→<早稲田松竹で観た「ペパーミント・キャンディー」 ①18年ぶりに知った新事実>
→<早稲田松竹で観た「ペパーミント・キャンディー」 ②映画で振り返る九老・加里峰・大林洞の40年の歴史>
韓国の女性作家・申京淑(シン・ギョンスク)の小説「申京淑」(原題:외딴방)を久しぶりに読みました。2005年発行なので、たぶん12~3年ぶりです。
そして気がついたのは、映画「ペパーミント・キャンディー」との共通項がいくつかあること。それも細かな点で。
以下、発見の衝撃度の軽いものから順に書いていきます。
⓪1979年当時20歳だった「ペパーミント・キャンディー」の主人公キム・ヨンホ(ソル・ギョング)と同じ時期に、「離れ部屋」の主人公<わたし>も同じ地域(九老洞・加里峰洞)で工員として働いていた。
私ヌルボ、この点を知っていたから再読したわけで、当然衝撃度は⓪。したがってタイトル中の<3つの共通項>には入っていません。
申京淑は1963年1月全羅北道井邑市の生まれ。家が貧しく高校進学を断念せざるを得なかった彼女は、すでにソウルに出て夜間学校に通いながら働いている7歳上の長兄を頼りに、従姉と共に上京します。それが1978年の晩夏~初夏のこと。九老工団の入口にある職業訓練院での1ヵ月ほどの訓練(←はんだ付けとか)を経て、九老工団第一団地にある東南電機に配属されました。コンベアで流れてくるステレオの部品にエアドライバーでボルトを打ち込むという仕事です。その後彼女は社内の選抜試験に受かり、昼間は働きながら永登浦女子高校の夜間部に通学することになります。
当時彼女が起居していた部屋が「離れ部屋」でした。加里峰駅(現在の加山デジタル団地駅)が窓から見える部屋で、この小説で何度か出てくる<陸橋>は先の記事で書いた<輸出の橋>のことと推定されます。
この小説は、<わたし>が九老工団で働いていた満15~18歳の頃、つまり1978~81年の4年間のことを記しています。この4年間は朴正熙大統領の暗殺(1979年10月)や光州事件(1980年5月)があり、また九老工団では大きな労働争議もありました。そんな出来事も作中に描かれています。韓国ウィキペディアがこの作品について次のように記しているのは私ヌルボとしてもおおいにうなずけます。
「わたし」を中心とした微視的な叙述が内面性への沈潜という否定的な結果に帰結されるのではなく、個人、そして同じ時代を一緒に生きていく人たちの集団的記憶に還元されることを確認させてくれる作品である。
キム・ヨンホや彼の初恋の女性ユン・スニム(ムン・ソリ)は<わたし>より数歳年上でしたが、同じ時期に同じ地域で働いていた労働者であり、また同時に同じような体験と記憶を持つ大勢の人たちの象徴的な存在ともいえるということです。
①どちらの作品も、冒頭部分で70年代末の大ヒット曲「나 어떡해」(ナ オットッケ.僕はどうしよう)が出てくる。
「ペパーミント・キャンディー」では、最初の99年春の<野遊会>の章でヨンホが絶望的な雰囲気でこの歌を絶叫します。最後の<遠足>の章(79年秋)では、仲間たちと一緒に車座になって歌っています。
一方、「離れ部屋」の冒頭。78年の晩春~初夏の頃、田舎の家にいた(数え年)16歳の<わたし>がラジオのスイッチを入れると流れてきた歌が「わたし、どうしよう」だったのです。つまり、同じ曲。(翻訳の(故)安宇植さん、女性の歌と思ったようで、歌詞を「そんなの嫌よ、ほんとに嫌よ、行かないで」と訳していますが。)
この歌を聴いた16歳の<わたし>は、「思わずからだが竦(すく)むくらいびっくりして」ラジオのスイッチを切ってしまいますが、その後もラジオのスイッチを入れるとこの歌が流れてきて、「どうやら都会は、「わたし、どうしよう」が占領しているみたい」と思い、「何度か聴くようになると・・・・その歌を一緒になってうたっていた」ということになります。
今その1977年の大学歌謡祭の大賞受賞曲を→YouTubeで聴いても、当時の韓国の人たちがそれほど熱狂したとは、感覚的にはわかりません。
※現代の、T-araが歌う「나 어떡해」(→コチラ)と聴き比べてみてください。(※ユン・ミンスも人気歌謡番組「私は歌手だ」でこの曲を歌っています。→コチラ)
考えて見れば、今の日本の若い世代が1968年頃爆発的な人気を集めたグループ・サウンズの曲を聴いてどれほどコーフンするでしょうか? オックスの歌で失神(!)する人が1人でもいるか??(笑) それと同じようなものかも。
韓国ウィキペディアの「나 어떡해」の項目を見ると「韓国の全国カラオケの累積集計で、今までで最も多く歌われた歌の1つとも言われている」とか。そういえば数日前、スマホでなんとなく韓国のSBSラブFMを聴いていたら、20世紀のK-POPベスト何十だかというのをやっていて、そのラストつまり第1位でしたね。
つまり、多くの韓国人の心に残る懐メロということなのですね。
そういった点では、「ペパーミント・キャンディー」と「離れ部屋」の共通項とはいってもその時代の定番なのでそんなに意外ではないかも。ただ、それが冒頭に出てくるという点に私ヌルボは「!」と思ったのです。
②1日に2万個のキャンディーを包むという製菓会社の女性労働者のこと
前々回の記事でも書きましたが、「ハッカ飴がお好きなんですか?」というキム・ヨンホの問いに、ユン・スニムが「私の工場では1日に千個のハッカ飴を包むんです」と答えるシーンがありました。
「離れ部屋」では、<わたし>が通う夜学の同級生で製菓会社に勤めているアン・ヒャンスクが登場します。隣席の彼女は左ききなので肘がぶつかり合ったりすることもありました。ある日<わたし>が彼女の手を取ると、「手の皮膚がごわごわを通り越して硬くなっていた」ので急いで離してしまいます。<わたし>の気持ちに気づいたらしいヒャンソクがにこっとして言います。
「キャンディーを包装する作業をしているの。磨り減ってこうなったの」
「1日にどれくらい包むのよ?」
「普通は2万個くらいかな」
ユン・スニムが言う1日に千個という数字は少なすぎる、と映画を観た時思いました。逆に1日2万個はずいぶん多い感じ。私ヌルボ、目の前にキャンディーと包み紙があると想定しておよその時間を測ってみました。すると10秒で4個。1分で24個。1時間で約1420個になります。この数字だとスニムの仕事は1時間足らずで終わってしまいます。一方ヒャンソクは10時間労働でも2万個に達しません。
労働者詩人朴ノヘは九老工団の女工たちの生活を「1日14時間/手足がパンパンに脹れるほど/有名ブランドの高い服を作っても/高級オーディオの調律をしても/自分の分け前はない」と書きました。
ヒャンソクがもし14時間働いたらちょうど2万個のキャンディーを包み終えることができます。(根拠のない推測ですが、この10秒間に4個のペースの、1.5倍くらい速いスピードで包んでいたのではないでしょうか? だとすると、実働時間10時間くらいか?)
さて、上記の会話に続く部分にも注目です。
アン・チャンスクは<わたし>の手を取っていいます。
「あんたの手って、ほんとに柔らかいのね。あんたって、会社で遊んで食べさせてもらっているみたい」
「ペパーミント・キャンディー」の<祈祷>の章。1984年秋。新米刑事のヨンホがいる警察署にスニムが面会に来て、(前々回の記事で書いた)工団食堂で2人は久しぶりに話をします。
スニムがヨンホに言います。(セリフは必ずしも正確ではありません。実際はもう少し長い。)
「ふと思ったんだけど、ヨンホさんは優しい手をしてる。初めて会った時、ヨンホさんの手を見て、こういう手をしている人は優しい人だろう思ったの」
ヨンホは、つい今しがた警察で初めて学生活動家を拷問したところでした。警察のトイレで文字通り「汚れた手」を洗っていると、入ってきた先輩が言います。「その臭いはよく落ちないぞ」。
工団食堂のシーンはまさにその直後です。
スニムの言葉に、ヨンホはわざとらしく手を広げ、「僕の手はほんとに優しいよ」と言いながら、水を持ってきた食堂の娘(ホンジャ(キム・ヨジン)の腿をあからさまに撫でたりします。
もちろん、ヨンホがその手の持つ<優しさ>を自ら裏切ったことへの自責の裏返し的な行動ですが、スニムがヨンホの手が優しいと思ったのも、自分の手が(ヒャンソクのように)硬い手だったからかもしれません。
③ユン・スニムは、「離れ部屋」にも登場している。
「離れ部屋」(翻訳書)でユン・スンニムという名前を見た時には驚きました。ハングルではユン・スニムと同じ윤순임、漢字だとたぶん尹順任あたりです。(尹純任かも。) つまりスニム=スンニム。日本語表記の違いです。(以下、小説の登場人物の方はスンニムと書きます。)
スンニムは製菓会社ではなく、同じ東南電機の先輩工員で、歳は<わたし>の5~6歳上。79年だと満22歳前後です。<わたし>と共同生活をしていた従姉が片思いしていた工業高校生の片思いの相手がスンニム・オンニでした。従姉の会話の中で<わたし>から見たスンニム・オンニの印象は・・・。
「あのオンニって、凄く綺麗だもの。髪も長いし、目が毎日にこにこしているじゃない。確かにあたしだって、あのオンニと顔を合わせると気分が爽やかになるもの、男の子たちだったら余計にそうなんじゃなくて」
・・・とすこぶる好印象。
後の方のページで、<わたし>は更衣室に置いてあったスンニム・オンニの作業服のポケットからつい1万ウォン札の入った封筒をつい抜き取って会社から早退してしまいます。しかし彼女の仕業と見当をつけたスンニム・オンニは正面切って追及はしません。<わたし>の部屋のドアに「封筒を返してください」等の短い手紙を挟んだだけです。翌日、出勤できない<わたし>を訪ねて来たスンニム・オンニに封筒を手渡すと、「ありがとう」と言ってにっこりします。
その後しばらくして、欠勤の続く彼女を訪ねてきたのもスンニム・オンニでした。そして自分が高校を中退したことを打ち明けます。学校で何気なしに開けた筆記道具入れに入っていた千ウォン札2枚がそのきっかけ。「そのおカネを自分が盗むとは、夢にも思わなかったわ」と彼女。その後学校には行かず、結局母親のお金を盗んで家出をして、「思ってもみなかった、ここへ流れ着いたのよ」という話でした。そして「明日から会社へでておいで」というオンニの言葉に応えて翌朝<わたし>は会社に行きます。
スンニム・オンニは、組合員としての意識も高い女性でした。<わたし>に声をかけて、組合の活動家のミス・イの部屋に怪我の見舞いに行ったりもします。(ミス・イは会社側の弾圧により手足を縛られたまま地下の取調室に下る階段で足蹴にされ、足にギブスをしています。)
80年に入り、リストラが進められる状況になった東南電機では、退職金等の問題が組合の課題となり、スンニム・オンニもそんな話をしてくれますが、大学進学の見通しが立った<わたし>は結局辞表を出します。スンニム・オンニは<わたし>をいろいろ説得しますが、その時を最後に、2人が会うことはありませんでした。小説では、続けて「彼女は産業の現場の、風俗画の世界に閉じこめられたりはしなかっただろう」以下、ほぼ1ページにわたってスンニム・オンニのことを書き綴っています。
・・・と、延々と「離れ部屋」のユン・スンニムのことを書いたのは、「ペパーミント・キャンディー」のユン・スンニムとずいぶんイメージが重なると思ったからです。
なお、この映画も小説も90年代の代表的な作品の1つなので、ここまで書いたことは韓国ではかなり知られてることだろうと思って検索したら、意外なことにどちらにも同じ名前の女性が登場することを書いた記事は1つ(→コチラ)しか見つかりませんでした。[2022年8月6日の補足] リンク先のURLはなくなっています。いろいろ検索してみましたが、元の記事も類似の記事も見つかりません。
「ペパーミント・キャンディー」を観た皆さんは上記の共通項を読んでどう思いますか?
私ヌルボは、イ・チャンドン監督は間違いなくこの小説を読んだと思います。1995年発行でずいぶん注目された小説だし、監督自身小説家でもあるし、労働者の現実を描いた映画「美しい青年,全泰壱(チョン・テイル)」(1995)で脚本も書いているし。ただ、ちょっと②のキャンディーの個数等、不確かな記憶のままの部分もあるかもしれませんが・・・。
最後に、関係の画像を2つ貼っておきます。
前回の記事の最後に「短い記事でまとめる予定です」と書いた言葉は結果的にウソになっちゃいましたね、ははは