Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

「聖徳太子ー世間は虚仮にしてー」

2019年08月08日 15時15分59秒 | 読書

 「聖徳太子ー世間は虚仮にしてー」(三田誠広著 河出書房新社 2015年8月30日初版発行)を読みました。

 

  前回、「白村江の戦いー天智天皇の野望ー」(三田誠広著 河出書房新社 2017年7月30日初版発行)を読んだわけですが、同じ著者が、この本も書いていることを知りましたので、ついでに読んでみることにしたわけです。

 と言いますのは、前回、「白村江の戦いー天智天皇の野望ー」を読んだ際には、物語の内容を理解する以上に、主要登場人物とその相関関係を覚えるのにえらく苦労したわけですが、この本の内容は、時代的には、前回の「白村江の戦いー天智天皇の野望ー」の時代の1世代前の話なものですから、主要登場人物やその相関関係も似ていることが予想されましたので、そんなに苦労せずに読めるだろうと思ったからです。

 案の定、この本に出てくる主要登場人物やその相関関係は、前回読んだ「白村江の戦いー天智天皇の野望ー」に登場してきた主要登場人物やその相関関係に大変良く似ていましたので、読み易く感じました。

 ところで、聖徳太子については、皆さん、よくご存じでしょうから、内容の紹介は省略したいと思います。

 ただ、私は、聖徳太子は、冠位12階の制度や17条の憲法を定めたり、中国の隋の皇帝に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無しや・・・・・」という国書を送ったということは知っていましたが、国史も編纂していたことは知りませんでした。

 聖徳太子が編纂したという国史の「国記」と「天皇記」は、古事記や日本書紀が編纂される、およそ100年も前に編纂されているんですよね。

 次に、その国史編纂について書いてあるページを紹介し、この本の紹介に代えさせていただきます。

 

「上宮王(*聖徳太子のこと)はこれらの優秀な若者たちとともに、国史の編纂を始めた。のちに国記および天皇記と呼ばれることになる書物がやがて完成する。中国の漢や隋と対等の外交を結ぶためには、憲法と位階制度だけではなく、文字で書き記した国史を有していなければならない。この国に伝わっているのはほとんどが神話の類であるが、それらをまとめて編纂し、さらに歴代の大王の名と事績を記録することが、国史の基礎となると上宮王は考えたのだろう。とくに大王の記録について、天皇記という名称を用いたのは、この国の大王がただの国王ではなく、天津神の末裔の皇孫によって代々継承されてきた、天孫の皇帝であることから、天皇という称号を銘記することとした。

 この二書は上宮王の没後は、大臣の地位にあった蘇我毛人が保有することになった。

 のちに田村王(舒明帝)の子息にあたる中大兄皇子(天智帝)が蘇我一族を滅ぼした時、豊浦に隣接した甘樫丘に邸宅を構えていた毛人は自邸に火を点けて自決した。そのおりに国記と天皇記は焼失したと伝えられる。 (P.232~233)」