いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

公益法人のアンケートブーム?

2006年03月14日 21時57分42秒 | 社会全般
今はアンケートブームなのか?と思う。ひょっとして、組織存続の為の大義名分でもこしらえようと、必死なのかもしれないけれど(笑)。

本当に学者さんが考えてやった調査なの?ちょっと疑問だね。

Yahooニュース - 読売新聞 - 進学も格差…子どもへの期待や費用、所得で開き

以下に記事より引用。


家庭の所得によって、子どもの進学への期待や習い事にかける費用に格差が出ていることが、「こども未来財団」(東京都港区)の調査で明らかになった。調査は昨年10月、20~44歳の既婚男女約2400人に行い、回答者の家庭所得を年収「200万円未満」から「1000万円以上」まで6分類した。

1000万円以上の家庭では89%が子どもに大学・大学院進学を希望しているのに対し、200万~400万円未満は44%、400万~600万円未満は60%。200万円未満の家庭では30%が「特に希望はない」と答えた。

第1子に習い事をさせる割合や平均月謝額も所得に“比例”。1000万円以上の家庭の79%が習い事をさせ、約2万7000円の月謝を払っているのに対し、400万~600万円未満と200万~400万円未満の家庭では、それぞれ52%、約1万2000円と38%、約9600円だった。調査にかかわったお茶の水女子大の坂本佳鶴恵教授(社会学)は「子どもの教育費は『かかる』というよりも『かける』ということが明確に表れた。所得差が教育格差につながりかねない。子育て世帯への教育費の支援が今後の課題になる」と話している。


ベッカー理論(参考記事)と違いがないようにも思えるけど。調査する前に文献を当たればいいのに。
「『かける』ということが明確に表れた」って、当たり前だっつーの。金持ちと貧乏人を大規模調査して平均を比べりゃ、例えば「服飾費」「海外旅行費」「娯楽費」とかだって、全部格差だっつーの(多分ね、調べてないけど。常識的には誰だって思いつくと思うよ)。金持ちの方が元々支出額が多いんだから、同じくらいの割合で投入したとしても(例えば年収200万円の人が教育費に5%投入したら年10万円、年収500万円の人も5%投入ならば年25万円)、実額に差が出るに決まってるじゃないか。

結構判りきったことを、手間暇かけて調べとるね。もうちょっと、全体の調査デザインを考えた方がいいと思うよ。何だか、小学生の「しゃかいのしらべもの」発表みたいなんだけど。「何を知りたいか」「どういう仮説を検証するのか」ということを考えて、その為の調査をするべきなんではないのかな、と。専門外につき、全く判らんのですけど。


はっきり言うと、「21世紀職業財団」とかも同じだと思うけど、存在意義がかなり怪しい公益法人は、戦々恐々としているんでしょう?(単なる憶測ですけど)
なので、何かの調査という名目で社会的に意味があるということをアピールせねばならんのでしょう?大慌て&駆け込みの、形だけの実績作りなんでないの?簡単過ぎるアンケートというのは、バカでもできるからね(笑)。今回の調査を見ても、「考えたヤツラは○○じゃないの?」と率直に思いましたね。多分、金の無駄だね。「こども未来財団」は、一体全体、何が知りたかったの?


今後公益法人改革で、大して必要のない組織はそれなりの処理をされてしまうからね(笑)。社会的に意義のない調査は、はっきり言うと無駄ですので、公益法人審査の有識者たちは十分注意して下さいね。形だけちょこっと調査とか称して、実質的な意味のないものもありますので。「こども未来財団」がそうなのかどうかは知りませんけれども。まあ、厚生労働省所管の公益法人であることは確かで、補助金も11億円以上もらってるようですな。経費の半分以上が補助金です。お約束の天下りは当然存在しており、”児童家庭局長”とか”大臣官房付”とかの連中がいるんだそうだ。どうせ、これも怪しい公益法人なんじゃないの?(参考記事


「21世紀職業財団」も似たようなもんですか。同じく厚労省所管だしね。下らんアンケートでお茶を濁して、どうだっていいような「結論」を導き出すんですよ。腐れ役人どもの考え付きそうなことですな。調べていたのが何だったか思い出せないですが、今回のと同じくらい意味のないアンケートだったような気がする。これも不要な公益法人の一つなんでないの?言うなれば、タカリの構図を有する組織ってことですよ。ヤツラは組織存続を図るために、アンケートがブームなんですよ。これならば、ソッコー実績を積めるから。手順も簡単だし。事業としては、とっても「やり易い」んですよ。ね、いかにもお役人の考えそうなことでしょ?腐れ役人どもは、どうやって自分達の組織を防衛するか、ということばかりを考えるので、非常に判りやすい反応なんですよ(笑)。


下らん組織(公益法人)は、いかにも「仕事やってます」みたいな、付け焼刃の「アンケート調査」をこしらえてみたんでしょうよ、多分。「内容が無いよう」っていう研究・論説は、大体わかるもんですよ。前にも書いたけれど、内閣府の経済分析で、平ちゃんに指摘された「地方のマクロ分析」を慌てて追加したようなもんです(笑)。労働問題とか教育関連の研究などは、領域が互いに(複数省庁にまたがって)カブっていたりするから、先に自分達の仕事をしたフリをしないと、他の公益法人や研究機関に仕事をとられちゃうからね(爆)。年に1本のアンケートを調査するのに、こんな組織は必要ない、ってことです。外部委託(大学等)でも十分です。専属でやる必要性なんか、これっぽっちもないですね。


いずれにしても、頭の悪い小役人どもの考えつきそうなことです。あなた方の目的はよーく判りましたよ。

どうか公益法人の審査をされる有識者の方々におかれましては、こういった「やったフリ」だけの組織も多々あることに留意されて、必要性・内容等についても厳正に審査し、正しく判断されるべきかと思います。



「社会保障番号」問題

2006年03月13日 21時36分14秒 | 社会保障問題
えー、日銀問題で滞っていた、経済財政諮問会議の議論ですけれども、私にとっては非常に有り難い朗報が含まれておりました。これはかなり重要な議題なのですけれども、報道では見かけませんでした。社会保障に関して、遂に「社会保障番号」を本格導入に向けて検討しよう、ということのようです。メディアにおいては、これって重要なテーマなんですから、きちんと報道した方がいいと思いますね。国民生活に直結している大切な議論ですよ。


第5回議事要旨


では、以下に社会保障番号に関する部分を(ちょっと長いです)。


奥田「社会保障制度は、国民の安心確保のためのもっとも基本的なインフラであり、国民の不信感、あるいは不公平感を払拭する最大限の努力が必要であると思う。将来の制度体系のあり方も展望しながら、給付と負担の規模、範囲また内容について、複数の選択肢を提示して国民的な議論を行う必要があると思う。その際、これまで取り組んできた医療改革等の上に立って、更なる合理化努力を実施することを前提とすべきであると考えている。社会保障の規模の選択肢については、財政健全化や国民負担との関係を明らかにする観点から、対GDP比等によって示すとともに、国民生活への影響をわかりやすく示す必要があると考えている。最後に、得るべき結論について、先ほど説明した改革実現に向けての重要指針に基づき、選択肢についての国民的議論を経て、改革の結論を出すべきであると考えている。」

谷垣「その中で、今後の社会保障改革における最大の問題は、(中略)現世代の受益である社会保障給付に対する負担、主に税負担が将来世代に先送りされていることだ。従って、社会保障については、国民の負担にも目を配りつつ、給付について不断の見直しを行うと同時に、必要な給付に対する負担について将来世代に先送りすることがないように安定的な財源を確保することによって、社会保障や財政の持続可能性に対する信認を高めて、国民生活の安全・安心を確保することが必要ではないかと思う。」

吉川「先ほど奥田議員から説明があった点はいずれも大切だと考えているが、具体論として、我々民間議員は昔から主張しているが、社会保障番号はやはり必要だ。それがもたらすいい意味での影響は広範囲に及ぶので、そろそろ真剣に検討していただく必要があるのではないかと考えている。」

小泉「社会保障番号は、納税者番号よりも前の段階だと思うけれども、どういうふうにやっていくのか。具体的に進めていく手順というのは。」

吉川「他の先進国で既にある国がたくさんあるので、そうした国でどのような形で運用されているのか、具体的には、米国でもどこでもいいと思うが、それに学べばいいのではないか。」

小泉「そんなに難しいことではないのか。」

本間「今、制度がばらばらになっているので、総理が言われるとおり、その番号をどういう具合につなぐかという問題は当然出てくる。」

ウシオ「アメリカがやっている。アメリカはソーシャルセキュリティーナンバー。」

奥田「SSNという名前で。」

小泉「社会保障は日本ほど充実していないでしょう。アメリカは。」

奥田「それは日本の方がはるかに充実している。」

ウシオ「重複支出が出ようがないという説もあるくらいだが、あることによって、そこからかなりの効果が出ている。それと、資料に書いたように、一体的改革と一元的管理も同時に進めることができる。要するに、年金、医療、介護、生活保護等、これを一体的に捉えて、制度の設計を総合的に簡素化して、しかも重複支出がないようにするということ。これで非常にいろんな点で問題がクリアになる。」

小泉「財務省か、厚労省か、こういうことから入ると、具体的な手順ないかね。そうじゃないとね、なかなかわかりにくい。」

竹中「いくつかの省で検討したことはあると思う。アメリカの場合は、ソーシャルセキュリティーナンバーを得るために、オフィスに行って登録する。日本の場合は、世界にあまりない住民票というものがあるので、それを使う方がいいか悪いかとか、改めてもう一回国民全員に登録に行っていただくのかとか、そういう問題は出てくると思う。ただいずれにしても、やろうと思えば、これはできると思う。」

小泉「個人情報の問題もある」

ウシオ「地方自治体がきちんとあるし、e-ガバメントも相当進んでいるので、手順を示せば、それほど複雑なことではないと思う。」

竹中「e-ガバメントに結びつけようと思ったら、やはり住基ネットをどう位置づけるが、そういう問題をクリアにしないといけなくなる。」

吉川「従来から、こういうものを入れるのは難しいという議論はたくさんあるが、諸外国でも、先進国はやっているわけであり、そろそろ、本当に前向きに検討していただく必要がある。」

小泉「納税者番号よりはやさしいだろう。」

本間「これは従来の番号に各共済や厚生年金をつなげばいいわけで、社会保障番号の延長線上でやろうとすれば、技術的にはクリアできると思う。ただ、今、竹中議員が言われたとおり、総務省では住基番号を使っており、どちらを使うかとか、いろいろな調整はしなければいけない。しかし、新規に納税者番号という形よりは、既存の番号を使った方がずっとやりやすいと思う。」

小泉「難しい方法を、みんなやれ、やれと言っているんだから。納税者番号を、民主党もやれやれと言っているし、識者もやれやれと。これはどこの省が、どのように、具体的にどのような問題があるか、わかりやすく整理して提示して。」

与謝野「整理して。はい。」

ウシオ「複数の省にまたがるから。」

与謝野「社会保障番号は誰か研究している人がいるはず。」

ウシオ「いろいろなところで研究している。」

本間「いろいろ情報はあると思う。ただ、政府のこれまでの取り組みもあり、それとのつなぎも勉強させていただく。」


このような感じでした。私は以前にも書いていますが、住基ネットを有効に活用すべき、という観点から、社会保障番号はこれ一つで十分なのではないかと思っています(過去の記事をお読み下されば幸いです。カテゴリー:社会保障問題)。で、他の健康保険も、厚生年金保険も、労働保険も全て番号で管理されていますから、これらの番号が一つのナンバーで管理されることになれば済む話ですね。統一された規格を持てば済みますね。将来的には、医療情報ネットワークに発展させることも可能なはずですね。専門的な問題点もあると思いますので、技術的なことはそれぞれの専門家の御意見も必要だろうと思いますが、今の時代で統一された社会保障番号とそのネットワークが整備できない、なんてことはないと思えますね。


吉川先生は「民間議員が前から言っているとおり」と仰っておりましたので、そうなの?と改めて知りました。検索して調べてみると、本当にそうでした。

今後の経済財政運営及び経済社会の構造改革に関する基本方針

月刊ESP2月号


今の今まで、本当に「ゴメーーーン」でした。あれこれ文句をつけていたのだけれど、吉川先生の仰せの通りでした。初めの頃の「骨太の方針」にもちゃんと書かれていました。スミマセンでした・・・。やはり賢い人々が集まれば、普通に考えて私程度が思いつくことは、大体考えられているのですね。


でもね、それならば、どうしてこれまで放置していたの?って思いますけど。何でもっと早くから真剣に取り組んでこなかったのですか?とツッコミたくもなりますよ。閣議決定までした事項でありながら、今までは問題を留保、先送りしてきたということなんだろうと思いますね。でも、優先するべき課題として考えられていたのが、例えば不良債権問題、道路公団問題、年金問題、郵政民営化、等々で、手が回らなかったのかもしれませんね。

うーむ、であれば何故に選挙対策的な「小手先の年金改革」に踏み切ったのか、甚だ疑問である。あの強硬採決は許されないよ、普通。諮問会議で通した「年金改革はこれでいいんだ」、という過ちをまずは認めるべきですね。公務員共済の問題、国民年金の問題、議員年金の問題、厚生年金隠れ脱退、社保庁問題、どれもこれも全く解決できてないでしょ?やるべきことがわかっていたのに、目先だけ国民を騙そうとした姿勢は厳しく糾弾されるべきでしょう。


きちんとやる積もりならば、もう一回社会保障を組み直さねばならないし、同時に「歳出・歳入一体改革」と平行するけれども、保険料と税とをどのようにするか、ということも一体的に検討していくべきですね。最低保障ということに重点を置くならば、年金一元化と財源問題(要するに消費税です)にまで踏み込んで議論すべきですよ。社会保障番号というのは、基本的にはシステムの問題であるけれども、社会保障の根幹部分でもあるのです。どのような「総合的行政サービス」として給付するか、というある種の商品設計でもあります。そこに辿り着けなければ、いくら番号をいじっても同じ。年金番号が別の「社会保障番号」という別な呼び名の数字列に置き換わった、というだけで終わってしまいますよ。


あの時の年金改革はもう過ぎてしまったことですし、当時の政治的な環境とか抵抗勢力の状況(笑)とか、そういう部分(要は統治システム)での違いがあって、後退戦を余儀なくされたのかもしれないが、それを勘案したとしても年金改革・社保庁改革をやったことにしたのは本当に酷いと思う。未だに年金不信の原因にもなっている。未納率が改善されないことにも表れているじゃないか。

なので、今度こそ真剣にやっていって下さいよ。基本方針だけでも、ちゃんとしたものを策定しましょうよ。大枠の議論がなされていないし、国民にも全然伝わっていないと思いますよ。


今後の進展に期待したいと思います。今度は統治システムの問題なんかじゃありませんからね。あくまで中身の問題ということです。



「県庁の星」を観て

2006年03月12日 13時33分38秒 | 俺のそれ
先日家族で観に行ってきました。評判は良かった。結構楽しめました。主演が織田裕二だったから(笑)、ということもあるのかもしれませんが。我が家では織田裕二の「顔」は全く好まれないのですが、演技というか役柄は好まれます。いい役者さんだな、といつも思っています。

この映画の最大の特徴は、観に来ている人々の「ある傾向」だ(笑)。平日の夕方だったせいか、仕事帰りの男性が多かった。それも、所謂「こうむいん」風な方々だ。男性1人で来ている人達の何割かは、それっぽかった。しかも、ファッションの感じも皆似ているんだよね。カップルはかなり少なかった。全体に、女性が少なくて、男性2人組とか、男性1人とかが多かった。単なる偶然かもしれないが。家族連れは非常に少なく、我が家はちょっと特殊だったかも。

ウチの中坊の感想としては、「とても面白かった」と。娯楽作品としても十分楽しめるようです。で、中身については、「公務員って、あんなに使えないの?」と。厳しいですな、子どもは(笑)。まあ、映画だからちょっとオーバーに描かれていたんだよ、と言っておきました。


映画は世相を反映していて、それが随所に見られました。官民交流、外国人労働者、高まる公務員批判、・・・分り易く表現されていました。一部、「それは絶対ない!」ということもあったのですが、全体的にはよく出来ていて、私自身はとても共感できました。最後には、民間とか役所というような「垣根」ではなくて、それぞれによい部分があるのでそれをともに活かせる方向性というものが必要なんだろうな、と思いました。

誰かが垣根を乗り越えていかねばならないのでしょう。住民にも当然求められる姿勢というのが出てくるでしょう。

予想以上に良い作品でした。



ちょっと追加:

映画館での予告編開始前にCMが流れていたんですが、何と大発見!政府広告が流されていましたよー!

内閣府が出してた。何だか、イメージ広告風だった。テーマは忘れた。
感じとしては、「すっきり爽やか、コカコーラ」みたいな感じでした。こんな所にも広告費をかけているんだなー、と感心したけれど、これって何だか怪しい気もしましたよ。こんなことにお金をかけないで欲しい、と思いました。

これって、「昨年の郵政民営化関連で確保していた「広報費」が余ったからでないの?」と変な勘繰りをしてしまいました。だって、自民党の猛反発を食らって、政府広告を縮小せざるを得なかったのだろうから、多分予算使い切れずに余ってるだろうなー、って思うもんね。本当は違うのかもしれないけれど・・・。

映画館でまで、政府広告を見せんでもいいんでないの?と思いましたね(笑)。そんな費用かけるくらいならば、もっと大事なことを告知するべきなんでは?例えて言うなら、「周知不徹底」と非難されたPSE法関連みたいなものですね。こちらの方が「スッキリ爽やか系イメージ広告」よりも大事なんじゃないの?



単品性能ばかりが重要ではない

2006年03月11日 19時10分31秒 | 社会全般
先日来ずっと、書こう、書こうと思っていて、日銀関連に手間を取られてしまって書けなかったことがある。それは、切込隊長氏の心温まる記事(笑)だ。

切込隊長BLOG(ブログ) - 働く必要に迫られたニート経験者は意外と重宝する


えー、ニート等のキャラであっても、門戸は全部が閉ざされている訳でもあるめえ、というお話。

結構感動したんですよ、私(笑)。本当ですって。


ちょっと名言を挙げておきますね。

>「使えるかどうかは学歴があるかないかと関係ない」という命題と直結するのかもしれないが、その人のセンス、才覚に加えて「人生、そろそろ固められるところは固めておこう」という本人の意思と、働いていなかった時期にどんなものをその人の内側に蓄積してきたかに大きく影響されるものなんだろうと思う。


だよね、だよね、そーだよね、って何かの歌みたいだけど(どんな歌だったか忘れた)、いいこと言うじゃねえか、おまいさん、って思った。「本人の意思」だよ、やっぱり。いい加減に夢を追い求める状況でもねーだろ、ってことを、本人がどこかで踏み切らないと、次が出てこないこともあると思う。

「オレはこうして脱出した」「こんな風に乗り越えた」というような、同じような仲間たち―ニートばかりじゃなく、下流と呼ばれるような同じ階層に属するという人々―の成功した体験談などが、案外と希望になっているのかもしれませんね。そういう意味では、切込隊長氏の会社で働く人々は現実に成功体験をした例として、勇気を与えてくれるものかもしれません。


>コスト1でいいから能力の至らない、それでいて特徴のある武将をかき集めてきて、大枠の運用に気を使うほうが楽しいのである。人海戦術とはまた違って、スキルというものの性質として、単品性能が高いことより性能を組み合わせるほうが方針を決めたあとの効果が大きいように感じるからだ。


これも泣かせるんですよ、本当に。『NARUTO』的なマンガの世界でもありがちなことなのかも。個人の能力ではエリートとか秀才というような範疇にない連中だが、自分の特徴を活かして皆の役に立つ、仲間の危機を救う、というようなことです。個人の能力として凄く優秀であることが、必ずしも組織の「強さ」ではない、ということです。多分、チームとして何かをやり遂げた経験を持っていれば、こうした意外な力というものに気付くこともあると思いますね。『単品性能が高いことよりも組み合わせるほうが(中略)効果が大きいように感じる』とは、本当にそうだと思いますよ。


スポーツチームでも同じですね。言うなれば、「ロッテ派」か、「ジャイアンツ派」か、ですね(笑)。マツーイ、ヨシノブがいるのにキヨ、コクボ・・・更に古くは、ぺタ、江藤、石井、その他モロモロ、何が何だか忘れるぐらいたくさんで、こうした高いコストの単品性能をかき集めてくるんですが、これが滅法弱かったりする(笑)。一方、ロッテや広島は安いコストで、組み合わせで頑張ろうとするんですね。まさに「コスト1」と「コスト3」というような違いがある訳です。でも、現実にはコストの高いジャイアンツよりも、ずっと安いロッテの方が勝ったりするんですね。得てしてそういうもんです。これ、非常に分かり易いですね。


だから実際の仕事の上でも、個人の単品性能が高い(学歴が高いとかテストが高得点とか・・・)ことよりも、いかにチームに貢献できるか、という方が実は大切なのではないかと思える。その為には自分が最大限の能力を発揮しなければならないし、それを達成するにはどうしたらよいか自分で考えることだと思う。個々の単品比較では確かに劣るかもしれないが、チーム戦であれば単純な算術通りではないことも多いような気がするのである。例えば個人の能力が「評価3」が5人いてもチームとして総合力15になるかと言えばそうでもない。逆に「評価1」が5人であってもチームの総合力として10とか15になったりすることもある、ってことだ。常に自分の能力を発揮してベストを尽くせるか、ということがやっぱり大事なんだろうな、と思う。ある種の、職人気質でもあるな、とも思った。


>ある程度、職場で必要と認められて働く意欲に恵まれてくれば、黙っていても努力を払うし結果もついてくるように思う。概ね、働きたくないとニートが願っているとも思えず、むしろ働く場というよりは期待される場、役に立てる場を求めていて、そこに生活できるだけの金がついてくれば良い、だが複雑な人間関係をあれこれ泳いで上を目指そうとはあまり考えない、といった雰囲気の話ではないか


そりゃ、人間だもの。誰からか、自分を「必要とされたい」って思うものだろうな、と。私もそうだ。これって、根源的なことなんだろうな、と思った。「期待される場」「役に立てる場」「(自分が)必要とされる場」、そういうものが感じられた時にこそ「働く意欲」は高まるだろうし、「やりがい」を見出したり、自分に何かの自信を持てるようになれるのではないか、と思った。


読んでいて泣けました(って、本当は泣いてないけど)。うん、うん、って凄く納得できる記事でありました。



やっぱり庶民には馴染めない金融政策論議

2006年03月10日 21時21分22秒 | 経済関連
前の記事では、あくまで堅めに書いてみたんですが、かなり変だったかもしれませんね(”かも”じゃねーだろ、ってツッコミはご勘弁を)。出来るだけ感情を抑制して書いてみました。でも、今度は本音で書いてみたいと思います。


時間を置いてみると、案外とあっさり過ぎてしまったような気がします。まるで「郵政民営化法案否決」直後みたいなもんです。なんだか気が抜けた。やっぱり一般庶民の私には、金融政策というのはどうも馴染めない議論でした。元々、難解だからで、知識等の素地がないし。国民全体で見ても、それほどの興味がある話題でもなく、何だかよく判らないことが問題になっている、ということくらいしか感じないのでは、と思うな。


トータルの評価としては、数値が具体的に記述されたことにはちょっぴり「前進」があったと思うけれども、フニャっとした「枠組み」ということらしいです。本日の読売朝刊には、中原元審議委員、伊藤隆敏東大教授、そして何故か荻原博子氏が論評を載せておりました。何で、荻原氏をチョイスしたのか判らんな。前から言ってるように、「経済」の肩書きは荷が重過ぎると思うよ。


ここ数日のテレビ報道でも再三使われた表現「ジャブジャブ」というのは、いい加減に使い古されたものですけれども、視聴者に誤解を与えるには丁度いい「言い回し」なのかもしれないですな。番組出演者に仕組みを上手く説明せよ、って求めても無理だわな(笑)。日銀の発表(金融経済月報・基本的見解)によると、「マネタリーベースの伸びで前年比2%程度、マネーサプライは同1%台の伸び」となっており、全然増えてはいないんですけど。テイラー(スタンフォード大教授)曰く、日本経済が順調ならばマネーサプライは7%程度は行ける”実力”があるそうですが。テレビで「どんどんお金を日銀が出すから、お金がジャブジャブ・・・」とか言うのって、どこがジャブジャブなんでしょう?出演者の懐がジャブジャブ?出演者(まあ所謂ひとつの「きゃすたー」とか、エコノミストとは言いがたい経済評論家?)などが、適当に言うのはどうかと思うけど。ジャブジャブってのは、どんなことですか?日銀が市中にお金をばら撒いていると?どこにさ?そんな金があるんなら、オレにくれよ!世の中の多くの人々は、「景気がいいだって?ふざけるな」だよ?景気が上向いているなんて全然感じられないんだってば。


特にテレビには呆れるね。間違ったことを堂々と言うもんね。「デフレ」と「ミニバブル」とは、全くの別物でしょ?株買ってるのなんて、ほんの一部の人間に過ぎない。それは、「買える金」を持ってる人だけだっての。不動産を買うって?都心の高級マンションが飛ぶように売れてるって?そんなの、東京モンの金持ってるヤツラだけだろ!世の中では所得の低い人々が大半なのに、何でも東京基準で判断すんなよ!世の中には、まだまだ所得の低い人々がいっぱいいるんですよ。金持ってるのはそんなに多くはないぞ。投資が過熱云々とか言うが、2割以上の世帯(確か単身世帯は除かれてたはず)は「預貯金」さえ持ってないんだぞ?独身者(単身世帯)を入れたらもっと多いかもしれないんだぞ?バブルだ、なんだの言ってるのは、ごく一部じゃないの?そりゃ、本当に儲かってる連中だけだろ。


一般に、「利息をもっと付けてくれ」ってことは確かにそうだと思う。庶民の実感にも沿うだろう。だが、何を優先するか、だ。デフレが続く限り、「キャッシュ」を大量に持ってるヤツが勝つ。大量の現金を持っていて、金利収入でそれなりに生活出来るレベルの人間は大いに助かるかもしれないが、持ってない人々には苦しみを与える。おまけに、失業を生み出す。既得権者たち(それなりに賃金を貰える正規雇用の安定した人たち、例えばテレビ局のようなメディア関係とか、大企業勤務や公務員とかだろ)は有利になるだろうけど。世の中に失業を大量に発生させても、「金利を上げてくれ、オレの利息を付けてくれ」という人はそんなに多くいるだろうか?いずれ我が身にも跳ね返ってくることになる。税金を払う頭数が減るし、失業給付も増加するから、財政状況は悪化して保険料値上げやら増税やらに必ず繋がるんですよ。だから、デフレは絶対に終わらせないとダメなのだ。多くの人々は、経済学的な話なんてよく判らない。私もそう。なので、何が問題なのか知らないんですよ。


「物価が上がるのは困るんですよね」というのは、庶民の感覚としてはそうだと思う。だが、正しく理解してもらうことも必要だろ?物価が上がると生活が苦しくなるから止めてくれ、っていうのは、ごく平凡な意見だけれども、それでは良くないことが多いと理解してもらわんでどうするの?逆に下がり続けることの恐怖というか弊害をしっかり説明せにゃいかんだろ。今の今まで、デフレでこれほどまでに苦しんだのに、それでも「物価が上がると・・・」「銀行の金利は低すぎて・・・」という普通の感覚で言う意見が正しいと思い込まれては、再びデフレに逆戻りになってしまいますよ。


今回の一件では、ライジングチームは頑張ってくれたと思いますね。色々とお願いしてみるもんです(笑、多分全然届いていないけど)。もしも彼らの牽制がなければ、日銀は独断で爆走となっていたでしょう。今まで通りの「バブル恐怖症」(「euphoria phobia」とでも呼びましょうか、でも語呂が悪く変ですね。もっと変な造語にすると「euphobia」?ダメですか?笑)で、日銀の主流というか「強硬派」が大勢を決していたでしょう。新たな枠組みが登場することもなかったでしょう。従来通り、「オーソドックス・スタイル」で貫き通すつもりだったでしょうね。大きな変更とか事態の進展は難しいのが普通であり、特に中央銀行に関することですので難易度は相当高いはずで、多くの経済学者たちにとっては「不十分」という評価であるとしても、とりあえず「半歩前進」と思って、多少の痛み分けは仕方がないと考えるべきでしょう。そんなに急には変えられないと思いますよ。伝統ですから。本格的に変わるには、もっと長い時間がかかるものです。


全体で見れば、政治的には「成果があった」と言ってよいのではないかと思いますね。枠組みと数値を入れたことは、「一部勝訴」に匹敵しますね(笑)。散々お願いした立場の私としては、やはり「労をねぎらう」ということも必要だろうな、と思います。折角頑張ったのに、「何だよ、全然ダメだったじゃないか」とか言われるだけであれば、「もう聞いてやらん」とか思ってしまったりするんじゃないか、と。こんなことを書いてしまっては、バレバレなんですけれど。でも、こうした時にこそ、「政治の力」とその意味について、「なるほどな」と感じます。


唐突ですけれど、「日本21世紀ビジョン」は無駄ではなかったでしょ?ちゃんと、学者さんたちが大勢集まって考えているんですから、それには深い意味が込められているのですよ。こういうのに批判的立場の人々は、単に批判するばかりではなくて、実際上の「解決する方法」ということを考慮するべきなのです。これは「政治的」にも、そうですね。何かを得る為には、どこかで妥協することも必要になるかもしれないんですから。強い拒否の態度には、同じく強い拒否しか得られないように思います。こちらが何かを認める(理解してあげる)なら、向こうも何かを認めよう、って話ではないかな、と。全くのいい加減な感覚でしかないのですけれど。



遂に量的緩和解除

2006年03月10日 04時33分31秒 | 経済関連
朝刊には有力なエコノミストたちの論評が出揃うはずであろうから、専門的な解説は譲ることにするが、個人的な雑感を書いてみたい。

量的緩和解除によって、日銀は政治的圧力に屈してはいない、という基本的な立場を確保したようである。解除すること自体に、一つの意義を持たせることに成功したと言えるであろう。日銀の体面というか約束を守るという点においてである。一方では、政府に対する政治的配慮も匂わせたものとなった。不十分な結果ではあるものの、これまでの日銀の態度を思えば、一定の成果はあったと言えるのではないか。今後の政治的な変化(直接的には自民党総裁選挙であろう)にも対応可能なものとした、ということだろう。


小泉総理をはじめ、ライジングチームの強い意向を全く無視するという政治的なリスクは、日銀の選択肢に入れるわけにはいかなかったであろう。この意味において、政府側の働きかけは無駄骨ではなかった。しかし、竹中大臣や中川政調会長のコメントに見られるように、「不十分であり、評価できるものではない」というのは、言うなれば「お約束」の一部であろう。今日の決定会合でどんな結果をもたらしたとしても、「評価できる」というコメントは有り得ないからだ。それは与謝野大臣が日銀派である限り、ライジングチームとの政治的な溝が残るのは止むを得ず、日銀はこうした政治的な争いから距離を取りつつ対応を迫られることとなったのは経済政策とは別の試練であったろう。これらの他にも、財務省(旧大蔵の亡霊も?)の意向を全く無視するわけにもいかない、というタンコブも抱えており、日銀自身が中立を保てる「安全地帯」を見つけ出すのに甚だ苦労させられたに違いない。


いくつものハードルをクリアする為の、苦渋の決断の結果が本日の量的緩和解除と新たな金融政策運営の枠組みであった。金融市場調節方針は、今まで続けてきた「当座預金残高」から「無担保コール翌日物金利」へと変更された。日銀の発表では次の通りである。


(金融市場調節方針の変更)

 日本銀行は、本日、政策委員会・金融政策決定会合において、金融市場調節の操作目標を日本銀行当座預金残高(以下、「当座預金残高」)から無担保コールレート(オーバーナイト物)に変更した上で、次回金融政策決定会合までの金融市場調節方針を、以下のとおりとすることを決定した(別添)。

無担保コールレート(オーバーナイト物)を、概ねゼロ%で推移するよう促す。


(金融市場調節面の措置)

 当座預金残高については、所要準備額に向けて削減していくことになる。金融機関においては、量的緩和政策採用以降長期間にわたって、多額の当座預金残高や資金供給オペレーションを前提とした資金繰りが行われてきた。このため、当座預金残高の削減は、数か月程度の期間を目途としつつ、短期金融市場の状況を十分に点検しながら進めていく。当座預金残高の削減は、短期の資金オペレーションにより対応する。長期国債の買入れについては、先行きの日本銀行の資産・負債の状況などを踏まえつつ、当面は、これまでと同じ金額、頻度で実施していく。補完貸付については、適用金利を据え置くとともに、2003年3月以降、利用日数に関して上限を設けない臨時措置を実施しているが、この措置は当面継続する。


これらの部分で大まかにまとめると、
・(概ね)ゼロ金利を続ける
・当座預金残高削減は数ヶ月かけて行う
・長期国債買入は変えない

で、残高以外は当面変えません、という「宣言」をしているので、これはそれなりに意味があったということになるだろう。コミットメントは無駄ではない、ということである。


もう一つ重要なことは「枠組み変更」である。これは政治的な(主にライジングチームへの)配慮、ということでもあるかもしれないし、日銀内部での政策論争における「妥協点模索」の結果であるかもしれない。日銀側としては「一応、数値を入れました」ということで、過去の日銀の姿勢から見れば僅かながら前進が見られた、ということになるであろう。再び日銀の発表を挙げてみる(一部抜粋)。


1.新たな金融政策運営の枠組み
(1)「物価の安定」についての明確化

 日本銀行としての物価の安定についての基本的な考え方を整理するとともに、金融政策運営に当たり、現時点において、政策委員が中長期的にみて物価が安定していると理解する物価上昇率(「中長期的な物価安定の理解」)を示す(後述)。こうした考え方や理解を念頭に置いた上で、金融政策運営を行う。

(2)2つの「柱」に基づく経済・物価情勢の点検

 金融政策の運営方針を決定するに際し、次の2つの「柱」により経済・物価情勢を点検する。

 第1の柱では、先行き1年から2年の経済・物価情勢について、最も蓋然性が高いと判断される見通しが、物価安定のもとでの持続的な成長の経路をたどっているかという観点から点検する。

 第2の柱では、より長期的な視点を踏まえつつ、物価安定のもとでの持続的な経済成長を実現するとの観点から、金融政策運営に当たって重視すべき様々なリスクを点検する。具体的には、例えば、発生の確率は必ずしも大きくないものの、発生した場合には経済・物価に大きな影響を与える可能性があるリスク要因についての点検が考えられる。

(3)当面の金融政策運営の考え方の整理

 以上2つの「柱」に基づく点検を踏まえた上で、当面の金融政策運営の考え方を整理し、基本的には「経済・物価情勢の展望」において定期的に公表していく。


2.「物価の安定」についての考え方
 「物価の安定」とは、家計や企業等の様々な経済主体が物価水準の変動に煩わされることなく、消費や投資などの経済活動にかかる意思決定を行うことができる状況である。

 「物価の安定」は持続的な経済成長を実現するための不可欠の前提条件であり、日本銀行は適切な金融政策の運営を通じて「物価の安定」を達成することに責任を有している。その際、金融政策の効果が波及するには長い期間がかかること、また、様々なショックに伴う物価の短期的な変動をすべて吸収しようとすると経済の変動がかえって大きくなることから、十分長い先行きの経済・物価の動向を予測しながら、中長期的にみて「物価の安定」を実現するように努めている。

 物価情勢を点検していく際、物価指数としては、国民の実感に即した、家計が消費する財・サービスを対象とした指標が基本となる。中でも、統計の速報性の点などからみて、消費者物価指数が重要である。

 「物価の安定」とは、概念的には、計測誤差(バイアス)のない物価指数でみて変化率がゼロ%の状態である。現状、わが国の消費者物価指数のバイアスは大きくないとみられる。物価下落と景気悪化の悪循環の可能性がある場合には、それを考慮する程度に応じて、若干の物価上昇を許容したとしても、金融政策運営において「物価の安定」と理解する範囲内にあると考えられる。

 わが国の場合、もともと、海外主要国に比べて過去数十年の平均的な物価上昇率が低いほか、90年代以降長期間にわたって低い物価上昇率を経験してきた。このため、物価が安定していると家計や企業が考える物価上昇率は低くなっており、そうした低い物価上昇率を前提として経済活動にかかる意思決定が行われている可能性がある。金融政策運営に当たっては、そうした点にも留意する必要がある。

 本日の政策委員会・金融政策決定会合では、金融政策運営に当たり、中長期的にみて物価が安定していると各政策委員が理解する物価上昇率(「中長期的な物価安定の理解」)について、議論を行った。上述の諸要因のいずれを重視するかで委員間の意見に幅はあったが、現時点では、海外主要国よりも低めという理解であった。消費者物価指数の前年比で表現すると、0~2%程度であれば、各委員の「中長期的な物価安定の理解」の範囲と大きくは異ならないとの見方で一致した。また、委員の中心値は、大勢として、概ね1%の前後で分散していた。「中長期的な物価安定の理解」は、経済構造の変化等に応じて徐々に変化し得る性格のものであるため、今後原則としてほぼ1年ごとに点検していくこととする。


これが日銀の導入した新たな「枠組み」ということだ。こちらも非常に大雑把にまとめると、次のようなものである。
・「物価の安定」「2本柱」の公表
・「2本柱」とは、(長期的)成長経路からの乖離と乖離リスクの点検
・「物価の安定」の定義付け
・バイアスは大きくないと認識
・日本特有の「低いインフレ期待」
・CPI を重視、大勢は概ね「1%前後」で、「0~2%」程度を目標におく
・原則ほぼ1年ごとに点検


多分、事前の予想とは外れていないと思うが、市場関係者ではないのでよく判らない。ただ、数値を入れてきたことには評価してもよいのではないか。現実の金融政策上で、どの程度重視されるのかは不明ではあるが。ECBと似たような感じであろうか。委員たちの意見の具体的な分散も記述されたことには、各方面への何らかの意図が含まれているのかもしれない。「中心値」という表現、そして、上下のレンジでの表現、ということだ。中にはタカ派も存在するであろうから、「どうしてもゼロ%は譲れない」という委員がいたかもしれない、ということでもある。未だにその考えを捨て切れない、伝統派ということなのだろうか。


原則ほぼ1年ごとに点検、ということには、かなりの含みがあると考えられるかもしれない。次の政権担当の状況次第、とも言えなくもない。政治的な意図もあるだろう。



「3月解除説」の怪

2006年03月08日 08時53分51秒 | 経済関連
時間が取れずに記事が書けませんでした。スミマセン。重要な日を迎えることとなってしまいました。金融政策決定会合の日ですね。爆弾は破裂しないと思っていますけれど・・・。小泉さんをはじめ、ライジング・チームが明確な「意思表示」をギリギリのところでしてくれたし、谷垣&財務省も「慎重姿勢」を滲ませて、やや持ち直したと思いますね。日銀としても、今までに3月解除を匂わせていた訳ではないはずで、「予断を持っていない」と総裁も副総裁も述べていたのだから、3月に特別のこだわりはないと思う。


朝日新聞(ロイター)に重要な記事がありましたが、ネガティブな憶測が書かれております。「政治的圧力に屈する日銀」というイメージとか。これって、「3月解除説」をメディアが焚きつけていたか、海外投資家勢が「先回り」をして取引をしたためではないのかな?

asahi.com 首相発言で揺らぐ市場


記事には『仮に日銀が3月解除を見送った場合、「すでに織り込んでいる市場の反応は、解除した場合よりも、大きくなる可能性がある。ただ、実際にどのような反応になるのか、今の段階では予想できない。それほど市場は3月解除を織り込んできたともいえる」とある都銀関係者は、解除の見送りの際の市場の動揺の大きさを指摘する。』と書かれており、これって、反小泉を出したいだけなんではないかとも思えます。


もともと2月末時点では、「4月解除説」が大勢で、大方のエコノミスト達も4月末時点ではないか、という予想をしていたはずだ。だが、例の「日銀2・23事件」の後政府筋の反応を見た結果、「ひょっとして3月解除説もありか?」という雰囲気に俄かに変わった。これは僅か数日前です。ここ10日程度で、大きく「3月解除説」に傾いて市場は過剰反応を示したのではないでしょうか。日銀がそう誘導したとは思えないのですけどね・・・。記事で見てみましょう。


「3月解除説」の可能性に言及していたのは、読売新聞の記事でした。

量的緩和3月解除も視野: YOMIURI ONLINE

こちらの記事では『また、2月17日に発表された2005年10~12月期の実質国内総生産(GDP)の成長率が年率換算で5・5%と高く、政府は景況感を上方修正した。 こうした経済指標の回復から、市場関係者の多くは、新年度入りする4月の解除を予想しているが、日銀執行部はすでにデフレ脱却が確実になりつつあるとの判断を固め、福井総裁も3月解除を排除しない意向を周囲に伝えている模様だ。 』と、「総裁の意向」という形で憶測が述べられております。しかし、読売以外の追随記事はありませんでした。これが2・23事件を受けての翌日です。


でも、この後に行われたアンケート調査では、依然「4月解除説」が殆どでした。
2月26日の調査結果が27日にロイターから出ていました。

量的緩和解除、6割が4月末予想

こちらでは『日銀の量的緩和政策の解除時期が近づきつつあるなか、市場では4月28日の政策決定会合で解除に踏み切るとの予想が全体の64.8%を占め、4月10、11日の決定会合と合わせると約93%が4月中の解除を予想していることが、ロイター・時事合同市場調査で明らかになった。』となっており、市場関係者たちの予測は9割が「4月解除説」が大勢でした。


ところが3月3日のCPI発表を受けて、市場予測よりも高い0.5%であったために、急に色めき立って、「3月解除もありえるんじゃ?」という疑念が生まれたのではないのかな、と。


それと、海外勢の「円買い」が急速に進んで、「オイオイ、3月解除なのか?」という疑心暗鬼に変わり、円買い→金利急上昇→更なる円買い→金利上昇・・・・というような、為替と債券による「解除見込みスパイラル」のようなことになってしまった。「市場は折込みつつある」という総裁発言が実しやかに思い込まれたのではないでしょうか。でも、小泉発言を受けて、円は戻してしまったようですけれど。


日銀は政治的圧力に屈した訳ではありません。元々の「4月解除説」に市場参加者たちの推測が戻っただけではないかと。


それとも、日銀筋からの情報漏れが、いい加減(曖昧)な形で出ていたのではないでしょうか?それを近い関係者たちが「勝手に解釈」して情報を回してしまった、とか。そうでないと、急に「3月解除説」が浮上してきたのは、解せないのですね。僅か数日間の間の変化ですから。


自分の記事を振り返ると、次のような感じです。
2・23事件の日:札割れの謎に迫る

ひな祭りの日:日銀「2・23事件」


この数日間の間に、大きく流れが傾いたのだろうと思います。3月解除説が台頭してきたのは27日~2日までの数日間だったのだろう、と。



最後の砦、小泉総理

2006年03月06日 21時55分40秒 | 経済関連
本日は非常に重要な発言が相次ぎました。参院予算委員会です。最後はやっぱり、このお方しかおりません。小泉総理でございます。中川政調会長の発言も、当然そこをプッシュしている訳ですね。政府としては「責任ある行動、決定を望む」と、日銀に「手を渡した」わけですね。これに「どのように応えるか」というのは、日銀側の判断になり、日銀ばかりではなく福井総裁の力量も当然計られることとなりますね。よもや速水総裁と同じ轍を踏むわけには参りますまい。福井総裁というのは、愚鈍ではないし、政治にも暗いということはない。常に見るべきところは見ているでしょう。信念の人ではあるかもしれないが、妄信の人ではないはずですよね(・・・と、思うけど・・・どうなんでしょ、と弱気・・・)。


金融緩和をして二度と・・・Reuters.co.jp

以下に、ロイター記事から一部抜粋(「小泉総理」が複数回出てるので削除しているところあり)。


小泉首相は、「日銀総裁の考え方、日銀の判断がこれからの金融政策上、経済に与える影響が非常に大きい。現在の金融緩和策をいつ解除するかが市場関係者のなかで大きな関心事になっている」と指摘。そのうえで「景気が回復軌道に乗ってきた。財政・金融あいまって、政府と日銀が一体となってデフレ脱却を目指さなければならないという目標の中で、現在の景気回復軌道を頓挫(とんざ)させてはいけない」と述べ、現在の景気・物価状況をどのように見るかが非常に重要だと述べた。

小泉首相は「通貨も株式の影響においても、日銀総裁がどういう発言をするかについて、耳をそばだてて注目している状況。その辺は、慎重に考えて頂きたい」とした。さらに、「短期的に見て、ようやくデフレ脱却の兆しが見えてきたが、このままデフレ脱却と言って良いかは慎重な立場だ。その点は良く考えて。仮に金融緩和解除の時には、2度と元に戻ることがあってはならないと考えているから、率直に申し上げている」と述べた。「政策目標としては日銀と政府が一体とならなければいけないが、金融政策は日銀が独自の判断をするもの、という点は承知している」と語った。日銀に対して申し入れする予定はあるかとの質問に対し、「賢明な日銀総裁のことだから、私の発言も含め、状況を見極めて判断すると思う」と述べた。

平野委員は、解除に際して何らかの条件を付けるなら、事前に日銀に申し入れをすればよいと指摘した。これに対し、小泉首相は「賢明な福井日銀総裁ですから、私の発言も含め、各状況をしっかりと見極めて判断されると思う。特別に申し入れをする考えはない」とした。「率直に申し上げて、まだ、デフレ脱却したとは言えない状況にあると思っている。後は賢明な福井日銀総裁、最高の専門家が揃った会議、良いメンバーなので賢明な判断をしてもらえると思う」と繰り返した。


重要なポイントとしては、

・政府と日銀が一体となってデフレ脱却を目指さなければならない
・(マーケットが注視しているので)総裁発言は慎重に
・現状ではデフレを脱却したとは言えないと認識
・2度と「元に戻ること」があってはならない
・政策目標は一体だが、日銀の独立性は担保
・独自で判断させるが、状況をよく考えてくれ


最も評価されるべき点は、「賢明な日銀総裁」「最高の専門家が揃った会議、良いメンバー」と持ち上げたことだろう。同時に、何度も使われた「率直に申し上げて」というフレーズが重要で、「私の発言」をしっかりと見極めてくれということである。つまりは、「よもや判らないなんてことはないよな?(バカじゃあるまいし)」という意味である(本当はそんなに酷いことを思ったりしてませんよ、多分。平たく言えば、ということで)。なので、「まだデフレは脱却していない、ただ解除なんかするな」という、総理の明確な意思表示があったと、福井総裁は(勿論副総裁や他の委員たちも)判ったはずですね。


で、福井総裁の発言は、次のように報じられています。

CPIが安定的に・・・Reuters.co.jp


再びロイター記事より抜粋しますね。


福井総裁は、日銀法の主旨に則り「経済・物価情勢の認識、政策の大きな方向性について、政府と日銀の間で齟齬(そご)をきたさないように努力している」と述べた。そのうえで「経済・物価情勢が次第に良い方向に向かっている中で、大変重要な時期に差し掛かっている。この点は日銀としても強く認識している」と語った。日銀は、CPIの前年比が安定的にゼロ%以上になるまで量的緩和政策を継続すると約束しているが、「安定的にゼロ%以上になったか、予断を持つことなく、今後の政策決定会合に臨み、冷静かつ客観的に判断していかなければならない」と述べた。

福井総裁は「経済の望ましい姿の実現を目標にして、金融政策を運営している」と説明。そのうえで「経済があらためてデフレのリスクに陥ることがあってはならないことは当然だが、その段階を過ぎてさらに、長期的に物価安定の下で景気の振幅を大きく経験することなく、持続的な成長軌道にきちんと乗せていかなければいけない」とし、「こうした長い過程を、日銀としては一貫して、金融政策を適時適切なタイミングで施すことで、その流れをサポートしたい。一時期に焦点を絞って何かやることは、それほど大きな意味を持つものではない」と指摘した。

政府と何らかの協議をする予定について、福井総裁は「日銀の金融政策の決定は、決定会合で合議体で議論し、創造的な過程の結果としてひとつの結論を出していく。そこには政府の代表が2名出席し、ご意見を出して頂き、良い結論を出していくというプロセスがきちんと用意されている」と説明し、「それ以外の舞台で、政策委員会の決定事項の内容にかかわる具体的なことを相談するのは、合議体の精神に反する」として否定した。


このような発言がなされたようです。こちらの気になる部分は、次のような感じです。

・日銀法に則り、政府との齟齬をきたさない努力をしている
・(デフレ脱却は)予断を持つことなく冷静かつ客観的に判断する
・一時期に焦点を絞って何かやることは、大きな意味を持つものではない
・創造的な過程の結果としてひとつの結論を出す
・政府側代表は2名入っているから、政府とは協議しない

1、2番目はごく普通の答えですね。で、3番目ですけれども、意図が判り難いですね。今という時期に「何かをやる」というのは、全く考えていない、という意味かと思いますけれども、どうなんでしょうか。これは何度か浮上している「参照値」だの「目安」だのを出す意味なんかない、ということかもしれません。今ここで何かの言質(例えばインフレ・ターゲット)を与えては、遠い将来に禍根を残す、という意味で言っているのかな?それで「長期的な金融政策における日銀の正当性」を前面に出しているかもしれませんが、過去の反省からすると、長期的には日銀の「大失敗」が際立っているのですけど。


はっきり言うと「持続的な成長軌道」になんて乗せてもらってない訳です。もしも、本当に乗せてもらっていたならば、これ程までにデフレが継続することなんて絶対に有り得ない訳です。言ってることと、今までの状況を見比べてみたら判りきっているんですけど。日本経済が沈みっぱなしだったのは、日銀の失敗の証なんですが。これでも「景気の振幅を大きく経験することなく、長期的な成長軌道に乗せる」なんて言えますか?非常に大きな振幅を経験したからこそ、格差拡大だの、勝ち組負け組だの言ってるんじゃありませんか。もっと酷いのは失業だったり、自殺だったり、という人生が終わってしまった人も出たんではありませんか。今はようやく水平線に太陽の上辺がチラッと現れて、光が差してきただけです。「ライジング・サン」のほんのちょっぴりの部分だけですよ。一時期の政策云々の問題じゃないんですって。日銀が長期的に失敗し続けた結果が、今までなんだってば。


デフレがこれほど長期間続いた最大要因は、「日銀の失敗」です。日本経済が瀕死の重傷を負うこととなった”事故”の直接原因は、「バブル」だろうしそこで調子に乗ってた企業のじいさん達だったが、その後のショックで「このままでは命が危ない」と言っているのに、医者である日銀が助けようともせずに放置したのですよ!「何としても助けなければならない」と判っているにも関わらず、点滴(=量的緩和策)だけちょこっとしてみて、後は「オレの仕事じゃないから」と責任を放棄したようなもんです。こんな医者が何処にいますか?こんな無責任な医者は犯罪と同じですよ?助けるしかないと判っているのに、何もしないのは犯罪なんですよ。明らかな不作為だ。しかも、この期に及んで「ホレ、回復したじゃないか」とか寝言を言ってる。それは自力で持ちこたえただけですって。元々の生命力が優っていただけなんですよ。その挙句に、「もう点滴はいらねえだろ?外すぞ」と言い出した。ヴォリュームを減らそう(=量的緩和解除)、ってことは、これと全く一緒なんですって。前に一回外してる(=ゼロ金利解除)けど。で、もっと悪化させたんだろ。判断ミスで、もっと危篤状態に陥らせたんですよ、日銀は。こんな医者がいたら罰せられるよ、普通は。犯罪だろ?なのに、日銀は何の責任も負わないのさ。


イカン、初めは怒ってはいけないと思い、普通に書こうとしていたのですが、段々怒りがこみ上げてきた。スミマセン。
気を取り直して・・・・4番目ですが、「創造的な過程」という意図が判りませんね。何なんでしょ?これは。皆で話し合うから?答えを作るっていう意味で?それとも、新たな枠組みを作るとか?(そんなに簡単ではないですよね。違うな、これは)

最後の「政府とは特別協議しない」というのは、まあ普通の答えですね。決定会合の意義と独立性というものを重視する、ということでしょう。そりゃまあそうだろうな、と。本当に信頼に値するのか?日銀は。非常に心配。


小泉総理の答弁をもう一度よく考えてみるべきです。一般国民としては、日銀にはまだ良識が残されているはずだ、と信じるしかありません。



お金と幸せ

2006年03月06日 19時48分02秒 | 俺のそれ
幸せに関する面白い記事が出ていた。ナルホド、と思う部分がたくさんあった。
お金では幸せになれない- nikkeibp.jp - from Forbes.com

(以下は引用部分に『』を付けています)


―『ある国が十分に裕福になると、それ以上経済成長を続けても国民の幸福感は増さないと思われる』

金言かもしれない(笑)。今ある状態が、「とても幸せなんだ」ということを感じられないと、いくら経済的に豊かになっていっても「オレは不幸なんだ!」という地獄からは抜け出せない。「モテない」「金ない」「希望ない」という、流行りの「下流」「格差」・・・これ系列の「不幸言説」を超えることが出来ない。幸せはごくごく身近に、そして自分の中に見出せるはず。何かを(例えば”自分”を)向上させる意欲とは別のものだと思う。目標とか達成感というものは、(多少の影響はあるかもしれないが)幸福感とは違うと思う。


また変な例ですけれど、時節柄、受験シーズンですので、次のようなものが思い浮かびます。
・希望(第一志望)の学校に落ちたら、不幸なのか?
・大学を幾つか受けて、どれかに合格すると幸福なのか?

どちらも微妙だと思いますが、個人差もあれば、考え方にもよりますので、一概には言えないですよね。幸福感と達成の度合いはちょっと異なるのかな、と思いますね。どちらも考え方ひとつでしょうね。


―『経済学者のアドバイスにはつかみどころがないものが多い。例えば、「結婚している人は独身の人よりずっと幸福感が強い」という。では、すぐにでも結婚すべきなのだろうか(婚約者の姉の亭主が失業中なら申し分ない)。いや、慌てることはない。もう一歩踏み込んだ調査から、因果関係は一方通行ではないことが分かっている。幸福な人は配偶者を見つけやすいが、落ち込んでいる人はそう簡単には配偶者を見つけられないのだ。さらに、これは驚くことでもないが、嬉々として結婚を解消する人もいれば、見る影もなくやつれる人もいる。』


因果関係は一方通行ではない、ということで、「こうすれば幸福になる」なんていうものでもないんでしょうね。これは日常の実感と合致しているように思います。で、「落ち込んでいる人はそう簡単には配偶者を見つけられない」というのは、所謂「非モテ」論議の核心に迫っているかも?(笑)「幸福な人」というのは、多分気力も充実しており、ハツラツとした感じになるのかも。顔をしっかりと上げて、考え方も前向きになるように思えます。
一方「落ち込んでいる人」の場合には、顔や肩はうなだれて、俯きがちで、暗い印象を与えるかも。他人を恨んだり、人のせいにしたりすることもあったりして、評価が下がってしまうような言動に結びつきやすい(?)のかな。そうであれば、パートナーを見つけるのが難しくなりそう。と言うよりもむしろ、異性から見て全然魅力的には思えないので、「お断り」されやすいかな?


「結婚すべきなのだろうか。いや慌てることはない」ですから、当然結婚しないと幸福になれない、っていう訳じゃない。多くの独身の方々に朗報ですね(笑、ある意味当たり前か)。モテる為には、非常に単純に言えば「オレってハッピィだぜ、ベイべ~。イエーイ!」というタイプの方がいい、ということになりますね。


―『「君に無いもののことより、有るもののことを考えなさい。物質的なこともあれば、人間関係や自分の長所などもあるだろう。経済学用語で表現すれば、君にとって競争優位ではない事柄を是正しようとしてはいけない」
これは経済学者が語る精神論だ。だが、Oswald教授はその上を行く。落ち込んだときは単に待てばいいのではないか…「時間軸で見ると、幸福感には一種の『J字曲線』がある。30代は人生で最も不幸せを感じる時期で、それ以降は年ごとに幸福感が増す。人生は40代から再出発すると言ってもいいくらいだ」(Oswald教授)』


ふむむむ、「競争優位ではない事柄を是正しようとしてはいけない」というのは、勉強になりますね。苦手教科は適度に捨てることも必要だ、ということですね(違うか、笑)。平たく言えば、「野球の才能がないのにプロ野球選手になれないことを悔やんでもしょうがないので、競争優位なサッカーの才能を強化することだけを考える方がよい」というようなことですね。それぞれに個性があるので、何が「競争優位」なのかは不明ですね。でも、きっと何か「取り得」があるはずで、それを磨くことが大事だ、ということでしょう。場合によっては親の経済力というのも入るかもしれないが、「格差だ、不平等だ」と「無いもの」のことをいくら考えてもしょうがないんですよ(笑)。そんなものよりも、貧乏なら貧乏特有の「ハングリー精神」(笑)という、自分に「有るもの」を活かす方がよいのでしょうね。当たり前だと思うけど。


で、幸福感は「Jカーブ」なんですって!そうか、「40代から幸せになれる、人生のヒミツ」とかって本を出せば、きっと売れまくりかもしれないな(爆)。私は今年で満40歳ですので、まさにこれですね。私の「幸せ曲線」は、どんどん上がっていくわけです。素晴らしい!私の今後も、「Rising Sun」状態、「日の出の勢い」ってやつですか?そう思うと、何だか幸せ度がアップしてきた感じがします。今までも十分幸福でしたけど。

まあ、今年の流行語に「ライジング」を押していますからね、わたくし。自分も「ライジング」で行きたいと思います(笑)。


―『ともかくこの調査から、誰か(上司を除く)と付き合うのは楽しく、なかでもセックスが最高であることがはっきりした。これが結論としての実践的アドバイスだ。だが上司と性的な関係にあるとしたら?…経済学者は、語り得ないことについては沈黙しなければならない。』


最後のオチは、これだった。「誰かと付き合うのは楽しい」だ。稀には「独りでいるのが最も楽しい、幸せ」と感じる人もいるだろうが、大抵は他の誰かと一緒に何かしたいのだ。これは、人間の社会性という本能的な部分なのではなかろうか、とも思える。みんな孤独が最も好きだったら、社会的な動物にはなれなかったんじゃないかと思うし。人との繋がり、これを求めるのは、きっとそれが「幸福」に繋がっていると何となく感じるからで、それが「生存確率」を上げる方法だったのだと思う。元来「幸福」に感じるようにプログラミングされている、とも言えるかな。長い年月をかけて獲得されたのは、脳に「幸福と思わせる」というある種のアルゴリズムであるのかもしれない。その結果が、「誰かと付き合うと楽しい」という感覚・現象ということだ。脳科学者たちは、どう考えるだろうか。


経済学者たちは、色々な「効用関数」を用いて説明をしたり、或いは「損失関数」という考えをも生み出してきた。前にちょっと書いたベッカー理論(参考記事)の「出産」みたいなもんですね。しかし、人間の「幸福関数」には、そう簡単には辿り着けていない(?だろう)。これを「関数」とすることに意味があるかどうかは別として、ひょっとすると将来には「幸福関数」が定義できるかもしれないですね。まずは経済学的な研究から、そして最後には・・・心理的・脳科学的な定量化?とか、脳内物質の数値的計測などによって、個人の「幸せ」さえもが測定されてしまう・・・。ちょっとイヤな気もしますけど。


「幸福関数」は永遠に知りたくない関数であるかもしれません。「家族への愛情」と「仕事への興味」などが、リアルに測定されてしまった場合に、自己内部の人格的な問題が発生してしまうかもしれませんし(笑)。経済学者たちにはそれなりに頑張ってもらっていいと思いますが、願わくは、「(社会的に)マクロな幸福関数」と他の効用・損失関数との比較などという程度にしておいて欲しいですね(笑)。



経験則を笑う

2006年03月05日 19時35分07秒 | 俺のそれ
今、竹内薫著『99.9%は仮説』が結構流行ってるらしい。13万部だそうです。へ~。今まで全然知らなかったです。
科学に対する見方とか、考え方の勉強になるかもしれませんね。「科学とは何か」ということは何だか難しい問題のようです。論争してみてもしょうがない(笑)ような話ではないのかな、と思ったりします。


科学じゃないが、「経験則は侮れない」ということを前に書いた(参考記事)。天体観測というのは、凄いんだぞ、とも。
恐らくこういうものに対しても「そんなのは科学的じゃない」「トンデモだ」といったような御意見もあるだろうと思う。通常の考え方としては、昔の人々よりも今の自分の方がはるかに賢い、と思っている学者とかはいると思う。過去の知識を自分のものとして利用できるし、間違いとか新たな理論なども昔の人より自分の方がよく知っている(=昔の人間は科学を何も知らない)、と考えると思う。


だが、大昔の人々の中にだって、一万人に1人とか百万人に1人とかの稀なレベルで、所謂「天才」というような人が誕生したであろうと思う。人類史上で見れば、頭のいい人は必ずいて、それは現代の天才の数より少ないとも言えないんじゃないのかな、と。そういう人々が「どのように考えようとしたのか」ということを推測してみたいし、少なくとも今の私よりもはるかに難しいことも考えられたのではないかと思いますね。大昔の天才たちが残した「知識・知恵」とは何であるか、それはどうして残されたのか、ということが気になるのです。


天才たちは、自分以外の平凡な人々―要するに、大半は「バカ」―に、理解させ、自分が持ちえた知識・知恵を残していかねばならなかったのです。特別な記録方法がなかったかもしれないしね。口述だけで説明をして、それを憶えこませなければならなかったかもしれないし。今の学生に授業で教えるのと訳が違いますね。知識継承の「困難さ」のレベルも全く違うのです。それが後年に残されている、ということは、「特別な意味」があったのではないかな、と考えることはむしろ自然ではないか、と思えます。自分の能力が過去の人類の誰よりも優れている、という自信に満ち溢れるような人は、「昔の連中が言うことなんて、非科学的なトンデモさ」とか考えるのかもしれませんけれども。


たとえば、マヤ文明の人々が正確な暦を作っていたことはよく知られています。当時の世界最高水準であり、グレゴリオ暦よりも正確です。現代のような正確な観測装置も何も無かったのに、修正を繰り返して、天体観測から正確な暦を作ったのです。1年で17秒程度の誤差と言われています。金星の周期なども驚くほど正確であったそうです。地球の外周距離もかなり正確に出していたとか。どういう方法か判りませんが、そういう知識を伝承していったのでしょう。数学の発達にも関係あるでしょう。少なくとも、私よりもマヤ文明の人々の方が天体観測や時間計測に関しては、はるかに優れていると思います。私には彼らを上回れるような、良い計測方法を自力では思いつきそうにもありません。


ですから、長年に渡る人類の「知恵の蓄積」というものには、侮り難いものがある、と思っています。これら全てを科学的に説明出来るものではありません。疫学的な意味があるかどうか、統計的な意味があるかどうか、などということも知らないです。ただ、個人的印象としてはそう感じるのです。誰かが言っていることや既に知られていることを憶えたり知識として取り入れたりするのは、単なる訓練に過ぎないように思います。しかし、何も無い所から考える、ということは、きっと難しいと思いますね。それでも、先人の経験則の積み重ねを利用して、次の人達がまた考えたのだろうと思いますけど。あくまで経験則に過ぎないのですが。


そういう訳で、昔の人々の知恵を「そんなの科学じゃない。トンデモだ」と言い切れる人というのは、きっと相当に優れた能力を持つ人なんだろうなー、と思いますね。それ以上のことを自力で考え出す、自信と才能を有しているんだなー、って。羨ましい限りですね。



日銀のphilosophy

2006年03月04日 23時53分39秒 | 経済関連
いよいよ日銀も本気モードのようです。漏れ出る情報の多くは「解除」に向けた報道になっています。
うーむむむ・・・・う。

FujiSankei Business i.(2006/3/4)


昨年の福井総裁の「莢雑物発言」(参考記事)の意図がよーく判りました。周囲の雑音は全て抹殺する、ということです。決して邪魔立てはさせない、ということですね。


前にも書いたように(参考記事)、当たり前と言ってしまえばそうなのですが、日銀は普通に考えられている経済学上の論争は大体網羅している、ということです。まあ、専門にやっているプロ集団ですので、それは当然ではありますが。なので、CPI の上方バイアス問題についても、前世紀の時点で色々とあった訳ですね。例のボスキンレポートですが、これを受けてOECDでも話し合われたりするなど、日本以外の国々でも「指標の問題」というのがちょっとしたブーム(笑)になっていたみたいです。


で、日銀は総務省に文句(笑)を言ったんですね(総務省統計局)。でも、統計局では「米国とは違うし、ちゃんとやってるよ」と説明したものの、2000年の改定前には指標の中身を手直してみたんですよね、多分。それに経済企画庁時代でも、物価局?だかで指標が検討されていましたしね。なので、昔に比べて今の指標のバイアス幅は小さくなっている、ということを日銀は考えていると思います。昔の時点で、ボスキンレポートで指摘していた1.1%という水準ではなくて、日本ではバイアスがあっても約0.5~1%程度ではないか、と考えられていたようです。現時点ではそれよりも小さくなっていると推測され、概ね0.5%以下という認識ではないかな?と。


指標問題というのは、GDP統計についても同様にあって、パーシェ指数による下落効果(参考記事1)ということはかなり以前に指摘していた。一昨年だったかに内閣府が統計改革に伴い、計算し直していましたね。これは指標のテクニカルな問題なのでしょう。


そういう訳で、日銀に対しては、専門的な問題提起というのものが有効に作用するということは期待し難いのですね。しかし、日銀には弱点もあって、それは非常に「打たれ弱い」ということですね(笑)。批判の集中砲火には滅法弱い、という印象です。なので、国民世論や政治的な包囲網には配慮せざるを得ないと思います。言ってみれば「そもそも論」的な論点でないと、個別のテクニカルな話題では必ず「言い訳」してきますね。そういう理論武装というのは、結構「積み上げ」が出来ているように思います。それは、日銀にあれこれ指摘する人々が後を絶たないからですね(笑)。国内ばかりではなくて、海外からもそういう意見が多いのですから(その原因は日銀にあることは明白であると思いますけれども)。


最も根本の問題というか、philosophyの部分ですけれども、日銀には何か独特のものがあるのだと思います。そうでなければ、ここまで頑迷な態度を維持することが出来ないと思いますね。これを続けることの方が、はるかに労力が大きいですね。でも、日銀では多大なコストを払ってまで、「伝統的なphilosophy」を守り抜こうとするのです。それは一体何なのか?その正体とは何か?これが真の謎なのです。
「教えてにちぎん!」でもいいので、是非とも教えて欲しいですね(笑)。


もう一度、日銀の存在意義について考えるべきです。何の為に存在が許されるのか。誰の為にあるのか。何を達成することが目的なのか。そういう部分で日銀の再考を促したいと思いますね。これが理解できなければ、必ずや同じ批判にさらされるでしょう。同じ過ちを繰り返すのです。



日銀「2・23事件」(追記後)

2006年03月03日 21時30分47秒 | 経済関連
今日は3月3日のひな祭りですが(特に何も関係ないのですが)、あの日を境に戦況が大きく変わりました。「2・23事件」と勝手に呼ばせてもらいますが、先月23日に行われた参院予算委員会での福井総裁発言の一件で、状況が一気に傾いてしまいました。札割れ事件といい、局長発言といい、全ては用意されていました。材料が出揃った訳ですね。それを背景にして、日銀はどうしても突っ走りたいということだそうです。今日の新聞各紙にも「3月解除説」までが飛び交っています。市場参加者達の狼狽(笑、失礼、笑ったりしてはいけないですよね)をよそに、政府筋の反撃の弱さを見るや否や日銀派は勢いづいています。で、今日のCPI発表、0.5%と涙ぐましい数字ですが、表面上は連続でプラスを達成です。皆分っていたことですけれども。

NIKKEI NET 経済ニュース


(記事より一部抜粋)

日銀は8、9日の次回金融政策決定会合で、今回の消費者物価の内容も含めて経済・物価情勢を詳細に分析。政府の姿勢も勘案しながら、解除後に打ち出す先行きの金融政策運営の「目安」についても具体化を進める。政策決定は各政策委員の合議制のため、メンバーのそれぞれの意見を聞き、総意を集約できれば会合2日目の9日に議長である福井俊彦総裁から解除を提案する可能性を探りたい考えだ。




日銀の強硬派達は、今の状況であれば「突破できる」と踏んでいるようです。このままでは、本当に2000年の二の舞です。後は政府からの強力な政治力に期待するしかありません。「政策協調」という大義名分は、日銀を踏み止まらせる唯一の理由となるかもしれません。ここで何とか、ライジングチーム(「ライジング・タイド・ポリシー」を掲げる竹中・中川一派)の抵抗をお頼みするしか手がありません。小泉総理も「まだ早いんじゃないか」というコメントで微妙に”抵抗”してくれていますけれど。それでも日銀は本気で解除に踏み切る可能性があります。今のような状況の解除では、日銀の金融政策への不透明感は強く、国債金利も乱高下(いや、暴騰)してしまうと思いますね。


アメリカでの目標インフレ率(非公開)は2%ですよ。欧州銀でも0~2%程度と言われています。どうして日本だけが1%未満なんですか?これは明らかにオカシイんですよ。インフレ・ターゲットを採用していないアメリカでの金融政策は、日銀の言う「オーソドックス・スタイル」ですけれども、インフレ率をマイルドに設定しています。それはデフレに陥ってしまうとコントロールが甚だ困難なのであり、現実世界で価格粘着性がある以上、完全な価格伸縮性をモデルの基本とする理論世界と同じではないのですから。それ故、インフレを選択しているんですから。


日銀がそれほどまでに頑なな姿勢を通すのは、何故ですか?その百万分の一でもいいですから、デフレ脱却の姿勢に使って欲しいもんです。「強い姿勢」を示すべき場所が全く違うんですって。「絶対にデフレを止める、ジッチャンの名に賭けて!」じゃなくて、「日銀の名誉に賭けて!」くらい頑張れば良かったんですよ。どうして意地を張る方向がこれ程までに全然違うのだろうか?


量的緩和解除の影響は、金利上昇とそれに伴う円高に跳ね返ってきている。折角昨年円安が進んで、偶然というか「不幸中の幸い」にしてデフレ脱却への補助的効果をもたらしたのに。今円高に逆戻りすると、価格下支え要因が剥落する可能性があるぞ。今の物価上昇の背景は、「原油高+円安」効果によるものだ。為替要因を無くせば、再び逆戻りの可能性も否定出来ない。いつも日銀が言ってるじゃないか。(インフレターゲット採用は)「それを選択すればメリットもあるが、”リスクもある”からできない」「副作用があるからできない」って。何で、「国債金利上昇+円高」というリスクを選択できるんだよ!これまでのデフレ期間中に国民経済が負担した「デフレを継続した時のコスト」の方が、「デフレ脱却に賭けるリスク(副作用)に伴うコスト」よりもはるかに大きかったぞ!


ゴメンね、財務省。疑ってしまったのだけれど、違ったかもしれない。日銀とは一緒ではなかったかも。変な嫌疑をかけてしまって、すまない。でもね、日銀と財務省の政策協調が一番重要なんですから。そのことの意味を一番よく知っているのは、きっと財務省でしょ?何てったって、金利上昇でモロに影響受けるもんね。一部の国債関係の担当の人達はビクビクしてるかも?よく知らないんですけど。参考までに次の資料を挙げておきたいと思います。財務省の中にもこういう人達がいたんだな、と思いました(河合氏は現在東大教授です)。


(以下の部分で追加してます)

黒田財務官、河合副財務官のFT投稿要旨


この中では、中国の人民元切り上げ問題などや円高シンドロームの中国版にも触れられているが、今回は無視ということで、別の部分だけクローズアップすることにします。それは以下の部分です(一部抜粋)。


「日米欧の中央銀行はデフレ防止のために穏健なインフレ目標に基づく積極果敢はリフレ、金融緩和の協調行動をとるべきである。この観点から禁じの米国の利下げはよいことであり、欧州もこれにならうべきである。これ以上の利下げ余地のない日本はとくに、3%程度のインフレを目指して長期国債等の継続的購入によるベースマネーの拡大に取り組むべきである。」


このように財務省の高級官僚が連名で述べるというのも珍しいことではないかな、と思いました。こんな話が昔あったとは知りませんでした。でも当時は、財務官として不適切とか何とか批判があったような気もします(異例、とか何とか。定かではありませんが。ミスター円の後釜であったことも災いしたのかな?)。



それからゼロ金利解除直前の2000年7月の時点で、日銀には次のような指摘があった。


・Meltzer(カーネギーメロン大)

「中央銀行は経済危機の局面においては国民経済を守るためにリスクを取るべきである、とバジョットは述べている。中央銀行は利潤最大化動機に基づかない固有の目的のもとで運営されており、決済システム等の公共財供給を行うほか、マクロ経済全体にかかるリスクを自ら吸収し、社会全体への影響を小さくする役割を担っており、日本銀行はリスクの低い政府短期証券のオペに限定することなく、もっと大胆にリスクを取るべきである。

実質通貨残高に対する超過需要状態にあり、これを解消するに必要な名目通貨供給拡大が行われなかったため、デフレにより実質通貨残高が増加するかたちで調整が行われており、依然としてデフレのリスクから脱出できていない。インフレとでデフレのいずれも回避して物価安定を実現することに向けて、デフレ脱却に必要な金融緩和政策を実行することが求められている。」


・Taylor(スタンフォード大)

「金融政策運営におけるGDPギャップの役割については、preemptiveな政策対応を行う上での有用な手掛りである。GDPギャップを測定するには潜在GDPの推計が必要であり、その推計値に計測誤差が存在する場合、GDPギャップに対する金融政策の反応係数を小さくするべきか、大きくするべきかについては見解が分かれるのは事実であるが、GDPギャップが金融政策運営において重要な情報であることは違いがない。

量的金融指標の代表であるM2+CDが3%程度の伸びに留まっているが、日本では正常な経済状態のもとでは7~8%の伸びになるはずであり、量的緩和は必要である。日銀が主張するマネタリー・ベース制御の困難さは理解でき、それゆえ外貨を買うべきであると考える。ゼロ金利解除の際には、新しい金融政策について将来における政策意図を明確に伝えることのできるような方法をとる必要がある。」


・Beebe(サンフランシスコ連邦準備銀行)

「長期的に見ても、企業のリストラと雇用不安、年金財政悪化、財政赤字等のマイナス要因が存在し、こうした状況においては追加的緩和政策のリスクやこれに伴うコストよりも、むしろ経済状況の悪化がもたらす社会的コストを重視するべきである。インフレ率の明示的な目標を示してその達成に向けて強くコミットすることが不確実性を低下させ、リスク・プレミアムの縮小を通じてむしろ長期金利の低下につながるのではないか。ゼロ金利の維持、国債買入オペ、円の一時的な減価からなる政策パッケージを表明し、1~2%のマイルドなインフレのもとでの持続的な経済成長の実現に強くコミットすることにより日本経済の先行き見通しを改善させることができる一方、その社会的コストは小さい。」


・Cargill(ネバダ大)

「1930年代における日本の経験は、マネタイゼーションによる量的金融緩和が少なくとも短期的には有効であることを示すものであり、財政規律喪失の悪影響を回避するためには、インフレーション・ターゲティングを導入すればよい」


・White(国際決済銀行)

「米国の大恐慌、ドイツのハイパー・インフレーション、日本のマネタイゼーションと、どの国も過去における政策失敗の経験を引きずり過ぎる傾向がある。中央銀行のバランスシートに与える影響を甘受してでも、国民の経済厚生を向上させることを優先することが、本来的な公共政策の役割である。」


これらの人々は一般的な理解としては、信頼性に厚く言説には一定の説得力があるはずである。しかし、これらの忠告などを無視して日銀はゼロ金利解除を強行してしまいました。この後は皆さんもご存知のように、泥沼のようなデフレが継続されたのです。それまでの時期(97~00年)よりもさらに粘着性の高い「ガンコなデフレ」へと変わって行きました。失業率も過去最悪の時期へ向かって突き進んでいったのです。この時にも日銀はデフレ脱却チャンスをむざむざと失い、自らの手で国民経済をどん底に突き落としたのです。まさにデフレ・スパイラルの只中に、多くの国民を放り込んだのです。多くの国民は、未曾有の荒れ狂う巨大な竜巻に弄ばれる小さな木の葉のように、長きにわたるデフレ・スパイラルによって振り回されたのですよ。


日銀はありとあらゆる不利を引き受けたとしても、国民経済を救済しなければならなかった。どんなに非難や悪口を受けようとも、「決死の覚悟」で経済厚生を優先させ、デフレ脱却を達成せねばならなかった。にもかかわらず、日銀のちっぽけな体面や、卑怯な責任逃れや、下らない意地のせいで、国民は”単年度分”のGDPで100兆円以上の損失を被ることとなったのだ(マクロ経済の闇に消えた利息収入の比ではないことは明らかである)。


過去の失敗を引きずるというよりも、「学習能力が欠如している」と言うべきかと思う。最も深刻なトラウマとなっているのは、90年頃の「バブル」というだけだろう。資産価格―特に株価―は金融政策の目標としては不適切である、と言われているじゃないか(笑)。


日銀の愚かな選択を回避させるように、財務省も頑張ってくれ。ライジングチームにも本当にお願いします。数年後には悪名高き「日銀2・23事件」とかって、バッシングされることになる(笑)でしょうから、これを回避するという意味でも日銀は「勇み足」を避けるべきです。



「日本の子どもはバカ」発言に見る失敗の典型例

2006年03月02日 15時17分42秒 | 教育問題
例の『国家の品格』の著者、藤原正彦先生は痛烈な批判をしたようですね。高校生の意識調査に関する報告で、今朝の読売新聞に出ていました。

勉強冷めた日本: YOMIURI ONLINE


以下に、YOMIURI ONLINEより一部抜粋





◆脱受験戦争の果て/努力の価値低下

 日本では長年、受験戦争や学歴至上主義からの脱却を図るべきだと言われてきた。その主張通りに社会が変わってきたとも受け取れる今回の調査結果に、逆に危機感を募らせる識者も少なくない。

 「国家の品格」の著者で数学者の藤原正彦さん(62)は、調査結果について、「一言で言えば、日本の子どもはバカだということではないか」と話した。将来に希望を持てない「希望格差社会」の問題を指摘する東京学芸大教授の山田昌弘さん(48)も「努力することに価値を見いださない傾向は労働意欲の低下につながり、少子高齢社会を支えられなくなる」と危惧(きぐ)する。

 なぜこうなったのか。藤原さんは「個性の尊重ばかりを唱え、子どもに苦しい思いをさせてはいけないという『子ども中心主義』が信奉されてきたこと」を第一の理由に挙げる。

 戦後の日本は高度経済成長を達成した反面、受験戦争の過熱やいじめといった社会問題を抱えた。1980年代には、中曽根内閣の臨時教育審議会が「学歴社会の弊害の是正」などを答申。これを受けて文科省はその後、「ゆとり教育」への転換を図り、経済界も、学歴に偏らない採用基準の多様化などを進めた。

 だが、2003年の国際学力調査で、日本は「読解力」が前回の8位から14位、「数学的応用力」は1位から6位に下がるなど低迷。子どもの学力不足がクローズアップされ、文科省は「ゆとり教育」の見直しを余儀なくされている。

 藤原さんは、こうした経緯に加え、「いつリストラされるか分からない不安定な今の社会で、『勉強してもしようがない』という気持ちが植え付けられてしまった」と指摘。山田さんも「勉強に希望を託せない社会システムに問題がある」と強調している。




このような内容で、いつもと同じく山田昌弘教授も担ぎ出されておりますね(笑)。
全体的なトーンとしては、「ゆとり教育のせいだ」的な感じも伝わってきます。本質的に「努力することには意味がある」というのは、私も賛成の立場ですしエリート教育も許容派ですが、今回のような結果となったのは「ゆとり教育のせい」ばかりとは思えませんね。

参考記事:教育を考える8


まず藤原先生がご指摘の「日本の子どもがバカ」ということは、もしもその通りであるなら確実に「親がバカ」ということです。そして、「教師もバカ」であり、そういうバカな大人たちによって教えられた子どもたちがバカになったに過ぎませんね。では、なぜ大人たちがバカであるのか。それは例えば大学教授のような、所謂知識階級の人間の多くがバカであったり、文部官僚たちが揃ってバカであったり、中教審の委員たちも同様にバカであった為ですね(笑)。非常に分かり易い。「バカの再生産ライン」を国を挙げて作り上げ、それによってバカな連中が世代を超えて量産されたに過ぎないのではないかと思います。バカな考え方の大半は、世代間での移転に過ぎないでしょうね。

なので、藤原先生が仰るように「子どもがバカ」であるとすれば、それを生み出す根本原因となった、ご自身たちの世代の大失敗を反省し、過ちの原因を作った自らの世代の愚かさを悔やむべきです。特に戦中・終戦直後あたりに生まれた世代の人々が、明治人などに比べればはるかにバカであった可能性が高いのかもしれませんね。特に団塊世代での大きな転換があったかもしれないですね。だから、彼らの子どもたちである団塊ジュニア世代以降では、色々と今言われるような問題が浮上したのではないかと思いますけど。


そういう世代の大人が持つ価値観や教育によって、次なる世代のバカを産み出していったのでしょう。小さな子は大人が教えない限り、自ら進んでバカを獲得しようとはしませんよ(笑)。逆に、親が教えた通りにしたり、学校で教わった通りにしようとはしますが。「子は親の鏡」とか、昔から言うではありませんか。バカになるような教育を小さいうちから施してきて、親や社会や学校での教育に失敗が多くて、手本になるべき大人たちが酷い有様では、子どもたちがそれに幻滅するのも仕方がないのでは、と思う。


結局、「生きる姿勢」というものを親が子どもに示すことが不十分であったかもしれず、その元を辿れば古い世代に遡っていくのである。自分たちが残した子孫というのは、何も無い所から生まれて来たりはしない。血も文化も引き継がれてきた結果が、今の子ども達だ。もしも教育に失敗したと思うなら、本当に悪いのは子どもたちではなくてむしろ私達大人なのだ。



続・所得格差が子供を下層階級にするのか

2006年03月01日 23時00分13秒 | 教育問題
前に書いた記事(に、datさん、kechackさん、nao_c/wさんからコメントを頂きまして、またちょっと考えてみました。また、「みそひともじの夢」さんからTB頂いたので、それにもお答えしたいと思います。


まず初めに、「格差」とか「不平等」なんていうものはそもそも存在するのであって、ご指摘を受けたようにそれを完全に無くすことなどできないんじゃないのか、それを殊更無くす必要性もないんじゃないのかな、というのが私の印象です。それに、地方と大都会に違いがあるのは普通で、それも受け入れられないということもないと思いますね。もしも格差が耐え難いものであるならば、人々が出て行ってしまい村や町が消滅していくだけですね。敢えてそこに住むということは、そこに自分達の生活基盤があり、何らかの幸せを見出しているからではなかろうかな、と。都会の人々を強制的に連れてきてまで、田舎に住めということも必要がないと思っています。住みたいところに自由に住めばいいと思いますね。


雇用問題から見てみると、仕事に就けない若者がたくさんいることは事実です。フリーターが企業側の都合によって使われているというのもそうでしょう。でも、企業側には一定の義務(社会保障負担や福利厚生などですね)を果たしてもらうべきですが、まさか全員を義務的に雇えとも言えないですよね。現状では「イス取りゲーム」のイスは限られているわけで、イスの数を増やせる方法を選択しない限り座れない人々が存在することは仕方がありませんね。一方では、イスがあったとしても不人気な仕事であれば敬遠されるし、「自分のやりたい仕事と違う」「給料が安すぎる」とか言うのであれば、他の人達や外国人労働者などにそのイスを奪われても仕方がありませんね。地方には全然仕事のないようなところも実際にあるだろうし、高卒に対する求人というのが全然来ないとかっていうこともあるかもしれません。これは解消が難しい問題であり、本人には責任はないわけですが、もしも家族の働き手が自分しかいない場合には、どんなに遠くであっても、昔の出稼ぎ労働者(今も存在するのかもしれませんが)のように働くしかないでしょう。自分の望まない仕事であろうが何だろうが、一家を食べさせる為には自分が働かねばならない、という気になると思いますね。必死になって「空いているイス」を探すのではないでしょうか。


教育・学歴の格差が色々言われたりしますが、仮に全員大卒まで義務教育にしたとして、その後に今と同じように就職を考えると、学歴なんて無関係に仕事に就けない人々が多分出てくると思いますね。全員が大卒なんですから。結局今と同じようなものなのではないかな、と。そこでの選別は同じ大卒であっても、「行った大学(ブランド)の違いだ」とか「親の職業の違いだ」とか(笑)、また新たな別の「格差」が考えられたりして、就職出来なかった理由として持ち出されるのではないでしょうか。高卒と大卒の違いで仕事に就けなかった、という理由がたとえ消滅したところで、他の不平等が浮上してくるだけでしょうね。


またいつもの変な空想で申し訳ないのですが、ある年の新卒の大学生がいるとしましょう。全国で全く均一に大学教育を受けて、職業教育も受けて、全員の能力が均等であるとしましょう。同じ学年の人々はみんな同じ学歴、能力です。すると、誰が就職して、誰が失業しても同じですね。つまり機械的に個々に仕事を割り当てていき、余った人達に失業とかニートとかの役割を与えるのです。クジでも何でもいいです。すると、「余らない」という方法を実行しない限り、誰かが必ずイスから滑り落ちてしまいます。仕事に就くことが出来た人達でも、大企業勤務とか、銀行員、官僚、弁護士とかの高給取りがいる一方で、その何倍かの中小企業勤務とか安い給料の仕事の人たちも当然存在しますね。全員、機会も教育も全て平等ですよね?でも、こういう結果は生まれてしまいます。教育が不平等だからとか、機会が不平等だからではありませんね。ある程度は仕方がないことなのではないでしょうか。


結局、一般に多くの人達がなりたいと考えている仕事は競争率が高いかもしれず、誰かがそのイスを獲って座ってしまえば、他の人達がそこに座れないのです。溢れた人達は、たとえ座りたくないかもしれないが別なイスに座るしかなく、それでも「座れる人はまだいい」とかってイスに座れない人達からは言われたりするんですね。女子アナのような人気の仕事であれば、2千人だか数千人に1人とかっていうレベルでの激しい競争ですし、他にも人気企業の就職には何十倍か何百倍か知りませんが、そういうレベルでイス取りゲームが繰り広げられるわけですね。そこに漏れてしまうのは、しょうがないんですよ。大多数が漏れるんですから。で、人気の高いイスから埋まっていき、段々残りのイスは減っていくし、人気がないイスとか自分の好みではないイスしか空いてない、ということになります。そこで「座れるから座ってみよう」と考えるか、信念を貫いて「自分の好みのイスを獲るまで待つ」かを選択することになります。立ったままでは足にもいずれ限界が訪れるかもしれないけれど。


フリーターになってしまうと、その後の就業に支障を来たす可能性も有り得ますが、これを不利とする企業ばかりではありません。フリーターから正規社員になっている人達も、割合は多いとは言えませんが存在します。「クジ運」のような違いなのでしょうか?実際のところがよく判らないのです。非正規雇用の問題というのは確かにありますが、不平等や格差のせいなのかというと、そうでもないようにも思えます。


以前から述べているように、個人の様々な違いがあることが、丁度うまくいくのではないかとしか思えず、それは多様性ということに裏打ちされると思います。それは価値観の違いなのではないのかな、とも言えます。不平等や格差に原因を求め続ける限り、それをたとえ解消できても次の不平等を生み出すということの繰り返しに過ぎないのであり、それらの完全解消などに大きな意味を見出すことにも疑問しか浮かんでこないのです。


民主党よ、サヨウナラ

2006年03月01日 01時49分05秒 | 政治って?
終わったな。本当に。
全国の注目を集めることができて良かったですね(笑)。本望ではないですか?注目されたかったんでしょ?自民党ばかり報道されていて、民主党も同じくらい報道してくれ、って言ってたからね。元々の狙い通りに、自民党に負けない注目とか取材をされましたから、目標達成ですね(爆)。


安倍ちゃんが幹事長の時に、自民党は参院選挙で敗北した。あれほど人気の高かった安倍ちゃんが幹事長で、総理は勿論同じ小泉さんだったでしょ?小泉-武部よりも人気が高そうではないですか。でも、民主党は躍進し、自民党は負けた。それは恐らく、年金問題で強力にプッシュできたからだ。国民の生活に直結する大問題だったからでしょ。下手な功名心よりも、中身のあるテーマであるなら、国民にもきちんと伝わるんです。変な色気をだしたり、イヤラシイ魂胆を持つのが悪いのですよ。


本気で年金問題を解決しようと思っているなら、「何としてもこじ開ける」という強い志を貫くべきでしょ?特別会計の問題に切り込むんであれば、自民党や諮問会議での議論を上回る「厳しさ」を見せるべきでしょ?民主党は特別会計から10兆円とか削減する、って言ってなかったか?政府案ではそういう厳しい予算案を提示していたのか?「本手」を目指すべきです。「奇手」は所詮奇手でしかありません。「奇手」は一度しか通用しない。有効な場合もあるが、強くはなれない。本当の強さには繋がらない。民主党のやっていることは、「奇手」を如何に出すか、どうやって「アッと言わせて、注目を集めるか」だけです。愚かの極みですね。


永田議員の問題というのは、そういう民主党の姿勢がボロっと出てしまったんですよ。
民主党は「不信」という大きな成果を得たことは間違いないでしょうね。