図書館で9月13日の「朝鮮日報」をパラパラと眺めていたら、A29面の一番下に「「~같아요」という言葉、慢性病になっているのでは?」と題した投稿記事があるのが目に入りました。
「~같아요(カッタヨ)」とは、「~みたいです」「~のようです」といった意味の文末表現です。またGoogle翻訳等では「~と思います」と訳出されたりもしています。
※記事本文(原文)は下の画像または→コチラ参照。
記事の内容は、およそ次のようなものです。
○最近TVなどで男女を問わず「~같아요」という語尾表現が多く、耳に障る。
○たとえば、風景を見て「멋진 것 같아요」(ステキみたい)、「아름다운 것 같아요」(美しいみたい)と言ったり、感想や意見を訊くと「좋은 것 같아요」(良いみたい)、「행복한 것 같아요」(幸せみたい)、「슬픈 것 같아요」(悲しいみたい)と言ったりしている。はなはだしくは「아픈 것 같아요」(痛いみたい)と言う場合もある。食べ物の味についても「맛있는 것 같아요」(美味しいみたい)、「매운 것 같아요」(辛いみたい)と言うのをよく聞く。
○なぜ自分が直接経験したことまで他人の話のように言ってしまうのか? 「풍경이 멋집니다」(風景がステキです)、「아름답습니다」(美しいです)、「행복합니다」(幸せです)、「맛이 좋습니다」(美味しいです)、このように断定的になぜ言えないのだろうか?
○いつからか、青少年と若年層でこのような曖昧な表現が増え始め、以後減少するどころか、社会全体に拡大していく感じだ。私たちのほとんどが何か確信できず、自信が欠如したまま生きているためではないか。このように何気なく話す言葉が普遍化され、社会を無気力にしてはいないだろうか。もっと積極的な言葉を使って、活気に満ち堂々とした大韓民国を作ろう。
・・・いやあ、私ヌルボもたしかにちょっと気にはなってたこの表現。「朝鮮日報」がこの投稿を掲載したということは、やっぱり同様の認識があるということですねー。よく聞くからそれがフツーなんだろうなと思って自分でも意識的に使うようになってたみたいな・・・。(笑)
今「것 같아요 韓国語」でググる(→結果)と、多くの韓国語関係サイトでもごく当たり前のようにこの「~것 같아요」の表現を紹介・説明しています。
で、私ヌルボがこの記事を読んで「もしかして・・・」と思ったのは「韓国でも日本の後を追ってこうしたアイマイ・婉曲表現が増えてきているのかな?」ということ。
日本で、やはり若者を中心として「~かな」「~みたいな」「~感じ」「~とか」「~かも」等のように文末をアイマイにぼかす表現が目立つようになってメディア等でも取り上げられたのはいつ頃だったのかな? その時にもやはり「なんではっきり言わないんだ!?」と批判する人もいましたね・・・。
個人的にはヌルボ、本ブログの書き方にも如実に表われていますが、「~と思います(思われます)」「~ではないでしょうか?」等々のボンヤリとした表現を多用していて、断定形を用いることはまれです。それは断定できます。(笑)
何十年も前のことですが、あるベテランの先生が「私は内心では疑問に思っていることや個人的な考えであっても、授業では「○○は△△だ」と断定的な言い方をします」と言ったことを今も覚えています。そちらの方が生徒としては明確に理解できるからとのことでした。
ところがヌルボとしては「「坊つちやん」の作者は夏目漱石です」のような事実を述べる場合は別として「○○は△△だと思います」という言い方を意識的にしてきました。「自分はそう思うが、人によってはそう思わないだろう。では君はどう思う?」という意図を込めた表現として。
こうしたアイマイ表現・ぼかし表現が増えた背景としては、多様な価値観を認めるという風潮があるのかもしれません。心理的には、我を通さず他者を尊重し、対立を回避する<やさしさ>の表われという面とともに、<責任逃れ>といった否定的側面もありそうに思われます。(←この表現がまさにソレ。)
こんな<時代的気分>が逆行することは考えられず、この投稿についての賛否は別として、「~같아요」という表現は今後も増えることはあっても減ることはまずないでしょう。
※本ブログで何度か書いた<日本と韓国の24年という年差>という持論に、この事例も含まれるかどうか?
「~같아요(カッタヨ)」とは、「~みたいです」「~のようです」といった意味の文末表現です。またGoogle翻訳等では「~と思います」と訳出されたりもしています。
※記事本文(原文)は下の画像または→コチラ参照。
記事の内容は、およそ次のようなものです。
○最近TVなどで男女を問わず「~같아요」という語尾表現が多く、耳に障る。
○たとえば、風景を見て「멋진 것 같아요」(ステキみたい)、「아름다운 것 같아요」(美しいみたい)と言ったり、感想や意見を訊くと「좋은 것 같아요」(良いみたい)、「행복한 것 같아요」(幸せみたい)、「슬픈 것 같아요」(悲しいみたい)と言ったりしている。はなはだしくは「아픈 것 같아요」(痛いみたい)と言う場合もある。食べ物の味についても「맛있는 것 같아요」(美味しいみたい)、「매운 것 같아요」(辛いみたい)と言うのをよく聞く。
○なぜ自分が直接経験したことまで他人の話のように言ってしまうのか? 「풍경이 멋집니다」(風景がステキです)、「아름답습니다」(美しいです)、「행복합니다」(幸せです)、「맛이 좋습니다」(美味しいです)、このように断定的になぜ言えないのだろうか?
○いつからか、青少年と若年層でこのような曖昧な表現が増え始め、以後減少するどころか、社会全体に拡大していく感じだ。私たちのほとんどが何か確信できず、自信が欠如したまま生きているためではないか。このように何気なく話す言葉が普遍化され、社会を無気力にしてはいないだろうか。もっと積極的な言葉を使って、活気に満ち堂々とした大韓民国を作ろう。
・・・いやあ、私ヌルボもたしかにちょっと気にはなってたこの表現。「朝鮮日報」がこの投稿を掲載したということは、やっぱり同様の認識があるということですねー。よく聞くからそれがフツーなんだろうなと思って自分でも意識的に使うようになってたみたいな・・・。(笑)
今「것 같아요 韓国語」でググる(→結果)と、多くの韓国語関係サイトでもごく当たり前のようにこの「~것 같아요」の表現を紹介・説明しています。
で、私ヌルボがこの記事を読んで「もしかして・・・」と思ったのは「韓国でも日本の後を追ってこうしたアイマイ・婉曲表現が増えてきているのかな?」ということ。
日本で、やはり若者を中心として「~かな」「~みたいな」「~感じ」「~とか」「~かも」等のように文末をアイマイにぼかす表現が目立つようになってメディア等でも取り上げられたのはいつ頃だったのかな? その時にもやはり「なんではっきり言わないんだ!?」と批判する人もいましたね・・・。
個人的にはヌルボ、本ブログの書き方にも如実に表われていますが、「~と思います(思われます)」「~ではないでしょうか?」等々のボンヤリとした表現を多用していて、断定形を用いることはまれです。それは断定できます。(笑)
何十年も前のことですが、あるベテランの先生が「私は内心では疑問に思っていることや個人的な考えであっても、授業では「○○は△△だ」と断定的な言い方をします」と言ったことを今も覚えています。そちらの方が生徒としては明確に理解できるからとのことでした。
ところがヌルボとしては「「坊つちやん」の作者は夏目漱石です」のような事実を述べる場合は別として「○○は△△だと思います」という言い方を意識的にしてきました。「自分はそう思うが、人によってはそう思わないだろう。では君はどう思う?」という意図を込めた表現として。
こうしたアイマイ表現・ぼかし表現が増えた背景としては、多様な価値観を認めるという風潮があるのかもしれません。心理的には、我を通さず他者を尊重し、対立を回避する<やさしさ>の表われという面とともに、<責任逃れ>といった否定的側面もありそうに思われます。(←この表現がまさにソレ。)
こんな<時代的気分>が逆行することは考えられず、この投稿についての賛否は別として、「~같아요」という表現は今後も増えることはあっても減ることはまずないでしょう。
※本ブログで何度か書いた<日本と韓国の24年という年差>という持論に、この事例も含まれるかどうか?
※見出し中の고질병は漢字では痼疾病。持病・慢性病といった意味。
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