ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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2018年11月13~16日 ソウル旅行の記録 S氏の日記と、ヌルボの写真&補足 [その3]独立門・モレネ市場・延世大など

2019-08-02 23:49:58 | 韓国旅行の記録
 → 2018年11月13~16日 ソウル旅行の記録 S氏の日記と、ヌルボの写真&補足 [その1]トドク焼きを初めて食べる
 → 2018年11月13~16日 ソウル旅行の記録 S氏の日記と、ヌルボの写真&補足 [その2]池錫永家址・校洞小学校・雲峴宮など

 以下、紺色の部分が元のS氏の日記部分、黒字の部分が私ヌルボの補足等です。

◎11月14日(水)・後半

 地下鉄に乗り西大門で降り独立門を見学。時刻は12時頃、ヌルボさんはゆったりと観光モードに入っている。そして近くにある旧刑務所に足を運ぶ。時刻は12時半。ヌルボさんはここを見学しようと言い出した。どうもおかしいと思い、「1時に新村駅で友人と待ち合わせですよ」と伝えると、時間を間違えていたようだ。ここから新村までは距離的に遠くはないが1時に待ち合わせとなると余裕はない。バスなら便利と思い目の前の大通りに面するバス停に行って見たが路線が違う。独立門にあるバス停に向かい、待ってる人に「新村行きはありますか?」と聞いたところ延世大学に行くバスはあるとのこと。延世大学から新村までは目と鼻の先だ。うまい具合にバスが来た。さあ乗ろうとしたところで何とドアが閉まってしまった。あっ、と思ったらバスは走りだしてしまった。地下鉄で行くとしても乗換えを考えると1時到着は不可能だ。後はタクシーしかない。こうなるとなか捕まらない。実車のタクシーが無情に通り過ぎて行く。やっとのことでヌルボさんが捕まえ乗り込むことができた。
 あと十数分しかない。少し混雑に巻き込まれやきもきしていると駅前がみえた。残りあと2、3分。残り1分でタクシーを降り地下道に入り約束の8番出口に辿りついたらSさんの顔が見えた。時計はジャスト1時。
 ここから3人でタクシーでモレネ市場へ向かう。所要時間は12、3分程だろうか。
 モレネ市場はかなりレトロな雰囲気が漂い、狭い通路に露天が密集している。果物、野菜、肉、魚介類、乾物、雑貨類。最近は日本人観光客も増えている。
 この通路を3、40メートルくらい歩くと目指す焼肉屋がある。この店は精肉店が経営する店で鮮度は良く安い。日本の和牛に相当する韓牛とビールを頼む。アメリカ牛もあるが味は格段に韓牛が勝る。この店は肉を注文する以外に店員は来ない。客は私ら3人のみ。飲み物やおかずの類は店の冷蔵庫から勝手に取り出すセルフ方式。分厚いステーキ肉を焼き挟みで切り分け野菜と共に頬張る。
 贅沢な昼餐を堪能。と、そこへ日本語を話す中年女性3人組が入ってきた。「この店をよくご存知でしたね」と声をかけるとそのうちの一人はソウル在住で、もう一人は観光ガイドさん、まあ詳しいわけがわかった。この人たちの話によると、この市場は来年開発計画があり、この店も立ち退いてしまうらしい、なんとも残念だ。このお三方は結構飲んで食べてそそと帰って行った。
 お腹を満たした後、タクシーを拾い近くの望遠(マンウォン)市場を見物に行く。この市場は地下鉄6号線望遠駅近くにあり、アーケードが整備されていることで地元では人気があるらしい。とは言えアーケードの長さは200メートル位だろうか、そんなに長くはない。生鮮食料や惣菜店が多い。ソウルの商店街と言うと必ずと行っていいほど飲食店が混在しているがそれがない。なんとなく大阪の下町の商店街の風情が漂っている。
 トイレタイムを兼ね喫茶店でひと休み。そのあとタクシーで新村方面へ。Sさんを宿の側で降ろしたあと、ヌルボさんと見学予定に入っていた延世大学に向かう。着いた頃は陽がすっかり落ちていた。ヌルボさんのここでの目当ては1987年、民主化を求める学生の抗議行動に対し当局が打ち込んだ催涙弾の直撃を受けて死亡した今や英雄となっている当時学生のイ・ハニョルの記念碑を訪ねることともう一つこれも韓国民が愛するユン・ドンジュの詩碑を訪ねることだ。ドンジュは日本に留学していて日本にもファンが多い。治安維持法違反で逮捕され福岡で若くして獄死した人物だ。ここまで訪ね歩く外国人は余りいないと思われるがここがヌルボさんのオタクと言われる由縁だ。
 まず最初に、正門前にあるハニョルが催涙弾により倒れた場所に埋め込まれたプレートを見つけること。事前にヌルボさんはネットにより大体の場所は調べてはいたが、暗闇迫る中即座に発見。長年の恋人に巡りあったように感激し、プレートの写真を撮りまくる。
 校内に入ると実に規模の大きく立派な建物が点在している。日本人の留学生も多いことで有名だ。この時間学生の数はまだ大勢いる。正門に向かう学生たちと逆方句に進む。
 と、まるでこの学校を知り尽くしているかのようにヌルボさんがハニョルの記念碑を見つける。ここでも暗闇の中感激にひたり写真撮影。最後はドンジュの詩碑だ。数分ほど歩き発見。街路灯のお陰で何とか刻字は読み取れた。これでヌルボさんは訪韓の大きな目的を果たしたことになる。こちらもそれなりに勉強になる。書物くらいでしか知らないことが目の前に現れると、歴史が身近に感じるものだ。
 大学を後にして私は人と会うためヌルボさんと別行動をとる。ヌルボさんは古本屋へ。
 私は地下鉄でひと駅隣の弘大駅へ向かう。
 相手は短期留学したときお世話になったリジンさん。今でもバイトと学業で忙しそうだ。ソウルに着いたときカカオトークで連絡していたら今日なら時間が取れるとのことだった。7時に落ち合いリジンさんの知っているという焼肉屋さんへ行く。昼も焼肉だったがここでも同じ肉を食べることになった。少し閉口したがここの肉も見た目は綺麗でなかなか美味い。店の名前は忘れたが人気はあるようで店内は混みあっていてやっと入れた。
 リジンさんの専攻は視覚デザインで課題は多いらしい。作品集を見せてもらったがなかなかの出来栄え、成績もいいらしい。
 彼女と食事をするといつも支払いするのは彼女だ。こちらも何とか払おうとするが絶対に受け取らない。なぜかと聞くとお客さんだからという。韓国は年上の人が払うのが文化であなたのお父さんより年上の私がご馳走になるのはおかしい、と何度も説得を試みたが聞く耳を持たない。以前も彼女がトイレに立った隙に支払いを済ませたところ、気づいた彼女はレジに走り現金を取り戻しカードで払ったこともあった。一度だけお酒を飲んだとき酔ったのを見計らい今日は絶対私が払うから、と言ったところしぶしぶ同意したことがあった。今回もそうしようと考えたが彼女は一切飲まなかった。もう初老の粋に達している親父が娘より若い女性にご馳走になるのは余り格好のいいものではない。12月には卒業試験があるらしい。合格したら日本に行くのでその時にはご馳走になるという、楽しみに待つしかない。それにしてもリジンさんはだいぶ痩せていた。バイトと宿題が大変で1日4時間くらいしか寝ていないと言う。国の両親がみたらさぞ心配するだろう。
 11時頃宿に戻る。ヌルボさんは相変わらずパソコンをいじっている。明日の主な計画はソウルを取り囲む城壁の一部分を歩く予定だ。テレビでは明日のスヌン(修能)試験に関するニュースを放送している。この試験は大学進学する生徒にとっては将来を決定づけするような大事な試験だ。この日は交通の混乱を裂けるため企業の始業時間を1時間遅くしたり、遅刻しそうな生徒がいるとパトカーが出動して会場まで送り届けることまでする。まさに国の一大イベントだ。テレビでは昨年の試験会場前で太鼓を打ち鳴らし受験生を激励するシーンが映し出され、試験開始は8時40分で、8時10分には会場入りするよう伝えていた。ヌルボさんは興味深々で、明日朝、会場となっている校洞小学校に様子を見に行きたいと言う。何かハプニングが起きないか期待しているようだ。


〇西大門駅の前(南西側)がすぐ西大門独立公園で、独立門の他いろんなモニュメント等があります。
 独立門[下左]は公園の南東の端にあります。画像の右端に写っているのは、独立門の生みの親ともいうべき徐載弼(ソ・ジェピル)の銅像です。<独立門>と聞くと、朝鮮史に疎い大方の日本人は「日本からの独立を記念して建てた?」と思うかもしれません。まあ、それも無理ないところでしょうか。実は「宗主国だった中国(清)からの独立」を念頭に置いたもので、1896年11月に着工し翌97年11月に完工したものです。その前提となるのが1895年4月に結ばれた下関条約。日清戦争に勝利した日本がその第一条に「清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス・・・」という条文を入れたことが朝鮮の置かれた状況を大きく変えました。
 ・・・ということを、韓国人の中でも誤解している人はずいぶん多い(半数以上てか!?)そうだし・・・。そして後ろ(北西)を見ると、3.1独立宣言記念塔[下右]が見えます。最初1963年にタプコル公園に建てられましたが公園整備のため79年に撤去され、その後92年にこの独立公園内に建て直されました。壁面に3.1独立宣言文と民族の代表33人の名前が刻まれています。
 1919年の3.1独立運動の時には、この地も運動の拠点の1つになったそうなので、あながちトンチンカンでもなさそうですが、誤解を助長させているように思います。

   
 昨年(2018年)3月1日の<三一節>には、文在寅大統領はここで「独立万歳」を叫びました[下左]が、これには韓国人の間でも「不適切だ」との意見があったそうです。(大統領の背後には金九・柳寛順・姜宇奎(カン・ウギュ)等の大きな肖像画や「独立万歳」等々と書かれた幟が多数掲げられています。)

   
 [上右]は、反対側から見た独立門です。手前にかなり大きい石柱が2本立っています。これは何かというと・・・。

   
 <迎恩門柱礎>と刻まれています。[上左] <迎恩門>とは中国の皇帝の使者を迎えるための門で、往時はこの脊柱の上に木製で緑色の屋根付きの門が載っていました。(→コチラの画像参照。)  次に、独立門の扁額について。[上右]は右からハングルで<독립문>(独立門)、そして反対側には漢字で<独立門>とありますが、これは当時独立協会の委員長だった李完用の書だという有力な説があります。後に大韓帝国の内閣総理大臣となり、韓国植民地化の元凶として今も<売国奴>の代名詞ともなっている人物です。その彼が書いた(といわれる)扁額の下で独立万歳を叫んだ文在寅大統領はそのことを知っていたかどうか?
※独立門についての日本語記事では→コチラコチラがなかなか詳しく書かれています。学問的なものでは→コチラ
 しかし、ウィキペディアの説明文も日本版と韓国版で違いがあり、たまたま私ヌルボが以前仁寺洞の古書店・通文館で購入していた金道泰「徐載弼博士自叙伝」(乙酉文庫.1972)の記述も必ずしも正しいとはされていないようだし・・・と、「いつ」「どういう立場」の人が書いたかによってかなりバイアスがあるようで、史実の確定は実にムズカシイと痛感した次第。


○私ヌルボ、モレネ市場[下左]は知りませんでした。もちろんそこの焼肉屋さんも。後でネット検索したら、モレネ精肉食堂というんですね。・・・って、今はもうこの店ないみたいですけど。韓牛[下中]とユッケを注文。[下右]

    
 この店については、→コチラの今年2月のブログ記事と、→コチラの2014年のなかなかディープな姉妹グルメ旅の記事に詳しく書かれています。ユッケの他に、육사시미(肉さしみ)というメニュー(100g7千ウォン)があるとは知らなかった!

望遠(マンウォン)市場も全然知らなかった。それにしても、S氏はどこからこういった情報を仕入れてくるんだろう? 耳コミ侮りがたし!

    
 マンウォン市場の入口[上左]とアーケード街[上中]。好物なのにこの頃日本では高くて買えないイチジクが安かったので買いました。[上右]。「今年最後よ」と店のアジュマ(おばさん)。

○昨年公開の韓国映画「1987、ある闘いの真実」をご覧になった方は多かろうと思います。全斗煥の軍事独裁政権を打倒した1987年の<6月民主抗争>を背景としたこの作品については、→コチラの記事で紹介しましたが、ただしこれはネタバレなし編。その中で「観た人のコメントに韓流ファンなら誰でも知ってるレベルの人気スターの<彼>がメイン・ビジュアルに入っていないのはなぜ?」とありましたが、それにはちょっとワケが・・・」と書いたものの、その後ネタバレ編を書いてないので、その「ワケ」もペンディング状態になっていました。
 で、今書きます。<彼>とはカン・ドンウォンのこと。主役ともいうべき彼が演じた人物が延世大生の李韓烈(イ・ハニョル)でした。それを事前に明かしてしまうと(李韓烈が有名なだけに)ネタバレになってしまうのでメイン・ビジュアルから外したということだと思います。
 さて、その李韓烈君が1987年6月9日催涙弾の直撃を受けて倒れた場所は・・・。
    
 延世大正門の真ん前。[上左]。銅板が埋め込まれています[上右]がもう薄暗くなっていたので、この画像では文字まで読み取れませんね。この銅板は2016年の6月9日に設置されました。その除幕式の記事は→コチラ。また→コチラの記事の画像だと文字が読み取れます。

    
 正門からキャンパス内に入って少し先、右手の学生会館の建物の前あたりに小高い築山(?)のような<韓烈の園(한열동산)>があり、その上に2015年6月9日に建てられたというモニュメントがありました。[上左]の大きな石は李韓烈追悼碑で「198769757922」という数字が刻まれています。6月9日に催涙弾を頭に受け7月5日死亡し、7月9日に民主国民葬が行われ、その時22歳だった、という意味です。[上右]はよく知られた報道写真を形象化したもの。※かなり暗い中で撮った写真を明るさを調整してなんとか読めるようにしました。
    
 明るい時だと[上左]のように見えるようです。また[上右]は、当時ロイター通信の記者だったチョン・テウォン(정태원)さんが撮影した写真です。この写真は翌6月10日の中央日報に大きく掲載され、運動に大きな影響を及ぼしました。またチョン・テウォンさんや、李韓烈君を抱きかかえている学友の李鐘昌さんの人生にとっても大きな1枚となりました。※李鐘昌さんについては→コチラの過去記事参照。
 ※「1987、ある闘いの真実」では、この写真の李韓烈君の顔をカン・ドンウォンの顔に「手直し」してありましたね。

    
 キャンパス内には他にもいろんなモニュメント等があります。<李韓烈の園>の下あたりに照明が当てられている造形物がありました。[上左] 文字の書かれた碑石[上中]を見ると노수석(魯秀碩.ノ・スソク)とあります。彼は延世大2年になったばかりの1996年3月、金泳三政権に対して授業料引上げ反対等を叫ぶデモに参加した際、強硬な弾圧により死亡したとのこと。その後1999年に名誉卒業証書を受け、2003年には国家民主化運動有功者と認定されたとか。このあたりの評価は、やはり当時進歩系政権だったから?と思ってしまいます。
 [上右]は少し離れた所にある尹東柱の詩碑。ここは以前来たことがあります。代表作とも言える「序詞」が刻まれていますが、この暗さではとても読めません。

     
 S氏がイソイソと弘大方面に向かった後、私ヌルボが行った古本屋というのは<アラディン中古書店 新村店>[上左]。この画期的な古書チェーン店については→コチラと→コチラの過去記事で書きました。その地下店舗に降りる階段の壁の一番上に尹東柱の絵がありました。[上右] 彼と縁のある延世大の近くだから?? その下はヴァージニア・ウルフか。

   
 いろいろあったこの1日。ようやく1人でホテルに帰ります。・・・と5号線鍾路駅に降り立つとまだ(!)午後8時ではないの。ちょっと最近話題の益善洞(イクソンドン)のようすを見てくるか、と思って行ってみればなるほど平日なのにすごい人出! まずは以前案内されて行った味カルメギサル専門(←店名)の場所の確認。(カルメギ(カモメ)の肉じゃなくて豚のハラミですよ。) しかしこれがなかなか見つからず一苦労。やっと見つけました。[上左] そしてたまたま見つけたのが最近開店したというパンの人気店ミルトースト[上右]
 ・・・これらの店はただ見るだけ。9時前にはホテルに戻って、結局マンウォン洞で買ったイチヂクを何個かムシャムシャ食べただけでした。

 この日の午後のことについて、見聞きしたこと、知っていたこと、後で調べたこと等を字数を気にせず書いて行ったらやっぱり長くなりすぎました。最後まで読んで下さった方、ホントにご苦労さまでした。

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