愛する犬と暮らす

この子たちに出逢えてよかった。

ルイを襲った一大事

2012-03-16 23:39:40 | ルイとの日々

☆ルイを襲ったピンチ
 シェラが去り、まるですきま風のように忍び寄る喪失感に思わず知らず顔をこわばらせているとき、ルイが折りあらば隙あらばのめいっぱいのやんちゃでぼくと家人を手こずらせ、ぼくたちはいつのまにか笑顔を取り戻している。

 いたずらの連続は、8か月を迎えたこの年頃のわんこのごくごくあたりまえの行動なのではあろうが、ルイの様子を見ているとぼくたちをけんめいに慰め、励まそうとしているいたずらのように見えてくる。まるでシェラからの遺言をけなげに守っているかのように……。

 このブログを休んでいる間、いや、だからこそブログどころではなかったのだが、ルイは大変なピンチに見舞われた。まさに「ルイの一大事」である。


☆ぬいぐるみのルイとのバトル
 わが家にはルイの遊び道具のぬいぐるみが数個ある。そのうち、ルイが気に入っているのがアニマルミトンラブドッグというシリーズにあるコーギーである。同じコーギーがいまや3体ある。
 本物のルイが「ルイ1号」で、ぬいぐるみは「ルイ2号」「ルイ3号」「ルイ4号」となる。
 最初、右手にはめた2号を使って1号を毎晩こてんぱんにやっつけてきた。しかし、連夜の烈しいバトルの応報であわれ2号は両腕を食いちぎられ、ボディーもズタズタにされて戦線離脱を余儀なくされた。

 そこで新たに3号を投入。しかし、戦闘能力を高めた1号によって3号もまたたくまに満身創痍に。そこで、急遽4号を応援に連れてきて3号とともに両手で1号をはさみ撃ちにして、「ふ、ふ、ふ、おれたちには、とーちゃんがついてるんだ。アホなおまえになんかに負けるわけないだろう!」と、再び1号をこてんぱんにやっつけてきた。ルイ1号も喜んでヘトヘトになるまで遊んだ。 


☆プラスチックの笛を食べちゃった
 先週の水曜日(7日)の朝、会社にいるぼくのケータイに家人からメールが飛び込んできた。
 よせばいいのに家人がぬいぐるみのルイで本物のルイを遊んでいた。すると、ぬいぐるみをルイに奪われ、ルイはぬいぐるみの腹の中からプラスチック製の「鳴き笛」を引きずり出して食っちまった。いつもとーちゃんとつるんで自分を痛めつける憎いぬいぐるみのルイに仕返しをしたのだろう。
 笛は、ペットボトルのフタ2個分くらいの大きさ。女房がビックリしてメールをよこしたのである。
 
 あわてて病院へ電話をすると、「なるべく早く連れてらっしゃい」といわれたが、家人は運転ができない。運転のできる友人もあいにく留守。せがれも仕事で無理。結局、ぼくが動物を運搬してくれる業者さんを探して家人が昼前に病院へ連れていった。
 夕方、ぼくが早めに帰ってルイを迎えにいくと、鳴き笛を吐かせることはできなかったので、しばらく様子を見ることになった。
 
 木曜日、金曜日、土曜日の朝とルイのウンコには何も出てこなかった。動いたのは夕方の散歩のときだった。ウンコにプラスチックの破片があったからだ。以来、この1週間、朝夕の散歩の度々のルイのウンコにはさまざまな破片が混じっている。
 どうやら大事にはいたらなかったようである。



シェラはなぜ「シェラ」という名前になったのか

2012-03-07 22:28:35 | わが家のわんこたち

☆最初から決まっていた名前
 ぼくが齢50にして犬を飼おうと思い立ったのは、たまさか家人の母と一緒に住むための家を建てることになったからだった。家が建ちあがるまで仮住まいしたマンション暮らしの間にぼくがシェラを見つけて連れてきた。
 見つけたのは近所のペット病院だった。前日、見知らぬ女性が子犬を抱いてきて、「捨てられていてかわいそうだから誰かもらってくれる人をさがしてください」といって置いていったそうだ。「あの人が飼主だったんだろうね」と医師は苦笑いした。そんな飼主が少なくないのだろう。

 シェラと会う前から、すでに名前は「シェラ」と決めていた。オスだろうがメスだろうがどちらでもよかった。出逢ったわんここそがわが家の子だと決めていた。ぼくがなぜ犬を飼いたかったかというと、いっしょにアウトドアを楽しみたかったからである。
 ぼくの趣味は唯一キャンプである。そのキャンプとそれに付随するアウトドアをともに楽しんでくれる犬がほしかった。当時のアウトドアの世界では、カヌーイスト・野田知佑さんの愛犬であるガクがカヌー犬として活躍していた。ぼくはカヌーはやらないが、ガクのようにいっしょにキャンプを楽しんでくれる犬がうらやましくてならなかった。


 ぼくが雑種しか頭になかったのはそのガクが雑種だったのと、かつて実家でガクによく似たコンリーというわんこを飼っていたからだった。ガクの活躍ぶりを野田さんの著作で読むと、ガクとコンリーがピッタリと重なる。性格のみならず、見た目まで似ている。だからぼくも雑種のわんこしか関心がなかった。

☆ガクのような犬がいてくれたら
 「シェラ」という名は、アウトドアの象徴的なアイテムの「シェラカップ」からいたただいた。もし、ぼくが自分のわんこを「シェラ」と呼んだとき、キャンプ好き、アウトドア好きの耳に入った瞬間、彼は思わずニヤリとして、たちまちぼくの趣味を見抜くはずである。


 ぼくのキャンプのスタイルはソロ(単独)が原則だった。なまじ仲間がいると飲み会の延長になったり、同行者に何かと気をつかってしまい、疲れてしまうというのが理由だった。
 もっとも、その数年前からときどき家人がついてくるようになっていたが、それでもまだぼくはソロのキャンプにこだわっていた。ぼくのソロキャンプの理想の姿は必ずしもたったひとりのキャンプではなかった。湖のほとりにテントを張り、満天の星の下、焚火の前に坐って小さな炎をぼんやりと眺めているその横に一匹の犬が寝そべっている。そんな情景がぼくの理想のキャンプだった。
 
 それまでもソロでさんざんキャンプをやってきた。ひとりだからといって寂しくはなかったが、もし、かたわらに犬がいたらどれだけ楽しかろうと勝手に想像していた。だから名前は「シェラ」なのである。
 ガクのような、あるいはコンリーのようなわんこがいっしょならこれにまさる喜びはないが、それは見果てぬ夢であろうと最初から望まなかった。

 だが、奇跡が起こったのである。前の稿にも書いたが、まるでぼくの心のうちをのぞいて、「はい、わかりました。それがお父さんのお望みのわんこですね。おまかせください」と請け負ったかのように真っ黒な子犬は成長とともにガクやコンリーによく似たわんこに変身していったのである。
 キャンプにいく先々で、「わぁ、ガクみたいだ」とほかのキャンパーたちにいわれたものだった。


☆弱虫アウトドア犬の誕生
 幼いころからアウトドアをさんざん経験させたシェラは、たしかにキャンプの大好きな犬に成長した。キャンプサイトにつくと身体を地面にすりつけて喜んだ。水があれば、そこが川であれ、湖であれ、飛び込もうとする。最初に驚かされたのは中禅寺湖でダイビングされたときだった。流れの強い渓流だろうと、汚い沼だろうと見境なく飛び込んでいくので油断できなかった。

 だが、1歳を過ぎたあたりからアウトドア犬としては致命的な欠陥を持っていることに気づいた。雷鳴と花火を怖がるのである。雷は、人間には聞こえなくてもよだれをたらして怖がるしまつ。これらは家にいても同じだった。だが、シェラが遠雷で雷を察知してくれるため、早めに避難の準備ができるというメリットもあった。

 音だけではない。弱虫わんこのシェラは、野生動物に対してもビビってしまって知らん顔を決め込むやら、ときにはパニックになる。キツネ、イノシシ、そのほか、よくわからない動物の接近がいまとなっては懐かしい思い出になっている。


 シェラという名前に、最初は原生林の深い森が放つ重々しさを連想したが、わが家のシェラによって、自然がみせてくれるやさしい抱擁の感触に変わってしまった。
 シェラやむぎと過ごしたたくさんの森や湖畔や河畔の夜は、たいていおだやかでやさしさにあふれていた。
 きっと、これからも焚火の前でぼんやり過ごすぼくの横にはいつもシェラとむぎもいて、穏やかな夜を感じさせてくれるだろう。


シェラを送って一か月

2012-03-06 22:08:08 | わが家のわんこたち

☆まぶたから離れないシェラの瞑目
 シェラを送ってきょうで1か月になる。
 シェラはもういないという実感とともに、ふと、いないことが不思議に思えてしまう瞬間がある。17年間、ずっと一緒に生活してきたから、シェラの姿がないことが不思議に思える。むぎのときもそうだった。
 
 そんな空白をルイが埋めてくれる。寝ている以外はいたずらのしほうだい。ときどき、隠れてオシッコもしてしまう。休まるヒマがないと家人は嘆くが、相手をしてもらおうと手当たりしだいなんでもくわえて逃げていく姿が愛しくて、ぼくは本気で怒ったりしない。むしろ、振りまわされている現在(いま)がこよなくうれしい。ルイがおとなしくなってしまったら寂しくて寂しくて、「おい、なんでもいいからパフォーマンスやってくれ!」と頼みたくなるだろう。
 
 そんなルイから目を離すと、いつも真っ先に浮かぶのが、病院で麻酔薬を打たれながらシェラが二度と開かないまぶたをゆっくりと閉じた情景である。家人とせがれの肩越しにぼくはシェラの顔を見つめていた。
 ひと晩添い寝し、痛みに耐えるシェラの身体を撫でいたので、最期のときはふたりにゆずった。あまりにもおだやかに、やすらかに眠りについたので、ぼく同様、家人もせがれもシェラの目の前の死を落ち着いて受け容れることができた。むしろ、痛みや苦しみから解放されたことでホッとしていただろう。


☆まだ写真を見ることができない
 そして、きょうひと月目を迎えた。
 この間、ルイのおかげで家族の全員が救われてきたが、家人は休日に出かけた先ざきで待ちかまえているシェラとむぎの思い出に悲しみを新たにして涙ぐむ場面がしばしばあった。ぼくはというとシェラとむぎの思い出を追っている。彼らのさまざまな面影をしのぶことができないような場所ならいくつもりはない。
 
 家人はシェラやむぎの写真をまだ見ることができないでいる。悲しさがこみあげてくるからだという。一方でぼくはシェラやむぎの写真を見て悲しみから逃れている。だが、最近、シェラが病魔におかされてからの写真を避ける自分に気づいた。
 むぎが突然逝ってしまったとき、たくさんあったはずの写真なのに、気に入った写真は数えるほどしかなくてショックを受けた。なぜ、もっとたくさん撮っておいてやらなかったのだろうかと悔やんだ。それはシェラについても同じだった。

 シェラが病魔に侵され、短くかぎりある命だと知ったときから、ぼくは狂ったようにシェラの写真を撮り続けた。きっと異常なほどのぼくの姿だったのだろう。散歩に出かけて公園で、ぼくがシェラの写真を撮り続ける理由を家人から聞いた方が事情を知って涙ぐんでくれたこともある。

 どれだけシェラを撮っただろうか。毎朝の散歩、夜の散歩、週末の散歩、そして、家でも、ひたすらカメラのシャッターを切り続けた。シェラがいなくなってしまったあとでも、シェラにいつでも会えるようにと……。


☆半世紀を経ても風化しない悲しみ
 このブログでも写真の一部を載せてきた。だが、いざ、シェラが逝ってしまうと、ぼくはそんな写真を見ることができなくなった。病魔に魅入られた痛々しいシェラの肖像を冷静にながめることができる余裕はまだない。もしかすると、これから先も同じかもしれない。元気だったころ、むぎがいて、ふたりでいきいきとしている写真しか見たくないのである。

 昨夜、たまたまiPadに保存してあるシェラとむぎの写真を見た。この数年のふたりが元気だった姿に出逢った。のぞきこんだ家人も引き込まれ、涙ながらに世が更けるのも忘れて見入ってしまった。
 「やっぱりまだ飾ってはやれないわ」
 ため息まじりに家人がいった。
 シェラの写真をあわてて飾るにはおよばない。瞑目してぼくの腕に抱かれたむぎと、覚めない眠りについた瞬間のシェラの映像はぼくのまぶたに鮮明である。きっと死ぬまでこの情景を忘れない。
 
 ぼくが中学生のときに実家で飼ったペルというオスのテリアのわんこは、ジステンバーにかかり、たしか1歳になるやならずで死んでしまった。息を引き取る寸前、寝床の箱から這い出し、ぼくの前に座って自分から二度、三度とお手をして、そのままぼくの膝に崩れ落ちて絶命した。きっと、毎日、母からもらった500円札を握りしめて病院へ連れていったぼくへ「兄貴、ありがとう」といいたかったのだろう。

 大量のよだれをたらし、苦しげに呼吸しながらぼくに別れを告げたペルの姿は半世紀を経たいまもぼやけることはない。思い出すたびにペルのけなげさにいまも涙がにじんでくる。愛するものを失った悲しみはたやすく枯れはしない。シェラとむぎへの愛惜もそんなひとつである。


わが家の大切なわんこたちの系譜

2012-03-01 18:44:36 | わが家のわんこたち
☆父母の遺品の写真から……
 11月に母が不帰の旅へ発って以来、身辺で懸案になっていたいくつかの事柄がようやくかたづいた。ぼくの手元に父が遺した2冊の写真アルバムと数十枚の写真、そして、父がファイルしていた古い新聞や書きつけの類が届いた。

 アルバムは「戦前」と「戦後」の2冊に整理してあった。戦前編は明治初期のものにまでさかのぼる。戦後編も昭和30年代までページがなくなり、あとの写真は封筒にまとめておさめられていた。アルバムには、子供のころ、何度か見た懐かしい写真がたくさんならんでいる。わが家を支えてくださった人々の肖像であり、わが家の歴史の一部ものともいえる。


呼ばれて縁の下から緊張しながら顔を出したコンリー

 写真の1枚(上)には、実家で飼っていたコンリーという名の雑種のわんこが写っていた。父親にシェパード、母親は、柴犬というふれこみだったが、たぶん、雑種だったろう。ぼくが高校生のとき、中学生だった妹が同級生の家でもらったオスの犬である。ぼくが自転車で迎えにいき、学生服の上着のポケットに入れて連れてきた。

☆雑種の犬ならなんでもいい
 コンリーは、わが家の三匹目のわんこである。初代のペルもペルの弟で、よその家から戻ってきた初代のコンリーも早世だった。それにひきかえ、二代目のコンリーは15歳まで生きて母がずっと世話をしていた。
 わが家がいちばん活力にあふれた時代をともに生きただけに、いまなお、家族が集まると二代目のコンリーの思い出話で盛り上がる。彼もまたわが家の歴史の大切なファクターのひとつである。

 家を建てるにあたり、ぼくが齢50にして犬を飼おうと強く思ったのは、このコンリーが忘れられなかったからである。とはいえ、雑種で同じような犬がいるはずもなく、とにかく「雑種の犬」を探した。出逢いこそがすべてだと決め、出逢った犬を飼うつもりで探しているときにシェラとめぐりあった。

 真っ黒なコロコロした子犬だった。きっと黒いむく犬になるのだろうと想像して、それもまた楽しみにして成長を見守った。たれ目のオヘチャで、きっとまっ黒なチャウチャウみたいになるのだろうと想像していた。
 
☆なんでコンリーがいるの?
 落成した新居にぼくの両親がきたとき、シェラはちょうど生後10か月くらいになっていた。リビングに連れて入ったシェラを見て、父も母も驚いて声を失った。あのコンリーにそっくりのわんこが入ってきたからである。


垂れ目の真っ黒なシェラがすっかり変わってしまった

 生後半年くらいを過ぎたあたりから、シェラの毛並みも顔つきも激変していった。まるで、ぼくの心の奥にあるコンリーの面影を察知したかのように、シェラはコンリーとよく似たわんこに変身していったのである。
 それはぼくにとっては不思議な現象には思えず、ごく当たり前に感じていたが、たしかに、父母が驚いたように、「なんでここにコンリーがいるの?」と思うほうが妥当だった。

 あらためてコンリーの肖像を見ると、細部の違いはあるものの、ぼくにとってシェラはコンリーであり、コンリーもまたシェラだったと思う。オスとメスの違い、性格だって似てはいないが、どちらも従順で、犬としては情緒の豊かな子だった。

☆決して危害を加えない意思表示
 せがれが生まれるまでのおよそ10年間、コンリーは家族の愛情を一身に受けて育った。しかし、わが家に初孫が生まれて状況は一変した。コンリーにとっては受難だった。
 愛情のすべてが小さな闖入者に移ったことを敏感に察知した彼がもっとも心を砕いたのは、闖入者に対して自分には害意がまったくないと家族にわかってもらうことだった。

 家の敷地内を自由に動いていた彼は、昼間、自分の小屋ではなく、縁の下の奥深くに隠れ、自らの気配をけんめいに消そうとした。勇気りんりん、近所の犬たちの番長のようなコンリーが烈しく怖れたのは、突然やってきた小さな闖入者というのがおかしかった。

 この写真は、小さな闖入者にもようやく慣れ、その小悪魔が友達に見せようと呼んだので、縁の下の奥からおっかなびっくり挨拶に出てきた瞬間である。このあと、小悪魔とのキスをしている写真もあるはずだ。


むぎはひたすらおとなしく手のかからないわんこだった

☆ワンパクなんていまだけさ
 こういう写真を見ていると、ぼくにはシェラがコンリーの生まれ変わりに思えてならない。シェラはシェラ、コンリーはコンリーだとわかっていながら、なぜか彼らがかぶってしまうのである。

 むぎを喪った空白をいかんともしがたく迎えたルイではあるが、この子ばかりは、まったく「むぎの生まれ変わり」ではなかった。毛並みだけはだんだん似てきたが、その行動は似てもにつかない。むぎはたおやかなおとなしい子だった。手当たり次第何かをくわえて引きずりまわすようなワルガキではなかった。

 そんなワンパクを絵に描いたようなルイに家人は毎日何度か切れているが、「ああ、あのころのヤンチャなルイは……」となつかしむ日がすぐにくることだろう。いまだけのワンパク、いまだけのヤンチャがぼくにはなんとも可愛くて可愛くてならない。


ぼくのスリッパをくわえて持ち去ろうとしている悪ガキのルイ