ここのところ、伊万里では、正確には何時の頃からベロ藍が使われるようになったのかが気になり、ちょっと調べてみることにしました。
使用した資料は「肥前陶磁史考」(中島浩氣著 青潮社 昭和11年発行)(昭和60年復刻発行)です。
この本は分厚いです! 厚さが8.5cmもあります!
まず、ベロ藍を伝えたワグネルについてですが、ワグネルについては、
「ドクトル・ゴッドフリード・ワグネルは、天保2年(西暦1831年独逸ハノーヴァーの某官吏の家に生れ、ゲッチンゲン大学に於いて、数学、物理、地質、結晶及び機械学等を修めドクトルの学位を得しは、22歳の時であった。其後沸国や瑞西等に在りしも、舎弟ワルシが、石鹸製造所の設立に招かれて、我が長崎に来りしは、1868年乃ち明治元年5月15日、彼が37歳の時であった。 (P.552) 」
と紹介しています。
その後、ワグネルは、明治4年7月に伊万里県有田郡令百武作十との間に雇用契約が成立し、明治4年10月には有田に引移っていますが、その時の状況を、次のように書いています。
「明治4年10月、ワグネルは、上幸平の教導所に来りしが、次に白川の旧御山方役所跡に引移ったのである。此処は居宅と伝習所を兼ねしものにて、其時通弁人として、二里村の藤山栄次郎(貴族院議員藤山雷太の舎兄)が付き、外に島原生れの洋妾が、萬事世話したのである。
此際直接の研究生となりし者には、泉山の深海墨之助(平左エ門の男)上幸平の辻勝蔵(十代喜平次の男)大樽の平林兼助(伊平の舎弟)本幸平の山口勇蔵(喜右エ門の男)中野原の西山孫一(幸十の男)等5人にて、教科の主なるものは、本窯の彩料製法即ちコバルト青、クローム鉄、金臙脂等であった。 (p.560) 」
なお、当時の染付に関する状況については、次のように書いています。
「コバルト使用 当時の青花顔料は、皆支那呉州を輸入せしものにて、品種の等差頗る多く、上品に至っては価甚不廉であった。ワグネル一見して此は酸化コバルトの化合物にて、元来金属原素を含めるものである。我独逸にては、此含有せる鉱石より、精製されたるコバルト(コバルトブリュー又テナーズとも称し、アルニューム酸コバルトにアルミナを含有する、耐火性に富む青色顔料である)なるものがあり。之に硬度の白土を混和して焼き、臼磨して用ふることの、大いに便利なることを教えたのである。 (P.560~561)
有田焼の呉州本位 而して赤絵素地の彩料として、コバルトの出色は、余りに華麗に過ぎて金色を壓し、且有田焼の古典味(クラシック)が失はるゝを以て、多くは中等以下の呉州或は兎の糞(満俺鉄分の多き茶褐色の最下等呉州にて、又茶園の実ともいふ、多く琉球の産也)へ、少量のコバルトを加へ、以て発色に沈着味あらしむるに至ったのである。
尤も最初コバルトの流行時代には、其華美なる紺色にて、染付の着け葉牡丹や、山水絵或は派手なる瑠璃釉など、製作されしことあるも、結局有田焼固有の釉相と調和せさるを以て、漸次染付も呉州本位に復し、コバルトは一部の加合彩料にのみ、用ひらるゝに至ったのである。 (P.561~562)
古伊万里の時代区画 之よりコバルト使用は、全国の陶山に広まりしが、明治4年を分岐として有田焼に呉州時代と、コバルト加合時代とに依りて、新古の区別が、歴然と画せらるゝに至ったのである。結局良呉州を顔料とせし、青花の気品は到底コバルトにて構成することは、不可能であった。
此時代より有田焼の製法が、彌々便法にのみ工夫され、全く古伊万里特色の跡を断つに至りしも日用品広売の経済的工業より観れば、大いなる進歩であった。同時に又一面審美的製品の堕落であった。而して又此コバルト使用の流行にて、旧来盛名ありし名陶家が、家産を傾けし反面には、コバルト使用の下手物製作にて、産を起せし窯焼も亦少からず、茲に塞翁が馬の禍福があった。 (P.562~563) 」
以上は、「肥前陶磁史考」のベロ藍に関する記述のほんの一部の抜粋にすぎませんが、上記の内容から、伊万里焼の場合は、明治4年がベロ藍使用についての大きな分岐点であったことが分かります。
なかなか分かり辛い文章ですが、何度も読んでやっとわかりました。ワグネルの指導により、従来の天然呉須(もともと、青色成分はコバルト)に純度の高い酸化コバルトを加えて、青の鮮やかさを増した呉須に変わったのですね。
実は、Drの今回のブログを読んでベロ藍がわからなくなりました。というのも、北斎の頃のベロ藍は鉄化合物の青(青インク)であったからです。そこでいろいろ調べてみました。そして、どうやら、日本語のベロ藍(の使われ方)には2通りあることがわかりました。驚きです。
北斎の頃のベロ藍はフェロシアン化鉄、明治の陶磁器のベロ藍は酸化コバルト主成分の青色色素をさしていました。
全く別の物を同じ言葉で表していたのですね。ですから、ベロ藍について書かれている記事には、不正確、曖昧な表現、間違いの記述などがあって、混乱しています。私の頭も混乱(^^;
しかし、中身は、断片的な寄せ集めで、系統立てて書かれていませんし、文体も古いですし分かりずらい表現なものですから、めったに読む気にならないんです(><)
「積ん読」というやつですね(~_~;)
でも、今回、ベロ藍のことを知りたくなりましたので、思いきって読んでみました。
案の定、読みずらいですし、最近、小さな字は老眼だけでは読めなくなり、ルーペも併用しなければならなくなりましたので、途中から疲れてしまい、竜頭蛇尾な紹介になってしまった感があります(~_~;)
しかし、さすがは遅生さんです!
読みずらい断片的な文章を読んで、多くのことを理解されたのですね(^-^*)
なるほど、ベロ藍には、大きく区分して、2通りあったのですね。
少しでも問題提起が出来て、紹介した甲斐がありました(^_^)
少し前に行った田舎の骨董市で若い人につかまり、今では貴重となったベロ藍です。と教科書通りのたいくつな説明を受けました。
子供の頃~家で使ってましたよと言ったら驚いたという感じでした。日本で作り出したのはやはり明治に入ってからでしたか!江戸後期には入っていたのかとも思いましたが、そうなんですね。
少し前に行かれた骨董市でpadaさんにベロ藍の講釈をしたのは、「釈迦に説法」というやつでしたね(笑)。
↑ で、遅生さんが言われていますように、北斎の頃に使われた絵画用のベロ藍と明治4年から使われ出した陶磁器用のベロ藍とは、内容が違うようですね。
やはり、陶磁器用にベロ藍が使われ出したのは明治4年からなのでしょうね(^_^)