ヤター! 12月8日に読み始めた金重美(キム・ジュンミ.김중미)作の児童書「ケンイブリマルの子どもたち(괭이부리말 아이들)」を22日に読了! 「目標は年内読了」と9日の記事で書きましたが、思いのほか早かったです。
私ヌルボ、このところ韓国語の実力が目に見えて伸びた・・・のではなく、単に読みやすい文章と、1ページあたりの文字数の少なさによるものです。とはいえ、やっぱり半月で読破はうれしい! ・・・と感想文に着手してから、標記のタイトルで翻訳書(下画像)が出ていたことを知り、軽いショック。知っていたら読まなかったかも・・・。まあいいか。
ケンイブリマルとは仁川市万石洞の別名で、同市に一番古くからある<タルトンネ(달동네)>です。<月(タル)の街(トンネ)>とは、月に近い街、すなわち都市の高台にある貧民街をさす言葉です。
ケンイブリマルという地名の由来は、本書の冒頭に記されています。
この地は、もともと地面よりも干潟が多い海岸で、そこに木の茂った<고양이 섬(ネコ島)>という小さな島があったが、その後海岸が埋め立てられて痕跡もなくなり、長い年月の間に工場の煙突とバラック家屋だけが密集する工場地帯に変わりました。しかし<고양이(コヤンギ=ネコ)>から生まれた<ケンイブリマル>という言葉が残されたというわけです。
고양이→괭이はいいとして、また말(マル)は마을(マウル=村)の変化だとして、부리(ブリ)は辞書に「くちばし」とあるものの今ひとつよくわからず。翻訳の吉川凪さんは訳者あとがきで「ほんとうは「ねこのくちばし村」ですが、長すぎるので「ねこぐち村」にしてあります」と書いているので、それでいいのでしょう。たぶん島の形がくちばし状だったからなのかも・・・。
日々の生活に追われる土地の住人たちは、その地名の由来は知らないそうです。ただ好奇心の強い子どもたちが入り江や干潟を白く覆うウミネコ(고양이갈매기.コヤンイカルメギ)を見て、それからついたのだろう、と考えるくらいで・・・。
この作品は、その街で暮らす子どもたちの物語です。小学校5年の双子の姉妹を中心に展開しますが、そのほかにも近所の兄弟等の子どもたちが登場します。彼らを取り巻く環境は非常に厳しく、家が貧しくて食べることさえ精一杯で学校での給食が頼りであったり、父親が酒浸りのため愛想をつかした母親が子を残したまま実家に帰ったり、「金を稼いで帰る」と言い残して父親が遠くに行ってしまったり・・・。酒酔い運転や、重労働での疲れによる事故も、家族をさらなる不幸に追いやってしまいます。家庭の愛に恵まれない子どもたちは、ボンドの吸引等の逃避に走ったり、恐喝や万引き等の犯罪に手を染めたり・・・。
しかし、こんな環境の中でも、本書に登場する子どもたちは健気に希望をもって生きていきます。一度は道を踏み外しかけて拘置所まで入ってしまった少年も、彼らを支える青年や女性教師たちの助けもあって立ち直ります。
この作品は、創美が主催する<子どもの良書>で大賞に選ばれて2000年に出版され、またMBCテレビの<本を読もう>キャンペーンでも取り上げられて、数百万部ものベストセラーにもなりました。同じように厳しい状況にある子どもたちを力づけ、希望を与える<良書>の典型というべき本だからなのでしょう。(←皮肉にあらず。)
なんとなく、何十年か前、日本全体が貧しかった頃の児童文学や、ラジオドラマを連想させる話ですが、この物語の時代は「IMF危機以来、失業して1年あまりぶらぶらしていたトンスのお父さんは、ある日家を出ていった」とあるように、90年代末です。つまり、発行時のリアルタイムの話なんですね。
また、再開発が始まったその当時の街のようすも描かれています。
著者は1963年仁川生まれの女性で、87年からこのケンイブリマルに住み、子どもたちのための学習室を運営しているとのことで、この本に描かれたことの多くは、作家自身の体験に裏打ちされたことなのでしょう。
以後10年ほど経った今、ケンイプリマルのようすは相当に変わったようです。2005年にタルトンネ博物館が開館しましたが、その場所はまさにかつてタルトンネがあった水道局山。
私ヌルボも以前マッカーサー銅像がある自由公園や、旧日本銀行等がある一帯は歩いたことはあるのですが、その時はこの博物館ができていたかどうか・・・。映画「子猫をお願い」で仁川のタルトンネのことは知っていましたが・・・。
ネット検索すると、このマイナーな(?)博物館にも足を運んで、くわしいブログ記事を書いている皆さんがいらっしゃるのですね。
博物館内の写真をたくさん載せている<ASUKA物語>、日韓両国語で付近の観光ポイントとともに紹介している<スミン氏のマイナー韓流>、博物館付近に今も残るタルトンネや、「子猫をお願い」でペ・ドゥナが歩いた陸橋(!)等々付近の興味深い写真を載せてオタクぶりを発揮している<犬とたしなむミュージック>、月尾島の韓国移民史博物館と合わせて詳しく紹介している<大塚愛と死の美学>、どれもたいしたものです。
今年草彅剛氏がソウルのタルトンネを舞台にした「月の街 山の街」という翻訳本を出して話題になりました。その原作のイ・チョルファン「練炭の道」のシリーズの刊行が始まったのは2000年。今ソウルでも「最後のタルトンネ」といわれている所がわずかに残るばかり。それも再開発でなくなる寸前のようです。
※関係韓国サイト→蘆原区中渓本洞(チュンゲボンドン)、→西大門区弘済3洞(ホンジェサムドン)
しかし、低所得者層の比率が減っているわけでもないのに、タルトンネに住んでいた人たちはその後どこでどんな暮らしをしているのでしょうか?
★ケンイブリマルの歴史 ※本書より抄訳
ケンイブリマルに人々が集まって住みはじめたのは、1883年仁川が開港した後からである。 開港後に押し寄せてきた外国人に生活の場を奪われた撤去民がこの地の干潟を埋めて住みはじめた。 しかし今のように多くの人々が集まりはじめたのは日帝時代からである。 日本の植民地政府は港に近い万石洞に工場をたくさん建てた。 小麦粉工場、衣料品工場、木材工場、そして太平洋戦争のために造った造船所や倉庫が立ち並んだ。 すると貧しい労働者が仕事を求めてぞくぞく集まった。 日本が戦争で負けて日本人たちが追い出されても、ケンイブリマルにはバラックの粗末な家でも住もうとする貧しい人々が押し寄せてきた。
1950年朝鮮戦争が起きた。 戦争の末期の1・4後退の時、黄海道の人たち漁船に乗ってケンイブリマルに避難してきた。 戦争が終われば帰るつもりで海辺付近にテントを張って暮らしたが、戦争が終わっても故郷へ帰ることはできなかった。船で避難してきた人たちはしかたなく仁川の沖で魚を取って生活するようになり、何も持たずに逃げてきた人々は左官や大工になって波止場で働いた。 女たちは赤ん坊を負ぶって(今空港のある)永宗島や徳積島に行ってカキやアサリ等を頭に載せて売り歩いた。 カキやアサリが取れない時は永宗島の農民から買ったおこげを売り歩いた。お腹をすかせた貧しい人々には、おこげは煮込むと家族みんなの一食となるありがたい食べ物物だったという。
そんなふうに貧しい暮らしを続けながら、ケンイブリマルの人たち穴ぐらやテントを壊して新しく家を建てはじめた。 カキのからを埋めて地固めをして、お金が入ればセメントや材木を買って、少しずつ家を建てた。 そうして立てた家は、40年過ぎた今でも崩れずに残って、貧しい人たちのくつろぎの場所になっている。
朝鮮戦争のつらい記憶が薄れて避難民が故郷の思いを胸の中に埋める頃、今度は忠清道や全羅道から真夜中にふろしき包みを背負ったり小型トラックに荷物を積んだりして、離農民が押し寄せはじめた。
戦後、貧しくなった国を救う道は輸出しかないと騒ぎ出していたその頃、貧しい農村の若者たちは輸出関連の荷役のため農業を捨てて都市に押し寄せた。国は労働者たちの賃金を安くすませるために米価を低く抑える政策をとったため、農民は暮らしが立たなくなり、借金に追われるようになった。それで農民は農村を離れるしかなかったのである。
職を求めて都市に出てきた離農民は、金もなく技術もないためケンイブリマルのような貧民街に住みついた。バラックの家でも借りられる人はまた良かったが、そのお金さえない人たちはケンイブリマルの片隅にてのひらほどの空き地を見つけ、米軍基地から出たルーフィングという紙や板で家を建てた。 家を建てる土地がなければドブの上にも小屋を作り、線路のすぐそばにも家を建てた。そして少しでも部屋を広くするため、道は人がやっと通れる幅だけになった。それでケンイブリマルの路地はクモの巣のように細くて複雑になっている。
このようにしてケンイブリマルはどこからか追われてきた人たちが集まる村になった。 やって来た理由はそれぞれ違っても、貧しく無力な人々という共通点のため、町内の人々はたがいに兄弟のようになかよく過ごした。 故郷を離れた人々は新しい土地で新しい人々と新しいくつろぎの場所を作っていった。
年月が経って、他の人より熱心に仕事をした人や運がよい人はお金をためてケンイブリマルから出ていった。残ったのは、依然として貧しい人たちだった。
ケンイブリマルでも、道路工事とか住居環境の改善とやらで、線路そばのバラックも撤去された。ドブがフタで覆われた時、そばのバラックも消えた。 絶対にマンション(韓国語ではアパート)なんかできそうもなかったケンイブリマルの近くでもマンション工事が始まった。ケンイブリマルが金持ちになって変わったのではなく、もう都市全体が満杯になったために、人々が貧民窟だと言って敬遠していたケンイブリマルの近所くにまでマンションを建てないわけにはいかない状況になったのだ。ケンイブリマルは、大通りに続く街の入り口から変わりはじめた。バラックが取り壊され、棺桶のようなマンションが立ち並びはじめた。
ケンイブリマルに人々が集まって住みはじめたのは、1883年仁川が開港した後からである。 開港後に押し寄せてきた外国人に生活の場を奪われた撤去民がこの地の干潟を埋めて住みはじめた。 しかし今のように多くの人々が集まりはじめたのは日帝時代からである。 日本の植民地政府は港に近い万石洞に工場をたくさん建てた。 小麦粉工場、衣料品工場、木材工場、そして太平洋戦争のために造った造船所や倉庫が立ち並んだ。 すると貧しい労働者が仕事を求めてぞくぞく集まった。 日本が戦争で負けて日本人たちが追い出されても、ケンイブリマルにはバラックの粗末な家でも住もうとする貧しい人々が押し寄せてきた。
1950年朝鮮戦争が起きた。 戦争の末期の1・4後退の時、黄海道の人たち漁船に乗ってケンイブリマルに避難してきた。 戦争が終われば帰るつもりで海辺付近にテントを張って暮らしたが、戦争が終わっても故郷へ帰ることはできなかった。船で避難してきた人たちはしかたなく仁川の沖で魚を取って生活するようになり、何も持たずに逃げてきた人々は左官や大工になって波止場で働いた。 女たちは赤ん坊を負ぶって(今空港のある)永宗島や徳積島に行ってカキやアサリ等を頭に載せて売り歩いた。 カキやアサリが取れない時は永宗島の農民から買ったおこげを売り歩いた。お腹をすかせた貧しい人々には、おこげは煮込むと家族みんなの一食となるありがたい食べ物物だったという。
そんなふうに貧しい暮らしを続けながら、ケンイブリマルの人たち穴ぐらやテントを壊して新しく家を建てはじめた。 カキのからを埋めて地固めをして、お金が入ればセメントや材木を買って、少しずつ家を建てた。 そうして立てた家は、40年過ぎた今でも崩れずに残って、貧しい人たちのくつろぎの場所になっている。
朝鮮戦争のつらい記憶が薄れて避難民が故郷の思いを胸の中に埋める頃、今度は忠清道や全羅道から真夜中にふろしき包みを背負ったり小型トラックに荷物を積んだりして、離農民が押し寄せはじめた。
戦後、貧しくなった国を救う道は輸出しかないと騒ぎ出していたその頃、貧しい農村の若者たちは輸出関連の荷役のため農業を捨てて都市に押し寄せた。国は労働者たちの賃金を安くすませるために米価を低く抑える政策をとったため、農民は暮らしが立たなくなり、借金に追われるようになった。それで農民は農村を離れるしかなかったのである。
職を求めて都市に出てきた離農民は、金もなく技術もないためケンイブリマルのような貧民街に住みついた。バラックの家でも借りられる人はまた良かったが、そのお金さえない人たちはケンイブリマルの片隅にてのひらほどの空き地を見つけ、米軍基地から出たルーフィングという紙や板で家を建てた。 家を建てる土地がなければドブの上にも小屋を作り、線路のすぐそばにも家を建てた。そして少しでも部屋を広くするため、道は人がやっと通れる幅だけになった。それでケンイブリマルの路地はクモの巣のように細くて複雑になっている。
このようにしてケンイブリマルはどこからか追われてきた人たちが集まる村になった。 やって来た理由はそれぞれ違っても、貧しく無力な人々という共通点のため、町内の人々はたがいに兄弟のようになかよく過ごした。 故郷を離れた人々は新しい土地で新しい人々と新しいくつろぎの場所を作っていった。
年月が経って、他の人より熱心に仕事をした人や運がよい人はお金をためてケンイブリマルから出ていった。残ったのは、依然として貧しい人たちだった。
ケンイブリマルでも、道路工事とか住居環境の改善とやらで、線路そばのバラックも撤去された。ドブがフタで覆われた時、そばのバラックも消えた。 絶対にマンション(韓国語ではアパート)なんかできそうもなかったケンイブリマルの近くでもマンション工事が始まった。ケンイブリマルが金持ちになって変わったのではなく、もう都市全体が満杯になったために、人々が貧民窟だと言って敬遠していたケンイブリマルの近所くにまでマンションを建てないわけにはいかない状況になったのだ。ケンイブリマルは、大通りに続く街の入り口から変わりはじめた。バラックが取り壊され、棺桶のようなマンションが立ち並びはじめた。
http://blog.goo.ne.jp/dalpaengi/e/48e24702d380eeb22d07b2324d9a5b38
映画の予告編を見ると、オクタプパンのようすがよくわかりますね。