昨日の記事でお金の流通速度について書いたのですけど、書いていて思ったことがあった。いつもの通り、とっても変な考えなので「何じゃそりゃ?」ということかもしれないので、取扱要注意、で。
まず、昔の人達はきっと貧乏だったろうし、格差の水準もきっともの凄く開きがあったろう。簡単に言うと、「水のみ百姓」と「豪農」とはえらい格差があったに違いないと。浪人崩れの「傘張り職人」と「紀伊国屋文左衛門」みたいな山師的ベンチャーの人(笑)も、多分もの凄い格差だったろうな、と。そういう状況であって、一般の人々は「困った時の為に」と思って、大切に穀類か金子を蓄えておこうとしたりしただろう。普通に「辛抱しなさい」ということを教えられたりして、地道に「蓄えをしなさい」などという道徳教育もされていたことだろう。
従って一般的には、金持ちならばお金を使う傾向はあっただろうが、そうでもない普通の貧乏人達というのは、出来るだけお金を使わないようにしていただろう。そうすると、どうなるか。結果的には地域経済は停滞したりするし、商人たちが潤わないので、藩の収入も減ったりするかもしれず、その結果年貢を厳しく取り立てられたりして、自分に跳ね返ってきてしまうかも。
で、そういうのを緩和する制度というか仕組みとしては、神仏の行事とか農村の豊作祈願というようなお祭り行事のようなものがあった。それは単なる偶然なのかもしれないし、大昔からの経験則による知恵なのかもしれないけれど。
大抵は大金持ちというか、地元の名士の人たちが、そういうお祭りの時には寄附とか振舞い酒などの商品を大量に購入して人々に無償配布したりとか、「再分配」のような感じになりますね。それに一般の人々も普段ならば「我慢してお金を使わないように」していたのだけれど、年に一度のお祭りとかそういう何かの行事の時には「ちょっと使おうかな」というふうになるのではないかな、と。つまり各個人のお金への執着度を自然に緩和する作用があったのではないのかな、と思うのです。消費意欲を高めるというか、個人差はあるけれど少しだけ粘度を低下させていたのではないかな、と。なので、こういう奉納行事とか、お祭りというような行事は、経済効果がきっと高かったに違いないと思う。それに、金持ちは他の人々から尊敬を集めたり、恨み・嫉みなどを減らすには、寄附行為というか自分のこと以外にお金を使うことが必要だったのでしょう。そういう社会的不満を軽減させる働きもあったのではないのかな、と思ったりします。
江戸時代の江戸庶民は割りと色々な娯楽にもお金を使っていたようですので、江戸と他の地方では状況は異なっていたのではないかと思いますが。「宵越しの金を持たない」などと言って、パーっと使ってしまうことが粋であったようですが、これもある意味経済効果があったのであろうと思う。お金への執着度(粘度)を減らして貨幣速度をアップさせるし、回りまわって自分の収入にも反映されるというようなことを経験的に知っていたのかもしれない(笑)。逆に皆が使わなくなり過ぎると、活気が失せてツマラナイし、経済的に停滞するということを知っていたに違いない。時には大火もあったりして、これも確かに損失なんだけど、火事が「江戸の華」と言われた理由の一部には、その後の「復興需要」ということで経済が活況となるということを多くの江戸っ子たちが経験的に知っていたのかもしれないですね。まさに「スクラップ&ビルド」だし、雇用政策でもあるし(火事は政策ではないな)。
そういうような訳で、何が言いたいのかというと、案外と昔の行事には経済学的意味があったりして、それには個人のお金への執着度を減らす効果や、貧困層の社会的不満を軽減したり富の分配機能も兼ね備えていて、経験則に基づく経済学的合理性があったのではなかろうか、ということですね。
こういう視点で考えると、OLの7割くらいが「バレンタインデーを無くしてほしい」と考えている(Yahoo!ニュース - 共同通信 - OLの7割「なくなって」 バレンタインデー調査)ようですので、これが消滅した場合にはお金への執着度の高い女性たちは特に消費抑制に繋がるおそれがあります(笑)。会社のしょうもないエロハゲオヤジ(ゴメンね)には益々誰も支出しようとはしなくなり、そういうオヤジ層の社内的不満が増大する可能性も有り得ます。社会全体で見ても、お金の粘度を変えるチャンスを一つ失ってしまうことになるかもしれませんね。
因みに私は「バレンタインデーなど全くいらない」派(むしろ、「無くせ派」)です。少なくとも私が中学・高校の時に、学校にチョコを持ってきていた人は見たことがありませんでしたから(田舎だったからか?)。大学生になって初めて「義理チョコ」なるものが与えられるようになり、貰ったら何か返さねばならず、全然好きでもないチョコと、その単価よりも必ず多くなければならない自分のお金を交換するという取引を強要されるのが結構不満であります。でも、全く貰えない場合には、それなりに寂しい場合もありますけど。義理チョコなるものは、初めの頃には無かったと思うな。いつからこんな変な制度に変わったんでしょ?
いかん、私もすっかり貧乏人の「粘度」が高い人になっているな。こういう無駄な消費も他の世の中の人々にとっては経済効果があって、「財布のヒモ」を緩めさせる貴重な機会なのですから、私のように「なくしていいよ」などと言わない方がよいのかもしれませんね。
まず、昔の人達はきっと貧乏だったろうし、格差の水準もきっともの凄く開きがあったろう。簡単に言うと、「水のみ百姓」と「豪農」とはえらい格差があったに違いないと。浪人崩れの「傘張り職人」と「紀伊国屋文左衛門」みたいな山師的ベンチャーの人(笑)も、多分もの凄い格差だったろうな、と。そういう状況であって、一般の人々は「困った時の為に」と思って、大切に穀類か金子を蓄えておこうとしたりしただろう。普通に「辛抱しなさい」ということを教えられたりして、地道に「蓄えをしなさい」などという道徳教育もされていたことだろう。
従って一般的には、金持ちならばお金を使う傾向はあっただろうが、そうでもない普通の貧乏人達というのは、出来るだけお金を使わないようにしていただろう。そうすると、どうなるか。結果的には地域経済は停滞したりするし、商人たちが潤わないので、藩の収入も減ったりするかもしれず、その結果年貢を厳しく取り立てられたりして、自分に跳ね返ってきてしまうかも。
で、そういうのを緩和する制度というか仕組みとしては、神仏の行事とか農村の豊作祈願というようなお祭り行事のようなものがあった。それは単なる偶然なのかもしれないし、大昔からの経験則による知恵なのかもしれないけれど。
大抵は大金持ちというか、地元の名士の人たちが、そういうお祭りの時には寄附とか振舞い酒などの商品を大量に購入して人々に無償配布したりとか、「再分配」のような感じになりますね。それに一般の人々も普段ならば「我慢してお金を使わないように」していたのだけれど、年に一度のお祭りとかそういう何かの行事の時には「ちょっと使おうかな」というふうになるのではないかな、と。つまり各個人のお金への執着度を自然に緩和する作用があったのではないのかな、と思うのです。消費意欲を高めるというか、個人差はあるけれど少しだけ粘度を低下させていたのではないかな、と。なので、こういう奉納行事とか、お祭りというような行事は、経済効果がきっと高かったに違いないと思う。それに、金持ちは他の人々から尊敬を集めたり、恨み・嫉みなどを減らすには、寄附行為というか自分のこと以外にお金を使うことが必要だったのでしょう。そういう社会的不満を軽減させる働きもあったのではないのかな、と思ったりします。
江戸時代の江戸庶民は割りと色々な娯楽にもお金を使っていたようですので、江戸と他の地方では状況は異なっていたのではないかと思いますが。「宵越しの金を持たない」などと言って、パーっと使ってしまうことが粋であったようですが、これもある意味経済効果があったのであろうと思う。お金への執着度(粘度)を減らして貨幣速度をアップさせるし、回りまわって自分の収入にも反映されるというようなことを経験的に知っていたのかもしれない(笑)。逆に皆が使わなくなり過ぎると、活気が失せてツマラナイし、経済的に停滞するということを知っていたに違いない。時には大火もあったりして、これも確かに損失なんだけど、火事が「江戸の華」と言われた理由の一部には、その後の「復興需要」ということで経済が活況となるということを多くの江戸っ子たちが経験的に知っていたのかもしれないですね。まさに「スクラップ&ビルド」だし、雇用政策でもあるし(火事は政策ではないな)。
そういうような訳で、何が言いたいのかというと、案外と昔の行事には経済学的意味があったりして、それには個人のお金への執着度を減らす効果や、貧困層の社会的不満を軽減したり富の分配機能も兼ね備えていて、経験則に基づく経済学的合理性があったのではなかろうか、ということですね。
こういう視点で考えると、OLの7割くらいが「バレンタインデーを無くしてほしい」と考えている(Yahoo!ニュース - 共同通信 - OLの7割「なくなって」 バレンタインデー調査)ようですので、これが消滅した場合にはお金への執着度の高い女性たちは特に消費抑制に繋がるおそれがあります(笑)。会社のしょうもないエロハゲオヤジ(ゴメンね)には益々誰も支出しようとはしなくなり、そういうオヤジ層の社内的不満が増大する可能性も有り得ます。社会全体で見ても、お金の粘度を変えるチャンスを一つ失ってしまうことになるかもしれませんね。
因みに私は「バレンタインデーなど全くいらない」派(むしろ、「無くせ派」)です。少なくとも私が中学・高校の時に、学校にチョコを持ってきていた人は見たことがありませんでしたから(田舎だったからか?)。大学生になって初めて「義理チョコ」なるものが与えられるようになり、貰ったら何か返さねばならず、全然好きでもないチョコと、その単価よりも必ず多くなければならない自分のお金を交換するという取引を強要されるのが結構不満であります。でも、全く貰えない場合には、それなりに寂しい場合もありますけど。義理チョコなるものは、初めの頃には無かったと思うな。いつからこんな変な制度に変わったんでしょ?
いかん、私もすっかり貧乏人の「粘度」が高い人になっているな。こういう無駄な消費も他の世の中の人々にとっては経済効果があって、「財布のヒモ」を緩めさせる貴重な機会なのですから、私のように「なくしていいよ」などと言わない方がよいのかもしれませんね。