カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

紫式部ゆかりの石山寺。

2011-05-23 23:43:25 | 洛外うろうろ
滋賀県大津市石山寺1丁目にある『石山寺』
山号を石光山、寺号を石山寺と言う真言宗のお寺です。
西国三十三箇所観音霊場第13番札所。京都の清水寺や奈良県の長谷寺と並ぶ、日本でも有数の観音霊場と言われており、そのはじまりは聖武天皇の発願により、天平19年(747年)、良弁(ろうべん)が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったことにより開基したとされてます。







日本最大の湖、琵琶湖の水はその南端から川となり流れ出ます。それが瀬田川、石山寺はその西岸の伽藍山の麓の景勝地にあります。
ちなみに瀬田川は京都府の喜撰山あたりから宇治川と名前を変えます。



さて、源頼朝の寄進により建てられたとされる東大門をくぐると
真っすぐ伸びた石畳の参道。霧島ツツジが見頃でした。



そこで迎えてくれたのは・・・



「おおつ光ルくん」
えぇ~と、向かって左がスイ・スイ光ルくん。右はヒラメキ光ルくんで真ん中がおおつ光ルくん。21世紀版の光源氏だそうです。

入山料を払って進むと手水舎(ちょうずや)脇に、池と何やら奇岩が



「くぐり岩」だそうです。石山寺の特徴である珪灰石でできた天然の胎内くぐりってことだそうで。







水車があったけどあんまり関係ないみたい。(^_^ゞ
だいたいこのお寺、巨大な岩盤の上に建てたものだから、階段ばっか!石の山の寺やもんね、しゃぁないか・・・
良弁さん、ここに如意輪観音像を祀って修法が無事に効果を現わしたのはいいけれど、像がどうしたわけか岩山から離れなくなってしまった。やむなく、如意輪観音像を覆うように堂を建てたのが石山寺の草創なんだそうで・・・

2つ並んで建っているのは毘沙門堂と観音堂。
蓮如上人が祀られている蓮如堂もありましたが、屋根しか撮らなかったかな。(^_^ゞ
国宝の本堂・・・中は撮影禁止。
日本で唯一の勅封の秘仏、ご本尊の如意輪観世音菩薩が収められた宮殿(くうでん=御厨子)の扉は33年に1度開くそうです。一般公開があるのかどうかは知りませんが、次回は2016年だそうです。
本堂の建物は滋賀県最古の木造建築物だそうで、内陣は平安時代中期の建築、外陣は淀殿(茶々)の寄進により増築されたとか。

紫式部ゆかりの寺とはよく知られてますが、浅井三姉妹にもゆかりがあったとは・・・こちらのブログでね。5/13日には三姉妹と光ルくんまで勢ぞろいしていたようですね。









相の間には、紫式部が『源氏物語』を起筆したことにちなむ「源氏の間」があります。このお人形はご案内役?


さて、石山寺ならではと言ってもいい景色が・・・







硅灰石は、石灰岩が地中から突出した花崗岩と接触し、その熱作用のために変質したものですが、石山寺のように雄大な硅灰石となっているのは大変珍しく、国の天然記念物に指定されています。とのこと。

その珪灰石の岩石群の先に見えていたのが



源頼朝の寄進で1194年に建立された日本最古の多宝塔。これまた国宝です。下重が大きく、上重は搭身が細く華奢で軒の出が深い優美な姿で、日本三大多宝塔のひとつ。(あとの二つは金剛三昧院:和歌山県高野町、浄土寺:広島県尾道市)


えっちらおっちら、なんだ坂、こんな坂・・・しんどいけど、途中いろいろ見られて飽きません。↓これは鐘楼。









月見亭です。落語家が来たからではなく、後白河上皇の行幸に際して建てられたものだそうです。はるかに琵琶湖を望みながら瀬田川の美しい風景を楽しむことができます。



月見亭の横には芭蕉庵があります。この石山寺、文学とも縁があるようで、松尾芭蕉や島崎藤村の足跡も・・・
紫式部の『源氏物語』は言うまでも無く、藤原道綱母『蜻蛉日記』、菅原孝標女『更級日記』、清少納言『枕草子』などの文学作品にも登場します。

あれれ、いよいよかな・・・







紫式部さん登場です!
紫式部がこのお寺に参籠して『源氏物語』の構想を練ったとか、書きだしたとか・・・小野小町ほどでは無いにしろこの方も多くの謎や伝説に包まれています。ま、この頃の女性の出生などは定かで無いことが多いですから。
しかしながらこの平安期、この時代に女流文学が花開いたというのは世界的にみても日本だけのようですね、意外と女性の発言力が強かったのかも・・・日本の伝統?
それまでの漢詩文学から「かな文字」が生まれ、散文による日記や随筆が大ヒット、書く方も読む方も分かりやすくて好まれたのでしょうね。頭の固い男どもは漢詩から抜けられず、かな文字を操る女性のほうが自由に文学を発展させたものでしょう。
源氏物語は54帖にわたる大作小説ですが、当時は「蜻蛉日記」「枕草子」「紫式部日記」「和泉式部日記」「更級日記」、今で言うブログ大ブーム?特に枕草子と紫式部日記は宮中で人気を二分、アクセス数を競ったとか、ブログの女王は紫式部か清少納言か!ランキングのトップ争い?だから紫式部は日記の中で清少納言のことをボロカスに悪口を書いていたり・・・ライバル心むき出し。(^_^ゞ
この二人、実名は不明で、紫式部も清少納言もHN(ハンドルネーム)。紫は小説の登場人物「紫の上」、式部は父の官位。清は姓が清原で親族の役職名、少納言から由来しているのでは等と推測されているがその由来は定かでは無い。

ともあれ「源氏物語」不思議に思うのは、藤原の出でもありパトロンが当時の最大権力者、藤原道長であったと言われる紫式部が、どうして敵であった源氏を喜ばせるような小説を書いたのかな?蹴落とした相手を慰めるため?かな・・・

ちなみに紫式部、HNは可愛げだが・・・実際はブサイクだったとか。よくある話しかもね。(^_^ゞ




2011.5/4、石山寺にて。