先日、大変興味深いコメントを頂戴しました。判りやすくて、ナルホド、と思いますが、一方では疑問もあったりして、何となく釈然としない感じもあります。ですので、記事に書くことにしました。お答えするのが遅くなりましたことをお詫び申し上げます。
所得格差が子供を下層階級にするのか
(コメントを以下に再掲)
学者によるこの話題の主な論点の概要は以下の通り。
・所得格差・生育環境が教育格差になること
・所得格差・生育環境による文化的な資本の習得の差(言語、知識、マナー、基本的技能、etc)が、各人のスタート地点の格差を生むこと(=公平のなかに隠された不平等競争)
・その階級の人として自明に習得されるべきとする文化資本が階級差別の根源の一つとなること(たとえば、経済的・地位的には上流と認められるが、その身なり、知識、マナーなどが達していないと認められないなど。)
別に学者は上流になるべきとか、下流は愚か者の集団だということを言いたいわけではない。単に、「平等」を謳う社会に潜む不平等を指摘しているだけ。結果的に能力の優劣・知識の多少が、「比較的」、階層分布の特徴としているだけで、その逆、「所属階層は能力の優劣・知識の多少によって決まる」としているわけではない。
至極簡単に言えば、「上流階級における文化資本の独占・寡占状況が、階級固定を促す要因となっている」という、むしろ上流階級批判とも言える。
(以下、「上流階級」「階級(階層)固定」などの言葉を使うこととします。このような言葉は、私にはちょっと受け入れ難い面があり、本意ではありませんけれども、一般的な理解としてその通りに使うこととします。)
初めに思うことは、「格差」を取り立てて社会問題視するほどの事柄であるかどうか、ということです。そして、そのような格差を公的にどの程度是正するべきか、ということです。最近の「格差問題」というのは、社会的に大きな障害というより気分的なものが多いような気がするし、メディアなどでの取り上げられ方も単なる煽りでしかないような面が多いと感じます。
文化資本の格差ですけれども、これは今に始まったことではないですし、昔からのことではないかと思えます。非常に大雑把に言えば、貴族的な特権によって文化資本の寡占状態はあっただろうし、それによって上流階級が身につけるべきマナーなどは下々の者には備わっていなかったということは、いつの時代にも見られたのではないでしょうか。それが、現代社会では「是正すべき大問題」であり、全国民が同じように上流階級のお作法を備えるべき、というのは、無理な話ではないかと思えます。
現在の上流階級と目されるような人々は、主に戦中・戦後における経済的成功者たちが多いのではないかと推測しています。もっと昔からの殿様たちとか華族たちだけが日本の中枢にいて、文化資本を独占したりはしていないと思えます。勿論、国会議員たちは世襲は多いですが、それでも少数派になりつつあります。階級を超えて成功した人たちがいなかったか、と言えば、逆で成り上がっていった人たちはそれなりに存在してきたと思えます。
最近では、所謂「IT長者」などともてはやされた人々がそうではないでしょうか。代表的なのはまさしく「ホリエモン」でしょう。一般的には、その経済的成功に多くの人々の羨望を集めていると思えます。彼らが歴史ある家柄の出身者で多数占められていれば、「文化資本寡占」の申し子と言えるかもしれませんが、おそらく違うと推測しています。また、戦後に成長を遂げた大手企業の多くは-例えばトヨタ、ホンダやソニーなどですね-「成り上がり」で成功したようなものではないでしょうか。それまでの華族や財閥の強力な階級制度によって成功できた訳ではない、と思います。むしろ、名もなき下層階級者として、下から上へと上がっていったのではないかと思えます。
もうちょっと古くは、三菱グループという、ある意味「国家的企業群」がありますが(国の仕事をたくさん受け持ってきたということで)、創業者の岩崎弥太郎氏は名家の大名などではなく、今で言えば公務員の一人みたいなものだと思いますけれども、明治維新に乗じて成り上がっていったようなものではないかと思えます(言葉が悪くてごめんなさい。悪い意味ではないです)。要するにいつの時代にも、成功者たちは存在しており、それらの人々は上流階級の人間たちばかりであったかと言えば、そうとも言えないのではないのかな、ということです。明治維新によって新たに華族となったりして、結局「成り上がった者」だってたくさんいただろうし、それ以後の歴史といってもせいぜいが3代程度に過ぎないと思います。で、全部がその成功を土台にして、現在も貴族みたいな上流階級の生活を楽しんでいるのかと言えば、案外そうでもないこともあると思います。
現代に旧制を打破するような革命的な出来事がどれほどあるかと言えば、これは確かに、あまり期待できそうにないと思います。明治維新や終戦に匹敵するような社会体制の大変革は訪れない、ということです。そうなると、一発逆転で成り上がるということは難しくなるということも有り得ると思いますが、わざわざ破壊をもたらさなくても、現代でも特別な成功を収めている人々は少なくありません。分かり易い例は、スポーツ選手ですね。そういう何かの分野で努力すれば成功を収められる可能性はたくさんあるのです。IT長者だってそうですよね。或いは、株取引もそうかもしれません。そういうことを目指したい人はチャレンジすればよいわけで、この競争に敗れたからと言って、格差のせいであるとは思えないのですね。
そもそも文化資本というものの価値観について言えば、経済的な面ばかりが重要視されて取り上げられがちですが、本当に上流階級の有している文化だけが価値が高いのでしょうか?例えば歌舞伎役者たちは厳しい階級制度が守られており、その階級を乗り越えることはできないでしょう。茶道だって家元は永遠に家元であって、その階級を塗り替えることはできないと思います。伝統文化の多くは、ある種の「頑なさ」によって守られている面があるかもしれないですね。それは、生まれた家で決まってしまうという、特有の文化です。農家に生まれた人が農家を継ぐことは、階級固定なのでしょうか?所謂「上流階級の文化」と呼ばれるような文化は有していないかもしれないが、特有の文化は酪農家にだって存在します。
上流階級では金持ちなので、美術品をよく購入したり、バイオリンを習ったりしているとしましょう。絵画の鑑賞には確かにお金もかかるかもしれないですし、購入などということになればそれはもっと大変ですよね。一般庶民の家では、滅多に絵画鑑賞なんてしないし、美術館に出かけていったり、購入したりもしないとしましょう。そういう「文化資本を有していない」、と。お役人たちは田舎にも「文化資本を整備しよう」という名目で(本当は貪るためだろうと思うけど)、税金を大量投入して美術館を建設したりする訳ですが、実際に誰も来ないような美術館となってしまうわけです。一般庶民には金を払ってまで「美術館に鑑賞に行く」という文化が、あまり根付いていないからなのかもしれませんが、当然の如く不採算事業となってしまう訳ですね(笑)。これを仮に無料化したとしても、やっぱり利用者数は少ないかもしれないですよね。それまでの生育環境が、「美術館へ行く」という環境ではなかったので、そういう文化が身についていないかもしれないですから。
もっと全国民が「上流階級の文化」をマネしていくべきだ、ということであれば、生育環境を全員同じレベルにしなければ、差異が生ずることになると思います。バイオリンにしても、上流階級では習えるが貧乏人は金がないので習えないのはオカシイってことであれば、全員が無料で習えるような体制にしなければならないことになってしまいます。貧乏な家庭では本が買えないので、本を読むという文化が根付いていないと仮定しましょう。そういう本を読まない家庭に育つと、子どもがあまり本を読まなくなる、ということがあるかもしれません。ここに格差がある、ということですね。でも、学校や自治体には図書館があるし、金のない人でも読めることになっています。貧乏人は家庭で教育しないから読まないのだ、ということであれば、そういう学校や自治体の図書館を利用するように教えればよいのではないかと思います。それでも読まないのであれば、単なる個人の自由ではないかと思えます。
親の世代やもっと古い世代からの資本を受け継ぐことで、個人の「出発点」が異なることに問題がある、ということであれば、個人遺産は定額のみの相続に変えて、それ以外は全て没収、ということにせざるを得ないでしょう。もしもそのような相続制度に変われば、寄附が増やせるかもしれませんし。しかし、現実にこのようなことが可能でしょうか?また、そんなことをしたところで、どれほどの意味があるでしょうか?家庭内での文化を放棄して、それぞれが同じ文化となることに果たして意味があるでしょうか?こうした根本的疑問があります。そこまでの「平等」を実現することは、本当に必要なのでしょうか?
所得の多い家庭ではそれなりの文化があると思いますし、教育や習い事などでも貧乏な家庭に比べれば有利なことが多いと思いますね。しかし、貧乏な家庭の子だって、野球が上手になりプロになるかもしれないし、苦学の末、国公立大学に行って弁護士になるかもしれないですよね。「身分制度の為に、オマエは野球選手になってはならん」とか「オマエの生まれが貧しいので、医者にはなれん」とか、そういうルールでもあるのであれば別ですが、全然そんなことはありません。能力があって、努力し、チャンスを掴めるなら、きっと可能であると思います。それでいいのではないか、と思うのです。
貧乏人と金持ちの入れ替わりの映画などが昔からありますが、上流階級の人々が庶民の意外な文化に驚き新鮮に感じることだってあるではありませんか(笑)。金持ちたちの「失っていたもの」に気付くことだってありますよ。貧乏な家庭にはそれなりの不思議な文化があって、ろくでもない場合もありますが、ユニークで味わいのある文化だって存在すると思っています。手打ちソバの店をやっている家に生まれたら、代々その手打ちソバの文化を引き継いでいたりすることもあるかもしれません。ひょっとするとそこの子は学校の勉強はそれほどできないかもしれないし、上流階級のような生活は望むべくもないかもしれないですが、そのソバ職人の家庭が「不幸せ」だなんて、私には思えませんね。上流階級の人々に比べて、そのソバ職人が下層階級だなんてことも、到底考えられませんね。
一般に、世の中で喧伝される「成功者」「上流階級」と目される人々というのは、周囲がそれを大袈裟に羨んだりしているだけではないかと思います(煽り立てているとも言えるかもしれません)。しかも目立つのは単なる「成り上がり」という層が多いのではないでしょうか。社会全体がそういう価値観ばかりを偏重する、ということをやめれば済むことではないかと思えます。まさに「拝金主義」の一派としか思えない面がありますね。また、「差異が存在する」ということは、学問的に指摘するまでもなく、今に始まったことなどではないですよね?学者さんたちが「不平等が存在する」ということを、取り立てて世の中の人々に訴えなくても知られていると思いますけど。改善されるべきは、「不当な」不公平であって、全ての平等の達成なんかではないと思います。むしろ、失敗・敗北した人や現状に不満を抱く人たちの逃げ口上というか、「格差のせいだ」的な理由に使われてしまっているだけなんじゃないか、とも思えます。
金持ち=上流階級=文化資本の独占、という、これもある種の「特定の価値観」に囚われているとしか思えません。別に金持ちなんかじゃなくても、人の羨むような職業なんかではなくても、人にはそれぞれの生き方・幸せがあります。とある小さな島にずーっと暮らして、先祖代々引き継いだ文化を守って生きる人がいてもいいと思います。その文化は、イマドキの「上流階級」なんかよりも価値の高い文化であると思えます。島に残って生活するか、島を出て何かにチャレンジするかは、本人の自由です。「抜け出したい」とひたすら願う人もいるかもしれず、そういう人が「自由意志」で島を出られるような社会であれば、機会は与えられていると思います。島の外の情報が与えられないとか、島を出るという選択ができないような社会環境なのであれば、改善されるべきでありましょう。ただ、今の時代でそのようなことは考え難いと思いますけれども。
希望格差というのは、それこそ大人たちの下らない価値観に毒された子どもたちの成れの果てなんだろうと思います。
所得格差が子供を下層階級にするのか
(コメントを以下に再掲)
学者によるこの話題の主な論点の概要は以下の通り。
・所得格差・生育環境が教育格差になること
・所得格差・生育環境による文化的な資本の習得の差(言語、知識、マナー、基本的技能、etc)が、各人のスタート地点の格差を生むこと(=公平のなかに隠された不平等競争)
・その階級の人として自明に習得されるべきとする文化資本が階級差別の根源の一つとなること(たとえば、経済的・地位的には上流と認められるが、その身なり、知識、マナーなどが達していないと認められないなど。)
別に学者は上流になるべきとか、下流は愚か者の集団だということを言いたいわけではない。単に、「平等」を謳う社会に潜む不平等を指摘しているだけ。結果的に能力の優劣・知識の多少が、「比較的」、階層分布の特徴としているだけで、その逆、「所属階層は能力の優劣・知識の多少によって決まる」としているわけではない。
至極簡単に言えば、「上流階級における文化資本の独占・寡占状況が、階級固定を促す要因となっている」という、むしろ上流階級批判とも言える。
(以下、「上流階級」「階級(階層)固定」などの言葉を使うこととします。このような言葉は、私にはちょっと受け入れ難い面があり、本意ではありませんけれども、一般的な理解としてその通りに使うこととします。)
初めに思うことは、「格差」を取り立てて社会問題視するほどの事柄であるかどうか、ということです。そして、そのような格差を公的にどの程度是正するべきか、ということです。最近の「格差問題」というのは、社会的に大きな障害というより気分的なものが多いような気がするし、メディアなどでの取り上げられ方も単なる煽りでしかないような面が多いと感じます。
文化資本の格差ですけれども、これは今に始まったことではないですし、昔からのことではないかと思えます。非常に大雑把に言えば、貴族的な特権によって文化資本の寡占状態はあっただろうし、それによって上流階級が身につけるべきマナーなどは下々の者には備わっていなかったということは、いつの時代にも見られたのではないでしょうか。それが、現代社会では「是正すべき大問題」であり、全国民が同じように上流階級のお作法を備えるべき、というのは、無理な話ではないかと思えます。
現在の上流階級と目されるような人々は、主に戦中・戦後における経済的成功者たちが多いのではないかと推測しています。もっと昔からの殿様たちとか華族たちだけが日本の中枢にいて、文化資本を独占したりはしていないと思えます。勿論、国会議員たちは世襲は多いですが、それでも少数派になりつつあります。階級を超えて成功した人たちがいなかったか、と言えば、逆で成り上がっていった人たちはそれなりに存在してきたと思えます。
最近では、所謂「IT長者」などともてはやされた人々がそうではないでしょうか。代表的なのはまさしく「ホリエモン」でしょう。一般的には、その経済的成功に多くの人々の羨望を集めていると思えます。彼らが歴史ある家柄の出身者で多数占められていれば、「文化資本寡占」の申し子と言えるかもしれませんが、おそらく違うと推測しています。また、戦後に成長を遂げた大手企業の多くは-例えばトヨタ、ホンダやソニーなどですね-「成り上がり」で成功したようなものではないでしょうか。それまでの華族や財閥の強力な階級制度によって成功できた訳ではない、と思います。むしろ、名もなき下層階級者として、下から上へと上がっていったのではないかと思えます。
もうちょっと古くは、三菱グループという、ある意味「国家的企業群」がありますが(国の仕事をたくさん受け持ってきたということで)、創業者の岩崎弥太郎氏は名家の大名などではなく、今で言えば公務員の一人みたいなものだと思いますけれども、明治維新に乗じて成り上がっていったようなものではないかと思えます(言葉が悪くてごめんなさい。悪い意味ではないです)。要するにいつの時代にも、成功者たちは存在しており、それらの人々は上流階級の人間たちばかりであったかと言えば、そうとも言えないのではないのかな、ということです。明治維新によって新たに華族となったりして、結局「成り上がった者」だってたくさんいただろうし、それ以後の歴史といってもせいぜいが3代程度に過ぎないと思います。で、全部がその成功を土台にして、現在も貴族みたいな上流階級の生活を楽しんでいるのかと言えば、案外そうでもないこともあると思います。
現代に旧制を打破するような革命的な出来事がどれほどあるかと言えば、これは確かに、あまり期待できそうにないと思います。明治維新や終戦に匹敵するような社会体制の大変革は訪れない、ということです。そうなると、一発逆転で成り上がるということは難しくなるということも有り得ると思いますが、わざわざ破壊をもたらさなくても、現代でも特別な成功を収めている人々は少なくありません。分かり易い例は、スポーツ選手ですね。そういう何かの分野で努力すれば成功を収められる可能性はたくさんあるのです。IT長者だってそうですよね。或いは、株取引もそうかもしれません。そういうことを目指したい人はチャレンジすればよいわけで、この競争に敗れたからと言って、格差のせいであるとは思えないのですね。
そもそも文化資本というものの価値観について言えば、経済的な面ばかりが重要視されて取り上げられがちですが、本当に上流階級の有している文化だけが価値が高いのでしょうか?例えば歌舞伎役者たちは厳しい階級制度が守られており、その階級を乗り越えることはできないでしょう。茶道だって家元は永遠に家元であって、その階級を塗り替えることはできないと思います。伝統文化の多くは、ある種の「頑なさ」によって守られている面があるかもしれないですね。それは、生まれた家で決まってしまうという、特有の文化です。農家に生まれた人が農家を継ぐことは、階級固定なのでしょうか?所謂「上流階級の文化」と呼ばれるような文化は有していないかもしれないが、特有の文化は酪農家にだって存在します。
上流階級では金持ちなので、美術品をよく購入したり、バイオリンを習ったりしているとしましょう。絵画の鑑賞には確かにお金もかかるかもしれないですし、購入などということになればそれはもっと大変ですよね。一般庶民の家では、滅多に絵画鑑賞なんてしないし、美術館に出かけていったり、購入したりもしないとしましょう。そういう「文化資本を有していない」、と。お役人たちは田舎にも「文化資本を整備しよう」という名目で(本当は貪るためだろうと思うけど)、税金を大量投入して美術館を建設したりする訳ですが、実際に誰も来ないような美術館となってしまうわけです。一般庶民には金を払ってまで「美術館に鑑賞に行く」という文化が、あまり根付いていないからなのかもしれませんが、当然の如く不採算事業となってしまう訳ですね(笑)。これを仮に無料化したとしても、やっぱり利用者数は少ないかもしれないですよね。それまでの生育環境が、「美術館へ行く」という環境ではなかったので、そういう文化が身についていないかもしれないですから。
もっと全国民が「上流階級の文化」をマネしていくべきだ、ということであれば、生育環境を全員同じレベルにしなければ、差異が生ずることになると思います。バイオリンにしても、上流階級では習えるが貧乏人は金がないので習えないのはオカシイってことであれば、全員が無料で習えるような体制にしなければならないことになってしまいます。貧乏な家庭では本が買えないので、本を読むという文化が根付いていないと仮定しましょう。そういう本を読まない家庭に育つと、子どもがあまり本を読まなくなる、ということがあるかもしれません。ここに格差がある、ということですね。でも、学校や自治体には図書館があるし、金のない人でも読めることになっています。貧乏人は家庭で教育しないから読まないのだ、ということであれば、そういう学校や自治体の図書館を利用するように教えればよいのではないかと思います。それでも読まないのであれば、単なる個人の自由ではないかと思えます。
親の世代やもっと古い世代からの資本を受け継ぐことで、個人の「出発点」が異なることに問題がある、ということであれば、個人遺産は定額のみの相続に変えて、それ以外は全て没収、ということにせざるを得ないでしょう。もしもそのような相続制度に変われば、寄附が増やせるかもしれませんし。しかし、現実にこのようなことが可能でしょうか?また、そんなことをしたところで、どれほどの意味があるでしょうか?家庭内での文化を放棄して、それぞれが同じ文化となることに果たして意味があるでしょうか?こうした根本的疑問があります。そこまでの「平等」を実現することは、本当に必要なのでしょうか?
所得の多い家庭ではそれなりの文化があると思いますし、教育や習い事などでも貧乏な家庭に比べれば有利なことが多いと思いますね。しかし、貧乏な家庭の子だって、野球が上手になりプロになるかもしれないし、苦学の末、国公立大学に行って弁護士になるかもしれないですよね。「身分制度の為に、オマエは野球選手になってはならん」とか「オマエの生まれが貧しいので、医者にはなれん」とか、そういうルールでもあるのであれば別ですが、全然そんなことはありません。能力があって、努力し、チャンスを掴めるなら、きっと可能であると思います。それでいいのではないか、と思うのです。
貧乏人と金持ちの入れ替わりの映画などが昔からありますが、上流階級の人々が庶民の意外な文化に驚き新鮮に感じることだってあるではありませんか(笑)。金持ちたちの「失っていたもの」に気付くことだってありますよ。貧乏な家庭にはそれなりの不思議な文化があって、ろくでもない場合もありますが、ユニークで味わいのある文化だって存在すると思っています。手打ちソバの店をやっている家に生まれたら、代々その手打ちソバの文化を引き継いでいたりすることもあるかもしれません。ひょっとするとそこの子は学校の勉強はそれほどできないかもしれないし、上流階級のような生活は望むべくもないかもしれないですが、そのソバ職人の家庭が「不幸せ」だなんて、私には思えませんね。上流階級の人々に比べて、そのソバ職人が下層階級だなんてことも、到底考えられませんね。
一般に、世の中で喧伝される「成功者」「上流階級」と目される人々というのは、周囲がそれを大袈裟に羨んだりしているだけではないかと思います(煽り立てているとも言えるかもしれません)。しかも目立つのは単なる「成り上がり」という層が多いのではないでしょうか。社会全体がそういう価値観ばかりを偏重する、ということをやめれば済むことではないかと思えます。まさに「拝金主義」の一派としか思えない面がありますね。また、「差異が存在する」ということは、学問的に指摘するまでもなく、今に始まったことなどではないですよね?学者さんたちが「不平等が存在する」ということを、取り立てて世の中の人々に訴えなくても知られていると思いますけど。改善されるべきは、「不当な」不公平であって、全ての平等の達成なんかではないと思います。むしろ、失敗・敗北した人や現状に不満を抱く人たちの逃げ口上というか、「格差のせいだ」的な理由に使われてしまっているだけなんじゃないか、とも思えます。
金持ち=上流階級=文化資本の独占、という、これもある種の「特定の価値観」に囚われているとしか思えません。別に金持ちなんかじゃなくても、人の羨むような職業なんかではなくても、人にはそれぞれの生き方・幸せがあります。とある小さな島にずーっと暮らして、先祖代々引き継いだ文化を守って生きる人がいてもいいと思います。その文化は、イマドキの「上流階級」なんかよりも価値の高い文化であると思えます。島に残って生活するか、島を出て何かにチャレンジするかは、本人の自由です。「抜け出したい」とひたすら願う人もいるかもしれず、そういう人が「自由意志」で島を出られるような社会であれば、機会は与えられていると思います。島の外の情報が与えられないとか、島を出るという選択ができないような社会環境なのであれば、改善されるべきでありましょう。ただ、今の時代でそのようなことは考え難いと思いますけれども。
希望格差というのは、それこそ大人たちの下らない価値観に毒された子どもたちの成れの果てなんだろうと思います。