とお願いしたとしても、百発百中で必ず成功できる、とは断言できないのです。更に、やっていいよ、という人を10人以下に絞ったとして、日本の産科を全部カバーできるのかといえば、それは無理です。つまり「メダル級以外の選手にもやってもらおう」ということにしない限り、日本の出産全部を賄いきれないのです。メダル級じゃなきゃ絶対ダメだ、というご意見なのであれば、それを同時に表明してもらうべきでしょう。
他には、「もしあの時、こうしておけば…」とか「こういう選択をしていたら…」とか、そういう後悔が残っているということなんだろうと思います。「もし別な病院へ行っていたら」とか「手術はやめますと言っていたら」とか、そういうことです。こうした後悔が大きいというのは、人間の特性でもあるでしょうから、中々解消は難しいのだと思います。自分の子を失ったことを思えば、その後悔がどれほどのものかというのは筆舌し難いでしょう。そういう後悔が、頭にこびりついて離れないんだろうと思います。しかも事件が終わるまでは、繰り返し繰り返し蘇ってくるのですから。もう少し突き詰めて行きますと、「自分は悪くなかった」という感情なのではないかと思います。自分の選択が悪かったせいではない、「他の誰かが悪かったんだ、他の原因があったんだ」ということです。そういうことでしか、自分を納得させられないのではないかな、と。
私が乗り物を予約したとします。家族の分も一緒に予約するのです。で、妻が「この日には~があるから時間の都合が悪いわ、他の時間に変えてくれないかしら」と言ったとして、私が「いや、この日は~~だから、どうしてもこの時間に乗らないと間に合わないんだ」と答えたと。その時間に乗ってしまったが為に乗り物は事故に巻き込まれ、自分の子どもが死んだとしましょう。私はどう思うだろうか?
あの日、「時間を変えておけばこんなことにはならなかった」と自分の選択結果を呪うでしょう。「何故あの時…」と、いつまでもいつまでも自分の予約した行為を責めるでしょう。妻の言うことを聞いておけばこんなことにはならなかった、と悔やみきれないけれども、後悔し続け、自分を責めるでしょう。けれども、「自分のせいじゃない、乗り物の運転手がミスしたからだ!」と、原因を他に求めることができるのであれば、「運転手のせいだ」と責めることで自分の救済となすしかないのではないか、ということです。実際のところ、そういう感情なのかどうか判りません。が、「娘が死んだのは○○のせいだ」と強い権威をもって「言って欲しい」ということなのではないかな、と。
「パイロットのせいだ、だからお前が悪い」ということが社会的にも明確になれば、「こうしておけばよかった」という後悔の念が若干でも軽減され、心が救われるのではないでしょうか。そういうようなことがあるのではないかな、と思います。
専門家である医師たちから見れば、遺族の意見が無理筋であるとか、医療への理解が不十分であると感じたとしても、それをなじるだけでは解決されないので、非難していることの意味が判らない。
遺族の疑問を解消する方向を考えない限り、対立が深刻化していくだけなのであり、「どうして判らないんだ」ということをいくら責めてみてもしょうがない。
なので、遺族の感情を逆撫でするような意見は慎むべきではないか。
長くなったので、とりあえず。