愛する犬と暮らす

この子たちに出逢えてよかった。

シェラはなぜ「シェラ」という名前になったのか

2012-03-07 22:28:35 | わが家のわんこたち

☆最初から決まっていた名前
 ぼくが齢50にして犬を飼おうと思い立ったのは、たまさか家人の母と一緒に住むための家を建てることになったからだった。家が建ちあがるまで仮住まいしたマンション暮らしの間にぼくがシェラを見つけて連れてきた。
 見つけたのは近所のペット病院だった。前日、見知らぬ女性が子犬を抱いてきて、「捨てられていてかわいそうだから誰かもらってくれる人をさがしてください」といって置いていったそうだ。「あの人が飼主だったんだろうね」と医師は苦笑いした。そんな飼主が少なくないのだろう。

 シェラと会う前から、すでに名前は「シェラ」と決めていた。オスだろうがメスだろうがどちらでもよかった。出逢ったわんここそがわが家の子だと決めていた。ぼくがなぜ犬を飼いたかったかというと、いっしょにアウトドアを楽しみたかったからである。
 ぼくの趣味は唯一キャンプである。そのキャンプとそれに付随するアウトドアをともに楽しんでくれる犬がほしかった。当時のアウトドアの世界では、カヌーイスト・野田知佑さんの愛犬であるガクがカヌー犬として活躍していた。ぼくはカヌーはやらないが、ガクのようにいっしょにキャンプを楽しんでくれる犬がうらやましくてならなかった。


 ぼくが雑種しか頭になかったのはそのガクが雑種だったのと、かつて実家でガクによく似たコンリーというわんこを飼っていたからだった。ガクの活躍ぶりを野田さんの著作で読むと、ガクとコンリーがピッタリと重なる。性格のみならず、見た目まで似ている。だからぼくも雑種のわんこしか関心がなかった。

☆ガクのような犬がいてくれたら
 「シェラ」という名は、アウトドアの象徴的なアイテムの「シェラカップ」からいたただいた。もし、ぼくが自分のわんこを「シェラ」と呼んだとき、キャンプ好き、アウトドア好きの耳に入った瞬間、彼は思わずニヤリとして、たちまちぼくの趣味を見抜くはずである。


 ぼくのキャンプのスタイルはソロ(単独)が原則だった。なまじ仲間がいると飲み会の延長になったり、同行者に何かと気をつかってしまい、疲れてしまうというのが理由だった。
 もっとも、その数年前からときどき家人がついてくるようになっていたが、それでもまだぼくはソロのキャンプにこだわっていた。ぼくのソロキャンプの理想の姿は必ずしもたったひとりのキャンプではなかった。湖のほとりにテントを張り、満天の星の下、焚火の前に坐って小さな炎をぼんやりと眺めているその横に一匹の犬が寝そべっている。そんな情景がぼくの理想のキャンプだった。
 
 それまでもソロでさんざんキャンプをやってきた。ひとりだからといって寂しくはなかったが、もし、かたわらに犬がいたらどれだけ楽しかろうと勝手に想像していた。だから名前は「シェラ」なのである。
 ガクのような、あるいはコンリーのようなわんこがいっしょならこれにまさる喜びはないが、それは見果てぬ夢であろうと最初から望まなかった。

 だが、奇跡が起こったのである。前の稿にも書いたが、まるでぼくの心のうちをのぞいて、「はい、わかりました。それがお父さんのお望みのわんこですね。おまかせください」と請け負ったかのように真っ黒な子犬は成長とともにガクやコンリーによく似たわんこに変身していったのである。
 キャンプにいく先々で、「わぁ、ガクみたいだ」とほかのキャンパーたちにいわれたものだった。


☆弱虫アウトドア犬の誕生
 幼いころからアウトドアをさんざん経験させたシェラは、たしかにキャンプの大好きな犬に成長した。キャンプサイトにつくと身体を地面にすりつけて喜んだ。水があれば、そこが川であれ、湖であれ、飛び込もうとする。最初に驚かされたのは中禅寺湖でダイビングされたときだった。流れの強い渓流だろうと、汚い沼だろうと見境なく飛び込んでいくので油断できなかった。

 だが、1歳を過ぎたあたりからアウトドア犬としては致命的な欠陥を持っていることに気づいた。雷鳴と花火を怖がるのである。雷は、人間には聞こえなくてもよだれをたらして怖がるしまつ。これらは家にいても同じだった。だが、シェラが遠雷で雷を察知してくれるため、早めに避難の準備ができるというメリットもあった。

 音だけではない。弱虫わんこのシェラは、野生動物に対してもビビってしまって知らん顔を決め込むやら、ときにはパニックになる。キツネ、イノシシ、そのほか、よくわからない動物の接近がいまとなっては懐かしい思い出になっている。


 シェラという名前に、最初は原生林の深い森が放つ重々しさを連想したが、わが家のシェラによって、自然がみせてくれるやさしい抱擁の感触に変わってしまった。
 シェラやむぎと過ごしたたくさんの森や湖畔や河畔の夜は、たいていおだやかでやさしさにあふれていた。
 きっと、これからも焚火の前でぼんやり過ごすぼくの横にはいつもシェラとむぎもいて、穏やかな夜を感じさせてくれるだろう。