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経済学理論バカへの挑戦状~その5・比較優位バカ

2011年11月20日 18時43分32秒 | 経済関連
当方も経済学は苦手なので、正確なことが分からないかもしれないが。ただ、現実に即さない「出鱈目」みたいな部分は、判るに決まっている(笑)。

俄か経済学者気取りの連中が、これほど出現してくるのが不思議だな。200年余の知の遺産が証明している、とか、ああいうのと一緒だわ。次々湧いてくるのが、本当に謎だな。


>http://eiji.txt-nifty.com/diary/2011/11/post-ca4f.html


そんなに言うなら、次のような状態をどう考えるか?


①作家編

あなたがどんなに会計経理能力とスケジュール管理能力に長けているとしても、経理係と秘書を雇うのが正しい。比較優位な「作家としての創作活動」に専念する方が、経済学的には有利だからだ。
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こういう妄言に簡単に引っ掛かる連中がいるようで、笑える。この3人が果たして食べていけるのか?と疑問に思わないのだろうか。
とても暇な作家の場合、経理係と秘書がいらないことくらいは、即座にお分かりだろう。これが成り立つのは、「常に作家に仕事が入る場合」、すなわち需要がある場合のみだ。供給(=もの書きとして書き続ける)した分が売れる時だけ、他のスタッフを雇うことが可能となる。それらコストを払えるだけの収入(売上、産出)がなければ、全部自分でやった方がお得に決まっている。
こんな簡単なことが、どうして気付かないのだろうか?
ああ、余程売れっ子作家なのか>●石どの


②田舎の商店編

あなたがどんなにレジ打ちと商品管理・伝票計算能力が高くても、レジ打ち係と伝票整理計算係を雇うのが正しい。比較優位な「経営者兼店長」業務に専念する方が経済学的には有利だからだ。
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もう説明はいらないだろうと思うが、ごくありきたりの売上しかない商店では、オーナーが全てを一人でやるのは普通だ。レジ打ち係なんか雇っても、人件費が払えない。需要(売上)がないなら、無駄ということだ。

作家編も同じだが、要するに学問的知識が、知識として「身についてない」としか思えないのだ。
経済学の理屈というのは、かなり「実地に根差した」理屈であるという印象を抱いてきたが、理論を振りかざす経済学理論バカたちほど「よく理解していない」んじゃないか、とも思う。

ああそうか、理解していないからこそ、間違ったことを言い、誤って適用していても気付かない、といったことが度々起こるということなのかもしれないな。


人気のケーキ屋さんがあって、ケーキ職人が一人で店を切り盛りしていると、どうしても手を取られてしまって、ケーキが1日100個しか作れないとしよう。お客さんは、売り切れで帰ってしまうとか、レジに長い列になりがちなので捌き切れずに帰ってしまう、という状況であると、本来は「需要があった」のに、ケーキ職人が一人でやっているが為に、物理的に限界があるということになるわけだ。
これを解消するのに、レジ係や補助スタッフを雇うと、以前には100個が限界だったものが、ケーキ職人はケーキ作りに専念できるので200個に増やせ、これまで販売機会を逃してきたお客さんにも売れるようになり、レジ待ちの時間短縮もできて回転がよくなり多くの客を捌けるのと満足度が上がり、ということで、「好転する」というのが本来的趣旨ではないか。ケーキ職人が「どんなにレジ打ち能力が高くても、ケーキを作った方がいい」、という当たり前の話である。


逆に、失業するケースを考えてみよう。
②の例の如く、店長、レジ係、伝票整理計算係の3名が在籍しているとする。店長の業務処理・作業能力を10とする。
レジ係は1日当たり2の作業量、伝票整理計算係は1の作業量だとする。
この店は、需要が少ない=客数と売上が少ない為、レジと伝票整理計算の仕事以外の作業量が5しかない。そうすると、店長の能力を5投入しても、残り5でレジと伝票の合計3もこなせる、ということになる。
従って、店長が一人で全てこなす方がコストは減らせる。個人商店なんかの理屈というのは、そうなっている、という、ごく当たり前の結論に至る(笑)。

需要に対する資源配分を適切に行えば、こうなるというだけ。勿論、店長の能力2が余るわけだから、ここに無駄が発生することになってしまうが、個人をもっと細かく分割できないから仕方がないのである。3名の体制は、「過剰な供給力」というだけ。

そして、劣位な労働力2名は失業に至る。
応分の需要がなければ、分業体制が必ずしも有効ではない、ということだ。




過剰な供給力が生む賃金低下と利益率悪化

2011年11月20日 18時28分18秒 | 経済関連
また例で考えてみよう。

今、弁当屋がある。甲と乙の2軒だ。ライバル店ということだな。甲は「定食弁当」を500円で売っている。乙もこれに対抗して500円の「ランチ弁当」を売っている。甲は、乙に競争で勝とうとして、値下げに踏み切った。定食弁当を450円に下げた。値下げ原資は、野菜を一括大量購入することで得た。その代り、定食弁当を今までよりも2割多く売らないと、赤字になってしまうという水準になった。
「規模の経済」を考慮すると、戦術としては間違っているわけではない。生産量が増加すると、コストが低減される。供給が増えることで、需要を生み出す、と。そうして、甲は販売量を増加させた。乙に勝てるかな?

一方、乙はシェアを食われてしまったので、対抗してランチ弁当を420円に引き下げることにした。甲の戦術を研究して、甲でも材料の大量購入で価格を下げることに成功した。これに加えて、人件費を削減し、30円分の優位を生み出すことができたのだ。こうして、価格競争は続くのだ。

これが繰り返されると、どうなると思うか?
「規模の経済」を追求してゆくと、大量生産が必須となる。売り切らなければ、利益が出ない。コスト引き下げはある程度達成されるが、それにも限界というものがある。原料供給側は、「赤字」なのに売るということになってしまって、経済学の理屈には反することになるから。なので、原材料コストの引き下げ競争がある水準に到達してしまうと、甲も乙も価格競争の優位性はなくなる。残るは、人件費のみ、という所に行き着くわけだ。

労働の価値というものは、あくまで相対的評価であり、それが「その値段でなければならない」という理由は、明確には存在してない。ある企業のCEOの給料が1億ドルだとして、その労働価値は算出基準が存在するわけでない。農業労働者の月平均収入が10ドルだとしても、CEOの賃金と比べようがない。「どうして1億ドルなのか、片や10ドルなのは何故か」という根源的な問いに答えられない、ということだ。「そういう相場になっているから」くらいしか、言いようがないのだ。

そうすると、労働の価値に絶対基準がない、ということは、下げることが可能になってしまう、ということでもあるのだ。「事務次官の給料はどうして2200万円でなければならないのでしょうか?事務次官の仕事の価値は本当に2200万円もするのですか?」という問いに、答えようがない。「そんなに高いわけないじゃん」という評価には、対抗できないのである。そうすると、原理的には、引き下げはいくらでも可能ということになる(笑)。
そうやって、人件費引き下げが正当化されてきた、というのが、日本のデフレ要因となってしまった、ということである。


規模の経済を求めることで、デメリットも発生するのだ。
それは、「そんなに需要があるのですか?」という問題である。弁当屋が2軒あって、共に規模拡大を行い、コスト引き下げを行うと、次第に弁当が大量に出回るようになる。定食弁当もランチ弁当も250円となった時、双方の販売数量が以前の3倍に増えているとして、利益はどうなったのか、というのが問題なのである。普通は、弁当が値下がりしたからといって、一人で何個も食べられるようになるわけではないから、供給量増加でその通りに需要が増えるわけじゃない。頭打ちになる限度というのがあるだろう。

そして、甲乙どちらも利益がほぼゼロ、ということであると、勝者は「消費者」ということになる。これが、経済学の理屈でいう「競争市場」だ。かつての定食弁当やランチ弁当への「ありがたみ」みたいなものは、消滅する。イメージが低下する、ということだ。安物の、いつでも食べられる弁当、みたいになってしまって、商品価値は値段の通りに下がってしまった、ということだ。

更に、弁当を買うのは、実は甲と乙の従業員であり、弁当の値段が下がった恩恵を受けるのが消費者である従業員だが、それは同時に賃金引き下げに反映されてしまうので、実際には「得をした」ということにはなっていないのではないか、ということだ。

賃金低下による購買力低下が価格下落と同時に起こるから、結果的には大して得にはならない、ということである。


日本のテレビなんかを考えると、こういうのに近いことがあったのではないかと思う。品質とブランドイメージというのは、最も「商品価値」があったのに、それをわざわざ自ら捨て去ったようなものである。しかも、シェア回復みたいなことだけを考えると、規模の拡大すなわち過剰な設備投資によって供給力が多くなってしまう。それが過剰な価格競争を生み、利益の出ない、というより「マイナスの」安物へと転落していったのではないか。


ブランドは、ブランド価値を守らねばならない。価値を高めなければならない。
だが、日本の電機企業群はブランド価値を自ら下げた。「やっぱり日本製だな」という価値を守れるなら、極端な話、分業体制にしたっていいはずなのだ。
冷蔵庫を作るのが得意な企業が専業っぽくして、OEMでブランド名を変えて他社で販売してもいいはずなのだが。冷蔵庫はそちらで、洗濯機はこちらで、エアコンはここで、みたいに、重層的に「協働」戦術でもいいと思うんだけど。それなら、設備投資や人件費などの重複が避けられるはずだし、利益率が異常に低くなってしまうというのも防げるのではないか。


日本製であることの付加価値とは何か?
デカイ、重い、電力消費の無駄、といったものと違って、軽量小型で故障が少なく省エネ、というなら、それでも十分価値を生むはずなのだが。勿論、所得水準の低い、現地の実情にあった商品開発も必要であるかもしれないが、ブランド価値というのは「信心」みたいなものなので、それが失われてしまうと競争力は減退するだろう。

意味不明の「大きなお世話」的な多機能を持たせなくてもいいから、圧倒的に異なる「何か」こそが付加価値を高めるはずだ。マネの難しい「何か」である。それが失われると、低価格競争に巻き込まれるだけで、競争力を失うであろう。それこそ、利益ゼロやマイナスとなるなら、その事業そのものの存在意義は失われているのである。
規模の経済を追求するあまり、巨額設備投資で供給過剰に陥って苦戦するなら、自らは製造を止めて、勝ってる企業を買収する方がいいに決まっているのである。競合他社がやったことと同じようなことをやるだけでは、互いが自滅への道をゆくだけであろう。ヘンな横並びが、互いの首を絞めることになるのだ。



輸出企業の発言力と交易損失拡大

2011年11月20日 13時18分54秒 | 経済関連
2000年代に入り、08年のリーマンショック前まで日本の輸出は増加してきた。一方で、輸出企業頼みの景気回復というのは、別な問題も生み出してきたのである。

一つが為替の問題だ。円高が企業を苦しめる、という理屈で為替介入を繰り返した結果、日本国民が多大な借金を背負わされて、その裏では「輸出企業への所得移転」が行われることになったのである。
介入は対症療法的なものであり、姑息的な手法でしかない。長期トレンドが円高なのであれば、それを一時しのぎだけでは回避できない。海外の貨幣成長率が日本を大きく上回る(日本はデフレで、諸外国は2%以上のインフレだから、差が開く一方だった)中で、円の価値が相対的に上昇してしまうことは避けられない。根治的な政策選択が必要であったはずなのだが、そうした問題点は「デフレ論争」の中では主流の意見とはならなかった(前半の多くの時間が「日本の銀行に特有の問題」と看做され、機能的な問題点すなわち金融システムと不良債権に当てられた。或いは金利政策の失敗など、原因分析の検索と論争に無駄な時間が費やされていった)。

輸出企業が移転された利益を国内需要を高める方向で使えばよかったが、必ずしもそうはならなかった。賃金上昇がなかった為に、国民の購買力が上がらなかった。
賃金が上がらないことは、更なるデフレ強化となり、デフレが輸出企業にとっては「円高に戻る」という悪夢を招来する、悪循環が形成された。


特に、ドル円での為替不均衡は、そうした輸出企業頼みの経済体質と、海外の「好調な経済に支えられた消費増+外国通貨の増価」を招くことになった。ユーロやポンドは言うに及ばず、韓国ウォンでさえ、大幅な増価となったのだ。現在は、そうした歪みの是正という可能性があるかもしれない。結果的に、円高に舞い戻った、ということである。

さて、好調な輸出に支えられて、微々たる経済成長を果たした日本であったが、人為的に生み出された円安効果がもたらしたものは、「交易損失の拡大」であった。中国に代表されるように、新興国経済が好調だったから、旺盛な需要を生み、資源高をもたらした、という側面はあったかもしれない。
それ以外にも、輸出企業の人件費抑制策や交渉力低下などで、輸入価格が高いのに、製品価格を据え置きや利益なき値下げ競争に突入してしまい、輸出物価が低いままで推移することになった。その結果、交易損失が拡大してきた、ということである。例えば、原油価格が大幅に上昇したのに、その原料価格を人件費やその他国内経費削減で埋めてしまって、輸入価格上昇分を吸収しようとすると、「価格の調節機能が働かない」という状態となり、交易損失となるわけである。

その傾向は、05年以降くらいから顕著となっている。その損失分は、原料輸出国への移転のようなものであり、日本国内の賃金を減らして、海外にその分を払っているのと同じ、ということだ。


こうして、輸出企業が苦境に陥るたびに救急措置を行おうとすることによって、円高介入で40兆円の為替損を食らったわけである。これに加えて、毎年毎年8~10兆円規模の交易損失が発生する、というようなことになっているわけである。

輸出企業は、発言力を強めるなら、外に向かって発言せよ。輸入価格交渉で、もっと交易損失を減らす努力をせよ。製品価格に転嫁するべきは、転嫁すべし。国内で不満を言うだけの発言力は必要ない。


参考:

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/fb53d51b4f521f72a5b422c7b34d6cfc

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/4f863c0f759aaa58a4f101f1c8857aa0




品とはなにか

2011年11月20日 13時11分10秒 | 俺のそれ
いつも、不埒な悪行三昧で申し訳ございません。
下賤の者が、感想を述べるなど無礼とは存じますが、心に強く留めておきたいが故に、ここに記しておきたいと存じます。


>http://b.hatena.ne.jp/entry/news.livedoor.com/article/detail/6040635/


ブータン国王の愛に溢れるお言葉を頂戴し、感動致しました。
心に滲みました。
誠にありがとうございます。
心の底から、御礼申し上げます。