Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

九十三歳の関ヶ原 弓大将大島光義

2022年08月24日 16時12分02秒 | 読書

 「九十三歳の関ヶ原 弓大将大島光義」(近衛龍春著 新潮社 2016年7月20日発行)を読みました。

 

 

 

 この本は、美濃の「関」にささやかな所領を持つ大島家に生まれた大島光義を主人公とした小説です。

 大島光義は、当初は、斉藤義龍の重臣の長井道利という武将の下で弓大将として働いていました。

 しかし、斉藤龍興が織田信長に破れ、斉藤義龍と大島光義の主君である長井道利は伊勢に落ちていってしまいましたので、大島光義は無禄となり、所領のある「関」に戻りひっそりと過ごします。

 そのうち、織田信長にその弓の腕を買われ、織田信長に仕えることになります。その時、大島光義は既に還暦で、扶持としては旧領の「関」を与えられました。

 織田信長の下で、数々の戦功を上げますが、本能寺の変により、再び主君を失い、騒乱に巻き込まれます。

 所領の地の「関」に戻り、なんとか本能寺の変後の騒乱がやや収まって来た頃の賤ヶ岳の戦いの後、級友の取り次ぎで丹羽長秀に仕えることができました。時に76歳でした。

 ところが、丹羽長秀に仕えてから2年と経たないうちに、丹羽長秀が病死してしまい、その後、嫡子の丹羽長重が、家中から敵方への内応者を出したとの疑いにより豊臣秀吉から減封されてしまいます。丹羽長重は多数の家臣を召し放たねばならなくなり、大島家も一旦は禄を失うはめになります。

 しかし、その後、

 

「無禄となった光義であるが、秀吉に弓の腕を認められており、秀吉の直臣となって弓頭(弓大将)に任じられた。所領は美濃の関のほか、近江の知行の代替として、摂津の豊島郡に3,535石が与えられた。その後、四国、九州、関東攻めにも参じて少なからず秀吉の天下取りにも貢献したので、さらに加増を受け、ついに8,000石を有するほどの武将となった。弓一筋の武将としては当代随一である。

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 光政(光義の長男)の活躍もあり、慶長3(1598)年には摂津の豊島と武庫郡、美濃の席田、尾張の愛智、中島のほか11,200石の所領を与えられ、光義は91歳にして晴れて大名となった。  (P.255)」

 

というほどの武将になります。

 その後、秀吉が亡くなり、関ヶ原の戦いが始まるわけですが、光義は徳川家康の東軍について参陣します。その時、93歳でした。

 ちなみに、関ヶ原の戦いの際は、大島家の家名を存続させる意味もあり、光義本人と長男の光安と四男の光朝は東軍につき、次男の光政と三男の光俊は西軍について参陣しています。

 関ヶ原の戦いの後は、家康の家臣となり、小禄ながらも大名として平穏な時を過ごし、97歳の長寿全うします。

 ところで、高齢となり健康不安を覚えるようになった光義は、家督を長男に譲ることを幕府に申し出ましたが認めてもらえないでいました。ただ、光義が亡くなった際、子供達に所領を分割させて相続させるならば、これまでの全ての所領を安堵するという内諾を得てはいました。

 大名の分割は、江戸幕府が改易政策を改めたのちに実行する政策だったようですね。藩を分割すれば結束力が弱まりますので、幕府にとっては好都合なわけで、大島家はその先駆けのようなものだったわけですね。

 ということで、光義亡き後の大島家は、次のような経過を辿っています。

 

「光義の死によって大島家の関藩は廃藩となり、新たに四家の旗本が誕生した。四兄弟の仲はとても良く、兄長を守り、争いはなかった。但し順風満帆というわけにはいかなかった。

 大島本家は嫡男の光安が光成と改名して家督を継ぐものの、孫の義豊で男子は途絶え、本家は断絶してしまう。

 次男・光政の家は川辺大島氏、加治田大島氏に分れ、三男・光俊の家は迫間大島氏となって明治維新を迎える。

 四男の光朝は大阪の陣で豊臣方に属したので没落するものの、光成らの嘆願で助命され、池田家の薦めもあり、鳥取へ赴き初代鳥取大島氏となった。

 四家とも残念ながら大名に返り咲くことはできなかった。

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 弓の腕を時の天下人達に認められ、弓で生涯を生き抜いた真に類を見ない武将であった。   (P.313~314) 」

 

追 記: 上記しましたように、大島光義は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人との交流があったわけで、この本では、それぞれの天下人とのエピソードも多く取り上げて書かれており、読み物としても面白いものでした。


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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Dr.Kさんへ (遅生)
2022-08-24 20:35:37
またまた、私の知らない美濃の武将です。
しかもまた、ドラマになりそうな人物。
さらに、先の森武蔵よりもずっと近くの人。
調べてみたら、なんと出生地が大垣市大島。ウチからは揖斐川をわたった所、1kmちょっとしか離れてません。
関藩というのがあったのも知りませんでした。子供に分割させて、旗本にしてしまうのですね。これもまたビビッドな現実。
色々考えさせられる本ですね。読みごたえがありそうですね。
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Unknown (mash1125)
2022-08-25 08:36:35
Dr.Kさん
今日は。
貴殿の記事にて大島光義を初めて知りました。面白そうですね。
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遅生さんへ (Dr.K)
2022-08-25 09:11:00
大島光義の出生地は遅生さんのところから1kmちょっとのところですか!
美濃には、まだまだ、一般には知られていないような人材がいるのですね。

本人としては、当然のことながら、大名として家督を譲ろうと思ったのですが、幕藩体制を強化しようとする家康、本多正純に阻まれたようですね。
しかし、大名としては1代限りになりますが、所領を子供に分割して旗本とするなら認められることを知り、それなら大島家は残ることになりますので、了承したようですね。

エピソードも含め、なかなか読み応えのある本でした(^-^*)
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mash1125さんへ (Dr.K)
2022-08-25 09:16:30
コメントをありがとうございます。
mash1125さんの専門とする古代に関する本ではありませんが、なかなか面白い内容でした。
私も大島光義という武将のことは、この本を読んで初めて知りました。
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