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「バレンタインデー」はいらないか

2006年02月14日 17時12分21秒 | 社会全般
昨日の記事でお金の流通速度について書いたのですけど、書いていて思ったことがあった。いつもの通り、とっても変な考えなので「何じゃそりゃ?」ということかもしれないので、取扱要注意、で。


まず、昔の人達はきっと貧乏だったろうし、格差の水準もきっともの凄く開きがあったろう。簡単に言うと、「水のみ百姓」と「豪農」とはえらい格差があったに違いないと。浪人崩れの「傘張り職人」と「紀伊国屋文左衛門」みたいな山師的ベンチャーの人(笑)も、多分もの凄い格差だったろうな、と。そういう状況であって、一般の人々は「困った時の為に」と思って、大切に穀類か金子を蓄えておこうとしたりしただろう。普通に「辛抱しなさい」ということを教えられたりして、地道に「蓄えをしなさい」などという道徳教育もされていたことだろう。


従って一般的には、金持ちならばお金を使う傾向はあっただろうが、そうでもない普通の貧乏人達というのは、出来るだけお金を使わないようにしていただろう。そうすると、どうなるか。結果的には地域経済は停滞したりするし、商人たちが潤わないので、藩の収入も減ったりするかもしれず、その結果年貢を厳しく取り立てられたりして、自分に跳ね返ってきてしまうかも。

で、そういうのを緩和する制度というか仕組みとしては、神仏の行事とか農村の豊作祈願というようなお祭り行事のようなものがあった。それは単なる偶然なのかもしれないし、大昔からの経験則による知恵なのかもしれないけれど。


大抵は大金持ちというか、地元の名士の人たちが、そういうお祭りの時には寄附とか振舞い酒などの商品を大量に購入して人々に無償配布したりとか、「再分配」のような感じになりますね。それに一般の人々も普段ならば「我慢してお金を使わないように」していたのだけれど、年に一度のお祭りとかそういう何かの行事の時には「ちょっと使おうかな」というふうになるのではないかな、と。つまり各個人のお金への執着度を自然に緩和する作用があったのではないのかな、と思うのです。消費意欲を高めるというか、個人差はあるけれど少しだけ粘度を低下させていたのではないかな、と。なので、こういう奉納行事とか、お祭りというような行事は、経済効果がきっと高かったに違いないと思う。それに、金持ちは他の人々から尊敬を集めたり、恨み・嫉みなどを減らすには、寄附行為というか自分のこと以外にお金を使うことが必要だったのでしょう。そういう社会的不満を軽減させる働きもあったのではないのかな、と思ったりします。


江戸時代の江戸庶民は割りと色々な娯楽にもお金を使っていたようですので、江戸と他の地方では状況は異なっていたのではないかと思いますが。「宵越しの金を持たない」などと言って、パーっと使ってしまうことが粋であったようですが、これもある意味経済効果があったのであろうと思う。お金への執着度(粘度)を減らして貨幣速度をアップさせるし、回りまわって自分の収入にも反映されるというようなことを経験的に知っていたのかもしれない(笑)。逆に皆が使わなくなり過ぎると、活気が失せてツマラナイし、経済的に停滞するということを知っていたに違いない。時には大火もあったりして、これも確かに損失なんだけど、火事が「江戸の華」と言われた理由の一部には、その後の「復興需要」ということで経済が活況となるということを多くの江戸っ子たちが経験的に知っていたのかもしれないですね。まさに「スクラップ&ビルド」だし、雇用政策でもあるし(火事は政策ではないな)。


そういうような訳で、何が言いたいのかというと、案外と昔の行事には経済学的意味があったりして、それには個人のお金への執着度を減らす効果や、貧困層の社会的不満を軽減したり富の分配機能も兼ね備えていて、経験則に基づく経済学的合理性があったのではなかろうか、ということですね。


こういう視点で考えると、OLの7割くらいが「バレンタインデーを無くしてほしい」と考えている(Yahoo!ニュース - 共同通信 - OLの7割「なくなって」 バレンタインデー調査)ようですので、これが消滅した場合にはお金への執着度の高い女性たちは特に消費抑制に繋がるおそれがあります(笑)。会社のしょうもないエロハゲオヤジ(ゴメンね)には益々誰も支出しようとはしなくなり、そういうオヤジ層の社内的不満が増大する可能性も有り得ます。社会全体で見ても、お金の粘度を変えるチャンスを一つ失ってしまうことになるかもしれませんね。


因みに私は「バレンタインデーなど全くいらない」派(むしろ、「無くせ派」)です。少なくとも私が中学・高校の時に、学校にチョコを持ってきていた人は見たことがありませんでしたから(田舎だったからか?)。大学生になって初めて「義理チョコ」なるものが与えられるようになり、貰ったら何か返さねばならず、全然好きでもないチョコと、その単価よりも必ず多くなければならない自分のお金を交換するという取引を強要されるのが結構不満であります。でも、全く貰えない場合には、それなりに寂しい場合もありますけど。義理チョコなるものは、初めの頃には無かったと思うな。いつからこんな変な制度に変わったんでしょ?


いかん、私もすっかり貧乏人の「粘度」が高い人になっているな。こういう無駄な消費も他の世の中の人々にとっては経済効果があって、「財布のヒモ」を緩めさせる貴重な機会なのですから、私のように「なくしていいよ」などと言わない方がよいのかもしれませんね。



お金の流通速度

2006年02月13日 22時06分45秒 | 経済関連
前の記事の続きです。お金の流通に関する印象としては、前にもちょっと書いたのですけれど(金融調節の雑感)、コンパートメント・モデルに近いようなイメージがあります。例えば日銀という大元のコンパートメント(普通の部屋のようなものでもいいのですけど)があって、そこと別な経済主体(例えば市中銀行ですね)をつなぐ通路があり、そこでの貨幣のやり取りというのがある速度で行われていたとしますね。経済発展によって仕組みが複雑化するし、経済主体も色々と登場することとなり、要するにそこに繋がる部屋というかコンパートメントが凄く増加する訳です。となれば、次第に日銀と銀行との流通速度も減少していくような気がします。一回り還流してくるのに時間がかかるようになる、ということです。


日銀、銀行、個人1、という3者しかいない時に、一枚だけ1万円札にマークをつけて流したとしましょう。出発点は勿論日銀です。これが再び日銀に戻ってくるまでどれくらいかかるか、というのが流通速度ということになるかと思います。銀行が不人気で引出などが活発でなければ銀行の金庫で眠ったままとなるかも。個人1の手にようやく渡ったとしても財布の中でひたすら出番を待つだけかもしれないし、タンス預金にされるかもしれない。そういう風に色々な場合があると思いますね。しかし、これを無限に繰り返して平均的に戻って来るまでの時間を測定すると、普通の流通速度というものが分るのであろうなと思いますね。これに更に商店1を追加すると、お札は銀行や商店や個人の間を行ったり来たりして中々日銀に戻って来ないかもしれないし、商店1のレジで眠ることになるかもしれないし。活発な取引があれば気体分子の運動のような感じで、日銀に戻ってくる確率がアップするはずですね。なので、経済が不活発であると、お札の移動確率が減少するので多分観測される流通速度は落ちるし、景気が良くて活発な取引が行われれば速度は上がるはずですね。でも、もの凄くコンパートメントの数を増やしていくと、日銀に戻ってくる確率も減るし、その為に速度が低下していくのではないかな?


経済主体としてのコンパートメント、つまり個人とか企業とか銀行の数も凄く増えるので、流通ネットワークも複雑になります。変な例ですけれど、個人間では直径が1の水道管のような連結、個人と企業間は直径2の水道管、企業と銀行は直径20の水道管、日銀と銀行は直径50の水道管、と言う具合に連結されているような感じです(本当は全ての水道管の太さも長さも異なっているのです)。各コンパートメントには球体で出来た水を貯められる容量のようなものがあり、銀行は大きく、次に企業が、個人のは凄く小さいですが、個人差があるので球体の大きさがバラバラなのですね。そういうような水道ネットワークで日銀はダムの放流みたいにドバーっと貨幣を供給して、銀行を経由してお金が各水道管に流れていく。企業にも個人(家計)にも。個人の細い水道管あたりに行くと流れが悪い管もあるし、詰まっている水道管もあったりするかもしれないし。でも、全体的にはお金が水道管を通じて流通する。複雑な水道管ネットワークなので、誰がどこに繋がっているか正確には誰も分らないから、流れが悪い所も正確には掴めないし修理も出来ないこともある(出来ることもあるけど)。でも大きい球体とか、特に太い水道管などは、判りやすい。銀行は取引先を調べれば判るでしょうし。それでも、全ての連結状態を調べることが中々出来ない。


個人差(企業でも個人でも)があって、「金離れのいい人と悪い人」がいたりする。タンス預金が好きな人とそうでもない人がいたりする。なので、各コンパートメントにどれくらい水(=お金)が貯まってるかは分らない。刻々と流れているから変化するし。お金を余り使わない人は、周りとの連結されている水道管の距離が長いので、結構な水圧がないと出て行かない(地方などで周囲に使うべき場所や機会の少ないことも、そういう水道管距離が長いということになるかもしれない)。また、金への執着度の違いもあったりして、それはその人特有の粘度による。ケチであったりするとこっそり畳の下に隠してあったりして、そういうのは執着が強いってことで、「お金への執着度=流体の粘度」というような意味合いに近いように思う。きっとお金の出入りが大きい人は、水道管の直径が大きくなければならないだろう。川の流れと同じようなもので、水面に浮かべた笹船が同じ時速5キロで流れていても、大きな川は水量がドーンと多いけど、小川なら全然少ないでしょ?つまり水道管の直径が大きくないと、他の人の何倍もの猛烈なスピードで流さないとダメってことになってしまうので。もしも水のような普通の流体ならば、水道管の直径が大きくなればその4乗に比例して流量は増大するし、長さが長くなればそれに比例して抵抗が増す(はずです・・・だったか?)のです。お金が出るのも、それに似てるかなー、と。


お金の流れを規定するのが、こうした「水道管の直径」「水道管の長さ」「特有の粘度」といったことに影響される。しかもその時々の気分などによって粘度が変わったりするし。しかもある程度の速度が出てくると、その速度による粘性抵抗を生じる。つまり、速いことによって抵抗が大きくなる、ということですね。雨滴が一定速度で落下してくる原理と同じようなものです。通常空気と雨滴の関係では、粘度は一定で変わらないですけど、お金の流通では経済主体ごとに粘度がバラバラで(勿論日銀も例外ではなく)、しかも同一の経済主体であっても時が違えば同じではない。その為に、流通ネットワークの中では一定速度を計測するのは難しい。でも、全体的に見れば、おおよその速度傾向が出てくるでしょう。そういうイメージですね。どんなに速度をアップしても粘性抵抗があるので、一定以上の流通速度を達成するのは難しくなるはずです。即ち限界速度というものが自ずと生まれる、ということです。その平均的な流通速度は、経年的に低下してきているのであろうと思いますね。経済発展による流通経路の複雑化によるものとか、執着度を増加させるような社会環境とか、そういうものの影響を受けているのではないかな、と。


「97年ショック」のような危機によって「現金頼み」という風に行動しようとしてしまうと、各コンパートメントでの金への執着度=粘度は平均的には高くなると思いますね。企業の現金かき集めもそうです。これも粘度上昇の傾向が表れると思いますね。それは即ち、「流通速度」低下要因であろうと思いますね。「マーシャルのk」が大きくなっている(=速度低下)、というのはそういう意味であろうと思います。あ、「マーシャルのk」自体は単位がないものです(そうだよね?)から、本来的には意味が”速度”とはちょっと異なるか。単位時間当たりの「貨幣回転率」というような意味であろうか。マークした一万円札が一年間で平均何回日銀に戻ってくるか、というような意味です。違うかな?景気が良いと回転率が高い(=流通速度が速い)ので、マネーサプライが名目GDPよりも小さくても済みそうですね。しかし、景気が悪くて停滞していると循環不全と同じようなことになってしまい(うっ血している)、流通速度は遅くなるので、マネーサプライを増やさないとダメですね。


赤血球が肺循環にどのくらいで到達するか、というのとも似てるな(5分とかそれくらいで全血が通過するはずだったような・・・。思いのほか回転が速かった気がする)。とある赤血球はどこかの血管か、組織かに行ってしまうけれど、酸素を放出してもしなくても再び肺循環に戻ってくる。血行が悪いと酸素化されていない赤血球の割合が相対的に多くなり、より多くの赤血球を必要とするはずですね。体の場合には、本来必要な量の何倍も備えているから、元々が有り余っているんですけれど。でもこれは急な出血などによって部分的に赤血球を失ったとしても耐えられるような仕組みになっており、セーフティ・マージンは相当高い設定になっている、ということですね。それはまあいいんですが、要するにお金の場合には大体1年間に一度戻ってくるかどうか、というくらいの水準で、回転率が高いとそれよりも少なく済み、低いとそれよりも多く必要になる、ってことですね。


定常状態がずーっと続く場合には、どの瞬間で静止させてみても、全く同じ分布になっているはずですね。動的ではなくて静的観察というのでしょうかね。仮に、日銀、銀行、家計、企業というコンパートメントに均一に必要なお金を分布させておくと、例えば日銀100、銀行300、家計400、企業200、というような感じで分布していて、いつの時点で見ても全く同じ分布になっている、ということです。見かけ上、実は全く動かずに一円も流通していないとしても、それと同じように見えてしまいますね。その場合には、マークした1万円札が何処かに―銀行にあるとすれば銀行に―残っていて、それは全然動かない訳です。他のお金も全部がそうなのです。でも、このような状態であるとしたら、所謂「死体標本」のような状態と同じくなってしまいますね。見かけ上は何ら変化がないとしても、マークした1万円札はある瞬間には家計にあり、ある瞬間には日銀にあり、というような「動いている状態」でないと、恐らく経済は死んでいることと一緒になりますね。気体分子と同じようなもの?ある家の空気が一定温度で定圧であるとしても、とある酸素分子一つにマークしたとしたら、ある時には居間にあり、別な時には寝室にあり、また別な時には台所にある、という風に勝手に動いていますね。でも、マークしてないと、観察者にとってはどの部屋の気体も同じ温度、同じ圧で存在していて、分布密度も各気体成分の濃度も全くの定常状態にしか見えない、ということですよね。だが、本当は一定に流れていたり拡散したりして、勝手にバラバラで動いているはずですね。


変な方向にズレましたが、マネーサプライとか「マーシャルのk」については、ちょっと理解が進んだような気がします。自然利子率については、次の機会に書いてみます。テイラールールについてもその時に。



リジョインダーへの回答・2

2006年02月13日 17時58分15秒 | 経済関連
先日bewaadさんから回答を頂き、またヘタレ経済学徒さん、lukeさんからのコメントを頂いて、自分の頭の悪さを痛感しました。本当にごめんなさい。無用なお手を取らせてしまいました。「円安でたちまち物価が上昇する」ということは違うのではないか、という記事を書いていたのですけれども、自分の中に大きな錯覚を生じてしまい、「たちまち上昇」を反対論者の方々が肯定しているのかと思い込んでしまっていました。ホンッットに、本当にすみませんでした。


>議論の噛み合いの問題

これを指摘されても尚、「ハレ?」ってな感じで、lukeさんに「何度も」確認されてから、ようやく自分の勝手な思い込みに気付きました。トホホ・・・・でございます。「頭悪り~」です。何故か最初の信じ込みから抜け出せず、全く見えてなかった。反省です・・・。


皆様の貴重な時間を無駄にお取りさせたことをお詫び申し上げます。

バカ、バカ~~ぁ、ワシのバカ~~です。あー、変態な自分。


反省ということで(?)、経済学の基本的な所を調べてみました。自分の理解の範囲で書いてみたいと思います。


bewaadさんのリジョインダーには金利の説明が出て来たので、「うーむむむう?」となってしまい、これがよく分らなかったのです。でも意味がちょっと分りました。経済学の基本(笑)ということのようです。景気・不景気と金利の関係くらいしか知らなかったので。成書的には次のような関係になっているようです。

貨幣需要L=名目貨幣供給量M/物価水準P


従いまして、物価水準Pで表せば

P=M/L

となります。Mは一般にマネーサプライというものです。物価水準Pが小さくなる(デフレのように)ということは、(1)分子が小さくなる場合か、(2)分母が大きくなる場合、ですね。簡単なのは、分子Mが小さくなる場合で、これは所謂マネーサプライが少ないとか表現されているものです。これは日銀の金融政策(色々なオペなど)によります。(2)の場合をもう少し詳しく見ることにします。

貨幣需要Lを別に表すと、次のような3つの各動機から構成されています。

L=取引(d)+予備的(ℓ)+投機的(-i)

dは売買などの取引が増加すればその分お金も増加が必要となり経済規模によるものなので、GDPに比例した増加関数で表現されます。ℓは使用目的によらず、最低限のお金が必要と考えて現金で持っている分だそうです。最後の-iですけれども、これは将来の投機に用いる為にお金を持っていようとすることで、利子率上昇に依存している(金利が上がれば預金しようとする)ので利子率の減少関数として表現されます。ですので、簡略に次のように書くことにします。

L=d+ℓ-i

(分母である)Lが大きくなるということは、(2-1)dが大きくなる、(2-2)ℓが大きくなる、(2-3)i が小さくなる、という場合が考えられます。具体的にどういった状態か考えてみます。

(2-1)の場合
GDPが大きくなる=経済規模が大きくなるということで経済成長があるとそうなりますが、97年以降ではGDPが減少し、ITバブル期にはやや回復したものの、その後再び減少しました。増加関数に含まれる係数が変化するのかどうかは正確には判りませんが(多分変わると思いますけれど)、比例関数ですので特にGDPが急に減少するようなショック期(97年→98年や00年→01年のような)においてはGDPの変動幅に依存して影響を受けますね。

(2-2)の場合
手元に現金として持っていようとするので、所謂タンス預金のような退蔵資金も該当すると思います。確かにタンス預金は増加した傾向は見られたので(笑、主婦のヘソクリとか)、ℓは増加した可能性があると思います。しかし、連続で何年もこういったタンス預金のようなものが持続的に増えるかというと、これも意外と難しそうな気もします。

(2-3)の場合
利子率は低下の一途で、公定歩合で見ると93年9月に1.75%、95年4月に1%(例の円高ショックの時)、9月に0.5%、01年2月に0.35%、僅か半月後には0.25%、9月には0.1%となっています。99年2月~00年8月まではゼロ金利政策ということだったようです。一度は解除してみたものの、01年3月には量的緩和策が決定され、ゼロ金利政策と同様の効果を得ることになったようです。ですので、金利で見れば限りなくゼロ(説明にも出て来た無担保コール翌日物金利ですね)に近づいていき、(マイナス項が相対的に小さくなるので)L に対する影響度というのは小さくなっていくように思えます。


Pを大きくしていこう(変化量をプラス)ということであれば、Lの増加を上回るMの供給をする必要があるということになります。たとえMを増やしたとしても、Lの増加量の方が多ければ結局Pの変化量は減少となってしまうことになります。01年以降のデフレ期間中には、量的緩和などでMを増やしているのに(積もりなのに?)、何故かPが小さくなってしまって、その分はLの何処かに消えていってしまっていた、というようなことでしょうか?


ある期と次の期の変化率を見ると、Pの値が小さくなっていく(=デフレ)のですから、Mの変化量をプラスに保ち続ける限り、Lはそれらを超えて大きくなってきたことになります。しかも、減少関数である投機的動機の項(-i)は利子率がほぼゼロで大きな影響を持たない項となってしまっているのであれば、残りのdとℓが大きくなっていったと考えられます。でも普通に考えて、一時タンス預金を増やしていったとしても、その後も何年も連続でタンス預金残高を増やし続けるのは容易ではなく、予備的動機であるℓが毎年大きくなり続けるというのも難しそうな気がします。初めの期をL1、次の期をL2とすると、(デフレ期間であれば)L1<L2であり、それぞれに数字を割り当てて書いてみます。

L2-L1=(d2-d1)+(ℓ2-ℓ1)-(i2-i1)

数年間デフレが続いていて、かつゼロ金利下であるということから、仮にこの式の2番目と3番目の部分がほぼゼロとなっているとしたら(分りやすく言うと、我が家の銀行預金もタンス預金も去年と同じってこと)、変動は最初のd2-d1の差による、ということになると思います。dはGDPの増加関数ですので、一般には

d=α・GDP

という形で表すことが出来ます。


これによく似ているのが、「マーシャルのk」と呼ばれるものです。定義としては「マーシャルのk」=M/名目GDPとなっています。
よって、M=k・名目GDPとなります。このkの逆数(1/k)は貨幣の流通速度と言われます。

一般に経済発展とともに流通速度は低下してきていると言われています。以前の日銀審議委員であった植田氏はこの「マーシャルのk」がデフレ期間中には上昇傾向が見られた、と述べています。デフレであると貨幣流通速度は低下(=kが増大)し、Mを大きくしたとしてもGDPの増大には中々繋がらない、ということになるかと思います。先の式では、d=α・GDPですので、αと「マーシャルのk」というのは同じような意味合いであり、直近の過去のαに対する過小評価(αが予想以上に大きい値になっているということ)があれば、結果的にはdの増大がMの増大(色々推測しながら実際に日銀がオペなどを通じてMの量を制御しているんですよね?)を超えることになってしまっていたのではないのか?とも思います。


金利とかの説明の意味は、何となく分ったような気がします。流通速度とか自然利子率については、別な記事に書いてみたいと思います。


申し訳ありませんでした。
グスン。



格差拡大論争~その2

2006年02月12日 19時02分45秒 | 社会全般
この話題がこれほど尾を引くとは思ってもみませんでした。今後の日本の行く末に大きく影響するし、教育問題でもありますしね。今日の読売新聞朝刊にも、バーンと出てた。見出しは「格差社会 データにくっきり」ですと(笑)。「スキャナー」というコーナーであるが、政治部小林記者と宮崎記者が担当でした。これが誰なのかは全く知らないのですけれども。

一応前に書いたので、その記事を。

格差拡大論争


この前、野党議員を散々貶してしまった(話題シリーズ21)ので、その効果が出たのかどうか判りませんが(笑)、メディアも一致協力して「格差拡大論争」に突入してしまったかのようです。それに、朝日新聞を非難したら、偶然ですが早速大竹先生を紙面のコメントで連投させてるし(笑、大竹―橘木論争はずっと前からでしょ)。


今後の政策課題として、「小さな政府」というのは部分的には確かに必要なのですが、一方で国民は「どう考えるか、どこら辺までの政府関与を求めるか」ということや、自分達の受益と負担の水準についても「国民的議論」が必要になるでしょう、ということを言いたかったのですけれど。昨年の経済財政白書についての記述でも書いた(経済財政白書が語るもの)のですが。もうちょっと、皆さん、前向きな議論にするようには出来ませんか?「お前が悪い」じゃなくて、「誰が拡大したか」じゃなくて、「今後、どうやって問題を解決していくか」「これから自分達はどうしたいか、どんな社会を望むのか」という視点から、次の政策を選んでいこう、という方がいいと思うね。問題意識としては、既に国民と政府とでは共有されているのですし。


野党も、「これを解決(或いは緩和する)には、こういう政策立案が必要なのではないか」という風に考えられたり出来ないものなんですかね?「何なにが、足りないのではありませんか?」という風にしないと、「小泉政権の責任だ」だけでは、相手は「いや、そうではない」と態度を硬化させがちなのではありませんか?どこまで行っても妥協点を見出せなくなり、「拡大させたのはアナタだ!」という追及をすればするほど、論点は「拡大したのは誰か」論争とか、「本当に拡大してるか」論争に陥ってしまい、目的とする「これ以上の状態悪化を防ぐにはどうしたらよいか」という所に辿り着けなくなってしまいます。政治は何の為にあるかというと、政府与党の相手の揚げ足を取ることではありません。純粋に、国民の為になる政策をどうやって考え、それを実現可能にしていく政治的手段は何か考えることです。


政府が「絶対に対策をやりませんよ」という無用な頑張りをするのならば、「やらないのは絶対にオカシイ」という主張をして論破するべきですけれど、「そういう問題点はある」ということを互いに理解しているのですから、「では、どうやってセーフティネットを確保する積もりなのか」とか、「非正規雇用の労働状況を改善させる為の政策としては、今考えている政策で十分なのか、どの程度の効果を見込めるのか」とか、「雇用改善で言えば失業率をどのくらい改善させる、といった数値目標を出してやるべきではないか」とか、そういう政策的な方法論を厳しくツッコムべきではないですか?それが身のある議論であろうと思うのですけれども。前にも書いたが、「小泉さんが悪かったんだ」ということを証明できるかどうかを争っている時間が長くなってしまうだけで、本質的には国民にとっては何にも前進しないのですから。どっちが正しいかなんて、どうだっていいんですよ、はっきり言えば。例えば「失業率改善の数値目標を掲げるくらい責任を持ってやらないのは、行政府としての責務を果たせていないではないか」ということであれば、国民の為に「約束」を取り付けられるし、政策に対する責任も担保することになるので、達成できなかった場合には勿論非難の対象に出来るのですから。


野党の戦術はいいとして、私の意見としては、「小泉政権下による政策運営によって格差が拡大した」というのは、部分的にはその可能性はあるかもしれませんが、全体では違うと思いますね。まず、「格差の正体とは何なのか」ということから始まってしまいますので、これは議論が色々ありますね。基準となるべきは何か、指標は正確に全てを表しているか、いつの時点での評価なのか、そういうことも色々と考えてみるべきですね。通常唯一の小泉政権担当の02年だけでは、「小泉政権のせいで拡大した」という結論を出してくることは出来ないと考えられますね。02~06年も拡大中かどうかも誰も証明出来てないでしょ?ひょっとして、逆に数値が小さくなっていたら、そんときはどうなの?「格差は縮小した」と言うの?有意な変化なのかどうかは分らんけれど、たった一つのデータ(02年)だけで「データにくっきり」もないでしょ?断定しすぎ。煽り過ぎだっての。


格差拡大を断定出来ない理由としては、第一に統計自体の問題というのがあります。ジニ係数が何を代表するのかという根本的な問題、数値を信頼するとして世帯構成変化とその変動寄与度がどの程度なのか、別な統計による家計調査では格差拡大とも言えない、といった意見があることです。


第二に政策担当が小泉政権だったから02年調査でそれが本当に表れたのか、ということです。通常、色々な政策があると思いますが、「即効性」の政策なんてそんなに多いとも思えないし、公約で出した政策を政権担当直後から取り組んでいったとしても、それが「調査」「委員会」「審議会」等々の様々な検討を経て、実際の形(実行可能な段階)として現れてくるのには時間がかかるし、そうした政策効果によって社会的現象として変化が出てきて尚且つ実際に認識されるまでにも時間がかかるのが普通と思いますね。そんなに急激な変化というのは、通常であれば起こりにくいと考えるのが普通なのではないのかな、と。

行政の政策には基本的に「慣性の法則」というか、いきなりの方向転換というのは難しいというような性質があると思っている。政治学者などはそういう研究をしているかもしれんが、よく判らない。何というか、「inertia」というようなものが政策には大体潜んでいそう(英語苦手なので変かも)。大方の政策は開始直後から100%の効果発揮は難しいし、新たな予算をドカンと獲得も難しいけど、逆にいきなりバッサリ切られるというのも少なそう。漸減というような感じは多いかもしれんが。だから、急に効果浸透なんてことが起こりえる訳が無いし、担当者達もある程度要領が分って効果が発現してきたとしても、それは数年後でしょ?きっと。


なので責任論をいくら考えてみたところで、「小泉政権のせいで格差が拡大した」ということを、厚生労働省の統計だけから言うことは難しいのではないかな、と。そんなことを証明する必要もなければ、理論的に証明することの方が困難と思うけれどもね。


ただ、一部には責任がある、と言ったのは、経済政策における問題ですね。今までデフレ期待とかについて記事に書いてみましたが、その中でちょっと思いついたことがあります。それは、2相性というか、デフレが2段階になっていて、その主因が別々なのではなかろうか、ということです。イメージとしては、前半がITバブル崩壊頃まで、後半はそれ以後ですね(これは後で別な記事に書いてみようと思います)。この前半と後半では、デフレの状況が異なっているような気がします。きっとうまく運営できていれば、少なくとも前半部分でデフレを脱却出来た可能性があるのでは、とさえ思えます。これは何を意味するかと言えば、小泉政権下での失敗ということです。確かに前世紀末からの問題を引きずってしまったのでしょうけれど、それでも政策的には不十分であったことは確かです。その結果が、若年雇用問題を悪化させたことに繋がった可能性はあると思いますね。そして、長期間それに対して「無配慮であった」ということもね。国民会議がフリーターを年間20万人減らすと宣言して、ようやく「どうしようか」ということが政治の場に上がってきたのですよ。


因みに、厚労省の統計発表というのは04年ですからね。

同じ読売の論調を見るとこうなっています。

広がる所得格差 : 大手町博士のゼミナール : トレンド : マネー・経済 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

これは今日の朝刊記事と担当が全く同じ、宮崎誠記者ですからね。
いかに、メディアが便乗的なのか、ということがお分かりいただけるでしょう。これも「『下流社会』ハヤリ効果」かもしれんが(笑)。


格差拡大というのは、メディアや野党は世の中全体ということを問題視しているのかもしれませんが、むしろ同世代内での格差の方がより深刻な意味を持っているのではないか、と思っています。それは今の若年層の問題ということです。酷い言い方ですけれども、これから死に行く高齢層というのが大きな問題なのではなくて、将来の道のりが長い現在の若年層の人生を考えると、「同世代内格差」というのは重く圧し掛かるだろうと思います。その世代の活性が大幅に低下するという危惧があります。そして、それを回復するには長い時間と、その調整コストを社会が負担しなければならなくなるでしょう。そういう意味では、若年層の失業/非正規雇用者と、正規雇用者の人々との間にある格差というのは、かなり厳しいという印象ですね(これは当事者ではないのでよく分りません)。


格差が拡大してきたのが事実かどうかではなくて、既にある格差を緩和する措置をどの程度考慮するべきか、社会全体でそのコストを負担してくれる決意があるのか、そういうところの方が国民にとっては、はるかに難しい問題であろうと思います。



輸入物価について

2006年02月12日 01時48分55秒 | 経済関連
lukeさんからコメントを頂いて(リジョインダーへの回答)、お答えをと思いまして、記事に書いてみたいと思います。まず、これまでの記事で触れている部分については、割愛させて頂きたいと思いまして、お読み頂くのはご面倒と思いますがもう一度参考記事を挙げておきます。

価格とULC
デフレ期待は何故形成されたのか


始めに整理しておきたいと思いますが、コメントに単に「物価」と書いたのは正確ではありませんでしたので、お詫び致します。lukeさんが日銀の資料を示しておられる「輸入物価」と、私が「物価」と表現したものは異なっています。お示しの通り、「輸入物価」は前年比23%増というのはその通りであると思います。上の記事にも書いておりますが、輸入品の価格上昇分が消費者価格にそのままダイレクトに反映されることは近年観察されてこなかったのではないか、ということを申し上げています。すなわち、「為替変動で上昇要因となったとしても、その上昇分が(最終財である)消費者の価格には反映されてこなかったのではないか」ということです。


上昇抑制要因の主なものとしては、やはり賃金要因や生産性向上などによる「ULCの低下」であると考えています。円安局面ということだけを見れば、01年半ば~02年半ば位までは1ドル120~130円程度でありまして、特に02年前半というのは130円を超える水準であったわけですが、その時の価格上昇要因というのは企業内での吸収ということが行われてしまった可能性があり、これはULCの大幅な低下で代償可能となっていたと考えています。為替要因というのは確かに無視できる水準ではないと思いますが、それが企業物価に(或いは消費者物価に)直接的に反映されているかというと、そうでもないと思いますね。特に川上での上昇は、最終価格に決定的な上昇をもたらすとは限らないと思います。04年頃ころから既に素材価格の上昇は始まっており、相当な値上げ圧力であったにも関わらず、企業物価の大幅な上昇は見られていません。


ご指摘の「輸入物価23%増」というのは、幾つかの要因が重なったものであり、一つは為替要因、もう一つは所謂原油高(04~05年前半は円高で相殺され、それがマスクされたと思います)ですね。輸入物価に対するウェイトを計算していませんが、昨年末あたりからの企業物価上昇要因は(15年来の大幅増という報道がありましたね)この二つが遂に企業物価に反映された結果であろうかと思いますね。上昇要因の吸収というのは、初めのうちは例えば主に人件費削減(ULCの賃金要因です)で何とか吸収して顧客の要望に応えようとするのですが、いったんそういう企業努力で吸収したとしてもそこから更なる削減をすることは段々と困難になっていきます。通常企業のコスト削減余地は減っていくものであると思いますので。なので、ある程度までは努力して上昇要因を吸収できたとしても、そこから先は価格に反映せざるを得ず、企業物価上昇要因となると思います。


しかし、企業物価が上昇したとしても、消費者物価に反映されるかどうかということになりますと、これは価格設定側の考え方にもよりますし、「まだ努力の余地がある」と販売側が思えば最終的な財の価格に反映されるとも言えないと思います。輸入物価上昇ということは、為替要因ということもありますが、商品相場の影響(例えば原油高、金価格上昇、一時の投機的なパラジウム価格上昇、など)というより純粋な価格要因ということもあるので、(為替に連動していると)一概には言えないこともあると思います。

素材価格上昇局面でも、例えば鉄鉱石や石炭等の価格上昇(輸入品ですので当然為替の影響で値上がりします)があっても、これがそのまま鋼板価格のダイレクトな上昇になるかというと、そうとも言えないということですね。需要家の立場が強ければ、価格交渉で譲歩せざるを得ないからです。輸入品の価格上昇分(特に為替要因分)が、パラレルに最終製品価格というか消費者物価に全て反映されていると考えることの方が、近年では困難であると思います。石炭が2倍に値上がりしたからといって、即その鋼板を使う自動車の価格上昇を意味するかというと、いつもそれが観察される訳ではないということを申し上げているのです。


従って、中国からの格安輸入品が為替の影響を受けて2割上昇したとしても、それが実際の消費者価格の2割アップを意味するものである、というのは違うのではないのかな、と思いました。ですので、上の記事には「円安による物価上昇要因を吸収してきたのではないか」ということを書いてみました。私は元々の「中国発デフレ論」というのを(どういう主旨なのか)実は全く知らないのですが、少なくとも「中国産品がプライスリーダーである」ということは全く考えていません。ですので、「天井を形成する」という考え方がよく分からないのですが、消費者が「安い方」を選ぼうとしてしまう、ということは有り得ると思うし、競合品にとってはかなりの値下げ圧力として作用するであろうと思います。

けれども、一般物価(消費者物価ですね)が全般的に下落してしまうというのは、もっと別な「低価格戦略幻想」のようなものがないと、難しいのではないかと思ったのです。それが「企業のマインド」という意味です。


残念ながら実証というのは全くありません。ただ、企業の期待形成では「デフレ期待」が家計よりも強く出ているので、そういう企業戦略の選択結果であったのではなかろうか、という風に考えました。


追記:
bewaadさんへの新たな回答は、ちょっと勉強中(笑)ですので、別に書いてみたいと思っています。



「言葉の力」

2006年02月12日 00時22分01秒 | 教育問題
先日、日本語教育のお話がブログに散見されたのですが(内田先生のトコとか、finalventさんのとことか)、文科省が「ゆとり教育」から「言葉の力」へ方針転換ということをNagarazokuさんの記事(ながら族:Nagarazoku:Nagara Tribune)を読んで知った。これは朝日の記事に出ていたようだ。

asahi.com: 学習指導要領、「言葉の力」柱に 全面改訂へ文科省原案 - 教育

記事から一部を抜粋。




学校のすべての教育内容に必要な基本的な考え方として、「言葉の力」を据えることがわかった。文部科学省が近く、中央教育審議会の部会で原案を示す。「言葉の力」は、確かな学力をつけるための基盤という位置づけ。学力低下を招いたと指摘を受けた現行指導要領の柱だった「ゆとり教育」は事実上転換されることになる。




他方、次のような記事も。

- Brain News Network -

こちらも一部抜粋。


記事を読む限り、ここで言う「言葉」とは日本語を意味すると断定できるが、まさか近年の「国語ブーム」に便乗したのでは、と邪推したくもなる。

 だが、それは必ずしもうがった見方とは言えまい。たとえば、阪神大震災の後に、「耐震」をテーマにした施策が相次いで打ち出されたように、日本の官庁は、実は時流に乗ることに殊の外熱心であるという性格を持つ。

 裏を返せば問題が表面化しなければ動かない。万事が対症療法的で、著しく先見性に欠ける。だから熱が冷めれば途端に綻びが目立ち始める。相次ぐ耐震偽装問題の発覚も、こうした無責任さと無縁ではあるまい。

 文科省原案も、早速綻びが見られる。国語を重視する姿勢を打ち出しながら、一方では小学校での英語必修化も検討課題としていることは明らかに矛盾だろう。

 ベストセラー「国家の品格」の著者である藤原正彦氏は、著書「祖国とは国語」の中で、小学校からの英語導入について「他教科の圧縮を意味し、国民の知的衰退を確実に助長する。愚民化政策と言って過言ではない」と痛烈に批判している。まったく同感である。






このように厳しい意見もありますが、藤原先生は所謂文科省の何かの委員であり、国語教育に関してはご意見を出している立場です。あくまで推測ですが、日本人的心というか「情緒力」「愛国心」のような―まさに「言葉の力」肯定派という意味で―日本人の心を取り戻す第一歩としてこれに賛成されているのではないかと考えております。「言葉の力」は確かにあるように思えるし(わたくしも同じく情緒的と申しましょうか、笑)、これを盛り込むかどうかは数年来の協議の結果であると思います。調べてないですけど。とても行政が一朝一夕でこうした決定を行うとは考えにくいのでございます。


ですので、文科省としては勿論昨年来の「学力低下危機」という批判に晒され、「ゆとり教育」という言葉だけが取り上げられる為に誤解を招いている原因となっている、という側面もあるのではないか、と考えたとしても不思議ではないように思えます。ややもするとご都合主義とも取れなくもありませんが、お役所仕事ですので(笑)。少なくとも審議会とかのレベルでは、もっと早い段階から盛り込む言葉の選定を行なっていたであろうな、と。


こうした方針転換がどうなのか、というのは賛否あると思いますが、少なくとも現場レベルの知見や報告ということも吟味されている可能性は高いと推測しており、モデル事業などからの提言とかもあったかもしれませんね。そういうことをきっと記者たちが調べて書いているかというと、そうでもないと思いますね。


私がナルホドそうだな、と思ったのはNagarazokuさんの次の言葉でした。


経済的な格差の中で、教育におカネをかけることができる家庭と、そうでない家庭で、ベースラインに差異が生まれてしまったのは事実でしょうが、これは直接に「ゆとり型」の所為ではありませんし…。そして「ゆとり型」の中に置かれていても、やるべきこと以上のコトをやってきた人たちだって存在してるワケですから、一概にゆとり型が失敗だとか、そんな風には思えなかったりもするのです。

~中略

問題は、「社会の構成員として人間が機能するのではなく、社会を道具としてどのように上手く活用してゆくかと言うコトを、キチンと教えてないことじゃないかなぁ」と、そして「社会と言う道具はまだまだ未完成で、自分達の手で改良を続けてゆかねばならないと言う、根本的な課題を伝えてないことじゃないかなぁ」と、ゆとりの世代を横目で見ながら働いてきたアタシは、そんな風に漠然と思い続けていたりするのです。



日銀派よ、心して聞け

2006年02月11日 17時59分03秒 | 経済関連
ちょっと過激な雑誌の見出し風になってしまっています。大した中身はないんですが。昨日の記事にも書いたのだが、与謝野さんが「(インタゲ派の人に)講義してもらわなけりゃならん」と仰せになられました。この言葉そっくり日銀に返してあげましょうぞ。日銀はさぞかし講義が得意であろう。講演会もバッチリ開いているしね。


日銀はデフレが始まってからは、デフレ脱却の政策手段について、ただの一度だって明確な答えを出さなかったじゃないか。一体全体何をやってきたのか?量的緩和を仕方なく認め、長期国債買い切りオペの増額は行ったのだが、「どのようにゼロに戻すか」ということを宣言したことなどあったのだろうか?大体「絶対にデフレを収束させる」という決意表明をしたことなどあったか?政策決定会合などでも、「こうやってゼロ以上にする」という方法論をきちんと出したことがあったのですか?


日銀は散々議論などを繰り返し、「どうしたらよいか」ということを一度も明示することもないまま放置しただけです。よくある意見としては、「本当にデフレなの?」=「デフレを示す”指標”そのものが間違ってたり誤差だったりするんじゃないの?」とか、「デフレが本当に悪いの?」=「このままでも人々が普通に生活してるじゃねーか」とか、全然違う方向に”逝って”しまったのです。自分たちで「どうしたらよいか」という答えを見つけられず、単に「バンザイ」しただけです。日本のデフレが「他に例を見ない状況」だったからです。自分たちの考える「オーソドックス」なスタイルでは通用せず、それが「どうしてなのか」という疑念ばかりがあったのです。その迷いの中で「次の一手」を発見出来ないし、人々の指摘で幾つか「次の一手」候補があったにも関わらずそれを選択する勇気も責任感も無かったのです。未知の状況に踏み込んで対処することをひたすら恐れ、「もしも失敗したらどうしよう・・・」とその責任逃れの為に「先送り」してきただけです。その結果、多大な損失を国民が負わされたのです。


日銀は基本的に、いつも否定形でしか答えません(笑)。「~は~~の危険性があるので、出来ない(慎重に考える)」「~は反対論もあり、今はするべきではない」「~は続けるべきではない」・・・って、結局どうするの?と思うね。自分達の政策手段、経路についての説明は全くないが、他の人々の指摘する事柄には必ず否定してくる訳です。結局、「じゃあ、どうするのさ」と、普通の人なら怒ると思うけど。日常会話ではそうですね。

「今日の夕食料理は何を作る?」
「トンカツとか、どう?」
「豚肉がないから出来ない」
「じゃあ、チキンカレーは?」
「ご飯ない」
「うどんならいいよね?」
「ダシ昆布を用意出来ない」
「パスタだったら?」
「麺類は避けるべき」
「・・・・、じゃあ自分で決めればいいじゃないか(怒)。で、結局何を作るの?」」
「・・・・・・得意料理(謎)」
(ふざけるなー!!それは結局何なのよ!)
要するに、こんなオチなんですよ。日銀の態度というのは。


是非とも次の問いに、正確に答えてみて欲しい。日銀は早々に講義をするべきですね(笑)。与謝野さんもそれなら納得できるでしょう。

①量的緩和解除後のスキーム
②デフレに逆戻りしない為の政策手段
③逆戻りしないセーフティ・マージン

たったこれだけのことですから、きっと正しい答えを用意しているはずですね。それが答えられないのに、「量的緩和解除」ということが出てくるはずがないもんね。平ちゃんが「説明責任はある」というのは当然ですよ。



「繰り返しゲーム」?(笑、追記あり)

2006年02月10日 11時47分38秒 | 経済関連
田中秀臣先生が岩田規久男先生と加藤出氏(プラス川北氏らしい)の座談会のお話を書いておられた(蒲焼の匂い:ミクロの必死圏)。これも、お決まりのメンバーで、前に調べものしてた時に見たのときっと同じような意味合いであろうと思う。岩田規久男先生はずっと前から内閣府に呼ばれる度に同じような説明を繰り返し、「デフレを脱却せねばならん」と説いて回っておられたが、中々政治的な部分でのテコとはならなかったのであろうと思います。もっと早くに政治的解決方法を真剣に考えるべきであったのです。これも前に書きましたが。一方、加藤氏は日銀派?なのか判りませんが、量的緩和に対しては反対(早々に解除せよ?)の立場であろうと思います。インフレターゲットについても大いに疑問を投げかける立場でしょう。前に「札割れ」ネタの時にも登場してましたね。

経済学は難しい4


で、田中先生の記事を楽しみに待っておりますが、その前に既に出された意見が分かり易い資料を挙げておきたいと思います。

まず岩田先生のご主張から。

ESRI-インフレ目標付き長期国債買い切りオペの提案


続いて、加藤出氏のご意見です。

インフレ目標政策を巡って


中身を是非全部お読み頂きたいと思いますね。前に出した資料(「堂々巡り」の議論)と似たような議論が繰り返されているわけでございます(笑)。

こちらの資料では、加藤氏は浜矩子教授とともに「インタゲ」に対しては、懐疑的ということですね。私は伊藤隆敏先生や岡田靖氏の御意見は非常にまっとうなものであると思いました。特に岡田氏の『そもそもこのような議論を今日に至って続けることの理由が私にとって非常に不可解であります。』というのは、全くその通り、と私の心の声が叫んでいました。因みに、浜先生の貴重な語録を挙げると次のようなものがあります(笑)。

『何となく過激派の役割はいつも私に回ってくるという感じでございますが、実際問題といたしまして、今日はインフレ目標政策の悪口を言うために来たのだからと、張り切って来たのでありますが、』


これはこれでいいのですが、要するに、何でこれ程の時間をかけて議論した挙句に放置してきたのか、ということが、この前にも書いた通り甚だ疑問なのです。一刻も早く悪い状態を脱出せねばなりません。経済状態が悪くなるということは、すなわちデフレがこれほど長く続くということは、国民にどれ程の被害をもたらしたか、ということを担当者達はよく噛みしめるべきです。議論の先にある、解決方法・答えを実践し、行動に移さない限り物事には進展が得られないのですから。そういう重大な決意や、責任感というものが、それぞれの担当者達の中には無かったのではありませんか?と問うているのです。そして、その同じ過ちをこれからも繰り返そうとしている人々がいるのかと思うと、非常に無責任ではないか、と思いますね。


ただ、このような一国民の声が届いたわけではないでしょうが、政治的には前進の兆しが見えてきています。そういう部分に真剣に対応しようという動きが見えつつあります。これは問題解決にとっては非常に重要なことなのです。


多分、田中先生の記事を読まなくても、何となく御意見の中身は想像がつきそうだな、と思ってしまいます。でも、近頃では考え方が変わってきてる可能性(まずないだろうけど)もあるので、詳細記事を待て!という所でしょうか(笑)。


追記:
政治的にも論争が始まっています。それでも、かつての堂々巡り論よりも前進してきたと思いますね。

NIKKEI NET:経済ニュース


NIKKEI NETの記事を以下に引用。

金融の量的緩和の解除が近いとする福井俊彦日銀総裁の発言を受け、10日の閣議後会見では、解除後の金融政策について閣僚発言が相次いだ。竹中平蔵総務相が「(日銀が)どういう目標を掲げ実行責任を負うのか、枠組みがない」と述べ、インフレ目標などの導入の必要性を示唆した。一方、与謝野馨経済財政・金融担当相は「目標への到達手段の議論をせず、いたずらにインフレ目標の話を進めるのは理解できない」と疑念を示した。

竹中氏は「金融政策の中身について発言する気はない」とした上で、政策運営に関し、目標と実行責任が担保されていないとの認識を強調した。与謝野氏は「インフレ目標は相当インフレが更新しそうな国でとられている政策。デフレの国でインフレ目標はあるのかという根本問題がある」と指摘し、「目標にどう達するのかターゲット論者から講義を受けないとならない」と述べた。


このような報道でした。
こちらはこちらで色々とございますね(笑)。これも郵政民営化と同様に、実現が困難なものに立ち向かうということで考えることにしましょう。偶然にも、郵政民営化担当も平ちゃんでしたし(笑)。


与謝野さんもかなり皮肉を込めて「目標にどう達するのかターゲット論者から講義を受けないとならない」と言ったようですね。要するに、「ターゲットまで”どうやって”辿り着けるのか」という、方法論を求めるものですけれど、恐らく「答えられまい」ということを念頭に置いている訳ですね。

今までの議論の中でも、「じゃあ、どうやってやるんだよ」と慎重或いは反対論者たちから、いつも言われてきたことであり、この明確な答えというものが出ていないからです。もしもこれが判れば誰も苦労なんかしない訳ですし。そういう方法が決まっているならば、「自由自在、思いのまま」にインフレ率を制御出来てしまうことになるのですから(笑)。要するに答えというのは、「やってみなけりゃ判らない」ですね。ただ経験則としては、「出来る」というのが答えだろうと思いますね。経験則は侮れないんですよ。星の運行や天体観察とかによる大昔の色々な知恵というのは、あながち馬鹿に出来ないものだと私は思っていますけど。


通常ある株式があって、投資を考える時には将来の正確な見通しというものはないですね。上がるかもしれないし、下がるかもしれない。それがどの程度かも判りません。それが普通なのです。投資はやってみなけりゃ、判らないのです。

また変な例を考えてみましょう。ある会社の株があり、現在株価1000円で、「目標株価のレンジを1010~1050円にする」と宣言したとしましょう。取引に大きな影響力を持つ大株主みたいな人が「絶対にこのレンジに納める」という決意を表明すると、どうなると思いますか?これはおそらくそのレンジでの取引となってしまうでしょう。何故なら、高く売ろうと思って別な高い値を付けても、宣言者がレンジの値段で株式を供給してしまう為に、皆は高い値段ではなくても手に入れられるからです。また、逆に安い値段で買おうと思っても、1010円以下になりそうな時には宣言者がすかさず買ってしまうので、売り手はそれよりも低い値段を付ける必要がなくなるからです。ですからもっと安い値段になるまで待っていても決して手に入らないということを体験させられる為に、もう次からはレンジ内での値段しかつけないようになるでしょう。

強力な力を持つ宣言者であれば、これが可能ということです。宣言者が非常に強い意志表明をしていると(勿論力も強い)、もしも抜け駆けして「1100円売り」という注文を出す人が出てきても、値段を目標レンジに下げるまで決して「売らせない」ようにするはずだと他の多くの人々が知っている時には、当然それは無効となってしまいます。いくら待っていても株価が「1100円」に上がってくることがないし、誰も買おうとしないからです。共通の期待形成というのは、そういう面があると思いますね。そこには大抵経済学的な合理性があると思います。


一般に、ある特定の株価に接近していく時というのは、TOBのような時です。これはTOB価格に現実取引の株価が「サヤ寄せ」していくので、仮に現在株価1000円である時「TOB価格は1200円」と発表されると、自然とその値段の近傍での取引が殆どとなりますね。つまり、「目標レンジ」というのがハッキリと判っている時には、そこを超えて取引される必然性というのはあまりないのです。人々が参照出来る有力な情報に合わせて合理的に行動しようとする結果ですね。


今後は政治的な解決方法を巡って、論争が行われるでしょう。それが竹中大臣の言葉に表されていると思います。
折角ですから(って、ナニが?笑)再掲しておきましょう。

「どういう目標を掲げ実行責任を負うのか、枠組みがない」

思えば遠くへ来たもんだ、ですね。ここまで長年頑張ってこられた方々にとっては、希望が見えてきたのではないでしょうか。



リジョインダーへの回答

2006年02月09日 22時17分04秒 | 経済関連
ちょっと用事が重なり、「どこか遠くに行きたい」(古!)ではありませんが、本当に遠くに逝っていましたので、書けませんでした。お詫び申し上げます。コメントに「ヘタレ経済学徒」さんから詳しく御説明を頂き、bewaad さんからもお返事を頂いたので記事に書いてみようと思います。

反論再び


まずは、このような不躾な噛み付き(笑)に対して、真摯にリジョインダーを頂いたことに御礼を申し上げます。昨年の人権擁護法案もの以来ですね。これは置いといて、元は素人なりの疑問ということに端を発しています。それは「円安になったら、輸入品の価格が上昇するのか」ということです。デフレに突入していく97年頃以降では、「必ずしも上昇していない」ということを私は支持しており、その理由は記事に書いています。


「円安になったら=輸入品の価格上昇」ということが言えないと、そもそも円安になったからと言ってデフレが解消出来るはず、というような推測には繋がらないのではなかろうか、と思いました。「2割も円安になればたちまち日本の物価が跳ね上がってもよさそうに思うんですが」という指摘は、違うのではないのか?と思ったのですね。


デフレという現象、状態を今は留保して、単に物価変動というもので考えてみます。一応CPI を指標として用いており、これで一般物価水準がとりあえずきちんと代表されていると考えるものとしましょう。90年以降四半期ごとで見ると(それ以前は調べておりませんので不明です)、ご指摘のあった円高期間と目されている期間では、92年以降は下降トレンドで(約4%超→約1%)、94年第3四半期からは1%を切り、95年の円高頃ではマイナスとなって、97年第1四半期までは一度も1%を超えていません。デフレ状態というのとは異なりますが、物価下落ということで見ればご指摘の期間には当てはまるように思います。これが円高の影響かどうかは不明ですが、少なくともドル円の最高値をつけた95年4月前後では「CPI はマイナスの期間があった」ということです。連続でマイナスにはなっていませんけれども。あと、上方バイアスの問題があると考える場合には、これもある意味「デフレ」と考える方もおられるかもしれません(その水準には色々と議論はあるかと思います)が。

デフレ期待は何故形成されたのか・2
(この記事中のリンク先グラフに90年以降のCPIが出ています)


為替変動の影響によって、これが物価に即反映されてるかどうかも不明ですけれども、一応92~97年初め頃までは為替の動きとやや似ています。物価の下落インパクトがどれくらいあったのか不明ですけれども。輸入品に関して一般企業の意見としてよく聞きがちなのは、「円高になれば消費者の価格値下げ圧力(期待)は強まる」(特に出典は示しませんが、一般によく聞くと思います)ということですね。これは価格設定側である企業の考え・立場を表していると思います。逆に円安局面では値上げするのが普通と(少なくとも上昇分を転嫁するのが経済学的な考え方?であれば一般的かと)思いますが、何故か「消費者に値上げを受け入れてもらうのが中々難しい」という風に考えるのだろう、と思います。これがいつ頃からそういう傾向になってきたのか、ということは不明ですが。これは為替変動ばかりではなく、商品相場の影響での価格変動などもちょっと似ていて、その上昇分は消費者物価に反映されているかと言うと、必ずしもそうではないと考えています。


他の国のデフレ要因というものに、どういう意味があるのかよくわかりません。詳しくご回答下さっていますが、私には難し過ぎるので(笑)。ただ、米国や他の国々の話というのは、日本でも同じように考えられるものなのだろうか、と疑問に思います。デフレ要因は必ずしも同じではないのではと私は考えたので、(仮にAという要因で)「日本がデフレになるなら、米国でもなるはず」と言うことは出来ないのではないかな、と思いました。「米国がデフレになってないじゃないか」という理由を述べるウラにはどういった理屈があるのかな?と。(Aという要因で)「日本ではデフレになってしまったが、米国はならなかった」、ということがあっても不思議でも何でもないようには思えますが。

米国での輸入物価の影響度というのは知らないですが、もしも米国の輸入品以外の財が値下がりしているのであれば、それは何故なのかな、と不思議です。安い輸入品以外の国産品もたくさんあるはずでしょうし、そういう他の財価格が上昇すれば財全体での下落というのはないはずではないかな、と。「輸入品以外の物価が上昇するから~云々」ということであれば、輸入競合品以外の財が値下がりする経済学的意味がわかりません。そういう意図で書きました。日本とCPI のとり方も異なっているから、一概には比較出来ないのかもしれませんけれど。


輸入品価格の低下が「デフレ」の決定的な要因とは私も考えていません。しかし、「米国ではデフレにならなかった」=「日本のデフレはAという要因は違う」と考える理由というものが、結局よく判らないのです。



「インタゲ」キター

2006年02月07日 21時00分17秒 | 経済関連
今日の読売新聞朝刊に出ましたー!
「なるほど経済」欄、中沢謙介記者、ナイス。割と判り易く書かれてた。


積極派には中川政調会長、中原審議委員(「中―中」路線か?)、消極派には福井総裁と武藤副総裁が例示されていた。


それと、馬車馬さんが大型企画連載開始だー!タイトルは勿論、

インフレ・ターゲット(1):中央銀行の仕事と「期待」の仕組み

そのものズバリだー!

「期待」を扱うだけに凄く期待出来そう・・・って、オヤジですか、ギャグが。
(失礼しました)


遠くへ行くので、明日は記事が書けないかもしれません。



皇室典範の法案提出は待った方がよい

2006年02月07日 20時26分56秒 | 政治って?
今の4点セットというのは、それなりに色々な意味があると思うが、それはそれとして「民主党は頑張ってみてくれ」と。それよりも重大なテーマは、「皇室典範」です。他の方々の御意見などもブログを通じて拝見しておりました。これは難しい問題としか、私には申し上げられないのですが。

以前に書いたのは、次のようなものでした。

皇位継承のことなど


今日、紀子様ご懐妊という報道もあり、このような時期にあれこれと慌てて結論を出すというのは、望ましくないのではと思ってしまいます。また、他の方々も述べられていた、「天皇家」としての「御意向」といったことを尊重することが大切ではないか、ということに私も賛同したいと思っています。ですので、政府が拙速に過ぎるというのも問題ではなかろうか、と。

これは、柳田先生の御意見によく集約されていると思いました。

家族と家



野党が4点セットで「ネチネチ」やっているうちは大したことが無いと思いますが、この「皇室典範問題」というのは、自民党内での致命傷となると思いますね。法案提出賛成派に「ヤマタク」さんや加藤さんが回ったことも「危険兆候」でしょう。株の格言風に言うと、「当たり屋に付け、曲がり屋に向かえ」です。ハズシまくってる「ヤマタク」とまさかの”一蓮タク生”なんてことになったら、目も当てられないですね。
(因みに、「ヤマタク」さんは本当に自分に総裁の目があるとお考えなのでしょうか?もしも内心そう思っているとしたら、余程政治家としての感覚がズレてるとしか思えません(笑)。その「ズレ感覚」をお持ちであったが故に、「補佐官」就任を受けたのだろうと思いますけれども。)


こんなことはどうでもいいですが、要するに、まずはもう少しご家族の御意向を固めてからでも遅くはない、ということです。


自民党にしてみれば政局波乱の展開を今求める必要性というものがあまり感じられないのですが、それでも法案提出となれば、これは内閣の空中分解にもつながる可能性がありますね。小泉さんは以前の国会に比べて元気が無いし、どことなく怒りっぽくなってるね。国会答弁もインタビューの答えもそういう感じ。本人自身にも「やる気」というのが、既に失せてるかのような雰囲気です。これはひょっとすると、「末期症状」と見てもよいかと思います。特別な目標というものが存在してないからでしょうね。であれば、予算案を成立させることで最低限のノルマ達成というところでしょうか。よく言われるように、いよいよ「死に体」という状態かもしれません。



求む!行政情報翻訳家?

2006年02月06日 19時11分00秒 | 社会全般
まさか私が行政側の擁護に回ってしまうとは・・・夢にも思いませんでした。それも、よりによって、あの「厚生労働省」ですからね(笑)。クサイ臭いがプンプンの独立行政法人などをいくつも批判してきたのに・・・厚労省の労働一派を散々非難してきたのに・・・自分が何故か行政側の弁護をしてしまっています(「人間力」論争問題・笑)。

こりゃ、本末転倒です(笑)。


こういうことをやっているから、「アナタ、公務員でしょ」とか言われるのかな?かなり以前にもコメント欄で指摘されましたし(笑)。
でも、事実は全く違います。公務員になったことは一度もありません。「これ、ホント」(知ってる人は知っている?)
むしろ、今までの記事の中では公務員を目の敵にしているかのような感じだったのではないかと思いますね(笑)。そうですよね?でも、国債借り換えの話(国債償還と借り換え国債償還と借り換え(2))とかも、何故か財務省の肩を持つこととなってしまったかのようです(笑)。


先日のNHK番組で、日本国債がデフォルトになってしまった場合の最悪シナリオを演技で見せていましたが、ああいうのもかなりの悪趣味というか、ある意味「恐怖」「不安」といった感情を煽る小道具になっているんですね。財務省だか、谷垣くんだか判らないけれど、何でああいう演出を認めたのか(それとも知らなかったの?それは普通ないと思うけど。きっとOK出してたんだよね?)と、率直に思いましたね。番組中にも「不安を煽るのは良くない」とかって誰かに言われてたようにも思う。財務省は国民に悲惨な行く末を暗示することで、逆に「増税もやむなしか・・・」というような妥協を引き出そう、って魂胆?なのかな、と思ったが。まあ、そこら辺は陰謀論でしかないので、別にいいんだが、基本的にはテレビなどメディアの説明には「ウソ」や「いい加減」なことが多い、ってことです(私の記事にもね、笑)。


元来、行政のやってることは複雑過ぎて中々理解するのが大変です。これは専門にやってる人たちくらいしか判らない、ということでもあります。なので、誰かがある程度細かく見ていったり、別な形で簡単にまとめていったりして、情報を変換して伝えないと、一般国民には判り難いのです。国債の借り換え問題のような部分についても、そういう部分はありますよね。怪しげな本の広告とかもいっぱいあるし。「日本は破滅に一直線」みたいな(笑)。「財政破綻は時間の問題」とか。挙句にあのNHKの劇を見せられて、普通の人はあの特徴的な部分しか覚えていないと思うよ。「日本国債はいずれ破綻する」「金持ちはドルを持ってて大儲け」「普通の一家は住宅ローンが払えず家を失う」とか。そういうことくらいしか直観的には判らないように思うのです。ですから、ゲストに招かれていたような一般人に影響力を持つ人々が、正しく分かり易い形でうまく言わないと多くの国民に理解してもらうことは難しいと思うな。


では、こうした情報提供を担う人々が正しく説明しているか、というと、全然そうではないですね。ミスター円もそう。経済ジャーナリストも家計の節約診断は出来ても国の財政については全くの無知ですし。彼女は郵政民営化の時にもトンデモないことを言っていたけどね。行政の翻訳家というか通訳の出来るような人がいないのです。新聞の記者氏も、結構ウソを書いてしまったり、そんな意図ではないけれど、行政の情報を歪曲して伝えているとか。「ヒルズ族」もの、「デイトレーダー」もの、「ニート」もの、「格差」もの、などというのは色々と情報が出ましたが、結局は今のような状況を生み出しただけで、違う方向にずれた感じですし。


随分前に、毎日新聞に出ているらしい「理系白書」というコーナーの記者さんが言ったことに関連しますが、「理系研究者は社会リテラシーがない」との指摘(君達は理系をバカにしているのか!)と似ていて、メディアにも有名評論家や解説者にも言うなれば「行政情報リテラシー」(変な言葉ですけれど、要するに行政のやってることを代弁できるくらい知っている、というような意味です)というような能力に欠けているのが大半なのです。小難しい科学などに関する知識を判りやすく伝える能力(文科省で何だったか考えてたやつ)というのと同じく、無味乾燥で面白味の少ない行政の内容を、別な情報形態に翻訳(行政側の情報を判り易く変換して説明するという意味)出来る人がいない、ということです。元々これを「飯のタネ」にしているような人々でさえ、それが出来てないことが多い、ってことですよ。多分、議員さんとかが本来やるべきなんだろうけど、現実には「人気取り」的なことばかり言っていて、簡単なこともワザと小難しく言おうとしてるようなところがあるし(笑)。テレビに出てくるような議員さんも、大抵は相手の足を引っ張る内容だけに拘るし。


なので、行政側の情報提供というものが「待ち」の形(これぞ「待ち組」?)とならざるを得ず、どちらかというと「先に目立った方が勝ち」というような気もしますね。行政側の情報提供は基本的に全く目立たない。なので、メディアを通じてウソやいい加減な解説をされてしまうと、そちらが信じ込まれてしまいやすいのかも。昨年総務省の出したネットの何とか(ネットリテラシー教育だったかネット規制だったか?)の時もそうだったように思います。行政の情報には役立つものも案外と含まれているし、そういうのを活用していくことを考えた方がいいと思うな。それをこの前からメディアにお願いしているのですけれど。

それでも、「歪められて・・・」「埋め込まれて・・・」等々とのメディア批判も散見される訳でございますが(笑)。



「人間力」論争問題・笑

2006年02月05日 18時29分32秒 | 社会全般
私もついに釣られてしまい、『諸君!』3月号を購入してしまいました。前の『論座』や『中央公論』同様に、不必要な寄附行為をしてしまったようなものです(笑)。一応「ニート85万人の大嘘」の中身を確かめてみようと思ったからです。読んでいくと、ナルホドと思う部分もありましたが、?な部分もありました。なので、記事を書いてみようと思います。


まず、「人間力」問題の聖書(笑)としては経済財政諮問会議の日本21世紀ビジョンであります。この中で語られているのが、「人間力」でして、私は昨年の早い時期から「人間力」支持派であると申して参りました。それは現実感としては、そういう若者に出会うからですね。これは経験によるものですので、学問上ではどういう理解であるか、というのは正確には判りませんでした。しかし、自分の実感としては、まさにピッタリ、と思いましたね。

で、この「人間力」の聖典を定めたメンバーですけれども、これが「反ニート派」(及び「人間力」否定派?)の学者達からは「ニート派」の”悪の枢軸”の如き反目を集めるメンバーということになります(笑)。

参考:ニート再燃


戻ってきたので、追加しました。


経団連~共同提言


まずこの提言が03年5月に出され、若年雇用、特に「フリーター問題」としての意識が明確になっており、これ以前から所謂「フリーター問題」の検討を積み上げてきたのだと思います。これは『諸君!』でも本田先生が説明されています。で、この少し後には経済財政諮問会議での議題として提起されています。


若者・自立挑戦プラン

これを見ると、現在の「ニート対策」と基本的に”同じ”であるのです。すなわち、「ニート」の存在を世間的にクローズアップしたからと言って、行政施策の基本的方針を大幅に変更できたということでもないのです。これが第一点。


これ以前の主な研究では、玄田先生の言説にフォーカスされる以前から、『諸君』にも書かれているように小杉礼子研究員の研究がなされてきました。ひょっとすると労働族の策動なども関連していたのかもしれませんが、若年層の雇用問題についていくつか施策があったのです。現在の「ジョブカフェ」というのが非難の対象とされたりすることもありますが、その基本的存在は既に前からあったことになります。


日本におけるNEET問題の所在と対応

聞き取り調査の対象として公的機関がいくつか選ばれていますが、例えば「大阪学生職業センター」「大阪ユースハローワーク・ヤングサポートプラザ」「ヤングハローワーク・しぶやしごと館」「六本木ジョブパーク」等々ですね。これらはニートの問題が浮上したからといって、設置されたものではないですね。まあ、似たような「しごと館」が非効率な運営で前に非難の対象になっていて(私も非難したしね。特別会計は抜本改革せよ)、確かに「金食い虫」的存在であるのかもしれません。これは厚生労働省の労働一派の陰謀的組織なのだと主張する人々もおられるかもしれませんが。こうした勢力を拡大することには問題が有り得ると思いますが、全くの存在価値がない、というものではないと思います。


また、他の色々な調査結果などをまとめたのが次の白書です。調査に関わる受注などで民間調査機関や省庁関連の特殊法人に無駄金が流されたという主張をされるかもしれませんが、こうした調査にはある程度意味があると思います。これも「若年雇用問題をエサにした労働族のタカリ」と非難されるのかもしれません(玄田有史『14歳からの仕事道』(理論社)+ニート論の弊害(再録))けれども(笑、ちょっとリンクが適切ではないかも)。


国民生活白書


この白書の中では、フリーターの意識の問題が取り上げられていて、特にこうした部分だけが強調されて世間に伝わった可能性はあると思いますね。例えば、見出しで言うと、「若年の職業意識や能力は低くなっている」とかって。その理由として「フリーターという立場の若者が増加しているからだ」とか。そういう感じでメディアは伝えやすいと思う(結構前なので実際にはどうだったか思い出せません)。これも原文を読めば、文脈的には違う理解になるのですが、そういう一部分だけをピックアップして誤解を与える報道は、今に始まったことではないと多くの人が知っていることでしょう(笑)。


このように行政側の問題意識はここ数年、特に変わってきた訳でもなさそうなんじゃないのかな、と。ジョブカフェの意味も、現実に活動を数年間続けてきて、その結果で若年層に情報提供などが出来た方がよく、「ワンストップサービス」という民間金融機関のような知恵を使おうと思ったのだろう(?)。これはニートに特化した行政サービスを意識していたのではなくて、それ以前から考えられていたものを、ニートにも適用していくこととしたのであろう。


他の民間機関やNPOなども現実に長い間活動を続けてきていて、そこへの特別の支援というのは部分的に必要となるかもしれないが、特に「ニート産業の貪り」ということがここにきて浮上した訳でもないのではないか、と思える。やはり個別の支援というものが必要になる面があるので、そこに施策はやりましょう、ということだと思う。


「カウンセラー」への誤解というもののあると思う。元々「カウンセラー」は相談員とか指導員といった意味合いであって、先に挙げた公的機関でのカウンセラーの活動実態などを勘案した上で、配置を考えたものだと思います。これもニート問題が喧しくなった後から浮上したのではなくて、既に配置されていたものです。

「カウンセラー」という言葉を聞いて一般にすぐ思い浮かぶのが、「心理的な問題」を解決するという「心理カウンセラー」「臨床カウンセラー」(本当にこういう呼び名なのか不明ですが、よく事件や災害後などにそういうカウンセリングをするような人たち)というような、ある種の病的状態を治療したりするイメージがあるのだと思います。しかし、学校や職業的な面でのカウンセリングというのは、それこそ「履歴書の書き方」程度から始まって、「面接の受け方」「受け答えの仕方」「挨拶の仕方」などという疑問やら、就職活動の個人的な悩みみたいな部分もあるかもしれないけど、そういうモロモロのことを聞いて助言したり出来る人が必要だろう、ということです。

なので、「カウンセリングが必要」という部分だけが非難の対象とされるのは、フェアではない面があると思いますね。若田部先生が『諸君』で仰ってるような
『「ニート」へのカウンセラーが必要だとか言い出すようになってしまい、下手な公的介入が起こってくると、思わぬ副作用を生みかねない』
という誤解に基づくと思われる非難に短絡的に結びついているのではないか、と思います。むしろ差別的な考えに陥っているのは、若田部先生なんじゃないのかな、と思ったりします(笑)。だって、ごく普通に「カウンセリング」は誰にでも必要なことなのであって、「カウンセリング」を受ける人=「精神的な病気」の人というような差別が背後には潜んでいそうな気がするのですね。


問題の「人間力」が記述された21世紀ビジョンのワーキンググループのメンバーをもう一度見てみましょう(笑)。

生活・地域ワーキング・グループ報告書


主査は八代日本経済研究センター理事長、副主査には玄田先生と宮崎哲弥氏ですので、主だったこの3人が「人間力・悪の枢軸」ということになりますでしょうか(笑)。他には、おなじみの小杉礼子研究員とか山田昌弘先生、意外にも村尾信尚先生とかも実は入っていたりするんですね。人間力という言葉については、この報告書の中で述べられているので、もう一度実際にお読みになって頂きたいのですが、実は本田先生の仰っているような内容もしっかり書かれていたりしますね。「反人間力連合」の方々たちの先入観というか、誤解に基づく非難があるのでは、と思いますね。「日本版デュアル・システム」導入も入ってますよ、本田先生。


部分的にピックアップすると、次のように書かれていますね。


『自己責任能力を養成する観点から、教育システムにおいて、故人の基礎的な能力形成とともに、学力・職業能力、更に倫理・教養といった人間関係を形成する力など、「人間力」の向上を目指す。』

『学力や職業能力といった「社会を構成し運営するとともに、自立した1人の人間として強く生きていくための総合的な力」に加えて、倫理とか教養といった人間として備えるべき「心」を含めた「人間力」の向上が必要である。』

『義務教育の根幹は、(中略)~セーフティ・ネットであることから、基本的な知識や技能の獲得に加えて、自分で課題を見付けて学び問題解決していく力や、コミュニケーション能力、倫理、教養といった人間関係を形成する力などを培う「人間力の向上」に重点を置く。』


つまりは、こういう総合的な能力形成を目指そう、ということであり、何かの一つだけの指標で量れたり表現可能なものではないということですね。こういうのは「必要ない」とか「余計なお世話だから、放っておいてくれ」ということであれば、学校教育の根本的な考え方を変えていくということが必要なのではないか、と思いますね。単なるいい加減なアドバルーンというか、国民に思想を強要するようなスローガンとかっていう意味ではないことくらい、報告書を読めば十分理解出来るはずだろうと思いますね。


そういう訳で、どちらにも批判はあると思いますが、「反ニート」「反人間力」連合の方々にも、ちょっとはご理解を頂いて、行き過ぎた方向に―「ニート」の語感が既に差別的用語になってしまったように―行かないようにすることも必要なのではないのかな、と。