孔枝泳「진지한 남자(まじめな男)」を読みました。
8月8日の記事で書いた、孔枝泳の李箱文学賞受賞作「裸足で文章の小路を廻る(맨발로 글목을 돌다)」に収録されている自選作です。
その記事のコメントでのんきさんが書いて下さったように、おもしろいです。「おもしろい」というのは、この先ストーリーはどう展開していくんだろう、という興味に引きずられて、最後まで一気に読ませるということです。正直なところ、受賞作よりもそういった意味ではずっとおもしろいです。同様の感想は、韓国ブログにもいくつかありました。(たとえば→コチラ)
この作品の主人公「まじめな男」は版画家です。80年代の民主化運動の頃、当時の反抗的青年らしい黒く染めた軍服と軍靴に長髪といういでたちの彼には、「街に壁画を描いている」とか「富川の工場で働いてるそうだ」等々の噂も流れました。その後彼は若手画家の美術展で注目され、さらにソ連崩壊の頃「歪められた仏陀」という一連の版画で一躍大衆的な人気を獲得します。
「まじめな男」である彼は、芸術活動には関係のない講演会等にも律儀に出向いたりします。しかし、いっとき人気沸騰した人物がその後貶められるのは世の常で、「彼は実はクリスチャンだった」という暴露記事(?)や商業主義等々、非難の嵐にさらされます。
この物語の語り手である「私」と読者には、主人公が金銭欲や名声欲とは無縁の芸術家であることがわかっています。しかしそんな「まじめな男」の人生が、次々に降りかかる世評に翻弄されていくのです。
このような小説を読むと、チェ・ジンシルの自殺事件をはじめとして多く俳優等々の自殺を招いている韓国のネットいじめ事件(韓国では<サイバー暴力(사이버 폭력)>を想起します。もしかして以前から、芸術界にもあったということでしょうか? このサイバー暴力の問題については、ここではおいておきます。
小説のテーマに直接は関係しませんが、私ヌルボが興味を持ったのは次のようなことです。
①この「まじめな男」には、モデルの版画家がいるのか?
②80年代民主化運動と、「版画」という美術ジャンルには密接な関係性があるのでは?
①はとりあえずおいといて、なぜ②のようなことを考えたのかというと、私が持っているいわゆる<運動圏歌謡>の歌集3冊のカットや表紙に、いずれも版画が使われていることを思い起こしたからです。
下の画像を参照してください。
【 1982年3月「蕨市のコーリヤ・プロ」が発行。いかにも弾圧が厳しかった時代らしい。】
【 元はガリ版刷り(?)のようで判読がむずかしい。版画も不鮮明。右ページに民衆詩人・金洙暎(キム・スヨン)の詩の抜粋。】
孔枝泳の主人公「まじめな男」は、「金洙暎の肖像画のように黒い瞳が魅力」と書かれています。
【 1988年9月ウリ文化研究所発行。表紙の版画は朴珍華(パク・チンファ)の作。「朝露」の歌詞ページにはチョン・ジンソクの版画。】
上の歌集はソウル五輪開幕と同月の発行。朴珍華(박진화)は80年代民主化運動の過程で民衆芸術家の道を歩み始めました。現在江華島に朴珍華美術館があり、そのサイトで彼の作品を見ることができます。
【 2005年発行。編著者は「韓国の民衆歌謡」編集会議。時代背景等の説明の下にイ・ジュヒョンの版画があります。】
「韓国の民衆歌謡」編集会議は、コッタジ応援団とノレの会で構成した組織だそうです。
上記の歌集は、私ヌルボが韓国の闘争の歌(運動圏歌謡)に興味があったから買い求めたのですが、こうしてあらためて見てみると版画と民衆闘争の<親和性>は明らかですね。
いろいろネットや図書で探索してみると、1987年3月発行の「韓国民衆版画集」という本にゆきあたり、幸い横浜市立図書館にあったので読んでみました。
【発行はお茶の水書房。右はその中のオ・ユン作「春無仁秋無義」(1985)。】
編者は「韓国の民衆歌謡」発行所のウリ文化研究所です。
この版画集には、上記のパク・チンファ、チョン・ジンソク、イ・ジュヒョンの作品も収録されています。
そして、巻末に美術評論家・崔烈が「解放の力としての版画」というタイトルで次のように述べている部分に注目しました。
版画というものは、多数の複製の可能性を特性として備えている。それはコミュニケーション・流通が最大限に行われ得ることを意味し、可能な限りの多くの人々によって共有され得るメディアとしての特徴を持っている。最大限のコミュニケーションが意味する質的次元の高まりや、最大限の流通が意味する量的次元の増大は、版画だけが持っている性質だとは言えないまでも、版画がそうした要求を見たし、かつ、そうした意図を貫くことが容易にできるということで、メディア運動に相応しい文化的な方法として取り入れられたのである。
崔烈はさらに続けて、「(版画の)はっきりとした明暗の区画は骨格と輪郭を強調することを可能にする。従って、感覚に訴える力は、ひじょうに印象的で、強烈なものであり、・・・・志向する目標点に加える打撃の正確さは他に比する物が無い」という特長を指摘しています。
「多数の複製」に関しては、小説「まじめな男」の中でも、人気をよんだ主人公の版画作品の無断コピーがどんどん作られ、街に出回る状態が描かれています。主人公は仲間2人に著作権について相談します。2人の間に議論が始まりますが、結局「まじめな男」はコピーを放置したままにします。
さて、この「韓国民衆版画集」の記述や、いろんなウェブサイトを読んで、80年代韓国の民主化闘争の時代を中心に、あるいはその前後から今までも含めて、とくにキーパーソンともいうべき2人の人物に焦点を絞って見てみることにします。
呉潤(オ・ユン)と洪成潭(ホン・ソンダム)がその2人なのですが、すでに字数も多いし、以下は(2)に続くということにします。
8月8日の記事で書いた、孔枝泳の李箱文学賞受賞作「裸足で文章の小路を廻る(맨발로 글목을 돌다)」に収録されている自選作です。
その記事のコメントでのんきさんが書いて下さったように、おもしろいです。「おもしろい」というのは、この先ストーリーはどう展開していくんだろう、という興味に引きずられて、最後まで一気に読ませるということです。正直なところ、受賞作よりもそういった意味ではずっとおもしろいです。同様の感想は、韓国ブログにもいくつかありました。(たとえば→コチラ)
この作品の主人公「まじめな男」は版画家です。80年代の民主化運動の頃、当時の反抗的青年らしい黒く染めた軍服と軍靴に長髪といういでたちの彼には、「街に壁画を描いている」とか「富川の工場で働いてるそうだ」等々の噂も流れました。その後彼は若手画家の美術展で注目され、さらにソ連崩壊の頃「歪められた仏陀」という一連の版画で一躍大衆的な人気を獲得します。
「まじめな男」である彼は、芸術活動には関係のない講演会等にも律儀に出向いたりします。しかし、いっとき人気沸騰した人物がその後貶められるのは世の常で、「彼は実はクリスチャンだった」という暴露記事(?)や商業主義等々、非難の嵐にさらされます。
この物語の語り手である「私」と読者には、主人公が金銭欲や名声欲とは無縁の芸術家であることがわかっています。しかしそんな「まじめな男」の人生が、次々に降りかかる世評に翻弄されていくのです。
このような小説を読むと、チェ・ジンシルの自殺事件をはじめとして多く俳優等々の自殺を招いている韓国のネットいじめ事件(韓国では<サイバー暴力(사이버 폭력)>を想起します。もしかして以前から、芸術界にもあったということでしょうか? このサイバー暴力の問題については、ここではおいておきます。
小説のテーマに直接は関係しませんが、私ヌルボが興味を持ったのは次のようなことです。
①この「まじめな男」には、モデルの版画家がいるのか?
②80年代民主化運動と、「版画」という美術ジャンルには密接な関係性があるのでは?
①はとりあえずおいといて、なぜ②のようなことを考えたのかというと、私が持っているいわゆる<運動圏歌謡>の歌集3冊のカットや表紙に、いずれも版画が使われていることを思い起こしたからです。
下の画像を参照してください。
【 1982年3月「蕨市のコーリヤ・プロ」が発行。いかにも弾圧が厳しかった時代らしい。】
【 元はガリ版刷り(?)のようで判読がむずかしい。版画も不鮮明。右ページに民衆詩人・金洙暎(キム・スヨン)の詩の抜粋。】
孔枝泳の主人公「まじめな男」は、「金洙暎の肖像画のように黒い瞳が魅力」と書かれています。
【 1988年9月ウリ文化研究所発行。表紙の版画は朴珍華(パク・チンファ)の作。「朝露」の歌詞ページにはチョン・ジンソクの版画。】
上の歌集はソウル五輪開幕と同月の発行。朴珍華(박진화)は80年代民主化運動の過程で民衆芸術家の道を歩み始めました。現在江華島に朴珍華美術館があり、そのサイトで彼の作品を見ることができます。
【 2005年発行。編著者は「韓国の民衆歌謡」編集会議。時代背景等の説明の下にイ・ジュヒョンの版画があります。】
「韓国の民衆歌謡」編集会議は、コッタジ応援団とノレの会で構成した組織だそうです。
上記の歌集は、私ヌルボが韓国の闘争の歌(運動圏歌謡)に興味があったから買い求めたのですが、こうしてあらためて見てみると版画と民衆闘争の<親和性>は明らかですね。
いろいろネットや図書で探索してみると、1987年3月発行の「韓国民衆版画集」という本にゆきあたり、幸い横浜市立図書館にあったので読んでみました。
【発行はお茶の水書房。右はその中のオ・ユン作「春無仁秋無義」(1985)。】
編者は「韓国の民衆歌謡」発行所のウリ文化研究所です。
この版画集には、上記のパク・チンファ、チョン・ジンソク、イ・ジュヒョンの作品も収録されています。
そして、巻末に美術評論家・崔烈が「解放の力としての版画」というタイトルで次のように述べている部分に注目しました。
版画というものは、多数の複製の可能性を特性として備えている。それはコミュニケーション・流通が最大限に行われ得ることを意味し、可能な限りの多くの人々によって共有され得るメディアとしての特徴を持っている。最大限のコミュニケーションが意味する質的次元の高まりや、最大限の流通が意味する量的次元の増大は、版画だけが持っている性質だとは言えないまでも、版画がそうした要求を見たし、かつ、そうした意図を貫くことが容易にできるということで、メディア運動に相応しい文化的な方法として取り入れられたのである。
崔烈はさらに続けて、「(版画の)はっきりとした明暗の区画は骨格と輪郭を強調することを可能にする。従って、感覚に訴える力は、ひじょうに印象的で、強烈なものであり、・・・・志向する目標点に加える打撃の正確さは他に比する物が無い」という特長を指摘しています。
「多数の複製」に関しては、小説「まじめな男」の中でも、人気をよんだ主人公の版画作品の無断コピーがどんどん作られ、街に出回る状態が描かれています。主人公は仲間2人に著作権について相談します。2人の間に議論が始まりますが、結局「まじめな男」はコピーを放置したままにします。
さて、この「韓国民衆版画集」の記述や、いろんなウェブサイトを読んで、80年代韓国の民主化闘争の時代を中心に、あるいはその前後から今までも含めて、とくにキーパーソンともいうべき2人の人物に焦点を絞って見てみることにします。
呉潤(オ・ユン)と洪成潭(ホン・ソンダム)がその2人なのですが、すでに字数も多いし、以下は(2)に続くということにします。
話は変わるのですが、もしご存知でしたら教えていただきたく、この場をお借りしてもよろしいでしょうか。
朴婉緒の『나의 아름다운 이웃』というコント(超短編)集の中に、『아직 끝나지 않은 음모』という3部作があり、それを訳しているのですが、最後にどうしても意味のわからない一文が出てきます。「칼아 되살아나렴」というのがそれです。この台詞にお心当たりはありませんか?
本3部作は、祖母、母、娘の時代、の順で話が展開され、それぞれの時代の韓国社会での女性差別がテーマになっています。娘の時代は1980年代ぐらいを想定していると思われますが、未だに残る女性差別の陰謀が夜の都市、ビルの間に、巨大な怪物のようにとぐろを巻いているのを見た娘が、「칼아 되살아나렴」と心の中で叫ぶのです。
ここでの칼とは何なのか、いろいろ当たっているのですがみつかりません。
もし、ご存知でしたらぜひ教えていただきたく、よろしくお願いいたします。
しかし、「刀(包丁?)よ、よみがえれ」とふつうに訳すと意味はとれないでしょうか? 刀=社会に対する自身の闘争心とか?? うーむ、よくわかりません・・・。
「母をお願い」の出版記念会の件、集英社に電話したら担当者不在でわからないとのことでした。明日また訊いてみます。(大手出版社でも1人で担当してるんですねー。)
やはりそのまま「刃」でよいのでしょうかねぇ。刑具の首かせかと思ったり、神話の神かと思ったり、有名な演劇の台詞とか、いろいろ考えたのですが判らずじまいです。
話はそれますが、この作品の3部に김승옥の『夜行』という小説が登場します。第1回李箱文学賞を受賞した作家の短編です。 김승옥の作品についてはちょうど紹介いただいた공지영の小説にも登場しますね。私自身はあまり好んで読む作家ではありませんが、さすがに文章は上手い!と感じます。ヌルボさんの好みには合うのではないか、と勝手に想像しています。