今回は、前回紹介しました「伊万里 色絵沢瀉文大皿」に比して、値段も大きさも天国と地獄のような差のある「伊万里 染付くらわんか手小皿」の紹介です(笑)。
この「伊万里 染付くらわんか手小皿」は、平成30年1月に、田舎の骨董市で買ったものです。
最初見たとき、「あれっ、随分と安いな~」と思いました。なんと、2,500円の値段が書かれたシールが貼ってあるではないですか!
でも、よく見ると、口縁にニューがあることを知りました。上の写真の12時の方角です。
しかし、そのニューを更に子細に観察してみますと、ニューは表面だけで、裏までは通ってはいないんです。
上の写真から分かりますように、ニューは、表面から少し入ったところで止まっていて、裏にまでは至っていないんですね。さすが、「くらわんか」です。厚手に作られていて、少々乱雑に扱われても、少しぐらい投げ飛ばされても割れないんですね! 丈夫いっしきに作られています!
「それじゃ、このくらいのニューがあってもいいか」となり、購入に及んだものです。
少々疵があっても、そこそこの年代があり、安いとなれば食指を動かされるのは、貧乏コレクターの悲しい性(サガ)ですね(-_-;)
なお、この小皿の裏面は次の写真のようになっています。
ところで、今回、この小皿を紹介しようとして、この小皿の裏面を見ていて、「あれっ?」と気付いたことがあります。
それは、先日、2020年5月9日付けで、『「初期伊万里の小皿」と「くらわんか手の小皿」』という記事を掲載しましたが、その中で、次の写真の右側の小皿を「初期伊万里の小皿」と紹介していることです。
しかし、この、次の写真の右側の小皿も、やはり「くらわんか手の小皿」なのではないかと気付いたわけです(-_-;)
表面
裏面
特に、上の裏面の写真から判断し、右側の小皿は、高台が1/3であり、初期伊万里の特徴をよく具えているところから、「初期伊万里の小皿」と判断したものです。
しかし、「今回紹介する小皿」と「先日の2020年5月9日付けで初期伊万里の小皿として紹介した小皿」とを比較してみて、疑問に感じました。
今回紹介する小皿 初期伊万里として紹介した小皿
今回紹介する小皿 初期伊万里として紹介した小皿
上の裏面の写真から見ると、両者の高台の大きさにそれほどの差を感じませんよね。それに、高台の削り出し方には類似性があり、造形的にみても、両者には強い類似性を感じますね。
ちなみに、先日の2020年5月9日付けで紹介した「初期伊万里の小皿」と「くらわんか手の小皿」の2枚と今回紹介する「くらわんか手の小皿」の計3枚の写真を同時に並べて比較してみます。
上左:5月9日にくらわんか手として紹介した小皿 上右:今回紹介する小皿
下:5月9日に初期伊万里として紹介した小皿
上左:5月9日にくらわんか手として紹介した小皿 上右:今回紹介する小皿
下:5月9日に初期伊万里として紹介した小皿
確かに、上の小皿3点の裏面の写真からみますと、「5月9日にくらわんか手として紹介した小皿」と「5月9日に初期伊万里として紹介した小皿」だけとを比較しますと、高台の大きさの差は際立ちますが、その中に、今回紹介する小皿を入れた3点で比較しますと、高台の大きさの差をそれほど感じさせません。
やはり、「5月9日に初期伊万里として紹介した小皿」も「くらわんか手の小皿」であったと訂正せざるを得ないと思います(><)
古伊万里の収集を始めてほぼ半世紀、、、!
織田信長は、「人間50年、、、♪」と幸若舞の敦盛の一節を好んで謡い舞ったとか、、、。
それを思うと、もう、とっくの昔に私という人間はこの世に存在しないことになります(-_-;)
それなのに、「人間50年」を遥かに超えた今、いまだに、「初期伊万里」と「くらわんか手」の区別さえもままなりません、、、(><)
古伊万里の道は険しく遠い、、、(><)
<今回紹介する小皿>
製作年代
江戸時代後期
サイズ
口径:13.2cm 高さ:3.0cm 高台径:5.3cm
<5月9日にくらわんか手として紹介した小皿>
製作年代
江戸時代中期
サイズ
口径:12.8cm 高さ:3.6cm 高台径:7.5cm
<5月9日に初期伊万里として紹介した小皿>
製作年代
江戸時代後期(前期を後期に訂正)
サイズ
口径:12.5cm 高さ:3.4cm 高台径:4.0cm
これは難しいですね。今、ヤフオクは盛況で、くらわんかも以前と違い、軽く100個を超えて200個になろうとしております。この時代読みがホント難しいです。絵付けで見ようとしても。絵付けが殆ど変わっていない。以前は見込みの釉剥ぎで判断していたのですが。それも違うという事になり。全く時代読みが難しくなりました。今、私はヤフオクを見ながら混乱しております。以前は初期或は中期とされていたものが後期となる。これだけ長い間作られていたものが、一貫して同じ方法で作られ、土も変わらず、絵付けも同じでは判断が非常に難しいと私は考え迷っております。有難うございます。
私の不得意分野です(><)
以前は、初期伊万里として通っていたんですが、発掘調査などにより、古伊万里の研究が進んできて、ますます難しくなってきましたね。
私が古伊万里の勉強を始めた頃は、初期伊万里は天狗谷窯から始まったと学びましたが、天狗谷窯は、最初期の窯ではないことが解明されました。
その後、波佐見焼の研究が進み、波佐見焼の多くが伊万里焼に紛れ込んでいることも分かってきましたよね。しかも、初期伊万里として、、、。
田舎では、いまだに、そのような以前の考えが根強く残っていますから、田舎では、間違いが多いですし、それを指摘出来る人もいません(><)
私も、その内の一人かもしれません(-_-;)
精進あるのみ、勉強あるのみですね!
確かにこうやって3枚の皿の裏側を見ると、類似性が感じられますね。
単品で見れば、やっぱり初期伊万里です、私の目には(^^;
コレクションの奥深い意味がわかり、勉強になりました。
数は力なり(^.^)
勉強が、修業が足りません(><)
遅生さんが、先日の5月25日に紹介された「初期伊万里染付文字文小皿」も参考にさせていただきました。
この「初期伊万里染付文字文小皿」は、私の小皿とは、土も釉薬も造形も違います。
これが本当の初期伊万里ですよね。
初期伊万里については、だんだんと私の目が甘くなってきたようです(-_-;)
この辺りが一番難しいのではないかと思います。昔の墓からでた、由緒正しい?古伊万里と物原の陶片とを比較して時代を決め、水平展開をして他の窯の陶片も時代を推定~この様にして行けば10年刻みで時代がわかるとか。ですが、この様なクラワンカ手は時代考証の掛かりコマがないというんでしょうか?抜けてますよね。どの書物も見ても~この辺りは飛ばしているような気がするんですが?臭い物には蓋をするでしようか?(笑)
これまでの「伊万里」の本は、鍋島藩の有田系の窯を中心として書かれていますものね。
お隣の大村藩の波佐見系の窯については書かれていないんですよね。
わずかに、波佐見系の窯で焼かれた「くらわんか」が、「伊万里」に中に混入されているということが書かれている程度でしょうか。
今では、波佐見系の窯の発掘も随分と進んだようですから、地元では、その全貌も明らかになってきているんでしょうけれど、それが本等になって紹介されていませんよね、、!?
ただ、これまでの流れからみて、波佐見焼は伊万里焼の下請け的存在となってきていて、知名度が低いですし、特に、江戸中期以降の「くらわんか手」は、伊万里の下請け的存在であったうえに大量生産の使い捨て磁器みたいなものでしたから価値も低かったわけで、それらに光を当てて本にまとめても読んでもらえないと思っているからでしょうか、、、!?
自分で勉強するしかないんでしょうか、、、?
やはり現物を目の前にすると、さらに混乱に拍車がかかるように思います。
以前にに東京の骨董祭でお会いした時に、京都のお休み処のご主人は、「初期はわりと判りやすい」と言っておられましたが
ワタシはいまだに自信が持てず、初期伊万里には手が伸びません。
やはり現物を手にしない限り、感覚的なものは養えないのは確かですよね。
私も、初期は、高いので、ついつい買いそびれていますから、あまり所持していないんです。
それで、もともと、よく分からないというのが現実です(-_-;)