これはこの天文館に
実際に展示されている
宇宙メダカです。
向井飛行士が宇宙で
産卵をさせたメダカの子孫たちです。
その子孫たちは
いまも各地で元気にしているそうです。
ちなみに宇宙で産卵をしたメダカは
地球に帰ってきたときには
浮袋の使い方が
あやふやだったそうで、
でも4日間くらいすると
普通に戻り、元気にしていた
とのことです。いやあ命ってすごいねえ。
そんな看板を見つつ、
出ていこうとすると、
プラネタリウムはこちらですよ
との案内がありましたが、
上映時間までまだ時間があるのと、
さほどゆっくりとしてられない
のでもう出ることにしました。
まあ、だいたいプラネタリウムは
ミセスも担当者だった
こともあってかなり見慣れてますし、
その気になれば機械を買ってあるので、
家庭内で見ることも可能なんです。
さあ、それでは天文科学館を
出ていきましょう。
また歩きが始まります。
入り口から出て少し山の方に
登っていくと、ここが
人丸山の登り口です。
柿本神社の方へと上がっていきます。
この祭神である
「柿本人麻呂」ですが、
名前はよく知ってますよねえ。
百人一首にも出てきますしねえ。
でもねえ実際のところは
まだよくわからない人物なんです。
出生・終焉についても
定まった説はありません。
そして官位についても
よくわからないのです。
ずいぶんと高官であったとされたり、
6位以下の身分であったりと様々です。
大体は6位以下という説が
信じられているようですが、
それにしてもこうして祭神として
まつられている神社が
ほかにもあることを考えたら、
まあよほど重要な人物だったんでしょうねえ。
500年くらいしたら、
doiron神社ができませんかねえ^^。
人麻呂は飛鳥時代の人だったので、
彼の歌に関する非凡な才能が、
その後も長く愛され
続けたんでしょうねえ。
この神社の御利益が
安産や日よけにあるというのは、
もう先ほどの亀の水のところで
説明しましたねえ。
その神社の横にあるのが
月照寺ですねえ。
この月照寺は空海が
明石城本丸跡に811年に
建立したのが始まりといいます。
ああ、もう空海はいくつくらい
寺を作っているのでしょう。
空海に関する伝説は
日本全国で5000以上ある
といわれており、
彼の足跡を大きく超えているそうです。
また空海が杖を突いたところを
掘ると水が出てくるという井戸は
1000本以上あるとのこと。
いま、作られている映画で
「空海」というのがあるそうで、
それの出来上がりが
とても楽しみですねえ。
この月照寺で今注目されるのが
「八房の梅」です。
あの赤穂浪士のひとり
間瀬久太夫が奉納した
という梅で、いまのが
三代目に当たるそうです。
一つの梅から7~8個の
実をつけるという紅梅です。
科学館の後、神社やお寺で
ほっこりしたとあとは、
ここから明石公園の方に
歩いていきましょう。
あ、ここに子午線表示中がありますよ。
金属の棒の上に地球が乗っていて、
その上に日本を意識して
「あきつ島」を表す模型の
トンボがたからされています。
かつては観光の目玉の一つだったのに、
今は結構な量の木に覆われて
見えにくくなっています。
もちろんdoironには
見ておきたかったものの一つです。
「トンボの標識」という名で、
80年以上前のものなのです。
もともとは月照寺の山門前に
あったのですが、
昭和26年の再観測で
11.1m移動させられました。
そうそう月照寺の山門も
見ていきましょう。
この門は豊臣秀吉が建てた
伏見城の薬医門を
ここへ移動してきたものらしいです。
伏見城は3回くらい行ったのに
そんな記述はあったのかなあ。
あまり覚えていません。
まあ桃山時代の建築という
威風があるとのこと。
う~ん、何となく古―いって
感じはありますねえ。
続く
100台くらい入りそうな
大きな駐車場ですが
次々やってくる車で大渋滞です。
お盆だからでしょうか、
子ども連れの家族客が多そうですね。
では天文科学館の中に
入っていきましょう。
ここにはちょっとした広場があります。
目立つ大きな石碑がこれ。
「一バンボシミツケタ」
と刻んであります。
大きな像がシミを付けたのかなあ
と思っていたら、
「一番星見つけた」だったんですねえ。
かいた人は海部元総理だそうです。
そしてこれは松尾芭蕉の歌です。
松尾芭蕉と明石?
あまり聞いたことないなあ
と思っていたのですが、
調べてみたら明石は
松尾芭蕉の再西端の町だったそうです。
「蛸壺や はかなき夢を 夏の月」
などとうたっているそうです。
そしてさらに明石の海辺で
歌ったのが
「ほととぎす きえいくかたや しまひとつ」
おお~海の上に飛び立っていく、
孤独で夢多きホトトギスが
浮かんできますねえ。
明石藩主の五輪塔なんかもありました。
まあこの辺は無料の場所です。
天文館の入り口へと向かって行きますと、
おお~あの子午線の
屋外施設がありますねえ。
漏刻が置かれています。
え?遅刻とちゃいますよ。
水が漏れることで時刻を表す
昔の時計を再現したものです。
その場で写真を一枚撮影しました。
足元にはこんな感じで
子午線が敷かれています。
ああ、これでdoironも子午線の人です。
って、どんなんやねん。
さあ、では天文館に入ろう
と思ったのですが、
実はもう一つ行かねばならない
ところを忘れています。
このまま中に入ってしまったら
行くのを忘れてしまいそうですから、
ちょろっと寄っておきましょう。
天文館周りの森の中を歩いていきますと、
ああこの「亀の水」です。
1600年代ごろ、この上にある
人丸社や月照寺などに
お詣りに来る人に清水を解放した
のが始まりです。
亀の形をした水道から、
じょじょーと水が沸いてます。
あ、亀といいますが
これは贔屓なんでしょうねえ。
そしてじょじょーではなく、
さらさらっと流れています。
これは人丸山から湧き出す水ですねえ。
いまも多くの人が汲みに来ているようです。
少しのどを潤して、
さあそれでは天文館の方へと
戻っていきましょう。
あ、ここでは鳥居の笠木の
部分が壊れています。
たぶん阪神淡路大震災なんでしょうねえ。
天文館の入館料は700円です。
まあ、ここまで来ているので
払っていきましょう。
がんばって65歳くらい
まで生きていたら、
シルバー割引とか使えるのかなあ。
中に入ったら、
まずはエレベーターで
6階の展望台へと登っていきましょう。
先ほどから見ていた塔の
一番上ですね。
おお~、ここはなかなかきれいです。
明石海峡大橋がよく見えています。
この窓からは子午線に沿った
景色が見られるわけですね。
子午線に関してはいくつか旅をしました。
最近ではこの日本子午線の
最南端である友が島も、
ドジ旅でいきましたね。
そして最北端の港の記念日も尋ねました。
今回はその原点ともいうべき
歩きということになりますねえ。
ここから塔の中の階段を歩きつつ、
展示室をのぞいでいきましょう。
これが、この展示館の時計です。
もう秒単位まできっちり
図っているんですねえ。
そりゃそうやねえ
ああ、しかしこういう展示館は
秒まできっちり時間を
合わしとかないといけませんねえ。
職員は毎朝時計合わせとか
するんですかねえ。
doironが館長だったら必ずするなあ。
それに
「お~今日の晩は宴会だ。
7時10分25秒までに集合なあ」。
きっとそんな会話もするやろなあ。
そしてこれは途中の屋外に
あった日時計です。
日時計そのものの写真は
撮り忘れてしまいましたが、
観察用の場所が月によって
決まっているのが面白いですねえ。
続く
さあ、山手の方に
天文科学館が見えてきましたよ。
ああ~、もうここから
見ただけで分かりますよねえ。
建物は子午線に向かって
立っており、塔の真ん中の線が
東経135度の
子午線になっているんですねえ。
で、この道が科学館の
進入路ではありません。
もう少し先を上っていくのですが、
その前に少しコースから
外れたところにある
交番を見に行かなくてはなりません。
コースをいったん海の方へと
曲がりますと、
そこにあるのが山陽電鉄人丸前駅です。
ここは東経135度0分7秒にあり、
ホームの上に135度線が
記載されています。
残念ながら駅に無料で
入っていくことはできませんが、
公開されている写真がこれです。
いいですねえ。
ちなみにほかの鉄道駅を見てみますと、
西脇市の加古川線の無人駅である
「日本へそ公園駅」で、
ここは東経134度59分52秒
しかも北緯35度0分7秒と
子午線と北緯の35度線が
並ぶ場所として日本の中心地点
として名付けられ、
そんな名前になっているそうです。
ああ、西脇は一度歩きに
行きたい地域ですから、
覚えておきましょう。
また山陰本線の無人駅
「下夜久野駅」も
東経134度59分53秒に
あるようですが、
どうでしょうか、
あまり宣伝している様子は
ありませんね。
ただ、夜久野町は135度線が
通ることから
「時の町」
を称していたそうです。
いろいろと地域おこしも
あるもんです。
さて話は人丸前駅に戻りますが、
実はこの駅の下を通る道が
「時の道」といわれている
ようなのです。
これを南に向かって歩いていきますと、
こんな道標があります。
人丸山まで3丁とあります。
で、この人丸山なんですが、
これはなぜこういう名前か
といいますと、
「柿本人麻呂」から
来ているのですね。
彼を祭神としてまつる
「柿本神社」がある山なのです。
人麻呂から人うまるという意味で
安産と火止まるという意味での
火防の神として
信仰があるそうです。
ではまだここからさらに
南に向かって行きますと、
ここに目的地の「交番」がありました。
こうしてみますと
「明石警察署の大倉交番」
なんですが、実はこの交番は
子午線上にあるとのことで、
入り口の横にこんな
看板が上がっています
「子午線交番」です。
そう、これを見たいばかりに
ここまで下ってきたのです。
おまわりさんがいましたが、
構わず写真をパチリ。
「むむむ盗撮だあ」と
検挙されることはなかったです。
まあこういうところなら
写真を撮る人は多いのでしょう。
この交番の横には
「大日本中央標準時通過地識標」
が立っています。
この明石が日本の標準時を
決める東経が通っていることを
知った明石の教員たちが
給料を割いて自分たちで
作ったという識標です。
そしてこれが道標です。
「左 加古川 ひめじ道
右 ひょうご 大坂道」
と刻まれています。
慶応元年ですから、
1865年、だいたい150年くらい
前の道標です。
さあ、では時の道も
ここからまた戻っていきましょう。
天文科学館が見えてきたところに、
こんな道標がありました。
「源平合戦の馬塚」があります。
平清盛の息子「経正」の
最後の地です。
そしてその横にあるのが
明石城の藩主の菩提寺です。
明石の藩主の多くは「松平家」でした。
このお寺には、
その松平斉宜
(これが徳川家斉の25男)の
墓があるそうです。
ところで25男とはすごいですねえ。
なんと徳川家斉には16人の妻妾がいて、
50人以上の子がいたそうです。
その先のところが
天文館の入り口です。
ガードマンが4、5人くらい
たっていますね。
横にある天文館の
駐車場に入る車の整理を
しているようです。
なんと車も渋滞しているようで、
結構な客が着ています。
続く
明石をしっかりと
歩いた証に報告ブログを
歩いてきた話を書きましょう。
それは夏の暑い暑い日でした。
前からずっといきたかった所の一つでした。
帽子、たっぷりの水、
涼しい服など考えられる暑さ対策をして、
着替えも持って出かけていきましたよ。
出かけたこの日は終戦記念日でしたね。
ポツダム宣言の受諾を
関係国に送ったのは8月14日でしたが、
天皇が玉音放送で国民に公表された
8月15日を日本は終戦の日としています。
あんなにお国のためにと
国民が命を投げ出してから
まだ72年しか
時がたっていないんですねえ。
わずかな時の流れで、
人々の暮らしは大きく変わりました。
そんな時の流れをしっかり
感じるというためにも、
日本の子午線が通るという
この町を歩いてみようと思ったのです。
明治17年にイギリスの
グリニッジ天文台を
本子午線と決めることが
ワシントンの会議で決まり、
明治21年からこの明石を通る
子午線が日本の時刻
ということになったのでした。
東経135度。
イギリスとは9時間の時差があります。
こうして時間が決まったのも
まだほんの129年前のことです。
doironもこれまで
2度ほどそんな時間を
失いそうになりましたが、
1分1秒を大切に元気に
いきていかなくちゃなりませんね。
そんないろんな思いの詰まった
時間の基本線である子午線の
通る街を歩き、
後の明石焼きを楽しみに、
今回は電車でひょっこりと
出かけていくことにしました。
近辺の山に登っても
あの明石海峡大橋は
遠くに見えていますねえ。
かなり遠いなあと思っていましたが、
家を出て大阪から新快速にも乗り
明石につくまで合計二時間は
かかりませんでしたね。
思っていたより結構近かったです。
途中、須磨を通るときには、
ここを走る日本一揺れる
ロープウェイに乗ってみたいなあ
とまた次のお出かけに思いをはせつつ、
かつてオープン時に走った
明石海峡大橋のハーフマラソンを
思い返しつつ、進んでいきます。
そして明石の駅に新快速の
電車が入っていきますと、
駅の北側は緑に覆われて
意外に良さそうな感じです。
ああ明石駅って駅前に
城があるんですね。
そんな散策も含めて
歩く楽しみがどんどん広がっていきます。
基本的には子午線に行き、
そこから明石城(明石公園)、
明石川、海岸、魚ん棚の明石焼き
の順番で明石市内を
反時計回りに進んでいく計画です。
駅でナビをセットして、
では進んでいきましょう。
まずは駅を北側に出て、
公園沿いを歩いて
天文科学館を目指していきます。
むかし小学校なんかの時に、
ここに来たのかなあ。
まあ屋外学習の地としては
いいところですよねえ。
でも来たとしても、
あまりよく覚えていません。
まあ初めて来たような感覚で、
雰囲気を確認しながら、
ウロウロきょろきょろしつつ
歩いていきます。
明石城のお堀には、
噴水が付いています。
きれいやなあ、とか言っていてはいけません。
都会地のあまり動かない水ですから、
浄化のための曝気をしているんでしょうねえ。
たしかに水はどんよりと
緑色をしていました。
昔doironはこんな曝気槽の
水質改善なんかを仕事で
やっていましたねえ。
曝気すれば酸素が入って
嫌気発酵なんかが抑えられるのですが、
電気代やメンテが大変でしたねえ。
これが、明石市のマンふたです。
「子午線のまち」を中心に
作られていますねえ。
そんなマンふたを眺めながら、
子供の通学路舗装の道を進んでいきます。
明石小学校や神戸大学付属明石小学校
なんかがこの辺に集まっているんですね。
きっとこんな小学校ですから
遅刻には厳しいんでしょう。
「こんな子午線の学校で
遅刻するとは何事だあ」
みたいなね。
これがそんな大学付属小学校です。
さあ、もうすぐに天文館に到着です。
駅から歩いて15分くらいでしょうか。
続く
いま、doironが住んでいる家は
今年で34年の家になる。
まあ、大きな崖の上にある
大豪邸なのであるが
まだまだ重要文化財になるには新しい。
あと500年くらい置いといたら
国宝になるかもね。
さほど何も凝ってない家なのだが
でもねえ、34年くらいになると
いろいろと具合の悪いところは出てくる。
まあ、だいたい風呂は
2回ボイラーを変えたね。
高齢者がいたので、
お風呂は大活躍だったからね。
トイレのウォシュレットも
一階、二階と一回ずつ変えたな。
また介護が始まって、
すぐに家の中の段差をなくす
工事もしたなあ。
そうそう庭もいじって
駐車場を増やしたりもしたな。
あ、網戸も全部手作業で張り替えたっけ。
そんな我が家だったのですが、
先日大変なことが起こったのです。
祭りが近づいてきたので、
町内に献灯提灯をつける作業をした時です。
doironが倉庫で提灯の
振り分けをしているときに、
ミセスからメールが来ました。
「裏の公園にいいモンスターが
出ているみたいなので、
歩きに行ってくるわ」とのこと。
あ、doiron村は大変田舎ですが、
幻の日本カワウソが出てきたり、
狼が出てきたりとか
そういうことじゃないですよ。
ポケモンですからね。
「はいはいわかりました」と返事をし、
作業を続けていますと、
30分後くらいにまたメールが届きました。
ミセスが
「ちょっと帰ってきてくれへん」
と行ってきます。
「いやあ、今は帰りにくいなあ」
といってると、
「玄関のかぎが壊れて
家の中に入れないねん」
とのことである。
ああ、そういえばここ最近は、
鍵を差し込んでもかたくて
ちょっとあかなかったり
したからなあ。
仕方なく帰っていき、
どれどれと開けようとしても
開けることができないのだ。
こうなったら、もう鍵の交換やな。
最後につぶれてもいいから
とにかく開けないとと、
思いっきり力を込めて回すと、
鍵そのものが
くにゃーと曲がってしまった。
うひゃー、「来てます、来てます」
と曲がったカギを見せると、
ミセスは、ミスターマリックみたいに
「何をあほなこと言ってるねん」
とあきれ顔です。
仕方ないのでこうなったら
どこか他から中に入って、
鍵をねじごと外すしかないなあ
と思ったが、どうも入るところがない。
開いてる窓にはオリが付いてるしなあ。
といろいろ考えてみると、
二階のdoironの部屋の窓のかぎが
開いてることに築き、
ここにはしごをかけて
上がることにしたのだ。
エッチらオッチら上がって、
窓をあけてやっと中に入れた。
で、内側からねじを外しながら
うにゃうにゃしてると、
ようやく鍵が開いたのだ。
さあそれでは替えの鍵を
買いに行かなあかんけど、
いまは村の提灯の用事があるから
済んでからなといいつつ、
幸い扉の小さな鍵で
家の中からだけはロックすることができたので、
その日はそれで
作業をいったん終える
ことにしたのだ。
そして翌日、扉の切りかけの
大きさや扉厚をはかり、
ホームセンターに
購入しに行った。
これが壊れた鍵
さすがに黄金の扉や
アラブの石の扉とかではなく
普通の扉なので
会うようなカギは
いくつも売っていたな。
値段的には中間的なものを購入した。
4500円近くしたけどなあ。
それを持ち帰って、
さあ次はそれの取り付けだ。
中腰になって扉を見ながらの
行動は大変やったなあ。
いったん取りつけたものの
どうしてもカギが閉まらなくて
難儀したなあ。
ああじゃないこうじゃないと
ねじを緩めたり閉めたりしながら、
やっているとどうも
プレートを一枚表裏反対に
つけてたようだ。
ああ~これじゃ閉まらんわなあ。
そしてもう一度つけたが、
やはり微調整は大変でしたね。
結局、仮止めして、
鍵をかいだままプレートの設置場所を決め
ねじを軽く締めたら、
おお~完璧です。
これが表
これが家の中
これでもうルパン三世でも、
石川五右衛門でも入れないでしょう。
最後に増し締めして、
近所のお店に行き合いかぎを
三本作って作業終わり。
34年も住んでると、
家もいろんなことがありますな。
さあ、道を間違えているので、
神崎川を千船大橋で渡った後は、
下流の千北橋を目指して
道を修正していきましょう。
この道は河川敷も大きな
コンクリートの壁で囲まれている
のでみはらしも良くなかったですねえ。
まあ、この辺りの土地の標高が
低いので仕方ないですかねえ。
道を間違えた大和田1まで
戻って修正した方が
よかったかなあと思いつつ
歩きながら、すぐに千北橋の
ところへとやってきました。
ああ、ここの橋もやはり
水門が作られていますねえ。
川の水位が上がった時には、
先ほどのコンクリートの壁と
水門でさえぎられるんですねえ。
これでまた道は大和田街道に
戻りましたので、
この橋からまた北向いて
歩いていきましょう。
神崎川をこえたあたりは
「佃」という地域に入っていきます。
この佃は、むかし本能寺で
信長が敗れた際に、
関西に来ていた家康一行を
助けたといいます。
のちに佃の人たちは
どこの漁港でも漁を
やってもいいという許可を
もらったそうです。
そしてのちに将軍家の
御用漁を行うために
東京に住まわせられたそうです。
しかし彼らはもう関西との
往復も大変なので、
東京に住みたいといって許され、
彼らが住み着いた先が、
今の東京の「佃島」だそうです。
佃は徳川家康がつけた
という説もあるそうですが
いずれにしても大阪からの
名前を受け継いでいるわけですね。
で、佃というと何を思い出しますか。
そう、佃煮ですねえ。
この佃煮には東京の佃の人が
始めたので「東京発祥」と
いう説があるそうですが、
じつは大阪西淀川区が発祥なんだ
という説もあるそうですね。
大阪の西淀川で作っていた佃煮を、
東京の人が将軍家から
庶民にまで大きく広げて
いったのが東京の人たちと
いうのが正直なところだ
と思うんですがねえ。
そんな神崎川と左門殿川に
囲まれた佃の地域を歩いていきます。
今は小さな町工場が並ぶ
地域って感じですねえ。
佃煮工場なんかないか
とみていたのですが、
どうも歩いたコース沿いには
なさそうでした。
標高がマイナス1.5mの地域を
北向いて進んでいきますと、
道の先には堤防らしきものが
見えてきます。
これが左門殿川です。
「左門殿」は、
尼崎城主・戸田左門氏鉄が
元和3年(1617)に川を
改修したことによる呼び名なのです。
この橋の名前が「辰巳橋」で、
この川の真ん中に、
大阪市と尼崎市の境があります。
そうつまり、大阪府と兵庫県との
境でもあるわけですねえ。
まあこれで、ほぼ大和田街道は
終わりです。
ほんの五キロくらいで、
歴史的なものも
あまりなかったのですが、
西淀川区の環境を守ろうとする
人々の話や、水害との闘いの
痕跡とかもしりましたし、
「佃」という地名の持つ
歴史も知ったいい歩きでした。
それにまた大野川緑道や
神崎川歩道など
再度訪ねてきて歩てみよう
という道も見つかりましたしね。
今まで、ほとんど知識もなかった
西淀川への知識が
一気に広がった旅でした。
帰りはどこから帰ろうか
と地図を見ていたら
こんな名前の駅がありました。
「大物」(だいもつ)です。
この名前には諸説あるそうですが、
よく言われるのが、
この辺りの海に巨大な材木が
届いていたことから
という説が有力だそうです。
で、それについても調べてみますと、
この駅の周辺に
過去の遺物で城跡や神社、
どういうものかわかりませんが、
大物崩れの戦績碑や
残念さんの墓と
名付けられたようなところも
あるようです。
まあ、またいずれ楽しんでみるか
という期待も残して、
大和田街道はこれで
すべて完踏しました。
めでたしめでたし。
昭和40年代、
ここを流れている大野川は
大変な状況でした。
水の流れも弱く、
悪臭を放つ汚染された川だったそうです。
一時は「死の川」といわれていたそうです。
なので行政もこの川を埋めて
高速道路を作ろう
ということになったのですが、
「公害の西淀川にさらに高速道路はいらない」
と住民が反対し、
それに押されてついに
大阪市はマスタープランから
高速道路を削除し、
大野川を埋め立てて
そこに遊歩道を作ることにしたそうです。
計画ができてから
ちょうど10年後のことでした。
そういった住民の環境に対する
大きな意識が、
その後の西淀川公害訴訟へと
つながっていったんじゃ
ないでしょうかとdoironは想像します。
そういう意味で、
ここの遊歩道は住民にとって
重要なところなんですね。
地図を見てみますと、
「福」のあたりからずっと続いていて、
最終十三の方へと向かって
行ってる遊歩道です。
「福」はこのまえ淀川で
行ったところですね。
淀川の「わざと切れ碑」が
あるところでしたねえ。
では、近々この道を歩いて、
西淀川住民のかつての思いを
描きながら、最終十三で
大火事から復興した商店街で
いっぱい飲みというのが
歩くのにピッタリかもしれませんね。
なにか住民の痕跡が
その遊歩道にあるのか、
ちょっと楽しみにしています。
この秋のシーズンの中で
行けたら行っておきたいところですね。
ま、今回は「大和田街道」の
歩きですから、そんな重要な
遊歩道にかかる橋をこえて
さらに進んでいきましょう。
この辺りにもまだ地面に
歴史案内のプリントがされていますねえ。
なおかつ大和田街道は続いています。
ここの交差点は「大和田1」です。
ああ~いよいよ街道の名前になっている
「大和田」を通過ですねえ。
ここまで大きな交差点を
いくつも超えますが、
地名によしよしと感激して
たぶんこの交差点から
左斜めに入っていく道が
あったのを見逃してしまったようです。
大和田街道はどうも
その道を進んでいくようでしたが、
doironはそこに気づかずに
そのまままっすぐに
前方の橋を千北橋だと
思い込んで進んでいったのです。
計画通りに阪神高速神戸線が
見えてきましたよ。
で、その下をみると
その神崎川の橋の手前に
超薄いビルが建っています。
いやあ、これはすごいですねえ。
入り口は扉一枚分の厚さしかありません。
中はどうなっているんでしょうねえ。
気になります。
さあ、ではその神崎川の橋です。
千北橋をよく見ていきましょう・・・
と思ったら、むむ~こ、これは
「千船大橋」と書かれています。
あちゃー間違えたかあ
と地図を見ながら確認したら、
目的の千北橋の一本上流の橋です。
どうも大和田1の交差点で
道を間違えたようです。
あ~あ、しゃあないなあ。
この後で道を修正していきましょう。
せっかくここまで来たので、
とりあえずは千船大橋を
確認していきましょうか。
ここには洪水対策のゲートがあります。
この辺りはこういう橋が多いですねえ。
海にも近いし、周辺が
海抜マイナス地域なので、
橋のこういう措置は
欠かせないんでしょうねえ。
そしてもっと調べてみたら、
かつてこの橋も大水害にあったようです。
大正五年の大塚切れによる
水害もひどかったようですが、
もっともここで大きかったのは
昭和九年の室戸台風で、
この千船大橋は流されているのですねえ。
当時の水害の復興には
大きな支障になったそうです。
橋の向こう側には、
こんな看板がありました。
ふ~ん、この辺りの河川敷は
なにわ自転車道という位置づけが
なされているんですね。
そういえば神崎川は
もう少し上流で
5時間走という大会が
行われていたんですね。
また歩いていくのも
いいかもしれませんねえ。
前回はちょっと時間が足りなくて、
天満から姫島まで歩いたところで
終了した大和田街道歩き。
今回はその続きとして
姫島から尼崎まで
歩いてみることにしましょう。
天候的には非常に悪コンデションでしたが、
まあ大阪市内の人の多いところを歩くので、
注意して歩けばいけるぞ
というのとほんとにここんところ
ちょっと歩きに出かけられていない
という自分なりの危機感で、
頑張って出かけることにした。
この日は電車で出かけよう。
JRの快速で梅田まで行き、
そこで阪神電車に乗り換えることにした。
で、阪神の梅田駅に行きますと
ここで大音量でスピーカから
声が流れている。
「本日は甲子園はもう満席ですので、
今から行っても甲子園には入れません」
という放送だ。
そう、この日は関西勢の戦いが続き、
しかも盆前の祝日ということで、
大量の人が甲子園に行っている
そんな日だったのだ。
これでもかこれでもかと
放送が続く中doironは、
姫島に向かうのであった。
まずは福島を通る。
あれ、そうかあ。
阪神電車に乗るなら
福島で乗り換えてもいいのかあ、
なんて思いながら、
前回歩いたコースをなぞるように
電車は進み、淀川をこえたところで
姫島へと滑り込んだ。
電車を降りてナビをセットし、
まずは淀川まで少し戻っていこう。
阪神電車の高架下をもどっていくと
淀川にぶち当たる。
え~っとこの辺りに道標があったぞ
と思い出し、探ってみるとありました。
「大和田街道」の道標です。
別の面には中之島(難波橋)から
5.1kmと書かれています。
そもそもそれほど長くない
街道ですからね。
ここで約半分ほどでしょう。
その道標はまだ新しく、
平成7年の道標でしたね。
さあここから続く
大和田街道がこれです。
すぐにわかりますね。
大阪市の道標ペイントも
されています。
この道そのものはさほど
古くはないのですが、
横につながっている道なんかを
見ると大きな倉庫のある
家があったりして、
そこはかとなく歴史を
感じさせてくれますね。
この酒屋さんなんかも
虫籠窓なんかがあったりして
古るそうですね。
またマンションの壁の片隅に
地蔵があったりもします。
さあ、ちょっと景色が開けてきましたね。
この辺りは淀川からも
離れているんですがねえ、
標高はマイナス0.4mだそうです。
そして大和田街道の新しい道標を
過ぎたら、見えてくるのが
姫島神社ですね。
この神社については以前も
紹介しましたねえ。
「姫島」とは夫から逃げてきた姫が
住んでいた場所、ということで
「やりなおし」なんかにご利益のある
神社でしたねえ。
ふむふむ何かお参りする人の中には
深あい事情のありそうな人が
多いのかな?
以前は中に入って、
人生やり直しを祈りつつ
お参りしてきましたね。
今回はさらっと鳥居だけ
撮影して進んでいきましょう。
ここから先は未踏の地域です。
北姫島公園というのがあり、
その近くに「大和田街道」の
道標がありましたね。
間違っていないようです。
安心して進んでいきましょう。
前方が橋になっていますねえ。
橋の名前は「大島橋」です。
あれ~でも、この辺りに
川はなかったぞ、と思って
下を見ますと、
自転車、歩行者が通るだけの
溝になっていました。
調べてみると、
昔からの歴史の積み重なった
遊歩道だったんですねえ。
西淀川区はさっきの電柱表示で分かるように、
ほぼ海抜0の地域です。
なので、水に恵まれるとともに
水と争ってきた地域でありました。
また西淀川公害訴訟では
大気の問題でも住民は
戦ってきたようで、
訴訟から20年。
民間会社とは和解し、
国・道路公団とも和解し、
全面解決したという地域でした。
そんな出来事の前に、
西淀川の住民意識を育ててきたのが、
この遊歩道だったんですね。
少し前に、四天王寺に行ったときに
ミセスの履いてきた靴が
崩壊し始め、家に帰るころには
完全破壊の一歩手前まで
行ったという話があったことを
報告しましたねえ。
覚えてはりますか。
もうあれはミセスがびっくりおばさんになる
一歩手前の衝撃事件でした。
事件後、国道沿いの
超大型靴屋さんに行き、
新たな靴を買いに行きましたよ。
で、どんなのを買ったかと言いますと・・・
と、今日はそういうような
話ではありません。
じつは先日、doironが
堺市内で知り合いと会う機会があり
出かけていったときのことです。
その時は歩く格好でもなく、
ちょっと御用時の姿だったので、
久しぶりに履く靴を
下駄箱の奥から
引っ張り出してきたのです。
それを履いて南海電車に乗って
堺に向かったのですが、
電車を降りると
なんか歩きにくいのです。
あれ?とおもい靴を確認してみると、
かかとのゴム底が
外れそうになっているではありませんか。
歩くたびに、ペタコンペタコンと
変な音が鳴っています。
うわ~これはあのミセスの
四天王寺靴事件と一緒ではないですか。
自分までこうなってしまうとは
全く意外でした。
靴って久しぶりに
履いたりすると
こうなることが多いんですかねえ。
やすもんばっかり買うてるから
あかんのかなあ。
これはもう駅にある靴屋さんで
帰りに靴を買って帰らなきゃと
決心した次第です。
まずは友達と話をしているときに、
「いやあ靴がこんなになってねえ~」
というと
「奥さんと一緒じゃん」と
ブログ読者でもあるその知り合いが
大笑いしてましたね。
結局その店で靴底のゴムを
無理やり引きちぎって
応急処置をしてみると、
「おお~これはこれで
なんとか行けるやん」
ということになりました。
まああの時のミセスの気持ちが
よくわかりましたね。
でもまあ、この際だからと
帰りに急遽お店に入って、
いろいろと靴を物色してみる
ことにしました。
この際注意しないといけないのは、
今はいている靴が変な靴だ
ということを
店員さんに知られてはなりません。
こいつは絶対靴を買いたい奴だ
と弱みに付け込まれてしまいます。
で、あれこれといろいろ
物色してみたのですが
これがいいというような靴に
会いませんでした。
まあなにも無理して買うことはありません。
結局は、まあ今日一日は
最後のお勤めということで
この壊れそうな靴を履いてあげるか
ということにしたのです。
帰宅してミセスに
「靴がこんなんなってね~」
と話したら、またここでも
大笑いでしたね。
で、その日は夕方から
ジダンとの飲み会がありました。
場所はご近所ですので、
もちろんその日で履きおさめとする
その靴で行きましたよ。
今回行った居酒屋は
昔doironは数回行っただけで、
ジダンには初めてのお店でした。
カウンターだけの小さなお店ですが、
まあまあ味も値段もいいところです。
馬鹿な話をしながら、
生中いっぱいずつと
なんと冷酒を二人で6合飲んで
フラフラになりましたねえ。
もう歩いていても、
靴が悪いのやら
自分の精神状態が悪いのやらが
よくわからない状態になりました。
まあそれでもお酒に
慣れている二人ですから、
秋の計画や飲み会の話などは
何とか無事に済みましたね。
え~ろれつが回らなくなって
お店から苦情が出る前に、
とりあえずは無事に帰れるうちに
帰りましょうと店を出て一段落でした。
では、と別れつつ
doironはチャリンコで買えるのですが、
どうも乗り方が変です。
これはだいぶ酔ったかなあ、
とおもったら間違いでした。
かかとの壊れた左右いびつな靴で
回しているから、
サドルの動きが変なんです。
で、ついに家にたどり着く直全に
見事に片足空中分解。
帰宅直前だったので
何とか世間を騒がさずに済みました。
それにしても、旅先とかで
空中分解でなくてよかったですねえ。
doironの日頃の行いが
ジダンの行動に勝ったと、
靴は最後に語ってくれて
お役を終えたという、
今回はこんな話でした。
さあて、もう九月になりました。
あっという間に夏も終わりですねえ。
一年は速い。
そんな一年を飾ろうと、
毎年、絵をかいてそこに
自分の思いの言葉を入れて作った
作品でカレンダーを作っている。
まあ行ってみればdoironの
自己満足的な趣味なのだが、
まあまあこれを楽しみに
待ってくれている人もいるだろうと、
懲りずに飽きずにやっているのだ。
今年はこれまで四国の絵を
いっぱい書いてきたので、
そんな趣味の部分が若干おろそかになっており、
夏場にはがんばってカレンダー用の
作品つくりに頑張った。
まず今年最初にしっかりと
描いたのが「なめこ」。
あのヌメーとした感じを出すのに
力を注いだんだよ。
たらたらしてるようでも、
何でもとらえ方で
いい方にも悪い方にもとれるから、
いいように考えようって感じかな。
そしてこれは「ネジバナ」。
doironの大好きな野生ランで、
クニクニって花の付き方がまがっているけど、
その美しさには筋が通っています。
ひとひねりして筋を通す。
う~ん、奥がふかい。
昨日もブログで紹介しましたね。
そうそうこの花は絵で描いたように、
花は右巻き、左巻きの両方があるのです。
一年前に亡くなったばあちゃんの声を、
doironもミセスもこの花から
同時に聞いたという思い出もある花です。
そしてこれは「ブロッコリー」。
小さな芽がいっぱい、いっぱい生えていて、
無限の力を感じますね。
こんな小さな植物でも、
自然はいっぱいエネルギーを
放っているんやねえ。
われわれもそんな風に、
しっかり生きていかないとね。
次はねえこれ。
これはパッと見た目には山芋ですけど、
実際は「海老芋」を描いたもの。
この芋を初めて食べたのは、
忘れもしないあのエイだったなあ。
見た目はねえ、
なんかちょっとどんな味かなあ
って感じだけど、食べてみたら
実際はとてもうまい。
われわれ人間にもいっぱい
いろんな人がいるけど、
肝心なのはやっぱり中身なんだよねえ。
で、そんな風に考えていくと
自然のものなんかなんでも
いろんなことを私たちに
楽しい生き方を示唆してくれます。
たとえば、これはアロエ。
なんてことはないサボテン的な
植物ですが、虫にさされた時や
おなかを壊したときなどに役に立ちます。
子どものころは、
あちこちの家で庭に植えられていたり、
玄関横で鉢植えされたりしていました。
子どものやけどなんかにも
「アロエ塗っとき」、
虫刺されにも
「アロエ塗っとき」
といわれて使用されてたなあ。
そしてその生え方も豪勢だし、
実の中の液体も役に立つしと
重宝されていた。
むしられてもどんどん生えていく
そんな植物で、全身全霊で
緑色を放っていたねえ。
ほかにはショウブの花もかきましたし、
ツバメの巣立ち、
おいしいちくわのおつまみ、
ホテイアオイ、
なんかもかきました。
以外に「ウフフ~」と笑えるような
作品もできたねえ。
で描いた作品はもう12枚以上は
たまっているので
カレンダー作成は可能だよね。
でも、言葉的にはもう少し
今までよりもっとしっかり考えて
いいものを作成しよう
と思っている今日この頃です。
言葉は、簡潔、丁寧で
思いのしっかりこもったものを
と考えるのですが、
これが結構脳に刺激的なんだな。
お絵かき素材探し、そしてお絵かき、
さらに言葉選びはをもっといっぱい考えて、
脳梗塞のリハビリに
していければいいかもね。
残りの作品の結果は・・・
まもなく作り上げられる
カレンダーで見てみてくだされ~。