ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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映画「北朝鮮強制収容所に生まれて」を観て考えたこと。とくに虐待をした「加害者」のこと等。

2014-03-27 19:54:20 | 北朝鮮のもろもろ
 3月10日のユーロスペース。13:00からの「北朝鮮強制収容所に生まれて」は、9割ほど、つまり100人以上の観客の入り。平日の昼過ぎなのにこの大入りは、上映後に宇都宮健児さんのトークがあったからです。

 先に申東赫(シン・ドンヒョク)さんの手記等を読んでいたため、映画のおおよそはすでに知っていることではありましたが、それでも映像の力は大きいなと思いました。

 本に書かれていないことで私ヌルボがとくに注目したのは、収容所の元秘密警察要員のO氏と、第14号収容所の保衛員だったK氏の証言が含まれていたこと。

 K氏は14号管理所の警備員指導者、O氏は(自らも言う)ゲシュタポのような秘密警察で数百人の市民を収容所に送り込んだ後尋問と拷問、処刑を行った人物。私ヌルボの判断で、実名は避けます。ネット検索すれば名前も顔写真もあるのですが。
 しかし、印刷物や日韓のネット上の記事をいろいろ見ても、両氏の経歴については当時の職位をはじめどうもはっきりしません。
 つまり、2人とも、かつてはれっきとした「加害者」だった人たちです。

 宇都宮さんは、申東赫さんについて「人間は、人間に生まれるのではなく、周りの環境等によって人間になっていく」のであり、「家族も、(最初から家族間の愛情や結びつきがあるのではなく)家族になっていく」のだ、と感想を述べておられましたが、私ヌルボもナットク。
 それから、上記O氏やK氏のような保衛員等として収容者を虐待したり殺したりした人も、(映像でみるような)一般の人であるのもかかわらず環境によってひどいことをやってしまう。「人間とは何か」ということを考えさせる、と語っておられました。

 パンフレット中の「マルク・ヴィーゼ監督へのインタビュー」によると、「かつての司令官(K氏)と収容所の警備員(O氏)は「アシスタントをしてくれた韓国の有名な女性ジャーナリスト」が見つけてくれたとのことです。
 元警備員について、監督は次のように語っています。

 彼は職場から抜け出してきた銀行員のようなスーツ姿で現れ、カメラの前に座ると、どのようにして人を虐殺したか語った。悪びれもせずにね。その人をモンスターに仕立てたくなかったから、その私生活を映し、ごく普通の父親という側面も見せた。その日とはとても単純な加害者だった。彼が馬鹿だというつもりはないが、とてもあけすけだった。彼は、いかにして水責めなどの拷問により人を殺したか、瞬きもせずに語った。女性をどのように強姦したかについて、また、妊娠すると殺したということについても、一人称で話した。通常、加害者はもう少し距離を置いて話すものだが。“そうした習慣になっていた”とか、“その人たちはそうした”というようにね。しかし、彼はそうする必要性を感じておらず、一人称で語ったのだ。

 そしてもう1人のK氏。

 それから、アシスタントは元高官の加害者も見つけ、彼のほうがもう少し知的だろうと告げた。彼は撮影に対し大きな制限を設け、自宅には来ないでくれ、どこも取材しないでくれ、とはっきり言った。撮影場所で1回だけ撮影したら去ってくれ、とね。それは非常にすばらしいインタビューになった。

 K氏は、自分のような者が一番恐れるのは南北統一「収容所の囚人たちから報復を受けるだろう」と語っていました。また今回の取材に対しては「申東赫のことについてだけ話すつもりだったのに・・・」と独り言も・・・。つまり今の彼は、自己の過去の行跡がどのようなものであったかわかっているようです。しかし、今回の取材では、自分の立場をあやうくするような、よけいなことをつい話してしまったということ。
 そして最後に、次のように呟いていました。
 「指示通りにしただけだ」。

 今まで、いろんな本や映画で読んだり聞いたりした言葉です。

 実は、このブログ記事が遅れてしまった大きな理由は、同様の事例をいろいろ思い起こしたり調べたりしたことと、それについて考えたりしていたからです。

 映画や本では、たとえば次のような作品。
 映画:「ハンナ・アーレント」
    「私は貝になりたい」
    「アンボンで何が裁かれたか?」

 小説:シュリンク「朗読者」 ※「愛を読むひと」のタイトルで映画化。
    岩川隆「神を信ぜず BC級戦犯の墓碑銘」
 ※オーストラリア映画「アンボンで何が裁かれたか」については、ご存知ない方が多いのでは? →コチラにかなり詳しく記されています。

 これらの作品は、捕虜収容所や強制収容所で、被収容者に対する虐待や虐殺に対して、加害者である職員や兵士の責任を問うものです。

 それぞれの事例を見ると、加害者の行為や意識はさまざまです。当時も、戦争後(現在)も。
 そして、彼らに対する見解や、裁判等の結果もまたさまざまです。

 それらを分ける要素には、次のようなものがあります。

[当時]
 ・加害者の地位と権限
 ・加害のレベル。残虐さや、「職務」を超えるものだったか否か?
 ・加害者の意識。「良心の呵責」の有無。逆に、「悪い者を罰する」という「正義感」や、「職務に忠実である」ということに誇りをもっている場合も。「悪い奴に対しては何をよい」という心理から蛮行を働いた者も。

[現在]
 ・過去の自らの行為について、「よくないことをした」という意識があるか、否か?
 ・「よくないことをした」と思っている場合、強い罪責感があるか、それとも「上官・上司の命令」「当時の雰囲気」等々で「仕方がなかった」「他の選択肢がなかった」と考え、罪責感はないか?
 ・被害者等のよる糾弾や告発があるか、否か?
 ・加害者に、なんらかの同情すべき要件があるか、否か?
 ・過去の虐待・虐殺等の問題が、その後(現在)の政治的な案件と関わったものとされるか、否か?

 これらの違いにより、たとえば「私は貝になりたい」や「朗読者」の主人公は「同情的」に受けとめられます。(自分たちと同じような)ふつうの庶民が、裁かれて刑に処せられるとは・・・。本当に悪い奴は別にいるのに・・・というように。
 「当時の価値観に洗脳されていた」というのも同情・共感を引く要素のひとつ。現実の事件として、あの金賢姫が死刑宣告を受けながらも、その後まもなく特赦を受けて一市民として解放されたのも、そうした点が勘案されたのでは? (同じ「洗脳」でも、オウム真理教関係は全然違いますね。)

 では、今まで、そして今も北朝鮮の強制収容所で虐待を繰り返している「加害者」たちは将来、たとえば南北が統一されれば処罰されることになるのか?

 上述のK氏の場合は危機感を持っているということなんですね。
 一方、O氏の場合はあまりに無頓着。

 このテーマに関連する映画で、渋谷のシアター・イメージフォーラムで4月12日から「アクト・オブ・キリング」という超問題作が公開されます。
 インドネシアで、スハルトがスカルノ大統領にかわっての実権を掌握する1965~66年の2年間、各地で約50万~200万人にのぼる市民が共産党シンパとみなされて虐殺されたそうです。その虐殺の「加害者」についてのドキュメンタリーです。彼らは、上記の「罪責感の有無」どころか、なんと現在も「英雄」であり、自身それを「誇り」としているのです。
 詳しくは2月25日TBSラジオ「たまむすび」の中で町山智浩氏が「暫定今年1位!」と熱を込めて紹介しているトークをぜひ聴いてみて下さい。

  

※「アクト・オブ・キリング」の公式サイトは→コチラです。

 「北朝鮮強制収容所に生まれて」のヴィーゼ監督は「これが収容所の囚人だけについての映画だとは思っていない。むしろ、独裁政権により生き方を定められた3人についての映画だと思っている」とも語っています。
 このような虐待・虐殺事件における加害者-被害者の問題は、この映画や上記の各事例だけの問題ではなく、国家権力と個人、善悪の基準やそれに関わる行為の評価等々、人の生き方や考え方についての基本的で根源的な問題というべきものだと思います。

 私ヌルボ、今回もまた調べたり考えたりしているうちに、結論が見えてくるどころかかえって「明確に言えること」がなくなってきた感じです。あーあ・・・。

[蛇足]
 宇都宮さんのトーク、やっぱり、と言ってはなんですが、「北朝鮮の人権問題をへイトスピーチ等のネタにしたりしないで、日本の中での人権問題も考えてみてほしい」という趣旨のことも話されていました。
 ヌルボ思うに、そういう話をつけ加えるのが北朝鮮問題を日本で語る際の1つの形になってしまっていますね。他の世界各国での人権問題を論ずる場合にはこのようなことをつけ加えたりはしないのに・・・。
 そう言わざるをえない「現実」もあるでしょうが、昨年の生保の問題やヘイトスピーチ等の人権問題と、生存権からして常に危機にさらされ、すべての自由が否定されている人たちが20万人(?)もいるという北朝鮮収容所の問題とは次元が違うのではないかと思うのですが・・・。

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