ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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2005年毎日新聞・萩尾信也記者が連載記事「人の証し」で金夏日さんの軌跡を記す

2013-02-03 23:15:14 | 在日の作家と作品

 東日本大震災の直後から、毎日新聞の萩尾信也記者が被災地現場で取材して書いた「三陸物語」は注目され、2012年度の日本記者クラブ賞も受賞しました。
 私ヌルボが萩尾記者の名を知ったのは、2002~03年毎日新聞連載の「生きる者の記録」からでした。同じ社会部の先輩で、末期がんで余命1年と宣告された佐藤健記者の最期の日々を綴ったドキュメントです。
 最初の秋田県玉川温泉の湯治場の記事(→参考)には大きな衝撃を受けました。この企画は佐藤健記者自身が提起したのですが、その「誰か三途の川の途中まで同行するやつはいないのか」という話を聞いて、「僕が看取りをやります」と局長に電話したのが萩尾記者でした。(「ジャーナリズムの方法」(早稲田大学出版部) 佐藤、萩尾両記者とも、なんという記者魂でしょうか・・・。

 その萩尾記者が2005年に<戦後60年の原点>というタイトルの特集企画で7回連続の囲み記事で取り上げたのが金夏日(キム・ハイル)さんのことでした。

 彼の人生の軌跡を辿るというミクロの視点が<戦後60年の原点>を探ることにつながるという萩尾記者のねらいは、通読してみて納得されました。
 金夏日さんは1939年13歳の時慶尚北道の村から家族で夜逃げして日本に渡り、東京で尋常小学校夜間部に通いながら製菓工場で働きはじめて3年後、「らい」を発症して警察を通じて多磨全生園に送られます。
 しかし45年春、家計を支えようと無断で園を出て防空壕掘りの仕事で稼ぎますが、5月25日の山の手空襲で焼け出されます。焼夷弾の雨が降る火炎地獄の中で「どうせ無用の命だ。殺せ!」と開き直った彼に聞こえたのは「ハイル!」と呼ぶ父の、そして母の声・・・。
 戦後は闇市に店を出したりもしましたが、病状が悪化し、群馬県草津の栗生楽泉園に入って以後そこで長く暮らすことになります。

           
     【「毎日新聞」2005年11月24~26日、12月1~4日掲載に掲載されました。これはその第1回の一部。】

 この7回の連載では現在(05年当時79歳)までを辿っています。記者として当然とはいえ、金夏日さんの歌集や手記すべてに目を通し、さまざまにわたって聞き取り取材をしたことがうかがわれます。客観的な記録文でもなく、作家風の随筆でもなく、なんというんでしょうね、「三陸物語」のように取材相手に対する思いが感じられる印象的な文章です。

 記事中で紹介されている金夏日さんの短歌作品は次の三首です。

  われ思う突き放されて得たるもの失せしものよりはるかに多し
  ひたぶるに眼科に通い癒えざりし視力にて仰ぐ桜は白し
   遠くより鴉(からす)の声が時をりに聞こえてをりて山は静けし

 3首目は故郷の墓地に建立された歌碑に、日本語とハングルで刻まれた歌です。
 (前の記事の、徐京植教授の選び方と比べると、それぞれ選んだ人のなにがしかを表しています。)

 前回、「あと1回続きを書きます」と書きましたが、予定変更。たぶんあと2回分追加します。


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