via ボ2ネタ
初めて知る本だった。
歴史家・鳥居民、自著を語る 話題の本 書籍案内 草思社
超大作だ。しかも「昭和二十年」という1年間を追いかけていくだけなのに、これほどの労力がかかるのだから恐れ入る。歴史研究とはこうした気の遠くなる作業の積み重ねなのだな、と思い知らされる。同時代に生きていた人々全ての、人生の物語がそこにはあるのだと思う。その膨大な物語から全体像を再構成して、その一部を記述していこうというものであるからこそ、超大作となってしまうのは当然なのかもしれない。
◇◇◇◇
この時期になると、毎年語られるのがパールハーバーだ。
1941年12月7日午前7時55分、日本海軍の艦載機がハワイ真珠湾のアメリカ太平洋艦隊を奇襲攻撃した。愚かな選択ではあったが、対米開戦の道を選んでしまったのだった。日本の誰もが知る戦争は、こうして始まった。
宣戦布告が遅れた理由はこれまでに諸説出されてきたが、この日に葬儀が行われていた日本人がいた。その人物は、新庄健吉という名の、一官僚だった。
>新庄健吉 - Wikipedia
新庄は陸軍主計大佐ということで、早い話が「経理屋」ということである。が、単なる経理屋なのではない。東大経済学部と大学院を修了しており、今で言えば「統計屋」(貶しているのではありません)的な経済分析官のような能力を持つ人、ということだろう。で、情報将校として渡米し、アメリカの国力を統計資料などから調査したのだった。
開戦となる41年4月、あのキングコングによじ登られてしまったエンパイア・ステートビル7階には三井物産のニューヨーク支店があり、その社員として赴任したのだった。新庄はコンピュータの先駆けとなったIBM社製の統計機を駆使し、アメリカの公式統計資料などを丹念に調べ上げていった。
今、「ビッグ3」の危機的状況と日本の自動車メーカーとの立場を思うと、まるで日米が逆転したかのように思われるかもしれないが、新庄の見たニューヨークという世界は、まるで違った。彼我の歴然たる差、アメリカという国の持つ圧倒的な国力、そういうものを目の当たりにしたのだった。新庄による評価は、自動車産業の生産力は日本を1とすれば、アメリカは50だった。日本の50倍もの力が米国自動車業界だったのだ。現代で言えば、たとえば「タタ自動車」と日本の自動車業界との差、みたいなものだ。アメリカが「F1チーム」レベルなら、日本はワークスさえにも届かない、完全なプライベートの「藤原とうふ店」レベル(笑)でしかなかった。
自動車ばかりではなく、鉄鋼、石油、石炭、電力、航空機等々、データを比較すると日本が圧倒的に劣っているという結論ばかりだった。重工業は日米格差が20倍、という結論になっていた。それ故、日米開戦など「愚かな選択」であるとしか思われなかっただろう。それ以上に、ニューヨークの人々は戦火に怯えることもなく、日本の富裕層でさえ受けられないような高い水準の生活を、誰もがごく普通にしていたことに衝撃を受けたのではないだろうか、と思うのである。日本は、といえば、国民生活は比べるべくもない上に、米国になく日本にあったものといえば、泥沼のような戦争継続だけだった。
ゼロ戦が初めて登場した時、世界に与えた衝撃は小さくはなかったかもしれないが、それはたまたま出場したレースにラッキーで1回勝てた、という程度のものであり、アメリカだけではなくイギリスやドイツの水準にも遠く及ばないのだった。ベースにあったものは、工業力であり、レシプロ機という製品は自動車と極めて近いものだったからだろうと思う。エンジン、機体設計、強度、整備などの総合力の差は如実に現れるのであり、まさにF1と同じようなものなのだ。
新庄は次のように言ったという。
「数字は嘘をつかないが、嘘が数字を作る」
分析官らしい言葉だ。至言だ。
統計屋(或いは経理屋)であればこその言葉である。データの意味をよく知っていたのだ。
データは騙そうとはしないが、人間は騙そうとして都合よく数字を並べようとするのだ。これは現代でも同じなのだ。恣意的な数字だけを取り上げて、都合の良い結論を導くことは、現代でも行われていることなのである。
その後、新庄は病気になってしまい、11月にはワシントンの大学病院に入院したものの快復せず、12月4日に死亡してしまう。クリスチャンだった新庄の葬儀は、まさに日米開戦当日の7日に行われていたのである。米国の軍人たちが多数参列したばかりか、日本の来栖、野村大使や大使館関係者たちも参列していた、ということだった。この葬儀が終わってから、ハル国務長官に最後通告を行ったのが午後2時20分、真珠湾攻撃が始まってから既に1時間20分が経過していたのだった。教会の神父が葬儀進行をわざと遅らせたからだ、という説もあるらしい。
◇◇◇◇
上の鳥居氏のインタビューには、原爆投下に反対していた米国の要人たちが出てくる。そのうちの1人が、ジョセフ・グルーだ。元駐日大使で、国務長官代理を務めた知日派である。
ジョセフ・グルー - Wikipedia
鳥居氏が言うように、原爆投下を推進したのは、たった2人しかいなかった。トルーマンとバーンズだけだった。
グルーは勿論、陸軍長官スティムソン、海軍長官フォレスタル、陸軍参謀総長マーシャル、海軍作戦本部長キング、そしてあのアイゼンハワーも反対した、とのことだ。
現代でも、これと似たようなことは起こってしまうものなのだ。
実務に詳しい人々がいくら反対しても、トップとそこに近いトップ級の人間が「やる」と言ったら、やってしまう、ということだ。イラク戦争がまさしくそうなのだ。マケインはオバマには負けてしまったけれども、こうした過去の米国軍人たちと同じように、見るべき部分がある人物なのだろうと思う。昔の戦国武将たちにも似たところがあるのだが、「敵に対する敬意」のようなものを持てる人間が存在するのだ。つい昨日まで戦っていた相手であっても、その人間を憎むのではなく赦した上に部下として登用する、というのと近い感覚だ。マケインはそうした武人タイプではないかと思うのだ。昔の日本の軍人たちの中にも、米国との戦争を回避しようとしていた人たちはいた。軍人同士の相通じる部分というのは、日米を問わずにあったのかもしれない。
真珠湾攻撃を指揮した山本五十六は開戦反対派であったが、決まった以上は軍人としての職務をまっとうした。
その山本が言ったそうだ。
「百年兵を養うは、ただ平和を守る為である」
ハーバード留学や駐米経験のある山本から見れば、対米戦争がどれほど無謀なものか容易に想像がついたであろう。だが、その山本をもってしても、開戦を止めることはできなかった。原爆投下を阻止できなかった米国の軍人たちと、同じようなものかもしれない。
過去の教訓をどう活かすかは、歴史を学ぼうとする人間次第なのだろう。
初めて知る本だった。
歴史家・鳥居民、自著を語る 話題の本 書籍案内 草思社
超大作だ。しかも「昭和二十年」という1年間を追いかけていくだけなのに、これほどの労力がかかるのだから恐れ入る。歴史研究とはこうした気の遠くなる作業の積み重ねなのだな、と思い知らされる。同時代に生きていた人々全ての、人生の物語がそこにはあるのだと思う。その膨大な物語から全体像を再構成して、その一部を記述していこうというものであるからこそ、超大作となってしまうのは当然なのかもしれない。
◇◇◇◇
この時期になると、毎年語られるのがパールハーバーだ。
1941年12月7日午前7時55分、日本海軍の艦載機がハワイ真珠湾のアメリカ太平洋艦隊を奇襲攻撃した。愚かな選択ではあったが、対米開戦の道を選んでしまったのだった。日本の誰もが知る戦争は、こうして始まった。
宣戦布告が遅れた理由はこれまでに諸説出されてきたが、この日に葬儀が行われていた日本人がいた。その人物は、新庄健吉という名の、一官僚だった。
>新庄健吉 - Wikipedia
新庄は陸軍主計大佐ということで、早い話が「経理屋」ということである。が、単なる経理屋なのではない。東大経済学部と大学院を修了しており、今で言えば「統計屋」(貶しているのではありません)的な経済分析官のような能力を持つ人、ということだろう。で、情報将校として渡米し、アメリカの国力を統計資料などから調査したのだった。
開戦となる41年4月、あのキングコングによじ登られてしまったエンパイア・ステートビル7階には三井物産のニューヨーク支店があり、その社員として赴任したのだった。新庄はコンピュータの先駆けとなったIBM社製の統計機を駆使し、アメリカの公式統計資料などを丹念に調べ上げていった。
今、「ビッグ3」の危機的状況と日本の自動車メーカーとの立場を思うと、まるで日米が逆転したかのように思われるかもしれないが、新庄の見たニューヨークという世界は、まるで違った。彼我の歴然たる差、アメリカという国の持つ圧倒的な国力、そういうものを目の当たりにしたのだった。新庄による評価は、自動車産業の生産力は日本を1とすれば、アメリカは50だった。日本の50倍もの力が米国自動車業界だったのだ。現代で言えば、たとえば「タタ自動車」と日本の自動車業界との差、みたいなものだ。アメリカが「F1チーム」レベルなら、日本はワークスさえにも届かない、完全なプライベートの「藤原とうふ店」レベル(笑)でしかなかった。
自動車ばかりではなく、鉄鋼、石油、石炭、電力、航空機等々、データを比較すると日本が圧倒的に劣っているという結論ばかりだった。重工業は日米格差が20倍、という結論になっていた。それ故、日米開戦など「愚かな選択」であるとしか思われなかっただろう。それ以上に、ニューヨークの人々は戦火に怯えることもなく、日本の富裕層でさえ受けられないような高い水準の生活を、誰もがごく普通にしていたことに衝撃を受けたのではないだろうか、と思うのである。日本は、といえば、国民生活は比べるべくもない上に、米国になく日本にあったものといえば、泥沼のような戦争継続だけだった。
ゼロ戦が初めて登場した時、世界に与えた衝撃は小さくはなかったかもしれないが、それはたまたま出場したレースにラッキーで1回勝てた、という程度のものであり、アメリカだけではなくイギリスやドイツの水準にも遠く及ばないのだった。ベースにあったものは、工業力であり、レシプロ機という製品は自動車と極めて近いものだったからだろうと思う。エンジン、機体設計、強度、整備などの総合力の差は如実に現れるのであり、まさにF1と同じようなものなのだ。
新庄は次のように言ったという。
「数字は嘘をつかないが、嘘が数字を作る」
分析官らしい言葉だ。至言だ。
統計屋(或いは経理屋)であればこその言葉である。データの意味をよく知っていたのだ。
データは騙そうとはしないが、人間は騙そうとして都合よく数字を並べようとするのだ。これは現代でも同じなのだ。恣意的な数字だけを取り上げて、都合の良い結論を導くことは、現代でも行われていることなのである。
その後、新庄は病気になってしまい、11月にはワシントンの大学病院に入院したものの快復せず、12月4日に死亡してしまう。クリスチャンだった新庄の葬儀は、まさに日米開戦当日の7日に行われていたのである。米国の軍人たちが多数参列したばかりか、日本の来栖、野村大使や大使館関係者たちも参列していた、ということだった。この葬儀が終わってから、ハル国務長官に最後通告を行ったのが午後2時20分、真珠湾攻撃が始まってから既に1時間20分が経過していたのだった。教会の神父が葬儀進行をわざと遅らせたからだ、という説もあるらしい。
◇◇◇◇
上の鳥居氏のインタビューには、原爆投下に反対していた米国の要人たちが出てくる。そのうちの1人が、ジョセフ・グルーだ。元駐日大使で、国務長官代理を務めた知日派である。
ジョセフ・グルー - Wikipedia
鳥居氏が言うように、原爆投下を推進したのは、たった2人しかいなかった。トルーマンとバーンズだけだった。
グルーは勿論、陸軍長官スティムソン、海軍長官フォレスタル、陸軍参謀総長マーシャル、海軍作戦本部長キング、そしてあのアイゼンハワーも反対した、とのことだ。
現代でも、これと似たようなことは起こってしまうものなのだ。
実務に詳しい人々がいくら反対しても、トップとそこに近いトップ級の人間が「やる」と言ったら、やってしまう、ということだ。イラク戦争がまさしくそうなのだ。マケインはオバマには負けてしまったけれども、こうした過去の米国軍人たちと同じように、見るべき部分がある人物なのだろうと思う。昔の戦国武将たちにも似たところがあるのだが、「敵に対する敬意」のようなものを持てる人間が存在するのだ。つい昨日まで戦っていた相手であっても、その人間を憎むのではなく赦した上に部下として登用する、というのと近い感覚だ。マケインはそうした武人タイプではないかと思うのだ。昔の日本の軍人たちの中にも、米国との戦争を回避しようとしていた人たちはいた。軍人同士の相通じる部分というのは、日米を問わずにあったのかもしれない。
真珠湾攻撃を指揮した山本五十六は開戦反対派であったが、決まった以上は軍人としての職務をまっとうした。
その山本が言ったそうだ。
「百年兵を養うは、ただ平和を守る為である」
ハーバード留学や駐米経験のある山本から見れば、対米戦争がどれほど無謀なものか容易に想像がついたであろう。だが、その山本をもってしても、開戦を止めることはできなかった。原爆投下を阻止できなかった米国の軍人たちと、同じようなものかもしれない。
過去の教訓をどう活かすかは、歴史を学ぼうとする人間次第なのだろう。