新・定年オジサンのつぶやき

残された日々をこの世の矛盾に対して勝手につぶやきます。
孫たちの将来に禍根を残さないよう、よき日本を「取り戻したい」。

自衛隊が国軍になれば100年前の海軍のような災害派遣は期待できない

2023年09月01日 10時56分56秒 | 憲法改悪

数日前からメディアでは関東大震災関連の記事を発していたが、その大震災から100年目の今日は、テレビメディアもそれなりの報道をすると期待していたが、昨日の沖縄で行われているバスケットW杯における日本代表チームの劇的な逆転劇により独占されてしまった。
 
【バスケ】33歳比江島慎が逆転の「比江島タイム」発動、母に誓った世界の夢が成長する糧に
 
沖縄が日本のバスケットの発祥の地であるとか、過去自力では48年間も五輪の出場すらかなわなかったマイナーなスポーツとされていたバスケットが一気に国民の脚光を浴びたらしい。
 
最もまだ五輪切符となるパリ大会出場に王手をかけただけなので、今後のガンバリを期待したい。
 
ところで、昨日のオジサンのつぶやき」の「大阪維新の会は大阪万博とともに消えていく」というエントリーの訪問者数が今までの平均の倍以上という珍事があった。
 
おそらくタイトルを見てアクセスしたのだろうが、少なくとも大阪維新の会を心配したことが理由ではなさそうである。
 
何しろ前日に、「維新・馬場代表「大阪の責任ではない」の他人事感 国会で万博誘致を求めたのをお忘れ?」という記事がでていたので、決して「つぶやき」もあてずっぽうではなかったようである。
 


 
さらに、危機感を持った政府も、「万博準備、首相『極めて厳しい』 連携、加速を指示」という事態になっている。 

さて冒頭の関東大震災関連の話に戻る。
 
「いまからちょうど100年前の1923年(大正12年)9月1日11時58分、神奈川県西部を震源とするマグニチュード7.9の地震が発生した。
この地震により、東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県、山梨県で震度6を観測したほか、北海道道南から中国・四国地方にかけての広い範囲で震度5から震度1の揺れを観測した。(当時の震度階級は震度0から震度6までの7階級だったが、家屋の倒壊状況などから、強いところでは現在の震度7相当の揺れがあったと推定されている)
発生が昼食時間と重なったことから火災が多発。津波、土砂災害なども発生し、死者・行方不明者は10万5千人余にのぼった。「関東大震災」と呼ばれる。
この震災についてはこれまで多くの論考が発表されているが、海軍・連合艦隊による救難活動について触れられることはあまりない。ここでは、震災にさいして当時の海軍がどのように動いたかを振り返ってみたい。」と、カメラマン・ノンフィクション作家の神立 尚紀の記事を紹介する。
 
いまからちょうど100年前…「関東大震災」という未曽有の大災害で、「日本海軍」はどう動いたか
 

■大震災の前々日
大正12(1923)年8月30日、旗艦・戦艦「長門」が率いる連合艦隊(正字では聯合艦隊)は、日露戦争(1904-1905)以来、日本が租借していた遼東半島の旅順、大連の東北約100キロの黄海にある裏長山(りちょうざん)列島の泊地に入った。ここで、1週間におよぶ「年度恒例検閲」を受けるためである。検閲期間のあいだは、抜き打ちで教練を命じられ採点されたり、日時を指定した上で司令長官が来艦し、軍容や主計科の帳簿まで調べられる。各艦ともよい成績を残そうと、外舷を念入りに塗装し、甲板や真鍮の金物までも磨き上げて臨む。
従来、連合艦隊は戦時や演習のときだけ臨時に編成されていたが、この年から常時置かれるようになっていた。連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官は竹下勇大将、第二艦隊司令長官は加藤寛治中将である。
■月9月1日
阿川弘之著『軍艦長門の生涯』(新潮社)によると、9月1日に検閲を受けることになっていた長門では、いつもより15分早く「総員起こし」の号令がかかり、朝8時からの分隊点検で検閲が始まったという。
〈午後は戦闘教練、防火教練があり、三時過ぎようやく解散になって、みんなほっとし、釣道具を持ち出す者、前甲板で涼しい風に吹かれて話に興じている者、乗組員は誰もまだ地震のことを知らなかった。〉(『軍艦長門の生涯』より)
この日、11時58分、神奈川県西部の北緯35度19.8分、東経139度08.1分、深さ23キロメートルを震源とするマグニチュード7.9(推定)の巨大地震が発生、関東南部から東海地方にかけての地域に甚大な被害をもたらした。この地震による死者105,385人、全潰全焼流出家屋293,387戸という。まさに未曽有の大災害だった。
当時、海軍大尉で最年少の連合艦隊参謀として「長門」に乗艦していた福留繁(のち中将)は、昭和46(1971)年に著した『海軍生活四十年』(時事通信社)のなかで、
〈午後三時頃、水雷戦隊司令官の中村良三少将が艦隊司令部にやって来て電波の様子をみると、どうも東京に何か大変なことが起こったようだよ、ということであった。〉
と述べている。当時中村良三は第二艦隊参謀長の大佐で、第二水雷戦隊司令官は飯田延太郎少将だったから、人名については半世紀近く経って福留に記憶違いがあったのだろう。しかし、海軍の船橋電信所が震災の第一報を発信したのは午後3時頃で、「大変なことが起こった」のを知った時刻やいきさつについては間違いなさそうである。
関東大震災のときの海軍の動きについては、「震災救護日報」「聯合艦隊震災救護記録」など、多くの公文書が残されていて、何日にどこの港になんという艦船が入港していたか、陸揚げした救援物資の明細や被災者輸送の人数まで詳細に知ることができる。連合艦隊の初動はこんにちの感覚から見ればずいぶん遅く、海軍次官の帰国命令を受けて裏長山に停泊中の各艦がボイラーに火を入れたのは、震災発生から27時間後の9月2日午後3時頃のことだった。通信手段の多くが壊滅し、被災の全容がつかめなかったために動くに動けなかったのだ。
9月1日午後10時45分、千葉県の船橋電信所が発した電文には、
〈通信装置は総て破壊のため被害状況を知るを得ざれども、聞くところによれば東京には二十余ヵ所に火災起こりいまなお盛んに燃えつつあり。宮城(皇居)にも延焼せる由、本所深川全滅とのこと。横浜も全滅の由、地震(余震)時々あり。被害後受信所を連呼すれども応答なく、無線連絡も全く途絶せしにつき兵員を派し状況取調中(船橋三番電)〉
とある。船橋電信所から徒歩で派遣した兵員が2日未明に帰隊して、目で見た限りの状況を伝えた。
〈家屋倒壊せし為随所より火災を起こし、深川千住方面は全焼せるもののごとく、死者山をなすと。(中略)発火せしものは宮城におよび警視庁帝劇等全焼。海軍省の応答なきを見れば同省も危うきがごとし。火災いまなお猛烈にして既に千住より品川に及び爆発頻出、紅蓮の炎本所より見ゆ(後略)(船橋五番電・2日午前5時)〉
そんななか、2日午前になってようやく、人馬や、横須賀海軍航空隊軍鳩部で研究中だった伝書鳩を用いての連絡が少しずつつくようになり、惨状が徐々に明らかになる。
陸軍被服廠跡地(現・墨田区の都立横網町公園)に避難し、炎に巻かれた被災者の遺体
海軍も、たとえば横須賀海軍工廠の庁舎は全壊、軍需部重油タンク焼失、石炭庫全壊、機関学校の大半や海軍病院、技術研究所、海軍大学校、軍医学校などが焼失、大佐を筆頭に軍人軍属125名が死亡、337名が負傷(9月20日時点)という大きな被害を受けていた。海軍病院では、地震発生直後、若い看護兵3名が、薬品倉庫に引火したのを見るや防火につとめ延焼を防いだものの、薬品の爆発の巻き添えになって3名とも即死したという。海軍病院の看護婦と看護兵は入院患者600数十人を無事に避難させた。
■政治的空白のなか
震災の起きた9月1日はまた、総理大臣だった加藤友三郎が8月24日に死去し内田康哉外務大臣が臨時兼任中の、いわば政治的空白の日でもあった。組閣の大命を受けたのは、近代海軍生みの親の山本権兵衛である。山本は9月2日の午後、劫火と余震のなか、赤坂離宮で親任式を挙行。海軍大臣財部彪(たからべたけし)、海軍次官岡田啓介らとともに、海軍の総力を挙げて救難にあたることを決めた。
岡田次官はまず、裏長山にいる連合艦隊に、定期検閲中止、各地に寄港し救難物資を搭載の上、至急東京湾に回航せよとの命令を出した。
前出の『軍艦長門の生涯』には、
〈「艦隊がわでも、「こんな時こそ、海軍は国民の役に立たなくてはならん
という思いが、強く将兵の胸にあった。午後五時前後には、第一第二水雷戦隊の駆逐艦群、第三戦隊の巡洋艦球磨、多摩、大井、第五戦隊の巡洋艦名取、長良、鬼怒など、身軽なものから、順に錨を上げて裏長山列島をあとにした〉
とある。「大正デモクラシー」と呼ばれるこの時代、軍隊や軍人の地位は昭和の戦前、戦中ほど高くない。プロレタリア文学の流行が始まり、海軍省や軍令部勤務の海軍士官が制服で東京の街を歩くと、「よう、軍閥」「税金盗っ人」などと声がかかったという。だからこそ余計に、「こんな時こそ」という思いが強かったのかもしれない。
■イギリス艦に見破られた日本海軍の秘密
各艦は速力に応じてバラバラに各港に入港し、あるものは食糧を、あるものは医薬品を、またあるものは復興資材の電線や材木を搭載し、東京湾をめざした。第一戦隊の「長門」と「陸奥」は九州の内之浦湾に入港し、まずは「長門」が食糧と医薬品を満載して東京湾に向かう。
大隅海峡あたりで、全速で航行する「長門」に、同じく救難に向かうイギリス海軍の巡洋艦がピッタリとついてきた。福留繁は、前出の『海軍生活四十年』に、〈英国東洋艦隊旗艦の一万トン級巡洋艦プリマス〉と書いているが、ほかの記録と照合すると、おそらくこれは軽巡洋艦『ダーバン』である。当時「長門」は、表向きは最高速力23ノット(時速約42.6キロ)と公表していたが、じっさいには26ノット(時速約48キロ)出せた。全速で航行すれば公称23ノットがウソだということがばれてしまうが、公海上で他国の軍艦が随走することに文句は言えない。
〈この日本海軍の秘密をいま英艦プリマス(ママ)によって一ぺんに見破られてしまったのである。
しかし首都東京が全滅したというので、かけつけている長門にとっては、速力の秘密のことなどこだわっておられない、そのまま東京湾に急航をつづけ、英艦も東京湾入口までついて来た。〉(『海軍生活四十年』)
■おびただしい数の遺体
長門が伊豆半島沖に差しかかったのは9月5日の朝10時頃だった。やがて艦が浦賀水道から東京湾に入ると、行く手には一面の黒煙が立ち込めていたという。軍港の重油タンクから流出した重油に火がつき、海はまだあかあかと燃えていた。午後2時半、「長門」は横須賀に入港し、近隣に妻子のある者をここで降ろして東京・品川沖へと向かった。
品川沖に錨をおろすと、「長門」の周囲には、おびただしい数の人の遺体や家財道具が漂流していた。遺体の収容にはあえて手をつけず、生き残った被災者のために救援物資の陸揚げを始める。
福留大尉は、霞が関の海軍省に打ち合わせに赴く竹下長官らに随行して上陸した。長官以下の幹部は東京に家があるため様子見に帰宅し、福留一人が夜道を歩いて「長門」に戻ったが、あちこちに抜き身の槍や刀を持った自警団がいて、なかなか通してもらえない。
〈今の新橋駅の辺まで来ると、私が海軍の白い軍服を着て参謀肩章をつけているのに、白い服を着ているのは朝鮮人だ、といってなかなか通してくれない。しかたがないから一旦海軍省に引き返して、憲兵にそのことを話したら、二人の憲兵をつけてくれた。「憲兵隊」と書いた提灯を持って先に立ってくれたので事なきを得て艦に帰った。〉(『海軍生活40年』)
海上から見ると、東京の夜空は火災の火に映えてあかあかと染まっていたという。
福留はまた、震災時に流言飛語によって起きた「朝鮮人騒ぎ」についても書き記している。
〈朝鮮人騒ぎは全くひどいもので、朝鮮人が東京に攻めてくるのだという。今どこどこにいるとか、どこの浜に何百人の一団が上陸したとか、全く根も葉もない流言蜚語(りゅうげんひご)で、どこから来たのか、どんな格好をしているのかなどさっぱりわからないで、ただ朝鮮人が攻めて来たといって脅えているのである。
そのまた流言蜚語が伝わるのが早いこと、一瞬にして大都市東京の隅から隅まで同じ流言が流れるのである。船橋海軍無線電信所が、この流言を一々真に受けて、電波を流してだいぶん海軍を騒がしたものだから、余りにも非常識だというので所長の大森大尉は免職になった。
迫害を受けたのは日本人ではなく、朝鮮人の方であった。長門の碇泊地付近にも時々五、六人が針金でじゅずつなぎに縛った死体が流れて来ることがあったが、みんな朝鮮人であった。恐らく東京市内外で行われた惨劇の結果、死体を河川に投棄したものが浮かんでいたのであろう。
江戸前の蟹は特に美味だとして愛好していた私の知人は、震災から全然蟹を食べないことにしたという。それは海に流れ出た屍体を蟹が食べるにちがいないからだといった。〉(『海軍生活四十年』)
■救難の様相
竹下司令長官は、連合艦隊司令部を「長門」から海軍省内に移し、ここで救難指揮をとることになった。連合艦隊麾下の海軍の艦艇は、日本各地から食糧や毛布、蝋燭、帆布、石炭、木材、トタン板などの救難物資を満載しては品川、横浜、横須賀に入港し、陸揚げするとまた補給に向かった。海軍兵学校を卒業した少尉候補生を乗せオーストラリア方面へ遠洋航海に向かうはずだった練習艦隊も、遠洋航海を延期して物資の輸送に駆り出された。商船も同様である。9月12日には、全被災者に配給する米2ヵ月分の揚陸ができたとの記録がある。陸上交通がほとんど途絶した状況で、物資輸送は海軍や船舶会社なしでは不可能だった。海軍は、海軍省内のほか巣鴨、広尾、芝浦、横浜、浦賀、田浦などに救護所を設け、負傷者の治療にあたった。
海軍が砲術学校や水雷学校、横須賀海兵団などから被災地に派遣した救難隊の活躍もめざましかった。彼らのなかには自分の家が被災し、家族の安否がわからない者もいたが、自らのことを顧みず、火災や建物倒壊の危険を冒して人命を救助した。
たとえば、海軍砲術学校に勤務する三等兵曹日高鉄男は、横須賀市内で倒壊した家屋に2名が下敷きになっていることを知ったが、隣家の土蔵が傾き、その上に倒れてきそうでほかの住民たちは誰も手を出せない。そこで日高が機敏な動きで瓦礫を取り除き、無事に2人を救助したとの記録がある。同様の人命救助でのちに「善行表彰」を受けた下士官兵は、筆者が記録で確認できただけで153名にのぼる。軍人だけではない。海軍御用商人の久保田清吉は、海軍病院と横須賀市衛生課、医師会と連絡をとり、自ら名古屋まで出向いて医療衛生用品を私費で調達、東奔西走して多くの人命を救った。
物資の揚陸が一段落すると、戦艦「扶桑」をはじめ、軍艦、駆逐艦による避難者輸送も行われた。避難者輸送のさい、乗組の士官たちは病人や老人に私室を明け渡し、航海中はずっと艦橋で立ちっぱなしだったという。軍艦便の行き先は清水、四日市、函館など。避難者の輸送には日本の商船や、日本に在泊していた外国船なども従事していて、商船の行き先は清水、神戸、大阪、熱田、名古屋、長崎などである。9月19日までに海軍が輸送した避難者は3万4431人におよび、これは日本海軍の歴史を通じて、戦時以外の活動としては最大のものだった。9月25日には巡洋艦「夕張」が、横浜刑務所の囚人を名古屋に移送している。
■海外からの支援
海外からも次々と援助の手が差し伸べられた。イギリス政府は、英支那艦隊に対し、ただちに震災救難のため日本に向かうことを命じた。アメリカにいたっては、
〈米国の震災に対する同情とその機敏なる処置とは敬服のほかなく、今回さらに大統領はアジア艦隊司令長官に必要に応じ日本近海にある船舶局商船を救護活動に使用することを許し、なお震災救護に要する一切の費用は米国これを負担する旨発令せり。〉
と、日本海軍の公文書に記載されているほどの手厚い援助を実施した。アメリカ艦隊と商船隊は、フィリピンのマニラを拠点に、大量の資材と食糧を日本へ届けた。その目録を見ると、ミルク、塩、果物、石鹸……などが目につくが、一般の日本人にコンビーフの缶詰が普及したのも、このときの救援物資がきっかけである。中華民国は救護班を横浜に派遣し、イタリア、フランスも援助物資を運んできた。9月23日、横浜に入港したイタリア船「ロサンドラ」から、米10トン、鶏卵3000個、麦粉3トン、ビスケット1000斤の寄贈を受けたとの記録が残っている。
震災後、九段の靖国神社には被災者の暮らすバラックが建ち並んだ
ただ、歓迎されざる外国船もいた。9月8日にウラジオストックを出港、12日午後に横浜に入港したソビエト連邦の汽船「レーニン」(2700トン。旧名「シンビルスク」)は、医薬品や食糧の救援物資と医師6名をはじめとする救護班67名を運んできたが、〈国民扇動の目的にて多数の過激宣伝文を搭載すと判明〉(海軍無線電信情報十三より)したため、日本側は受け入れを拒否し、「レーニン」に退去を命じた。「レーニン」は日本海軍から石炭150トンと真水80トンの補給を受けた上で翌14日、巡洋艦、駆逐艦の監視のもと横浜を去る。ロシア革命や内戦を経て、前年の1922年に樹立を宣言したばかりのソ連は、被災のどさくさに乗じて多量のビラを撒いて日本国民を扇動し、共産主義革命を起こさせようと目論んだのだと考えられる。当時の外交電報(ウラジオストック渡辺総領事代理より総理兼任の山本外務大臣宛て)によると、「レーニン」はまた、日本の震災孤児数百人を収容し、ウラジオストックに連れ帰ろうともしていた。
陸軍鉄道連隊の助けを借りて、横須賀-田浦間の鉄道が復旧したのは9月13日。同じ日、横須賀市内の郵便局で、被災地以外に送信する電報の受付がはじまった。17日、郵便ポストが再開され、一般の郵便物が1日3回集配されるようになる。19日、横浜-横須賀間の鉄道が復旧、海軍はこの日をもって避難者の輸送を終了した。
霞が関の海軍省内に置かれた連合艦隊司令部は、陸上の秩序回復のめどが立ったのを受けて、9月21日、戦艦「長門」に戻った。9月5日以来、品川沖に停泊していた「長門」は22日、錨を上げ、横浜、横須賀を経て10月4日、訓練地の佐伯湾に向かう。連合艦隊の各艦も震災救助の任務を解かれ、順次、それぞれの母港や訓練地に帰ってゆく。
――こうして、海軍による震災支援の任務は約1ヵ月で終了した。
震災後の東京・京橋。一部の建物は倒壊を免れている
こんにち、関東大震災における海軍の救難活動が話題にのぼることはあまりないけれども、100年前の海軍が、いまの自衛隊の災害派遣と同様に、全力を挙げて被災者を救おうとしたことは記憶されていいと思う。
その海軍が、災害支援で大恩のあったアメリカと戦火を交えるのは、関東大震災からわずか18年後、昭和16(1941)年のこと。そして3年9カ月におよぶ戦争で、東京や横浜はふたたび焼け野原となる

 
78年前の終戦記念日に関する記事はまだ生存者が多くおり、一部の語り部も頑張っている。
 
しかし100年前の生存する被災者はゼロではないだろうがメディアに登場することは皆無であろう。
 
2007年に90歳で亡くなったオジサンの父親から関東大震災で「九死に一生」を得た話を若い時に聞いたことがある。
 
しかし、「100年前の海軍が、いまの自衛隊の災害派遣と同様に、全力を挙げて被災者を救おうとした」ことは初めて知った。
 
それにしても「その海軍が、災害支援で大恩のあったアメリカと戦火を交えるのは、関東大震災からわずか18年後、昭和16(1941)年のこと」とうのは軍隊があるが故なのかまさに「歴史の皮肉」というものかもしれない、とオジサンは思う。     
 

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