対馬の盗難仏像の返還問題、元徴用工に対する戦後補償問題等、日本人の常識からは疑問を感じざるをえない近年の韓国の司法判断に対して「国民情緒法」という言葉がよく使われています。ウィキペディア(→コチラ)の説明にあるように、「国民情緒」を優先して「罪刑法定主義を否定」し、憲法さえも超越する韓国の法の軽視の風潮を揶揄した言葉です。しかし、これは日本の誰かの造語ではなく、韓国内で金大中政権の頃から広まった言葉であるという重要なことが書かれていません。したがって、「反日的法解釈」としてのみ理解されるおそれがあるかもしれません。
で、その「国民情緒法」が韓国の国民の間ではどう考えられているのだろうかと疑問に思って韓国雑誌や韓国サイトの記事をいろいろ読み漁っていると、月刊誌「新東亜」の2月号に<判決の誤りを常識により覆すだと?(판결의 오류를 상식으로 뒤집겠다고?)>という記事がありました。(→原文はコチラで読めます。)
「国民情緒」という言葉こそ出てきませんが、韓国人の法意識を、具体例をあげつつ、その国民性や伝統的価値観等から説明していて興味深く読みました。
今回は、この記事の本題ではなく、日韓の法意識の違いを説明するためにあげている建築方式の例が興味深かったというか、はっきり言って「驚いた」ので紹介します。
とりあえず、その部分をまるごと訳出しました。
《並たいていではない主体性》
しかし、最近韓国と日本を比較した研究によると、韓国人は日本人に比べて自己主張が強く、自分が統制することを好み、自分の存在感が認められることを好む。このような特性は、韓国人が業務で柔軟かつ臨機応変に処することが非常に強いと評価されることと関連がある。韓国人は、現場で突然接する問題に積極的に対応して、自分の判断ですぐに仕事の処理をする点に強みがある。
日本や西欧に行けば、定められた原則のとおりに、または規定による手続きをふまえないと何もできず待たなければならないことが多い。日本の建築放送を見ると、家を建てる時すべての材料が設計にしたがってあらかじめ裁断されて届けられ、現場では組み立てだけをする光景がよく見られる。このような作業を可能にするには、所定の設計に合わせてすべての人が一糸乱れず少しの誤差もなくことにあたる習慣が必要である。
ところが韓国の建設現場は、このような作業を行う技術がないのではなく、このようなプロセス自体を好まない。多くの建設現場で設計通りに工事は行われてはいない。前もってすべてが作られて組み立てだけするのではなく、現場の状況に合わせて柔軟に対処できる余地を持とうとする。そのまま決められた通りにするよりは、自分が思ったままに(마음대로)決定できる機会を持つことを望む。
もちろん、現場で思ったままに下すその決定は、まさしく自分が正しいと信じることによるものだ。設計者と現場責任者の間には常に緊張が生じる。「おまえが現場に対して何を知っている?」という経験豊富な現場監督の口出しが常に聞こえてくる。このような主体性がまさに韓国経済の高速成長の秘訣の一つだ。
このような主体的特性により、韓国人は司法部の判断をそのまま信じて従うより、個々人が、自分だけの司法判断を下すことを好む。巨大な組織の中で規範と原則によって自分の行動が決定され、自分の存在感が失われることを決して受け入れることができない韓国人は、司法判断においても自分だけの原則に沿った自分の判断が認められることを願う。自分の判断と一致していない判決は正しくもなく、自分の存在が無視されるように感じられ、到底耐えられない。だから静かに悲しみと怒りを飲み込む日本とは異なり、韓国人は人に聞こえるほど泣き叫び、当然人は聞いたふりをしてくれると期待する。
※筆者は、韓国人の特性やそれによる法意識を必ずしも肯定的に書いているわけではないので誤解なきよう。
建築にはド素人の私ヌルボ、この記事を読むまで建築現場での設計者側と施工業者(直接的には現場監督)との関係性が日本と韓国で大きく(?)異なるということは全然知りませんでした。
「工事監理」や「工事管理」という言葉の意味(→参考)等、若干付け焼刃で仕入れた知識では、設計者側が当然建築現場に足を運び、間違いなく設計図通りに工事が進行しているかを確認するわけですが、韓国では記事にあるように現場監督がその場でいろいろ自分の経験を武器に「物申す」ことが多いということでしょうか?
もちろん韓国にも建築士がいて建築法もありますが、現場での慣行といったものがかなり違うのかな? ここらへん、正確なところは専門の方にお聞きしたいところです。
韓国の建築といえば、いろいろ思い起こしたのが過去のいろんな事故のこと。
たとえば→コチラの記事ではあの三豊デパートの崩落、聖水大橋の崩壊等々、たくさんの事故を写真入りで紹介しています。
昨2014年5月には、牙山(アサン)で竣工間近のオフィステルが大きく傾いたことが報じられました。中央日報日本語版の記事(→コチラ)によると、「設計では基礎を頑丈にするために太さ40センチの鉄柱69本を打ち込むことになっていたが、実際はこれより10本少なく施工を行った」、また「設計図では厚さ1mのコンクリート基盤を積むことになっていたが、60cmしか設置しなかった」そうです。
※→関連記事。今年1月産経新聞「ビル傾く手抜き工事、韓国建設現場“あり得ない実態”」
上記の事例など、施工の状況のチェックは一体どうなっていたのか、設計・施工のどちらにどれほど責任があるのかがよくわかりません。
同様の建設現場の不正を伝えたニュースは2014年10月にもありました。「トンネルの要「ロックボルト」、設計の3割しかない区間も」という朝鮮日報(日本語版)の記事。(→コチラ(会員制)。または→コチラ。) 高速道路のトンネル工事で用いるロックボルトを設計よりも数千本から数万本ずつ少なく使用し、多額の工事代金を詐取した建設会社12社の社員が一斉に摘発され、ある土建会社は設計通りの本数の代金を発注者の韓国道路公社に請求して約8400万円を詐取したとか。また建設会社は発覚恐れ書類を改竄したり、道路公社と施工監理業者は資材の搬入数さえ確認せず等々、つまり設計&施工の会社ぐるみで、あきれるほど大がかりな犯罪です。
国民の安全を犠牲にしたこのような大きな詐取事件だけでなく、建築現場での小規模の資材の横流しの事例はたくさんありそうで、以前何かで読んだことがありました。
この「新東亜」の記事では、韓国がOECD加盟国中で腐敗指数も非常に高く、交通法規違反による交通事故と死傷者数も多い理由を次のように述べています。
これらは一部のとくに不道徳な国民や地域・組織等に限定されるものではなく、「国民大部分に共通する特性」と考えた方がよい。つまり「個々の国民が規定、法律、原則より自分の判断を優先する」ためである。
あえて罪を犯したり法律を無視しようというものではないのだが、決定の瞬間になぜかそれでも大丈夫そうな感じがする。「危険とは思えないんだけど」「この程度ならやってもいいのでは」「こうするのがよさそう」といった判断がごく自然になされる。 「法を破る」のではなく「私が主体的により良い判断をする」のだ。
現場の人たちの経験知に根ざした職人精神(韓国語では匠人精神(장인정신)といったものが発揮されると「いい仕事をするねー」という評価につながるのでしょうが、「この程度なら手抜きしても大丈夫だろう」という根拠のない楽観的観測という形での「現場の主体的な判断」がはびこるとセウォル号沈没のような大事故にもなるわけで、実に厄介な「国民大部分に共通の特性」ですが・・・。(と書くとほとんど嫌韓サイトと同じような書きようになってしまいますね。)
日本でも、半世紀以上前の家屋の建築現場では今のようにフェンスで囲うこともなく、道すがらかんなや墨壷(!)を使っているようすに見入ったりもしながら、出来上がっていく過程がわかったものです。昼飯時にはお酒なんかも飲んだりしてた、かな?
他のいろんな業種でも、製造・セールスだの、学校だと就職指導だの、直接担当者の裁量部分が昔は相当大きかったと思います。それが責任体制とかコンプライアンスとかが重視される時代になって、個人裁量部分はずいぶん狭まってきました。ヌルボのような「昭和の人間」にとっては、融通が利かなくなったというマイナス面を痛感したことが多々ありましたが、まあ時代の流れというものですね。
韓国の場合も、上述のような面は(ヌルボの持論の)「日本の24年遅れ」という時代の差によるところもあるかも、とも思いますが、やっぱり「新東亜」の記者も指摘しているような「国民大部分に共通する特性」なんですかねー。
で、その「国民情緒法」が韓国の国民の間ではどう考えられているのだろうかと疑問に思って韓国雑誌や韓国サイトの記事をいろいろ読み漁っていると、月刊誌「新東亜」の2月号に<判決の誤りを常識により覆すだと?(판결의 오류를 상식으로 뒤집겠다고?)>という記事がありました。(→原文はコチラで読めます。)
「国民情緒」という言葉こそ出てきませんが、韓国人の法意識を、具体例をあげつつ、その国民性や伝統的価値観等から説明していて興味深く読みました。
今回は、この記事の本題ではなく、日韓の法意識の違いを説明するためにあげている建築方式の例が興味深かったというか、はっきり言って「驚いた」ので紹介します。
とりあえず、その部分をまるごと訳出しました。
《並たいていではない主体性》
しかし、最近韓国と日本を比較した研究によると、韓国人は日本人に比べて自己主張が強く、自分が統制することを好み、自分の存在感が認められることを好む。このような特性は、韓国人が業務で柔軟かつ臨機応変に処することが非常に強いと評価されることと関連がある。韓国人は、現場で突然接する問題に積極的に対応して、自分の判断ですぐに仕事の処理をする点に強みがある。
日本や西欧に行けば、定められた原則のとおりに、または規定による手続きをふまえないと何もできず待たなければならないことが多い。日本の建築放送を見ると、家を建てる時すべての材料が設計にしたがってあらかじめ裁断されて届けられ、現場では組み立てだけをする光景がよく見られる。このような作業を可能にするには、所定の設計に合わせてすべての人が一糸乱れず少しの誤差もなくことにあたる習慣が必要である。
ところが韓国の建設現場は、このような作業を行う技術がないのではなく、このようなプロセス自体を好まない。多くの建設現場で設計通りに工事は行われてはいない。前もってすべてが作られて組み立てだけするのではなく、現場の状況に合わせて柔軟に対処できる余地を持とうとする。そのまま決められた通りにするよりは、自分が思ったままに(마음대로)決定できる機会を持つことを望む。
もちろん、現場で思ったままに下すその決定は、まさしく自分が正しいと信じることによるものだ。設計者と現場責任者の間には常に緊張が生じる。「おまえが現場に対して何を知っている?」という経験豊富な現場監督の口出しが常に聞こえてくる。このような主体性がまさに韓国経済の高速成長の秘訣の一つだ。
このような主体的特性により、韓国人は司法部の判断をそのまま信じて従うより、個々人が、自分だけの司法判断を下すことを好む。巨大な組織の中で規範と原則によって自分の行動が決定され、自分の存在感が失われることを決して受け入れることができない韓国人は、司法判断においても自分だけの原則に沿った自分の判断が認められることを願う。自分の判断と一致していない判決は正しくもなく、自分の存在が無視されるように感じられ、到底耐えられない。だから静かに悲しみと怒りを飲み込む日本とは異なり、韓国人は人に聞こえるほど泣き叫び、当然人は聞いたふりをしてくれると期待する。
※筆者は、韓国人の特性やそれによる法意識を必ずしも肯定的に書いているわけではないので誤解なきよう。
建築にはド素人の私ヌルボ、この記事を読むまで建築現場での設計者側と施工業者(直接的には現場監督)との関係性が日本と韓国で大きく(?)異なるということは全然知りませんでした。
「工事監理」や「工事管理」という言葉の意味(→参考)等、若干付け焼刃で仕入れた知識では、設計者側が当然建築現場に足を運び、間違いなく設計図通りに工事が進行しているかを確認するわけですが、韓国では記事にあるように現場監督がその場でいろいろ自分の経験を武器に「物申す」ことが多いということでしょうか?
もちろん韓国にも建築士がいて建築法もありますが、現場での慣行といったものがかなり違うのかな? ここらへん、正確なところは専門の方にお聞きしたいところです。
韓国の建築といえば、いろいろ思い起こしたのが過去のいろんな事故のこと。
たとえば→コチラの記事ではあの三豊デパートの崩落、聖水大橋の崩壊等々、たくさんの事故を写真入りで紹介しています。
昨2014年5月には、牙山(アサン)で竣工間近のオフィステルが大きく傾いたことが報じられました。中央日報日本語版の記事(→コチラ)によると、「設計では基礎を頑丈にするために太さ40センチの鉄柱69本を打ち込むことになっていたが、実際はこれより10本少なく施工を行った」、また「設計図では厚さ1mのコンクリート基盤を積むことになっていたが、60cmしか設置しなかった」そうです。
※→関連記事。今年1月産経新聞「ビル傾く手抜き工事、韓国建設現場“あり得ない実態”」
上記の事例など、施工の状況のチェックは一体どうなっていたのか、設計・施工のどちらにどれほど責任があるのかがよくわかりません。
同様の建設現場の不正を伝えたニュースは2014年10月にもありました。「トンネルの要「ロックボルト」、設計の3割しかない区間も」という朝鮮日報(日本語版)の記事。(→コチラ(会員制)。または→コチラ。) 高速道路のトンネル工事で用いるロックボルトを設計よりも数千本から数万本ずつ少なく使用し、多額の工事代金を詐取した建設会社12社の社員が一斉に摘発され、ある土建会社は設計通りの本数の代金を発注者の韓国道路公社に請求して約8400万円を詐取したとか。また建設会社は発覚恐れ書類を改竄したり、道路公社と施工監理業者は資材の搬入数さえ確認せず等々、つまり設計&施工の会社ぐるみで、あきれるほど大がかりな犯罪です。
国民の安全を犠牲にしたこのような大きな詐取事件だけでなく、建築現場での小規模の資材の横流しの事例はたくさんありそうで、以前何かで読んだことがありました。
この「新東亜」の記事では、韓国がOECD加盟国中で腐敗指数も非常に高く、交通法規違反による交通事故と死傷者数も多い理由を次のように述べています。
これらは一部のとくに不道徳な国民や地域・組織等に限定されるものではなく、「国民大部分に共通する特性」と考えた方がよい。つまり「個々の国民が規定、法律、原則より自分の判断を優先する」ためである。
あえて罪を犯したり法律を無視しようというものではないのだが、決定の瞬間になぜかそれでも大丈夫そうな感じがする。「危険とは思えないんだけど」「この程度ならやってもいいのでは」「こうするのがよさそう」といった判断がごく自然になされる。 「法を破る」のではなく「私が主体的により良い判断をする」のだ。
現場の人たちの経験知に根ざした職人精神(韓国語では匠人精神(장인정신)といったものが発揮されると「いい仕事をするねー」という評価につながるのでしょうが、「この程度なら手抜きしても大丈夫だろう」という根拠のない楽観的観測という形での「現場の主体的な判断」がはびこるとセウォル号沈没のような大事故にもなるわけで、実に厄介な「国民大部分に共通の特性」ですが・・・。(と書くとほとんど嫌韓サイトと同じような書きようになってしまいますね。)
日本でも、半世紀以上前の家屋の建築現場では今のようにフェンスで囲うこともなく、道すがらかんなや墨壷(!)を使っているようすに見入ったりもしながら、出来上がっていく過程がわかったものです。昼飯時にはお酒なんかも飲んだりしてた、かな?
他のいろんな業種でも、製造・セールスだの、学校だと就職指導だの、直接担当者の裁量部分が昔は相当大きかったと思います。それが責任体制とかコンプライアンスとかが重視される時代になって、個人裁量部分はずいぶん狭まってきました。ヌルボのような「昭和の人間」にとっては、融通が利かなくなったというマイナス面を痛感したことが多々ありましたが、まあ時代の流れというものですね。
韓国の場合も、上述のような面は(ヌルボの持論の)「日本の24年遅れ」という時代の差によるところもあるかも、とも思いますが、やっぱり「新東亜」の記者も指摘しているような「国民大部分に共通する特性」なんですかねー。
韓国の小説をあれこれ読んでいてかなり頻繁に感じるのが、政府・法律・企業といった公的な存在と国民との間の距離感です。強者・富者である政府・法律・企業は弱者・貧者の立場にある国民に益となることを何一つしてくれない、という主張をベースにしているものが非常にたくさんあり、自分を守れるのは自分しかないという結論に行きつきます。国がそもそも国民の集合体でできているという認識がなく、国民に敵対するものとして描かれているように感じます。
先日、『U+BCF4U+D5E4U+BBF8U+C548 U+B7A9U+C18CU+B514』という現役の判事さんが書かれた、第10回世界文学賞受賞作と、友人が共訳者のひとりとして加わった『銭の戦争』を読みました。『U+BCF4U+D5E4U+BBF8U+C548 U+B7A9U+C18CU+B514』は私小説的な面もあって主人公はやはり判事、『銭の戦争』はソウル大学数学科を首席で卒業した男性が主人公です。
2人とも強者の側として描かれても不思議ない経歴の登場人物ですが、弱者であるいち国民として描かれ、やはり「法は自分を守ってくれないので自ら行動を起こす」のです。
そして、これら作品の書評を読むと、「韓国社会では往々にして見られる現実」とか「誰しも経験があるはず」とか書かれています。
法律より自分の経験と勘からくる判断の方が正しいという思考は、法律を作り、変えていく人と自分は他人であるとの距離感と密接につながっているように思います。
http://contents.innolife.net/book/qacont.php?qa_table=fs_report3&aq_id=3931
長い軍事独裁政権の下、法律も司法も「権力の道具」でしたから、「信頼」どころではありませんね。逆に90年代以降は警察等の公的機関&公務員が低く見られている、といったことが「新東亜」の記事にも書かれていました。
また、韓国では「裁判は金や地位のある者が裏で取り仕切っている」と考えている人が多いようですが、そう思われるような現実があるということでしょうね。映画にもなった「トガニ」はその氷山の一角なんでしょう。
今日の中央日報の「日本、お金で「知日派」増やす」という記事も、韓国的視点といえるかもしれません。 →
http://japanese.joins.com/article/987/197987.html?servcode=A00§code=A10
国民情緒法には「儒教の徳治主義の影響がある」という指摘がありますが、そのような為政者側の視点とは別に、庶民の側の法意識も日韓でかなりの違いがありそうで、分析するとおもしろそうですね。
昨年末にやっとこさスマホデビューしたのでどうも使い慣れなくていけません。
ま、四半世紀を越えてお付き合いしている韓国についてもまだまだ謎だらけなのですから、仕方ありませんね(^_^;)
発覚した数々の「手抜き」の中でも、天井の龍の絵の「再現」ぶりにはとりわけ衝撃を受けたのですが、あれが現場裁量によるものだとすれば、何となく理解はできます。
もっとも、国宝1号に対する扱いとして、あの絵になかなか納得はできませんが…。関係者の皆さんはその辺、どう思っておられるんでしょうね。
画像を見てみると、たしかにアニメ風のカワイイ目をしてますね。しかし格調がぜ~んぜん(笑)。
韓国でも非難の声が上がっていたようですが、エンハウィキミラーの詳しい記事によると、コチラの方が本来の形である文化財庁が説明したそうです。「龍を戯画化したのは、韓国だけでなく、中国でも流行したもので、漢時期の時から・・・」とのことです。 →
https://mirror.enha.kr/wiki/%EC%88%AD%EB%A1%80%EB%AC%B8
ほんまかいな!?証拠をみせてみなはれ、と言いたくなりますね。
セウォル号事件も無理やり客室を建て増したことが悲劇につながったとか言われているみたいですね。
最近も道路の陥没が(またもや)ニュースになっていますが、同様のことは今後も繰り返されるだろうとフツーに思います。
日本では水銀問題で赤チンは現在あまり使われず
http://matome.naver.jp/m/odai/2136039363221121901
その代わり消毒をあまりしない『湿潤療法』が普及しつつあります。
考えてみたら軽い怪我をして『こんなの、唾をつけとけば治るよ』から始まって『こんなの赤チン塗っとけばいい』になり、そして湿潤療法へと進化?してきたのが日本の現在イマココだと思います。
韓国の現在イマココは『こんなの赤チン塗っとけばいい』だとすると、『湿潤療法』に対する韓国人の認識はまだまだ日本ほど普及していないのか?と思いました。(湿潤療法という言葉は朝鮮語でどのように表現されているのか?気になります。)
日本と韓国は経済や世相で約15年から20年くらいの差があるとも言われますので、湿潤療法が韓国に普及するのはあと、10年くらいかかるでしょうか?
いろいろ教えて下さってありがとうございました。